こんにちは。
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トリリンガル讃岐PRオフィサーの森啓成(モリヨシナリ)です。
現在、私の父方の直系尊属である徳島藩の生藤辨蔵のルーツについて調べています。
どなたか、1800年代に徳島藩の下助任に居住していた生藤辨蔵と万福寺北東の下助任に六代に渡り住んでいた徳島藩士 生藤万之丞家の関係をご存知の方はいらっしゃらないでしょうか?
何かご存知の方がいましたらコメントを頂けますと嬉しい限りです。
これまで、鳴門市役所、徳島市役所、徳島市立図書館、徳島城博物館、徳島大学附属図書館、徳島県立文書館へは訪問、或いは問い合わせをしました。徳島県立図書館は回答待ちです。
現時点では下助任に住んでいた生藤万之丞家と生藤辨蔵の関係性を示す資料は見つかっておりません。
生藤万之丞家(初代〜6代)と生藤辨蔵は同時代に下助任という同じ区域に住んでいました。また生藤という珍しい姓を考慮すると辨蔵は万之丞家の次男や三男、分家である可能性が高いと推測されます。
次なる一手として、生藤万之丞家周辺の万福寺や興源寺、弘誓寺などでの檀家や過去帳、墓石について調べてみようと考えています。除籍謄本が有れば子孫として過去帳が見れるのかは不明、、。
万福寺
弘誓寺
興源寺
三寺院とも公式サイトがない。
・生藤万之丞家の初代 生藤久左衛門から六代が住んでいた屋敷(黄丸)

・徳島市吉野本町にある万福寺

萬福寺 (徳島市) – Wikipediaja.wikipedia.org
目次
- 徳島藩士 生藤家
- 直系尊属 生藤辨蔵
- 🔹高祖母の父 八田孫平を戸主とする除籍謄本 (鳴門市役所にて取得)
- 🔹略系図:
- 徳島藩 碁浦御番所役人 八田家歴代当主 (初代〜9代)
- 八田孫平を戸主とする戸籍謄本
- 家族構成の詳細
- 次世代(孫・曾孫)の記録
- 森喜平を戸主とする戸籍謄本
- 戸籍から読み取れるその他の事実
徳島藩士 生藤家

徳島藩士録 (下巻)に生藤家は三家あります。
その中で生藤万之丞家の居住地(万福寺北東)が生藤辨蔵の居住地であった下助任と重なります。
🟪生藤万之丞 (三人扶持七石)
生藤辨蔵と関係がある可能性が高い系譜
🔹初代 生藤久左衛門 吉甫
① 南渓院様代 御下男召出 享保十五戌年(1730年)九月十四日台所人格にお取立
② 三人御扶持方御支配七石
③ 御料理方
④ 明和二酉年(1765年)五月廿六日没
🔹二代 生藤市郎 貫道
① 延享元子年(1744年)六月十一日召出 明和二酉年(1765年)八月八日相続
② 召出三人御扶持方御支配五石 後四人御扶持方御支配八石
③ 御料理方 (中小姓格立身)
④ 文化七午年(1810年)二月廿二日没
🔹三代 生藤辰治 宗有
① 安永七戌年(1778年)正月廿八日召出 文化七午年(1810年)五月三日相続
② 三人御扶持方御支配七石
③ 御料理方
④ 文政七申年(1824年)五月十一日没
🔹四代 生藤左馬太 房照
① 文化九申年(1812年)十二月廿三日召出 文政七申年(1824年)七月八日相続
② 三人御扶持方御支配七石
③ 御料理方
④ 文政九戌年(1826年)四月廿五日没
🔹五代 生藤祐之亟 有定
① 文政九戌年(1826年)六月十八日相続
② 三人御扶持方御支配七石
③ 御料理方
④ 嘉永五子年(1852年)八月十三日奉公御免
🔹六代 生藤万之亟 有直
① 嘉永五子年(1852年)八月十三日相続
② 三人御扶持方御支配七石
③ 上ヶ方奉行
④ 不詳(文久元酉年:1861年)
直系尊属 生藤辨蔵
🔹高祖母の父 八田孫平を戸主とする除籍謄本 (鳴門市役所にて取得)

