【香川県古代史】卑弥呼説のある倭迹迹日百襲姫(ヤマトトトヒモモソヒメ)は高松に住んでいた! ゆかりの地を訪問! 船岡山古墳、船山神社!

🟣2022/5/2 月曜日 快晴

香川県高松市にある倭迹迹日百襲姫(やまとととひももそひめ)ゆかりの地を訪問してきた😃

●船山神社→船岡山古墳→田村神社→花泉→袂井→休石

●田村神社、花泉、袂井、休石は下記のページ

●倭迹迹日百襲姫は、奈良から讃岐の安戸池まで船で移動、東かがわから高松へも船で移動、水主神社境内にはうつぼ船、高松の船岡山、船山神社と船がひとつのキーワードになっている。

●香川県 倭迹迹日百襲姫ゆかりの地

艪掛神社 東かがわ市馬篠

安戸池 東かがわ市引田

塩竃神社 東かがわ市引田

水主神社 東かがわ市水主

袖掛神社 東かがわ市小磯

保田池 東かがわ市西村

船岡山 高松市香川町

船山神社 高松市仏生山町

百相村(もまいむら) 高松市仏生山町

田村神社 高松市一宮町

花泉 高松市一宮町

袂井 高松市一宮町

休石 高松市一宮町

 東かがわ市 、高松市 にこれだけ多くのゆかりの地や言い伝えが残っていると言うことは、讃岐の地で稲作普及、水源確保を成功させる為に、カリスマ性のある巫女的な人物が来ていたと言えるのではないだろうか😃

🟣船岡山と船山神社

●奈良から讃岐にやって来た倭迹迹日百襲姫は、東かがわ市の水主神社に宮を構えて地元の稲作と水源確保に尽力した。水主神社を後にした倭迹迹日百襲姫は、東かがわ市の艪掛神社辺りから船を使い海岸沿いに高松にやって来た。

当時の海岸線は、今より大分、内陸にあり栗林公園裏の岩清尾山塊近くに海岸線があった。ちなみに岩清尾山塊には200基もの古墳がある。

海岸から内陸部の船岡山まで移動し、宮を築いた。

●船岡山と船岡池

●船岡山と船山神社の位置関係

●船岡山、船山神社、田村神社の位置関係

●岩清尾山塊、田村神社、船岡山の位置関係。古代において海岸線は岩清尾山塊近くにあった。

●水主神社から船岡山までは海岸沿いを船で移動した。

🟣百襲姫は7歳のとき、讃岐国に派遣され、船で播磨灘を西へ進み、8歳のとき安堵の浦(今の東かがわ市引田町安戸)に上陸した。

そこから水清きところを求めて移動し、水主の里宮内にたどり着いた。

その地で御殿を造営して成人になるまで住み、土地の人に弥生米をあたえ、米作り又水路を開き、雨祈で雨を降らせ、文化を興隆させた。この地が今の水主神社になる。

この辺りの地名を「大内(おおち)」と呼ぶが、その名は百襲姫の住居を付近の人たちが「大内」と称したことに由来するといわれる。

その後、百襲姫は水主の地から船で西へ移り、現在の高松市仏生山の船岡山に宮を造り、讃岐地方の農業開発を指示した。

さらに、農地開発を住民と共同作業するために、平地のど真ん中の農地のすぐそばに宮を造った。その地が現在の田村神社である。

🟣倭迹迹日百襲媛命には、父親は孝霊天皇、弟に吉備津彦命(きびつひこのみこと)と稚武彦命(わかたけひこのみこと)という弟(息子という説もある)がいた。

吉備津彦命は本来の名を五十狭芹彦(いさせりひこ)といい、「日本書紀」に登場する四道将軍(しどうしょうぐん)の一人で、弟である稚武彦命と共に山陽道に沿って周辺域を平定し、さらに吉備国平定後、吉備国を足場として讃岐国、出雲国にも進出したといわれている。

