目次
- プロローグ:ルーツを辿る静かなる冒険の始まり
- 第一章:瀬戸内に散った若き血、そして静かなる転身
- 第二章:闇を切り裂く灯火、由緒正しき菩提寺
- 第三章:陸を拓き、道を繋いだ高松藩東端の要
- 第四章:幾重にも絡み合う縁:時代を彩る血と絆
- 第五章:戦火を越え、苦難を乗り越え、繋がれた命のバトン
- エピローグ:繋がれし生命のバトン
- 著者プロフィール

プロローグ:ルーツを辿る静かなる冒険の始まり
こんにちは。トリリンガル讃岐PRオフィサーの森啓成 (モリヨシナリ) です。
長年、海外で仕事に没頭する日々を過ごし、自身のルーツに関心を抱く余裕もありませんでした。しかし、数年前、身内の死をきっかけに戸籍謄本を手にしたことで、私の人生は大きく動き出しました。事務的な紙束のはずが、一枚、また一枚と紐解くごとに、私の想像を遥かに超える、壮大な「血脈の迷宮」がその姿を現したのです。
それは、単なる家族の記録ではありませんでした。戦国の鬨の声、江戸の静謐、幕末の胎動、そして昭和の激震――。歴史の大きな渦の中で、名もなき先祖たちが確かに息づき、時には歴史上の人物と交差しながら、奇跡のように現代へと繋がれてきた一本の線。
現在も調査は進行中ですが、2025年6月時点で判明している事実を、ここに整理し、皆さまにお届けします。この旅は、私の血の奥底に眠っていた「数奇な宿命」を呼び覚ます、魂の旅へと変わっていきました。

第一章:瀬戸内に散った若き血、そして静かなる転身
私の姓は「森」。その根源を辿ると、徳島を拠点に瀬戸内海を縦横無尽に駆け巡った「海の武士」、阿波水軍 森氏の系譜に行き着きます。彼らは、風を読み、波を操り、時に戦国の荒波を乗り越える海の覇者でした。
その血脈に、私の遠い祖先の影が鮮明に浮かび上がります。時は1583年、天下統一を目前にした豊臣秀吉の四国征伐が迫る不穏な時代。阿波と讃岐の国境、引田の地で、長宗我部元親の大軍と激突した「引田の戦い」が勃発します。この戦いは、秀吉による四国平定の足がかりとなり、その後の日本の歴史を大きく動かしました。
その激烈な戦火の中で、私の先祖にあたる阿波水軍 森家一族の森権平久村は、わずか18歳という若さで命を散らしました。その短くも鮮烈な生涯を刻む墓標は、今も香川県東かがわ市伊座の地にひっそりと佇み、彼の魂は引田の日下家の位牌に静かに宿っています。
森権平久村の亡き後、一族の者が彼が亡くなった地である讃岐に留まることを決め、東かがわ市の馬宿に住みました。それが後に高松藩に仕える家系となり、森権平久村の系譜は途絶えなかったのです。
権平久村の母は、阿波の武門の名家、赤沢一族の赤沢伊賀守の娘であり、その祖母は撫養城主、小笠原摂津守の血を引いていました。また、森権平久村が仕えた武将は信州の仙石秀久でした。信州と深い縁を持つ小笠原家や仙石家との縁は、森家がいかに多くの有力武家と複雑に結びついていたかを雄弁に物語ります。
阿波水軍森家が掲げた家紋は「木瓜(もっこう)」。戦国の悲劇を乗り越え、権平久村の「一族」という広大な意味での血縁が、戦乱の余燼がくすぶる讃岐の地に新たな森家として根を下ろします。
江戸時代に成立した高松藩に仕えることになった「高松藩森家」の家紋は、本家の「木瓜」を守るように「丸に木瓜」と形を変え、しかし確かにその血脈が受け継がれた揺るぎない証として、静かに輝いています。
◆森権平久村が討ち死にした東かがわ市伊座と引田城。仙石秀久は引田城に立て篭もったが、長宗我部元親軍に取り囲まれ、森権平久村の父 森村吉らと共に脱出し淡路へ避難した。