生藤辨蔵は私の高祖母の八田キヨの祖父となります。
🔹略系図:
生藤辨蔵 (1800年代に徳島藩下助任村に居住。同時期に下助任に住んだ徳島藩士 生藤万之丞家との関係性を調査中)
↓
二女 生藤タケ (文政8年/1825年12月27日生まれ)
夫 八田孫平 (禄持ちの碁浦御番所役人 第九代当主)
↓
長女 八田キヨ (高祖母)
夫 森喜平 (高松藩。先祖は1583年引田の戦いで討死した森権平久村(森村吉次男)の一族。家紋:丸に木瓜)
↓
長男 森虎太郎
妻 永峰チヨ(讃岐黒羽村地主・庄屋。摂津守護代 長塩家子孫)
↓
祖父 (日中戦争中に戦死)
↓
父 (S31年、神戸オリエンタルホテルにて昭和天皇に料理献上)
↓
私
徳島藩士録によると生藤家は御料理方を代々務めておりましたが、偶然にも私が知る範囲だけで家系の中で父以外にも二人が料理人です。
https://note.com/embed/notes/n06fef21dbd30
・インスタグラム
https://www.instagram.com/p/DCA6VrtsPwQ/?q=#ステーキレストランオリエンタル
・高松藩 森家。家紋瓦は、阿波の本家の木瓜に対して、支家の丸に木瓜。森村吉の次男 森権平久村の一族。引田での長宗我部元親軍との戦い後に馬篠へ落ち延びた。柏の木が生い茂る一帯を開拓して柏谷と名付け、治水し山林と土地を所有した。


徳島藩 碁浦御番所役人 八田家歴代当主 (初代〜9代)
1641年から1872年まで231年間、碁浦御番所役人を世襲。
初代 八田孫兵衛が阿波讃岐の国境を決める際に境目証人として高松での協議に出席した。その働きが藩に認められ御番所役人に任命されました(鳴門市史)。
高祖母の父 八田孫平は第九代当主。

・碁浦御番所の写真
徳島藩から辺り一帯の山林と切田を拝領し、庄屋も兼任していた。

https://note.com/embed/notes/ncd4d601bd596
・徳島藩職制取調書抜 下巻


八田孫大夫の家禄は弐人三石。その他、藩から碁浦一帯の山林と切田を拝領し庄屋を兼任。

八田孫平を戸主とする戸籍謄本


この除籍謄本の原本は、徳島県板野郡北灘村大字碁浦番屋敷に置かれていたものです。
戸主は八田孫平(文政2年9月6日生)で、亡父である八田孫大夫の長男として記載されています。孫平は明治19年9月15日に、前戸主である孫大夫の死亡に伴い家督を相続しました。
家族構成の詳細
戸主 八田孫平の妻は生藤タケ(文政8年12月27日生)で、阿波国名東郡下助任村の生藤辨蔵の二女です。
長女 八田キヨ(高松藩 森喜平と結婚)と二女は、八田孫大夫が戸主だった時代に嫁いだと考えられます。
孫平の長男は節太郎(嘉永2年6月12日生)です。その妻はトキ(慶応4年10月25日生)で、同村の前田武右衛門の二女として明治24年に入籍しています。
また、孫平の三女としてトメ(安政3年3月10日生)が記載されており、彼女は明治24年に同村の吉田佐平のもとへ嫁いでいます。
次世代(孫・曾孫)の記録
長男・節太郎とトキの間には、以下の子供たちが生まれています。
長男(孫平の孫):傳吉(明治8年5月6日生)大内郡相生村の水谷◯太郎長女 三谷ソノ
二男(孫平の孫):助作(明治15年8月24日生)
長女(孫平の孫):マツ(明治14年12月3日生)。彼女は明治33年に橋本徳平の養子の宗平に嫁いでいます。
二女(孫平の孫):トミ(明治27年8月3日生)
さらに次の代として、傳吉の長男(孫平の曾孫)にあたる久吉(明治29年4月9日生)の記録までがこの謄本に含まれています。
森喜平を戸主とする戸籍謄本