一説にはこの時の逸話が桃太郎伝説のモデルの一つになったと言われており、吉備国(岡山県)と讃岐国(香川県)には桃太郎伝説が残っている。

ただし、「讃岐桃太郎」の主役は讃岐国平定で先陣を切った稚武彦命であるともいわれる。

🟣倭迹迹日百襲姫が田村神社辺りにいた頃の伝承

田村神社辺りにいた頃、桃太郎(稚武彦命)は吉備中山で鬼退治をしていたが、吉備国内がある程度安定したため、讃岐の鬼退治のために姉の百襲姫命に会いにやってきた。鬼というのは、当時(2世紀後半)瀬戸内海の島々を中心にあばれていた海賊のこと。
 
桃太郎(稚武彦命)は鬼を討つために衆を集めた。

犬は犬島(岡山県の沖にある島)出身の水軍、猿は猿王(綾川町陶)出身の火を操る焼き物師の一族、雉は雉ヶ谷(高松市鬼無町)出身の弓の名手たちであると伝えられている。

当時、生島湾近くには大きな泉があって鬼の子分が島から水を汲みに来ていた。

そこで桃太郎らはここで鬼の子分を取り押さえ、鬼ヶ島(女木島)へ行く道案内をさせ、鬼が島 (女木島)周辺で大海戦が行われた。

鬼は島の岩窟に逃げ込んだが、桃太郎は岩窟内に攻め込み、鬼を降参させ、鬼の持っていた宝物を積んで中津の港に凱旋した。

しかし、鬼の残党が香西の海賊城に集まり攻めてきたので再び合戦になった。

桃太郎は急遽仲間に使を走らせて弓と矢をもってこさせ、威嚇のため弓の弦を鳴らした。

その辺りが「弦打」と呼ばれるようになった。

本津川一帯で激しい戦いが行われ、鬼はついに討たれ壊滅した。

鬼がいなくなったことから、その地域を「鬼無」(きなし)と改名したという。

🟣船山神社

船山神社

●船山神社

祭神:倭迹々日百襲姫命・彦五十狭芹彦命・猿田彦命・天隠山命・天伊田根命

【社伝】

第七代孝霊天皇の皇女 倭迹々日百襲姫命、上古讃岐の東部に来り給い、更に移りて当地船山に登り給う。此の地讃岐の中央にして好き所なりと賞でし給いしにより、祠を之を奉ず。地名百相(倭名鈔百相毛毛奈美)は命の御名によって起れりと。

彦五十狭芹彦命は百襲姫命の御弟に座し、他の三神は配祀せるという。

創建は天平年間といい、初め浅野村船岡山に鎮座あり。

船岡山は古く百相郷に属し船山と称し、当社又船山神社と、称へられ三代實録に「天慶五年十一月十四日、戊午授、讃岐国正六位上、船山神社従五位下」とあるは当社なりといえり。鎌倉時代まで、社殿宏状、近郷の大社にして国司守護の尊崇厚く、細川頼之当社を以て岡館北方の鎮守となし、大野、百相の間にて、二石三斗(345kg)を寄進し、貞治五年三月扁額を奉納せしこと讃岐細川記に詳なり。

天正年間に至りて、土佐国長宗我部元親当国を侵撃せし時、不幸にも当社は焼損に罹りたる。

以て別当神宮寺の境内に社殿営み奉遷せり。これ現今の鎮座地にして、爾来神宮寺大明神と称せらる。

神宮寺は渡世変により廃寺となりしが当社は、氏子の奉祀する所となり存続す。然れども社号は猶神宮寺大明神と唱へられ、旧藩の帳簿に神宮寺神社と載せられたり。

高松藩主松平頼重法然寺創立、神宮寺の地を以てその寺領とするに及び、領内一社の神として崇顧厚く、年毎に米一石二斗(18kg)の奉納あり、慣例となり明治初年に及ぶ。又社にある古松は、頼重公が、日向国より移植せしものにして、他の松と種類を異にせり。明和二年正月火災により(古老の言伝に曰く。

昔は水は、正常なるものとの概念から水堀の中に本殿を建立して居たとの事。御神体焼失は、まぬかれたが瓦類其の他焦土と化したもの全て、水堀の中に埋め立てしたとのこと。

たまたま瓦類の出土を見るに、奈良時代和銅~大同年間の造り模様、尚瓦浦面には布にて型づくりし布目のあとあり。古人之を布目瓦といえり。今より千百年前のものと推測す)


