【自分のルーツを追う】香川県と徳島県の県境にあった碁浦番所の八田氏と阿波秦氏! 松浦武四郎、伊能忠敬も立ち寄った碁浦番所! 阿波水軍と森久村一族!

🟣徳島県鳴門市北灘町碁浦

北灘町碁浦(きたなだちょうごのうら)は、徳島県鳴門市の大字。

碁浦という地名は、海浜で天然の黒色の碁石を産出したことに由来するようだ。

徳島県鳴門市北灘町碁浦は、讃岐山脈の天ケ円山の西北部に位置し、周囲を山に取り囲まれた中に、わずかばかりの平地が開けていた。

讃岐と阿波の国境にある村で、阿波と讃岐との間の国境争論の結果、徳島藩により国境警備と検問の役割を果たす碁浦番所が設けられていた。

1808年に全国を測量中であった伊能忠敬が東かがわ市の引田港から出航し、碁浦港に上陸した。

天保4(1833)年には四国遍路の旅をした松浦武四郎が碁浦番所を通っている。

江戸時代後期から明治時代初期の探検家 松浦武四郎。天保4(1833年)年、四国遍路の旅をした松浦武四郎は碁浦について、「此處山の
厓にして右の方は数十仭の断崖、左り之方は波浪岸へ打、一歩をあやまたば粉身碎身ニ
なる地なり、番所有。出入之切手を改む」と記している。

大坂峠展望台から東かがわ市を望む

●地理

鳴門市の北西部に位置。

東および南は北灘町大須に接し、西は香川県東かがわ市坂元に接し、北は瀬戸内海に面している。

東・西・南の三方を山に囲まれ、海岸に沿って国道11号が走っている。

碁浦漁港があり、この漁港は北灘町大須の漁民が使用している。

讃岐山脈のなかをJR高徳線・徳島県道・香川県道1号徳島引田線(旧讃岐街道)が通っている。

●歴史

江戸期から1889年(明治22年)にかけては板東郡および板野郡の村であった。

1664年(寛文4年)より板野郡に属す。

1889年(明治22年)に同郡北灘村の大字となった。

1956年(昭和31年)9月より現在の鳴門市の字名となる。

●碁浦番所【ごのうらばんしょ】

現在の鳴門市北灘町碁浦にあった番所。

海岸線沿いの陸路の讃岐と阿波の境目に当たる。

西の小碁浦は讃岐,東の大碁浦は阿波に属す。

番所役人は八田家が代々勤め,天正13年(1585年),讃岐と阿波の国境を決定する折,重要な役割を果たした。

当時の模様は「碁浦邑御番人 庄屋 八田孫太夫 先祖覚書」に「……御国御境目為証人私先祖 八田孫兵衛高松へ罷出候節御上使様御出ニ而御境之儀此方于者西坪ケ谷筋之尾切と申上候」(鳴門市史上)とある。

海岸沿いの陸路の境にある碁浦番所は,旅人・商人等の検分に当たった。

番所跡は,国道11号建設のため埋め立てられ,現在は道路となっている。

出典: 角川日本地名大辞典

●史跡 碁浦番所跡

●碁浦番所跡の石碑は、海鮮料理屋のぴんぴん亭から東に少し行ったところにある駐車場にある。

実際の碁浦番所は、この石碑から西へ800メートルの讃岐と阿波の境にあった。近くには、伊能忠敬が測量途中に上陸した地点の看板が立っている。

伊能忠敬

碁浦御番所八田家文書

https://iss.ndl.go.jp/sp/show/R100000002-I000011057311-00/

●碁浦御番所

内容・特色等: 徳島県鳴門市北灘町大須の八田立氏が所有していた古文書を解読、徳島藩の番所史料集として第2冊目を活字化して出版。

出版社: 原田印刷出版株式会社

出版年: 2010

著作者: 滝よし子/編著

https://syougai.tokushima-ec.ed.jp/manabihiroba/srch_lib/356096.html

●徳島県立図書館

https://alislibopac.bunmori.tokushima.jp/winj/opac/switch-detail.do;jsessionid=E7B9EAAAB6381ABF0DBBCE4EEBDF2726?idx=3

◼️秦氏の全国分布と改姓後の姓名。

●板野郡の阿波秦氏

南海道 阿波国 板野郡

http://kodaisihakasekawakatu.blog.jp/archives/16262974.html

現在、秦、波多、羽田、八田、矢田、波多野、幡多などの姓を持つ者の多くはこの渡来人 秦一族の子孫であり、機織りから転訛した服部、一族の秦河勝にちなむ川勝の姓を持つ人もこの一族の末裔である。

◼️阿波 板野郡の八田氏

私の父方の江戸時代の戸籍謄本を見ると私の高祖母は、板野郡碁ノ浦で番所の役人を代々してきた八田孫平さんの長女で元治元年(1864年)12月28日に森家に嫁いできた。