上記の八田家の戸籍謄本の記載内容から生藤タケが21歳のときに八田キヨを産んでいる。
生藤タケの生年月日
文政8年(1825年)12月27日
八田キヨの生年月日
弘化3年(1846年)9月18日
※戸籍の「妻 キヨ」の欄に「弘化三年九月十八日生」とはっきりと記載されています。
生藤タケが21歳(数え年では22歳)の秋に、長女であるキヨが誕生したことになります。
戸籍から読み取れるその他の事実
森喜平の生年月日:
弘化3年(1846年)5月4日。八田キヨと同じ年の生まれです。
八田キヨの結婚時期:
「元治元年(1864年)11月28日」に、徳島県板野郡碁浦村の八田孫平長女として入籍した旨が記載されています。
当時の年齢:
森喜平と八田キヨの二人が元治元年に結婚した際、ともに18歳(満年齢)でした。
21歳で母となったタケと、その娘キヨが18歳で森家へ嫁ぐという時代背景を反映しています。
生藤辨蔵家のルーツ調査の背景と目的
私の高祖母・八田キヨの父である徳島藩碁浦御番所役人 第九代当主 八田孫平の戸籍謄本を鳴門市役所にて入手し、確認したところ、その妻は、「生藤タケ(1825年生)」で、タケの父である生藤辨蔵(いけふじ べんぞう)が「名東郡下助任村(現・徳島市下助任町周辺)」に居住していたことが判明しました。
一方、徳島大学附属図書館の「蜂須賀家家臣団家譜史料データベース」等を用いた調査により、徳島藩士の「生藤久右衛門(万之丞)家」が代々、万福寺北東の下助任に屋敷を構えていたことが分かりました。
①徳島県立博物館のデジタルアーカイブの生藤の名前が載っている古地図
⇒【徳島御城下切絵図(3)助任ト前川】(目録)adeac.jp

万福寺の北東にある「生藤久右衛門」。生藤万之丞の系図の初代に当たる人物の名前があります。
② 上記の万福寺の北東に住んでいた初代 生藤久右衛門の名前が確認できる場所と同じ場所に、六代目の生藤万之丞の名前がある地図(地図では萬之丞と表記。)
江戸後期頃の「御山下絵図」。城下町とくしま歴史さんぽ」というサイトで、Web上で閲覧可能。
⇒ https://m.stroly.com/tokushima/i#joukamachiburariMAP VIEWERm.stroly.com


初代の生藤久右衛門の時期だけでなく、江戸後期まで時代を下った第六代 生藤万之丞の頃でも同地域に住んでいたことが確認できます。
生藤辨蔵と居住地域が一致すること、および年代的な整合性から、生藤辨蔵は藩士・生藤万之丞家の近親者(分家・弟等)である可能性が高いと考えております。
両者を結びつける、あるいは生藤辨蔵の出自を特定できる資料がないかを探しています。
確認したい事項
- 『阿波国分限帳』や『蜂須賀家家臣成立書并系図』以外の詳細資料の有無
- 藩士・生藤万之丞家の系譜において、三代・辰治、四代・左馬太、五代・祐之亟の近親者に「辨蔵(あるいは辨蔵の前名)」と思われる人物の記載がある資料の有無
- 下助任村の「宗門人別改帳」や「検地帳」等の所蔵状況
- 幕末から明治初期にかけての下助任村の住人が記載された資料の中に、生藤辨蔵の名、あるいは藩士・生藤家と血縁関係を示す記述の有無
- 御料理方に関連する記録
生藤万之丞家は代々「御料理方」を務めていたことが判明しております。御料理方の職に就いていた人物の補任記録や名簿等で「生藤辨蔵」の名、あるいは関連する記載の有無
- 蜂須賀家家臣名簿
- 徳島藩士分限帳
- 明治初期壬申戸籍
- 地租改正期土地台帳
- 除籍簿・旧土地登記簿
「分限帳→壬申戸籍→除籍簿」がつながれば、ほぼ系譜が確定します。
以上
高松藩 森家
讃岐国大内郡馬篠村柏谷
家紋:丸に木瓜
家紋瓦 ↓

