【阿波水軍・森氏】森家のルーツを追う! 森久村 (通称 : 森権平)の森氏一族と阿波水軍!

🟣森家は、江戸時代、高松藩松平家に仕えた武家だった。主に普請役で土木工事を行なった。橋をかけたり、道を作ったりする任務だ。

香川県東かがわ市の横内に居住し、近くの小磯の番屋の浜に松平家の殿様が来るたびにお膳立てし、かなりの費用がかかり財政的に大変だった。

横内に居住していたが、柏の木が生い茂っていた谷を切り開いて開拓し、馬篠に移り住んだ。金刀比羅宮の階段の建設にも加わった。

森家の先祖は、1583年、引田の戦いに参戦し、長宗我部元親軍と戦った森(仙石)久村(1566年-1583年、通称:権平)の森氏一族だったと祖母から聞いた。

遡れば、阿波水軍・森家の佐田 九郎左衛門(さた くろうざえもん)の一族となる。

●阿波→讃岐の今の東かがわ市の馬宿→東かがわ市の横内→柏谷を切り開く→馬篠

●1964(昭和39年)大伯母 58歳のとき神戸新聞社の古山桂子さんからインタビューを受けた際の記事がある。

私の曽祖母は、東かがわ市黒羽の旧家出身で永峰家から森家へ嫁いだ。大伯母は私の祖父の姉にあたる。

永峰家は、元々、永塩姓だったが、戦国時代に帰農し永峰姓となった。

先祖の永塩因幡守氏継は応仁の乱で細川側につき1467年11月8日、京都御所の北側にある相国寺で安富元綱らと共に壮絶な最期を遂げた。

阿波水軍の森家は、鳴門市土佐泊を居城としていた。

細川氏・三好氏の時代から阿波の土佐泊(鳴門市)を拠点に水軍として活躍した森氏は近世においても水軍区を家職とした武家だった。

永峰家は元々、東かがわ市の黒羽で、黒羽城を居城とした戦国武将の永塩氏であり、森氏と同じく細川氏傘下だった。

細川頼之(よりゆき)は、明徳3年(1392)に亡くなったとき、讃岐・阿波・土佐・備中・備後国の守護職だった。

●秦氏の高祖母

曽祖母の母(私の高祖母、つまり ひいひいばあちゃん)は、新聞記事にもあるように阿波浄瑠璃が上手かったようだ。

徳島県板野郡碁ノ浦村(現在の徳島県鳴門市北灘町碁浦) の八田家から元治元年(1864年)に森家へ嫁いできた。八田孫平さんの長女で名を八田キヨと言った。

この八田家は、姓からも想像できる通りルーツは秦氏だ。だから私にも秦氏の血が流れていることになる。

しかしながら、そんなことは全く知らなかったし、秦氏の血が入っていると言われても何も変わらない。恐らく四国や関西には先祖を遡れば渡来人の血が入っている人は相当多いのではないだろうか。なんせ弥生時代以降、日本は大陸から大量に人が流入してきた多民族国家だったのだから。

曽祖父の妹は、明治時代に黒羽の三谷家へ嫁いでいる。また、曽祖母は黒羽の旧家 永峰家から森家へ嫁いできた。そういった関係で大伯母は三谷晴美さん(瀬戸内寂聴さん)と交流があった。寂聴さんの父は三谷豊吉さんと言い、黒羽で、讃岐和三盆を製造する家の出だった。

ちなみに、この八田家は、讃岐と阿波の碁浦番所と言う関所の役人を代々、務めていた。

●碁浦番所
【ごのうらばんしょ】

現在の鳴門市北灘町碁浦にあった番所。

海岸線沿いの陸路の讃岐と阿波の境目に当たる。

西の小碁浦は讃岐,東の大碁浦は阿波に属す。番所役人は八田家が代々勤め,天正13年,讃岐と阿波の国境を決定する折,重要な役割を果たした。

当時の模様は「碁浦邑御番人庄屋八田孫太夫先祖覚書」に「……御国御境目為証人私先祖八田孫兵衛高松へ罷出候節御上使様御出ニ而御境之儀此方于者西坪ケ谷筋之尾切と申上候」(鳴門市史上)とある。