◆徳島藩阿波水軍森家の家紋と傍流の高松藩森家の家紋

左: 徳島藩阿波水軍森家の家紋 木瓜。高松藩森家の家紋 丸に木瓜。本家を守るように丸の中に木瓜となっている。
◆森権平久村の墓の場所

◆東かがわ市伊座にある森権平久村の墓

◆東かがわ市伊座と馬宿。森権平久村亡き後、残された一族は悲嘆に暮れたが、森村吉の姉が嫁いでいた引田の日下家を頼って讃岐に留まることを決断し、馬宿に住んだ。いつ死ぬか分からぬ戦国時代、父の森村吉は、森家の存続を考え3拠点に分かれた。
村吉と三男の森村明は仙石秀久と運命を共にし信濃へ、長男の森村重は徳島 椿泊で森甚五兵衛を名乗り、代々海上方として繁栄した。次男の森権平久村の一族は讃岐に留まり、東讃の郷士として生きた。馬宿から馬篠へ移り、未開の山を開拓し柏谷と名付け一帯の山林と土地を所有した。その後、徳島藩碁浦番所役人を200年以上務めた八田家や黒羽の旧家 永峰家や十河氏系三谷家と婚姻関係を結んだ。この八田家は天正13年(1585年)に阿波と讃岐の境界線を決める際に重要な役割を担った。


◆森家の戸籍謄本


・高祖父の父: 森義右衛門 高松藩普請方。先祖代々の菩提寺は森家の縁者である阿波赤沢家の板西城主 赤沢信濃守宗伝の一子が讃岐に逃れて開基した勝覚寺。
・高祖父母: 高松藩普請方 森喜平 元治元年に八田キヨと結婚。八田キヨは、徳島藩 碁浦番所役人兼庄屋を200年以上務めた禄持ちの八田家当主 八田孫平の長女 、阿波浄瑠璃の三味線が上手かった。この碁浦番所には伊能忠敬、久米通賢、松浦武四郎らも訪れたことが記録に残っている。
・曽祖父母: 森虎太郎。東かがわ市黒羽の旧家 永峰家当主の長女 永峰チヨ (細川京兆家に仕えた黒羽城主 永塩因幡守氏継、長塩備前守又四郎元親の末裔)
・高祖父母の娘: 森トヨは東かがわ市黒羽の十河氏系三谷宗家 三谷磯八へ嫁いだ。瀬戸内寂聴さんは三谷家の分家(屋号: 甚六)の末裔にあたる。
◆阿波水軍 森権平久村の家系図


・森権平久村
父 森村吉。仙石秀久と運命を共にし、信濃へ移り7000石を有する武将となる。
母 阿波赤沢家 赤沢伊賀守の娘。同じく阿波赤沢家の板西城主 赤沢信濃守宗伝が長宗我部元親軍と戦った中富川の戦いで討ち死にした後、その一子が讃岐へ逃れ父の菩提を弔う為に開基した勝覚寺が高松藩森家の菩提寺となった。
祖母 撫養城主 小笠原摂津守の娘
叔母 讃岐の服部家へ嫁いだ。
叔母(森権平久村の父 森村吉の姉)讃岐の四宮家に嫁いだ→後に夫が日下家の養子となる。日下家は江戸時代になり、馬宿村と引田村の庄屋、そして大内郡全体の大庄屋も務めた。森権平久村亡き後、悲嘆に暮れた一族の者が讃岐に留まることに決めた理由はこの日下家の存在があった。森家は最初、黒羽の近くの馬宿村という場所に住んだ。この馬宿村には久米通賢の一族も住んでいた。
◆阿波水軍森家の歴史書 木瓜の香り




◆阿波水軍森家の居城があった鳴門市の土佐泊と阿南市の椿泊。
・松鶴城(しょうかくじょう): 徳島県阿南市椿泊町に存在した城。別名として「椿泊城(つばきどまりじょう)」や「森甚五兵衛屋敷」とも呼ばれた。
築城主: 森志摩守村春(森村春)によって築かれた。
主な城主: 森氏。森氏は代々「森甚五兵衛」を名乗り、阿波水軍を率いた。
立地: 紀伊水道に突き出す半島の先端、椿泊(つばきどまり)集落内に位置する平城。
森氏と松鶴城:
初代の森志摩守元村は、三好氏の家臣として鳴門の土佐泊城を居城とし、長宗我部氏の侵攻にも耐え抜いた。天正13年(1585年)の豊臣秀吉による四国平定では、森元村の子である森村春が豊臣軍に加わり、戦後、阿波に入国した蜂須賀氏に仕えた。この時、村春が椿泊へ移され、松鶴城が築かれた。森氏は江戸時代に入っても、参勤交代の際の船運など、蜂須賀藩の海上方として重要な役割を担い、明治維新まで仕えた。森氏の屋敷であった松鶴城は、小大名並みの規模を持っていたともいわれる。
現在の状況: 現在、松鶴城跡には「阿南市立椿泊小学校」が建っている。小学校の敷地が森甚五兵衛一族の居館跡であり、校舎建て替えに伴う発掘調査では、16世紀末から17世紀初頭に築かれた石垣遺構が検出された。小学校の正門横には松鶴城跡の石碑が残されており、南側の石垣が当時の遺構として現存している。