この八田キヨは、阿波浄瑠璃が上手かったと後に、私の大伯母が神戸新聞のインタビュー記事に書いている。

代々、阿波国の板野郡に居住した八田家は、姓と居住地から判断するに秦氏の末裔だ。私にも渡来氏族 秦氏の血が流れていることになる。

●阿波水軍 森家

森家は、江戸時代、讃岐国で高松藩松平家に仕えた普請役の武士であるが、遡ると森久村(通称 森権平)の一族になる。

森久村の祖は、阿波水軍 森氏の始祖である佐田 九郎左衛門となる。

※阿波水軍森家の始祖:佐田 九郎左衛門 (? – ?) 戦国時代
因幡国出身。細川氏に仕え、阿波佐田館(現在の徳島市国府町西黒田・国府町東黒田)三十八貫を領した。後に三好氏に仕えた。土佐泊城主。後に森に改名。森元村の父。徳島県阿南市の佐田神社に祭られている。

◼️森家のルーツ

家祖: 佐田九郎左エ門 (戦国時代)

森元村 

森村吉 

長男: 森村重(森甚五兵衛家の始まり)。

弟 : 森権平(森久村)の一族

安土桃山時代〜江戸時代初期、現在の東かがわ市馬宿に数代に渡って住む。

高松藩松平家に仕える武士。普請役。

高松藩領大内郡普請役。東かがわ市横内。小磯の番屋の浜に松平家の殿様が遊びに来たときはお膳立てをせねばならず金銭的に大変だったと祖母から聞いた。また金刀比羅宮の階段の普請に参画した。

柏谷を切り開き移り住む。

森義右エ門 

森喜平 (弘化3年生まれ)、妻 キヨ(阿波浄瑠璃が上手かった。徳島県板野郡北灘町で代々、庄屋で碁浦番所役人の八田氏)

曽祖父 森虎太郎(明治元年、1868年生まれ)、妻は東かがわ市黒羽の旧家 永峰家出身。永峰家の先祖は戦国武将の黒羽城城主 永塩因幡守氏継(1467年、応仁の乱に参戦し京都の相国寺にて安富氏の安富元綱らと共に討死)。

虎太郎の妹 トヨは黒羽の旧家 三谷家へ嫁いだ。瀬戸内寂聴さんの父 豊吉さんや笠置シヅ子さんの実父 陳平さんも三谷家出身。

祖父。明治生まれの姉が神戸市京町の旧神戸オリエンタルホテルで英語を使い電話交換手のリーダーとして勤務。

●阿波水軍 森氏の家紋 木瓜紋(左)、高松藩 森家の家紋 丸に木瓜紋(右)。

●私の5代前の先祖、武士の森義右エ門。

森義右エ門→森喜平→森虎太郎→祖父→父→私

高祖父 森喜平、高祖母は板野郡碁ノ浦村の碁浦番所から嫁いできた八田孫平さんの長女 八田キヨ。

明治時代となり農家を営んだ曽祖父の森虎太郎、曽祖母は東かがわ市黒羽(くれは)の旧家 永峰家から嫁いできた。

永峰家は元々、永塩姓だったが戦国時代に帰農し、永峰姓となった。

遡れば室町時代に黒羽神社を創建し、応仁の乱で討死した永塩因幡守氏継となる。

曽祖父(ひいじいちゃん)の妹は、明治時代に、東かがわ市黒羽(くれは)の旧家 三谷家に嫁いでいる。

黒羽の三谷家の一族は、江戸時代から讃岐和三盆作りを続ける家系だ。

瀬戸内寂聴さんの父親の三谷豊吉さんや祖父の峯八さん、笠置シヅ子さんの実父の三谷陳平さんも三谷家の方だ。

そんな関係があったから、私の大伯母(祖父の姉)は、生前、瀬戸内寂聴さんと交流があった。

子供の頃、大伯母が神戸から帰省し、「晴美さん(瀬戸内寂聴さん)の家に行ってくる。」と言ったのを聞いたことがある。

あれは、法要か何かで寂聴さんの父方の実家に行っていたのだろう。

瀬戸内寂聴さんは法要で東かがわ市引田の積善坊や黒羽を訪れている。

積善坊には、十字架の印が彫られた寂聴さんの父母のお墓がある。

父の三谷豊吉さんが養子となった瀬戸内家は神戸市須磨区から徳島市へきたクリスチャンだった。

◼️森(仙石)久村

1566年~1583年

官位・通称:権平

森(仙石)村吉の次男。

森権平の通り名で知られる。

仙石秀久との盟約で人質に出された際、秀久に寵愛され仙石の姓と久の一字を賜った。

1583年4月21日、引田の戦いで仙石軍は長宗我部元親軍に緒戦で勝利して追撃するが、敵の反撃を受けて敗走。

その際に久村が殿を務め稲吉新蔵人と激戦になったが、深田に馬の足を取られた上敵に包囲され戦死した。

享年18歳。

※墓碑には1584年7月19日の日付が刻んであるため、引田の戦いとは別の合戦で亡くなった、同日に建立されたなどの説がある。

香川県東かがわ市伊座に建つ権平の墓。足の病を治す御利益があるといわれる。

●森権平庵 香川県東かがわ市伊座

◼️森家の始祖:佐田九郎兵衛 (九郎左衛門) (? – ?) 戦国時代

因幡国出身。

「古事記」によると、森氏は本姓 藤原、俵(田原)藤太秀郷の末裔とされる。因幡出身とされる家祖 佐田九郎左衛門(のち九郎兵衞)は、森飛騨守と久米安芸守の取次で阿波国守護の細川氏に仕え、名東郡西黒田村(徳島市国府町)で三八貫が給されたが後にこれを没収された。