海岸沿いの陸路の境にある碁浦番所は,旅人・商人等の検分に当たった。

番所跡は,国道11号建設のため埋め立てられ,現在道路となっている。

出典: KADOKAWA「角川日本地名大辞典」

●阿波水軍 森家の家紋。木瓜紋

●森家の家紋。丸に横木瓜

※木瓜紋

http://www.harimaya.com/o_kamon1/tisiki/mon_moto.html

同族間においては、基本形を損ねることなく家紋の意匠を変化させることで 本家と分家、庶子家の区別をするようになった。たとえば「木瓜紋」の 場合、単純に輪などの外郭を付ける、竪に置く、横に置く、剣を付ける、輪にしても太輪、細輪、二重輪、藤輪、雪輪など を用いることで何種類もの木瓜紋が生まれた。木瓜紋を用いる家が繁栄すると、さらに家紋は 原形を少しずつ変化させながら増えていった。

※家紋について

http://hakko-daiodo.com/kamon-c/cate6/mokkou/mokkou5.html

🟣森久村(通称: 森権平)とは?

森(仙石)久村(1566年ー1583年)


官位・通称:権平


森(仙石)村吉の次男。

森村重(森甚五兵衛)は兄。

森権平の通り名で知られる。

仙石秀久との盟約で人質に出された際、秀久に寵愛され仙石の姓と久の一字を賜った。

1583年4月21日、引田の戦いで仙石軍は長宗我部元親軍に緒戦で勝利して追撃するが、敵の反撃を受けて敗走。

その際に久村が殿を務め稲吉新蔵人と激戦になったが、深田に馬の足を取られた上敵に包囲され戦死した。享年18歳。


※墓碑には1584年7月19日の日付が刻んであるため、引田の戦いとは別の合戦で亡くなった、同日に建立されたなどの説がある。

●香川県東かがわ市伊座に建つ権平の墓。足の病を治す御利益があるといわれる。

🟣阿波水軍 森氏とは?

蜂須賀氏が徳島藩の大名として入国する前から、阿波国(徳島)にあり、豊臣秀吉の朝鮮出兵にも参加した。

また代々、蜂須賀氏の中老として参勤交代における瀬戸内海の海上移動などで重責を果たした。

細川氏・三好氏の時代から阿波の土佐泊(鳴門市)を拠点に水軍として活躍した森氏は近世においても水軍区を家職とした武家であった。

「古事記」によると、森氏は本姓藤原、俵(田原)藤太秀郷の末裔とされる。

因幡出身とされる家祖 佐田九郎左衛門(のち九郎兵衞)は、森飛騨守と久米安芸守の取次で阿波国守護の細川氏に仕え、名東郡西黒田村(徳島市国府町)で三八貫が給されたが後にこれを没収された。

松永久秀に一時仕えたが、程なくして久秀のもとからも去った。

二代目の森 元村は、森飛騨守の姓を譲り受け、森志摩守と改名した。

天文年間初め、讃岐諸将が伊予河野氏と呼応し、阿波侵攻の報せを受けると、元村は土佐泊城に、四宮和泉は北泊城に配され守りを固めるとともに元村は引田の寒川氏を攻め勝利したという。

後に元村は隠居し、板東郡沖野原(鳴門市大津町)で兵力を蓄え嫡子 村春が土佐泊城を結ぶ吉野川の中継地点に位置することから森氏は細川氏・三好氏のもとで吉野川本流と阿波玄関口を掌握したのではないかと考えられている。

歴代

始祖:佐田九郎兵衛 (? – ?)
因幡国出身。細川氏に仕え、阿波佐田館(現在の徳島市国府町西黒田・国府町東黒田)三十八貫を領した。後に三好氏に仕えた。土佐泊城主。後に森に改名。佐田神社に祭られている。


森元村 (? – 1594)

長男: 森村春(1542 – 1592)、次男?: 森村吉


志摩守、筑後守。

板東郡段関城(鳴門市大津町段関)及び土佐泊城(鳴門市土佐泊)城主。

三好氏に仕えた。

天文16年(1547年)子の村春に志摩守を名乗らせ、元村は筑前守を名乗り段関に隠居。

長宗我部元親の阿波侵入に抵抗、土佐泊城を守り、降伏しなかった。

天正13年(1585年)蜂須賀家政の阿波入国により、国実村(石井町)において隠居料100石を賜る。文禄3年(1594年)6月5日病没。


森村春 (1542 – 1592)