◆文政十一年(1828年)の御家中知行高井御役高帳

◆日下家の家系図と森権平久村一族のその後


初代に子なき為、四宮家から養子をとり日下家二代目となった。
その妻が阿波水軍 森村吉の姉だった。この血縁を頼り、森権平久村亡き後、一族の者は讃岐に留まる決断をした。
この為、森村吉一家は結果的に、或いは戦略的に3ヶ所に分かれ森家存続を図ることとなった。森村吉と三男の森村明は仙石秀久に伴い信濃へ移り7000石を有する武将となった。
長男の森村重はそのまま徳島に残り、徳島藩の海上方として3000石を有し、260年間繁栄した。
そして引田の戦いで亡くなった次男 森権平久村の一族は権平久村亡き後、悲嘆に暮れたが讃岐引田の血縁者である日下家を頼り、馬宿村に住み城下には住まず郷士として生きることとにした。後に未開の山を開拓し柏谷と名付け移り住み、一帯の山林と土地を所有した。
◆積善坊近くにある日下家邸宅から馬宿

◆東かがわ市引田の日下家邸宅と高松藩分限帳



第二章:闇を切り裂く灯火、由緒正しき菩提寺
高松藩森家代々の魂を静かに見守り、導いてきた菩提寺は、香川県東かがわ市に佇む海暁閣 勝覚寺です。この寺院の創建は、森家と深く交錯する赤沢一族の歴史と、切っても切り離せません。
勝覚寺を開いたのは、森権平久村の母方の出身家である阿波赤沢一族の板西城主、赤沢信濃守宗伝の一子でした。宗伝自身は、1582年の中富川の戦いで長宗我部元親軍に敗れ、無念の討ち死にを遂げていました。この戦いは織田信長の死の直後であり、その混乱に乗じて長宗我部元親が四国統一に邁進していた時期と重なります。その息子は、父の菩提を弔うため、そして乱世を生き延びるため、阿波から讃岐の地へと命からがら逃れ、天正年間にこの寺を創建したのです。敗戦の悲しみと、新たな地での再起への祈りが、この寺の礎となりました。
勝覚寺は、その由緒の深さゆえに「四国唯一の閣寺院」という特別な称号を誇ります。その背後には、幕末から明治という激動期に生きた、この寺の二十世住職、赤沢融海法師(1833-1895)の偉大な存在があります。彼は単なる地方の僧ではありませんでした。幼くして仏門に入り、宗教学を深く究め、22歳という若さで勝覚寺の法灯を継いだ異才だったのです。
融海法師の生涯最大の功績は、浄土真宗の歴史において200年もの長きにわたる本願寺との確執の末、真宗興正派が独立するという、宗派の命運を分ける歴史的な大事業において、中心的な役割を果たしたことです。彼の尽力なくして、興正派の独立はありえなかったでしょう。明治期には本山執事という最高幹部の任につき、宗派の実務を統括しました。さらに、政府の太政官から小教正という称号を与えられ、天皇に拝謁を許されるほどの栄誉を得ました。これは、当時の廃仏毀釈の嵐が吹き荒れる仏教界全体においても、彼の存在がいかに突出していたかを物語ります。
そして、彼は当時の政界の要人、三条実美公とも深い親交を結び、その交流は今日まで語り継がれています。旧五摂家の一つ、鷹司家から寺紋を下賜されたという勝覚寺の由緒は、まさにこの赤沢融海法師の功績と、本山との揺るぎない絆によって裏打ちされているのです。勝覚寺が「普通の寺院とは格が違う」と言われる所以は、単なる建物の壮麗さではなく、その背後にある深い歴史と、阿波赤沢家の血を引く赤沢融海法師という人物の重みゆえなのです。昭和の時代には、テレビドラマ『裸の大将』の撮影地にもなりました。
◆京都 西本願寺の南側にある真宗興正派 興正寺。勝覚寺の赤沢融海法師が西本願寺からの真宗興正派の独立に多大な貢献をした功績から後に最高幹部である執事の地位についた。