松永久秀に一時仕えたが、程なくして久秀のもとからも去った。

後に三好氏に仕えた。土佐泊城主。後に森に改名。森元村の父。徳島県阿南市の椿泊にある佐田神社に祭られている。


森元村 (? – 1594) 

長男: 森村春(1542 – 1592)、次男?: 森村吉(森村重、森権平の父)


志摩守、筑後守。

板東郡段関城(鳴門市大津町段関)及び土佐泊城(鳴門市土佐泊)城主。

三好氏に仕えた。

天文16年(1547年)子の村春に志摩守を名乗らせ、元村は筑前守を名乗り段関に隠居。

長宗我部元親の阿波侵入に抵抗、土佐泊城を守り、降伏しなかった。

天正13年(1585年)蜂須賀家政の阿波入国により、国実村(石井町)において隠居料100石を賜る。文禄3年(1594年)6月5日病没。


森村春 (1542 – 1592) 

森村春の弟は森村吉。

森村吉は、森村重、森久村(権平)の父


志摩守。天文11年(1542年)出生。

天正13年(1585年)豊臣秀吉の四国攻めに際し、木津城(鳴門市)及び岩倉城(美馬市)攻略の功により、秀吉から四国平定後、3,000石を与える約束の朱印状を受ける。のちに18万石を得て入国した蜂須賀家政もこの朱印状に拘束された。

福井庄椿泊を本拠として、福井庄に2,525石9斗升(1石は10斗)、他の5村で500石、計3,026石余を与えられた。

文禄元年(1592年)秀吉の朝鮮出兵に水軍を率い朝鮮水軍と戦う。熊川一番乗り。6月2日唐島水道の海戦(唐浦海戦)で戦死。享年51。


森忠村 (1578 – 1606) 
志摩守。天正6年出生。文禄元年相続。石高2,826石。村春の子。

父戦死の訃報を聞き、15歳で朝鮮出兵。

唐島での戦功により家政から刀を与えられた。

慶長15年(1606年)7月10日没。享年33。子なきにより、家が断絶した。


森村重(15??~15??森甚五兵衛家の始まり)

森村吉の長男

森村吉は、森村春(1542 – 1592)の弟

森村重の弟は森権平

森村重の弟の森久村(通称 森権平、1566 – 1583)は、香川県東かがわ市伊座にて引田の戦いで没

★★★★★

◼️森家の先祖

始祖: 佐田九郎左エ門 → 森元村 → 森村吉 → 長男: 森村重(森甚五兵衛家の始まり)。弟 : 森権平(森久村) 一族 → 江戸時代初期から数代、東かがわ市馬宿に住む → 森義右エ門→森喜平→森虎太郎→祖父→父→私

祖母によると、森家の先祖は、森権平(森久村)の一族で、元は、東かがわ市相生の馬宿に住んでいた(馬宿の前は阿波か?)。

馬宿から東かがわ市の横内に移り住み、柏谷を切り開き馬篠に住んだと伝わる。

江戸時代に森家は高松藩松平家に仕える普請役だった為、様々な土木工事や整備の為、馬宿から横内、馬篠へ移り住んだのだろう。

祖母によると、金刀比羅宮の階段の修復にも参画した。小磯の番屋の浜に松平家の殿様一行が遊びに来る度にお膳立てをせねばならず財政的に大変だったと聞いた。

相生は、東かがわ市の最も東に位置する町で、坂元・駅山・馬宿・南野・黒羽・吉田・宮脇・川股の8つの地区からなる。

馬宿の名前の由来は、平安時代、源義経一行が大坂峠を越えて屋島の戦いへ行く途中に馬を休めた地であることから馬宿となった。

馬宿地区にある海蔵院 東海寺で源義経一行が休息したことから、山門は「源氏の門」、山門近くの松は、「鞍かけの松」(馬から降り松の枝に鞍をかけて一休みした)、傍らにある大きかった池は「馬洗いの地」(源氏の兵たちが、駆け抜けてきた馬を洗った)と呼ばれる。

森家の先祖はかつてこの馬宿地区に住んでいたことから、近隣の黒羽に住む永峰家や三谷家、八田家(碁浦番所)とも面識があった為、八田家や永峰家から森家に嫁いだり、森家から三谷家に嫁いだりして姻戚関係を持った。

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