・森家 簡略家系図 (元禄から明治期まで)
https://note.com/redtiger/n/nae9ef29632cd?app_launch=false
・馬篠の柏谷を開拓し、土地および山林を所有していた家系
・江戸時代には橋や道路の普請(建設)に関与
・金刀比羅宮の石段造営に参加・高松藩士一行が小磯(大筒台の巡検等と推測される)へ来訪した際、接待(お膳立て)を担った。
・1583年の引田の戦いにおいて討ち死にした森権平久村(森村吉の次男)と関係があると伝わる。引田の戦い後、馬篠へ落ち延びたか。
・第二次世界大戦中まで甲冑や槍刀を所持していたが政府に供出し、戦後は刀の鍔が3点残存していた。
【近世以降の系譜情報】
森喜平を戸主とする除籍謄本

・除籍謄本に記載があります森義右エ門の長男 森喜平は1864年に徳島藩 碁浦御番所役人を231年間、9代に渡り世襲した録持ちの八田家当主 八田孫平の長女キヨと婚姻。
初代 八田孫兵衛は1641年、阿波讃岐の国境を決める際、境目証人として出席(鳴門市史)
・森虎太郎(喜平の長男)は、讃岐黒羽村の永峰宅本の子孫 地主家系の永峰杢左衛門家の永峰チヨと婚姻。永峰家は摂津守護代 長塩家の末裔。室町時代、永塩因幡守氏継は細川京兆家の細川勝元により讃岐黒羽へ派遣され黒羽城に居城、黒羽神社を創建(全讃史、三代物語、神社誌、引田町史)
・森虎太郎 – 永峰チヨ(永峰市次郎長女)
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七女: 森ミヤコ – 永峰修一
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永峰義史 – 東山: 朝倉家
・森マサ (喜平の長女)は西村の有馬家の有馬丑松と結婚し、その二女: 有馬アサノは讃岐黒羽の十河氏系三谷家の三谷伊之八と結婚。
(この家系の分家の屋号:.甚六家が瀬戸内寂聴の父 豊吉の家系か)
・森喜平 – 徳島藩 八田キヨ (碁浦御番所役人家)
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長女: 森マサ – 西村:有馬丑松
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二女: 有馬アサノ – 黒羽: 三谷伊之八
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二男: 三谷猪織 – ナツエ
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二男: 三谷正俊
・森トヨ(喜平の二女)も讃岐黒羽の十河氏系三谷家の三谷磯八(三谷正俊家の隣り)と婚姻
・森ヤス (喜平の三女)は、徳島県三好の三宅助次郎と結婚。助次郎は上記の誉水村西村: 有馬丑松の弟で三宅家の養子となった。
上記のような江戸時代に馬篠柏谷に住んでいた森家について、以下の資料を調査中
・地域史(市史・町史・郷土史)・古文書(検地帳、名寄帳、普請関係記録など)
・家別の記録や記載の有無
大内町史に記載なし。
香川県立文書館に問い合わせたところ東かがわ(大内)の馬篠に関係する文書はない。
瀬戸内海歴史民俗資料館刊行の『歴史収蔵資料目録十一 讃岐国松平讃岐守領内諸家文書目録(二)』 の89頁「大内郡馬篠村坂東家文書目録」がある。