安永二年本殿を再建し、文化三年幣殿を建築せしが、爾来久しくなりたるを以て、明治三十二年改築。明治初年社号を百相神社と改むる。大正五年十月神饌幣帛料供進神社に指定せらる。

戦後昔の社名船山神社に復旧す。昭和初期頃より御拝殿改築気運ありしが時運いたらず、昭和三十八年に宿願の御拝殿釣殿共に一般氏子各位の労務奉祀並びに崇敬者信徒の御寄進御協力によって願望達成するに至りました。同五十年御本殿の御屋根銅板に葺替え、つづいて翌五十二年慶應二年建立の随神門の御屋根葺替の大修繕。敬神の念厚き氏子は、昔の宏壮な社殿の姿を偲びつつ復旧に努力致し居ります。

尚本殿傍には楠樹齢千年余り、根もとのまわり12.8メートル枝葉のひろがり約37メートル樹勢きわめてさかん(昭和三十五年七月七日県の天然記念物に指定)初夏の頃の新緑の美しさは格別、境内には数本の梛の銘木あり。

●船山神社 祭神

●社伝

●拝殿

●本殿

●香川県天然記念物指定の楠

🟣船岡山古墳

高松市教育委員会は、高松市香川町 船岡山の山頂に造られている古墳、過去の測量調査により、双方中円墳(円形の墳丘の両側に方形の墳丘がとりつく形の古墳)である可能性が高いとされてきた。

平成20年度から23年度まで、高松平野の古墳時代像をより明らかにするため発掘調査が行われた。

平成21年9月には、船岡山古墳が前方後円墳1基(船岡山1号墳と呼称)、と墳形未確認の古墳1基(船岡山2号墳)の合計2つの古墳で構成されており、特異な埴輪片が出土したことを発表した。

船岡山1号墳は、墳丘の形態と出土埴輪の様相から、三世紀代(古墳時代前期前半)に築造された古式の前方後円墳である。

また2号墳もほぼ同時期に築造された可能性が高い。

 1号墳において、発掘調査をした結果、多くの場所で石列が発見された。

石列は南側に方墳、北側に円墳を配し、30~50cm程度の大振りな角礫や川原石の円礫を用いて階段状に積み上げており、その上に土をかぶせて盛土し墳丘が造られている。

この石列は、自然の山を削った後に、盛土によって整地された平坦面上に積み上げられていることがわかった。

 後円部は古墳主軸上で長さ約19メートルを測る。

東西方向の直径は、墳丘の残存状態が不良のため判明せず。

裾側の斜面は盛土を厚くして緩やかにし、ほか全体に山を削った土砂を低い位置に盛土し平坦にするという工法をとっており、古墳の築造前に大規模な基礎地盤の造成が行われており、こうした基礎地盤の造成は他の古墳では確認されておらず、非常に珍しい事例である。 

出土遺物の主体は、埴輪片で約100点、円筒埴輪とともに壺を用いていた可能性がある。

埴輪には透かし孔と呼ばれる孔が空けられている。大半は円形基調で、三角形の透かし孔も少数認められる。一部には透かし孔を縁どるように線刻で文様が施されているものもあった。 

浅野小学校に「船形石棺」が展示されている。もともと船岡古墳周辺に水樋として利用されていたもので、そのために石棺の小口や造り付けの枕が削り取られている。この「船形石棺」(鷲ノ山産凝灰岩製刳抜式石棺)は、その形態から古墳時代前期後半(四世紀半ば前後)の製作と推定されている。この石棺の本来の出土地については、船岡山古墳もしくは船岡古墳からといわれていた。

しかし、船岡古墳は後期の横穴式石室であること、一方、船岡山古墳は三世紀代で墳丘が低いことから、これらから出土したとは考えられないことが確定した。

●船岡山。空き地に犬がいた。

●建物があるが、雑草が生い茂り、更にクマンバチがいてたどり着けず

●石切り場のような場所があった

●積み石が、見られた。

●左手にお墓がある。これ以上先は草木が生い茂り進むのが無理と判断し引き返した。

●船山池の周辺を回ってみることにした。

●香川県には円錐形の里山が多い。人工的に建造したピラミッドではないかと思うことがある。

●讃岐うどんの有名店 さか枝がある

●小麦 さぬきの夢が実っている。讃岐うどんに使われたりする。

◼️セミナー

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です