森村春の弟は森村吉。森村吉は、森村重、森久村(権平)の父


志摩守。天文11年(1542年)出生。

天正13年(1585年)豊臣秀吉の四国攻めに際し、木津城(鳴門市)及び岩倉城(美馬市)攻略の功により、秀吉から四国平定後、3,000石を与える約束の朱印状を受ける。のちに18万石を得て入国した蜂須賀家政もこの朱印状に拘束された。

福井庄椿泊を本拠として、福井庄に2,525石9斗升(1石は10斗)、他の5村で500石、計3,026石余を与えられた。

文禄元年(1592年)秀吉の朝鮮出兵に水軍を率い朝鮮水軍と戦う。熊川一番乗り。6月2日唐島水道の海戦(唐浦海戦)で戦死。享年51。


森忠村 (1578 – 1606)
志摩守。天正6年出生。文禄元年相続。石高2,826石。村春の子。

父戦死の訃報を聞き、15歳で朝鮮出兵。

唐島での戦功により家政から刀を与えられた。

慶長15年(1606年)7月10日没。享年33。子なきにより、家が断絶した。


森村重(15??~15??森甚五兵衛家の始まり)


森村春(1542 – 1592)の弟の村吉の長子。

森村重の弟に森久村(通称 森権平、1566 – 1583、香川県東かがわ市伊座にて引田の戦いで没)がいる。★★★★★

・阿波水軍 森家の家紋は木瓜

初名は彦七郎。2代目村春の養子であったが、3代目忠村が生まれたので、分家して森甚五兵衛と称した。

分家に当たり、蜂須賀家政の命により、福井村(阿南市)のうち200石、板東郡4カ村300石、計500石を分知された。

文禄元年(1592年)朝鮮出兵には戦功があり、徳川家康は特に戦功を称え、呉服を授け、那西郡及び那東郡に計114石の加増を受けた。なお村重は、朝鮮から多数の捕虜を連れ帰ったことが「月峯海上録」に記載されている。

慶長14年(1614年)大坂の陣の戦功で徳川家康より、感状(感謝状)と陣羽織を授与された。また、藩主蜂須賀至鎮から730石の加増と感状と脇差を与えられ、森甚太夫も徳川家康と徳川秀忠から感状と呉服を授与された。

寛永12年(1625年)幕府の鎖国政策により、各藩とも水軍は弱体化したが、徳島藩では参勤交代の必要のため、森甚五兵衛家とその分家の森甚太夫家とともに、藩の海上方として造船、管理、運用、乗船の訓練を司り、明治維新まで阿波水軍の地位を世襲した。寛永14年7月29日没。享年72。


●森村純
元和元年(1615年)召出 召出高300石 石高2,413石。

元和5年(1619年)福島正則改易に当たり、父の村重に従い、12歳で芸州広島へ出陣した。

父村重が没し家督相続して志摩守と称した。寛永14年(1637年)島原の乱に従軍した。寛文5年(1665年)8月15日病没した。


●森村安
寛文5年相続。石高2,413石。幕府巡見使通行につき紀州勝浦より土佐甲浦まで輸送した。延宝7年(1679年)幕府目付の来藩に際し、大坂まで迎えに出る。宝永3年(1706年)3月10日没


●森村建
元禄14年(1701年)召出 宝永3年相続 召出高300石 石高2,413石。貞享3年(1686年)4歳で藩主蜂須賀綱矩にお目見え海上供見習に命じられる。元禄14年(1701年)藩主綱矩から部屋住料300石を賜る。宝永3年(1706年)家督相続し、森甚五郎を森甚五兵衛と改める。宝永7年(1710年)巡見使通行につき、淡路由良浦から大坂まで送り届けた。享保9年(1724年)より病にかかり、病気中、森甚太夫が主として海上方を勤めた。享保17年(1732年)閏5月7日没。


●森村冬


●森村由


●森村章


●森村芳


●森村文


●森村輝


●森幸村


●森村誠


●森村晟
戊辰戦争により、慶応4年8月6日没。


●森村輿
村晟の弟。慶応4年相続。海上方を命じられる。藩の軍艦戊辰丸で宮古湾海戦参戦。明治2年藩政改革により、海上方辞任。

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