◆東かがわ市にある海暁閣 勝覚寺

◆勝覚寺の荘厳な佇まいは、テレビドラマの裸の大将のロケ地にも選ばれた。

◆寺紋は鷹司家から下賜された。

第三章:陸を拓き、道を繋いだ高松藩東端の要
江戸時代、森家は高松藩において、普請(ふしん)、すなわち土木工事に携わる重要な役目を担っていました。彼らはただの職人ではありませんでした。高松と大内郡間の道中や、地域住民の生活を支える橋や道路を建設し、人々の暮らしを豊かにする地域のインフラ整備に尽力したのです。それは、まさに藩の発展の礎を築く、地味ながらも極めて重要な仕事でした。
彼らの手掛けた仕事は、生活道路にとどまりません。信仰の象徴である金刀比羅宮の石段造営にもその技術と情熱を捧げたといいます。石段を一段一段積み上げる彼らの手には、地域の発展と民の安寧への貢献という、静かなる誇りが宿っていたに違いありません。
そして、東かがわ市に今も残る「柏谷(かしわだに)」という地名。それは、森家が柏の木が生い茂る未開の山を切り開き、新たな土地を開拓した功績に由来すると伝えられています。地名として刻まれたその足跡は、森家が地域社会にいかに深く根ざし、その発展に貢献してきたかを雄弁に物語ります。
戦前までは甲冑や刀、槍を所有していましたが、戦中の金属回収令で国に供出しました。大東亜戦争の影が日本全体を覆う中、個人の所有物までもが戦争に徴収されるという、当時の切迫した状況がうかがえます。戦後になり、刀のツバが3個、額に飾られ、その歴史を語り継いでいました。
◆柏谷: 森家が開拓した柏谷。一帯の山林と土地を所有していた。



