【古代阿波】前方後円墳の原型が阿波で発見! 萩原墳墓群、愛宕山古墳の被葬者は? 阿波国造 粟凡直(あわのおおしのあたい)一族とは? 天皇家に麻の織物(アラタエ)を調進する阿波忌部当主 三木信夫氏のインタビュー!

🟣萩原墳墓群(はぎわらふんぼぐん)

徳島県鳴門市大麻町萩原にある弥生時代終末期にあたる3世紀前葉の遺跡である。

●萩原墳墓群:萩原1号墓、萩原2号墓

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●概要

鳴門市の大麻山南麓に位置し、1〜4号の4基からなる墳丘墓群で、かつては最初期の古墳の可能性から「-号墳」の呼称が用いられたこともあったが、その後の調査によって弥生時代終末期の3世紀前葉に築造されたと推定されているため、「-号墓」の呼称に修正されている。

周辺には天河別神社古墳群や宝幢寺古墳群、大代古墳群などの古墳が点在しており、これらを総称して「鳴門板野古墳群」と呼ばれ、9基(板野町の愛宕山古墳を含む)が国の史跡である。

萩原墳墓群では、2号墓が国史跡に含まれる。

石囲いの木槨とされる主体部(埋葬施設)構造の類似などから、現在では定型化以前の前方後円形墳墓(纒向型前方後円墳)とされるホケノ山古墳(奈良県桜井市)の原型との説がある。

ただしホケノ山古墳の築造年代は、発掘調査を行った橿原考古学研究所により3世紀中頃と結論されつつ、木槨木材の炭素年代測定結果の幅が4世紀前半をも含む範囲であることから疑問視する意見もでており、この場合(ホケノ山4世紀築造説)では萩原墳墓群の年代(3世紀前葉)から1世紀以上の隔たりがあることになる。

いずれにせよ、萩原墳墓群を含む鳴門板野古墳群は、弥生時代終末から古墳時代前期にかけての東部瀬戸内海沿岸の首長墓が、畿内との関係性の中で墳形を変化させながら約200年に渡り連続的に築かれており、竪穴式石室や前方後円墳などが成立していく過程を理解することができる遺跡として重要視されている。

●1号墓

弥生時代終末期頃のものとされており、墳丘の径は約18メートル、北側の突出部を含めての全長は約27メートルの積石墓で、主体部は発掘当初竪穴式石室とされていたが、現在では石囲木槨であったと考えられている。

1979年(昭和54年)から翌1980年にかけて徳島県道12号鳴門池田線の建設に伴い発掘調査されたが、その後滅失した。突出部を持つその形状から日本最古の前方後円墳、あるいはそのルーツという説があった。

本体周辺から小型の竪穴式石室や箱式石棺墓とされる遺構が複数見つかっており、一部は近隣の宝幢寺境内に移設された。

●出土品

1号墓出土品
(徳島県指定文化財)
徳島県立埋蔵文化財総合センター展示。

・画文帯神獣鏡

・弥生土器

1号墓の出土品は徳島県立埋蔵文化財総合センターで常設展示されている。

●2号墓

1号墓の北側で同じ尾根に位置する積石墓。

2004年(平成16年)および2005年に測量やトレンチ調査が行なわれた際に基底石や外側の列石が確認され、おおよその規模や形状が確認されている。

墳丘は径約20メートルのほぼ円形で南側に約5メートルの突出部が延びる形状を持ち、積石の高さは最大で1メートル。

1号墓より築造時期が古い国内最古の積石墓とされている。

●【萩原2号墓】卑弥呼を支えた有力者だったのか?近畿の古墳のルーツは阿波だった。

🟣愛宕山古墳(あたごやまこふん)

(板野愛宕山古墳)

徳島県板野郡板野町川端にある古墳。

形状は前方後円墳。

徳島県指定史跡に指定されている。

●概要

徳島県北東部、吉野川北岸において平野を一望する尾根上に築造された古墳である。

これまでに1961年(昭和36年)に関西大学による調査が実施されたほか、1993年(平成5年)に徳島大学による石室実測調査が、2001年(平成13年)に徳島大学による墳丘再調査が実施されている。

墳形は前方後円形で、前方部を北方に向ける。

墳丘は2段築成。

墳丘長は63.8メートルを測り、徳島県では渋野丸山古墳(徳島市、105メートル)に次ぐ第2位の規模になる。

墳丘表面では葺石のほか、埴輪片(円筒埴輪・朝顔形埴輪・盾形埴輪)が検出されている。

埋葬施設は後円部中央における竪穴式石室で、墳丘主軸と直交する東西方向を主軸とする。

石室石材は吉野川対岸から産出する結晶片岩の板石で、石室からは銅鏃・鉄鏃・鉄剣片・短甲片・管玉・ガラス玉などが検出されている。

築造時期は古墳時代中期の4世紀末-5世紀初頭頃と推定される。

古墳域は1958年(昭和33年)に徳島県指定史跡に指定されている。

●来歴

1934年(昭和9年)、発掘。

1958年(昭和33年)7月18日、「板野の愛宕山古墳」として徳島県指定史跡に指定。

1961年(昭和36年)、発掘調査(関西大学の森浩一ら)。

1993年(平成5年)、石室実測調査(徳島大学)。

2001年(平成13年)、墳丘再調査(徳島大学)。

●墳丘

墳丘の規模は次の通り。

墳丘長:63.8メートル

後円部 直径:44.2メートル

前方部 長さ:19.6メートル

日本辞典によると、萩原墳墓や愛宕山古墳の被葬者は、粟国造 粟凡直一族ではないかとの説がある。

粟国造(阿波)あわのくにのみやつこ【国造】

・日本辞典

http://www.nihonjiten.com/data/263346.html

粟国造は粟(阿波)国(現・徳島県)を支配したとされ、国造本紀(先代旧事本紀)によると応神天皇(10代)の時代、高皇産霊尊(たかみむすびのみこと)の9世孫にあたる千波足尼(ちはのすくね)を国造に定めたことに始まるとされる。


国造氏族は粟凡直(あわのおおしのあたい)と言われ、新編姓氏家系辞書で粟国造・粟凡直は粟忌部の宗家と書かれている。

また徳島県徳島市一宮町にある阿波一宮神社の大宮司家である一宮氏は名方別(後の名方宿祢姓)、粟国造(後の粟宿祢姓)の後裔とみられている。

徳島県名西郡石井町にある中王子神社には粟国造墓碑が貴重な史料として伝わり、粟凡直一族が古くより統治していたことを証明している。

鳴門市にある萩原墳丘・墓宝幢寺古墳、天河別神社3・4号墳、板野町の愛宕山古墳などの被葬者は粟凡直一族であると考えられている。 

●阿波忌部当主 三木信夫氏インタビューと講演

●美馬市 三木家住宅

●日経新聞記事: 三木信夫さん

https://www.nikkei.com/article/DGXMZO40029440V10C19A1962M00/

●忌部氏とは?

古代氏族【忌部氏】天皇即位に必須のものとは? ゲスト忌部文化研究所 林先生 日本の源流がここにある。

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