🟣南方熊楠は、1867年5月18日(慶応3年4月15日)から1941年(昭和16年12月29日)までの74年間を生きた博物学者、生物学者(特に菌類学)、民俗学者であるが、その容貌は現代でも通じるイケメンでもあった。
以前、和歌山県白浜町にある南方熊楠記念館を訪問した際に、熊楠のデスマスクを見たが彫が深く鼻が日本人離れした高さだった。
熊楠はアメリカ、イギリスでも現地人相手に一歩もひかない胆力の持ち主だった。願わくばマルチリンガルだった熊楠と英語で話しをしてみたかった。
■熊楠の風貌 – 身長:157.5~160.6cm
熊楠は明治、大正、昭和を生きた人物であるが、明治生まれのひととしては写真が数多く残っていると言われる。
アメリカのジャクソンで撮られた若き日の写真を見ると非常にイケメンである。
また晩年の熊楠も風格のある俳優のような顔をしている。
若い時は、西村和彦、本木雅弘、本田圭佑、田村亮、鈴木崇司、晩年は、勝新太郎、北方謙三、ビスマルクなどに似ている感じがする 笑
⬛️青年時代
⬛️壮年期、晩年
🟣南方熊楠の映像が発見される! 1935年に野村益三 子爵が和歌山にて撮影! 穏やかな表情で何か喋っているように見える! 右手に天然記念物の安藤みかんの木がある!
https://note.com/redtiger/n/nc9f1e29e6d1c
🟣南方熊楠関連動画
◼️エピソード (田辺定住時代)
🟣泥酔して柳田國男と面会。
講演会では都々逸(どどいつ)と百面相!
1904年(明治37)10月田辺へ来た熊楠は、喜多幅武三郎、多屋寿平次一家、川島草堂らと交わるうち、この地が「至って人気よろしく、物価安く静かにあり、風景気候はよし」ということで、気に入って、ついにここに落ち着くことになった。
中屋敷町中丁北端の多屋家の持ち家を借り、和歌山に置いていた書物を取り寄せるなどして、気ままな生活を始めた。
多屋家の借宅は田辺の古くからの住宅地で、近くに料亭や芸妓の置屋も多くあり、知人達をそこに集め、また芸者を呼び、飲み、得意の都々逸や、大津絵などを唄ったり、奇芸をして騒ぐことが多かった。
熊楠は、多数の人に講演することの嫌いな人で、そういう場合はしばしば酔って登壇した。
🟣田辺では、1909年(明治四十二年) 42歳のとき、台場公園売却反対集会で、酔って壇上で都々逸を歌い、さらに巡査と乱暴に及ぼうとして、石友(石工の佐武友吉)に助けられている。
🟣1910年(明治四十三年)43歳の時、田辺中学で開かれていた紀伊教育会主催夏期講習会の会場に、神社合祀推進派の県吏に面会しようと「乱入」して警察に拘引された時も酔っていた。
会場へ行く前に牟婁新報社を訪れた時にも、すでに少し酔っていた。
社長の毛利清雅の言によると、「あとで聞けば先生は、社で飲んで、それから小倉酒店で飲んで、玉三酒店で飲んだ。今朝来ビール瓶を倒す事約十幾本……」という状態だった。
結局、酒の上のことだというので「放免」になった。
1913年(大正二年)46歳、12月に柳田国男が田辺を訪れたときも、自宅に柳田を迎えながら、こちらから旅館に伺うといって帰し、旅館の錦城館へ行く途中で例の小倉酒店に寄り、さらに旅館の帳場で、初めての人に会うのはどうも恥ずかしいと酒を注文している。
柳田の部屋に通されたときにはすっかり出来上がっていて、両者のただ一度の面会は奇妙なものとなった。
🟣1920年(大正九年)、53歳の時、高野山に菌採集に登った際、しぶしぶ講演を承知したが、定刻になっても会場の大師堂教会に現われず、さがすと小さな居酒屋で飲んでいた。
結局、壇上で突然、泣きだしたり、「恒河のほとりに住まいして娑羅双樹の下で涅槃する」と二上りの調子で歌いだす始末だった。
1920年(大正九年)、高野山ではほぼ三十年ぶりに土宜法竜と面会した時も酔っていた。
宿舎の一条院の宿房で朝食中に金剛峰寺から電話がかかってきて、管長(法竜)が面会したいという。 朝食を中止して同行者たちは衣服を改めたが、熊楠は茶碗を突き出して「酒」と命じて結局二本飲んだ。
🟣翌1921年(大正十年)の法竜との再度の面会の時も、同行の画家、楠本秀男は「先生先きに酒気あり」と書き、法竜の部屋が暖められていたため一時に酔いを発し、いびきをかいて眠り込んでしまった、と述べている。
🟣1922年(大正十一年)、55歳の時、上京した際、中山太郎にともなわれて国学院大学へでかけたが、壇上に立たされても一言もしゃべらず、百面相をしてみせたという。
もちろん酔っていたのである。
◼️エピソード(神社合祀反対運動) 神社合祀反対運動で泥酔して抗議、投獄中に粘菌発見!
1906年(明治39)の終りごろから、第一次西園寺内閣は
神社合祀を全国に励行し、次の桂内閣もこれを引き継いだ。
これは、各集落毎に数々ある神社を合祀して、一町村一神社を標準とせよというもので、和歌山県はとくに強制威圧的に推進しようとした。
町村の集落ごとに祀られている神社は、住民の融和、慰安や信仰の拠)りどころであり、史跡と古伝の滅亡させるもので、また、そこにはほとんど例外なく、うっそうとした森林があった。
神社合祀が行われると併合された後の神社林が伐採されることで自然風景と貴重な解明されていない生物が絶滅するのなどを心配したのである。
各地で住民が身近な神社の無くなるのを嘆くのを見て、当時、さきがけて合祀反対の立場をとっていた『牟婁新報』の社主、毛利清雅の新聞に反対意見を発表し、合祀を推進する県や郡の役人を攻撃した。
『牟婁新報』には毎号、反対意見を投稿し、掲載され賑わしたが、さらに『大阪毎日新聞』、『大阪朝日新聞』、『東京朝日新聞』などにも反対意見の原稿を送り、また中央の学者に応援を求める働きかけをした。
なかでも、東京大学教授で植物の権威、松村任三(じんぞう)に、国・県の神社合祀のやり方をきびしく批判した長文の手紙を寄せた。
これを、民俗学者で当時内閣法制局参事官であった柳田國男が、『南方二書』として印刷し、関係者に配布して熊楠の運動を助けた。
1910年(明治43)8月、田辺中学校講堂(現田辺高校)で夏期教育講習会があり、主催者側として出席した田村某は神社合祀を進める県の役人で、熊楠はこの人に会おうと閉会式の会場を訪れたところ、入場を阻止されたので、酒の酔いも手伝って、持っていた標本の入った信玄袋を会場内へ投げ込んだ。
このことから「家宅侵入罪」で連行され、18日間、未決のまま監獄に入れられた。
結局、無罪で釈放となったが、その間本を読み、構内で粘菌を見つけたりした。
釈放される時、看守がそのことを知らせると、「ここへは誰も来ないので静かだし、その上涼しい。もう少し置いてほしい」と言って、出ようとしなかったと伝えられている。