第四章:幾重にも絡み合う縁:時代を彩る血と絆
私の家系図は、まるで絢爛たる織物のように、幾重にも重なる婚姻の糸で結ばれ、驚くべき人物たちとの繋がりを織りなしてきました。私のルーツを辿る旅は、しばしば予期せぬ邂逅を私にもたらします。
私の高祖父、森喜平は、高松藩の普請方として働いていました。彼の伴侶となったのは、徳島藩で碁浦番所役人と庄屋を兼任していた八田家の当主、八田孫平の長女、キヨでした。八田家は200年以上にわたり、徳島藩の要職を担う「禄持ち」の家柄。この八田家は天正13年(1585年)、阿波と讃岐の境を決める際に重要な役割を担いました。そして、260年間、徳島藩の海防を担った阿波水軍 森家とも地理的に近く(同じ鳴門の碁浦と土佐泊)古くから繋がりを持っていました。
この森喜平と八田キヨの藩を越えた婚姻は、単なる縁結びではありません。それぞれの家が持つ歴史的背景と職務上の連携が、血縁という形で結実したのです。この碁浦番所には、江戸時代の知の巨匠たちが足跡を残しています。日本地図を完成させた伊能忠敬、私財を投じて坂出の塩田を開発した久米通賢、そして北海道の名付け親として知られる探検家松浦武四郎。彼らが訪れた碁浦番所を八田家が管理していたことを思うと、先祖たちの生きた時代が、いかに日本の近代化の胎動と重なっていたかを実感します。
私の曽祖父、森虎太郎は、東かがわ市黒羽にその名を残す黒羽城主、永塩因幡守氏継(ながしお いなばのかみ うじつぐ)の末裔にあたる旧家、永峰家の長女チヨと結ばれました。永塩因幡守氏継は1467年に黒羽神社を創建し、その後、応仁の乱で細川方として安富元綱らと共に壮絶な討ち死にを遂げた武将です。京都を主戦場とした応仁の乱は、全国の戦国大名が誕生するきっかけとなった大乱であり、その中で武士として散っていった先祖の姿が浮かび上がります。武士の家系の森家が帰農した永峰家と結婚した縁は、再び武士の血が私の家系に流れ込んだ瞬間でした。
そして、最も私を驚かせたのは、高祖父 森喜平の長女、森トヨと、東かがわ市黒羽の旧家である三谷宗家の三谷磯八の結婚です。この三谷家こそ、戦国大名として一世を風靡した十河氏(そごうし)の血筋を引く名門だったのです。神櫛王を祖とし、十河氏と共に讃岐東部を支配した有力な家系。そして、この三谷宗家の分家(屋号:甚六)の末裔に、日本文学史にその名を刻む作家、瀬戸内寂聴(三谷晴美)さんがいらっしゃるのです。
寂聴さんの先祖は江戸時代から代々、ここ黒羽で製糖業を営んでいました。私の大伯母(祖父の姉)にあたる森トメノは、引田の積善坊で執り行われる瀬戸内家の法事に度々手伝いに行き、寂聴さんのことを本名で「晴美さん」と呼んでいました。
さらに、戦後の日本を歌で鼓舞し続けた「ブギの女王」笠置シヅ子さんも、香川県東かがわ市黒羽で製糖業を営む三谷家の出身でした。祖父を三谷栄五郎と言い、引田郵便局に勤めていた父 三谷陳平と谷口鳴尾の間に笠置さんは生まれました。「東京ブギウギ」など数々のヒット曲を世に送り出し、朝ドラ『ブギウギ』のモデルにもなった彼女が、この瀬戸内の地と深い縁を持っていたことに驚きを禁じ得ません。止むに止まれぬ事情があり、生後間もなく大阪の亀井家(出身は東かがわ市引田)の養子となりましたが、そのルーツは確かにこの黒羽(くれは)にあるのです。今も、地元の三谷家は、分家の孫黒茂さんが伝統の讃岐和三盆の製造・販売を代々続けており、地域に深く根付いています。
私の大伯母(祖父の姉)にあたる森トメノは、明治生まれの女性でした。1925年(大正14年)から、国際都市・神戸の象徴ともいえる旧・神戸オリエンタルホテルで働き始めます。当時としては稀有な英語を操り、激動の大正・昭和期をホテルの最前線で駆け抜けました。アインシュタイン、ヘレンケラー、マリリン・モンロー、川島芳子、そして昭和天皇――。世界中の名だたる著名人が宿泊するホテルで、彼女は、その時代の息吹を肌で感じていたのです。当時の神戸新聞には、彼女のホテル勤務に関するインタビュー記事が残り、2.26事件発生時や戦中、戦後のホテルでの勤務について語っており、その足跡を今に伝えています。トメノは武士だった高祖父 森喜平の厳しいしつけを受け、そして碁浦番所出身で阿波浄瑠璃の三味線が上手かった高祖母 八田キヨから風流な心を育まれた大伯母の人生は、まさに激動そのものでした。
◆碁浦番所 八田家文書と阿波水軍森家の歴史 木瓜の香り

◆高祖母の実家 碁浦番所

◆東かがわ市黒羽と鳴門市北灘町碁浦

◆碁浦と阿波水軍森家の居城があった土佐泊(後に阿南市の椿泊に移った)

◆永塩因幡守氏継が創建した黒羽神社

◆永峰家の家系図
永塩因幡守氏継 → 長塩備前守又四郎元親 → 永嶺宅本妙空



◆曽祖母 永峰チヨの先祖 永峰杢左衛門の家系

◆三谷家の家系図


◆瀬戸内寂聴さんの家系図

◆東かがわ市引田にある積善坊。瀬戸内寂聴さんの両親のお墓がある。


◆東かがわ市引田にある萬生寺。積善坊の隣り。笠置シヅ子さんの養父母と弟のお墓がある。笠置さんが寄進した雨どいと寄進塔が残る。



第五章:戦火を越え、苦難を乗り越え、繋がれた命のバトン
しかし、私の家族の物語は、明るい歴史だけではありません。幾度となく、激動の時代に翻弄され、深い悲しみを乗り越えてきました。
私の祖父は、日中戦争の最中、1937年(昭和12年)10月20日、香川県の善通寺陸軍病院丸亀分院にて、27歳という若さで戦没しました。盧溝橋事件に端を発したこの戦争は、日本を泥沼の戦いへと引きずり込み、多くの若者の命を奪いました。その時、祖母のお腹には、私の父が宿っていました。私の父は、自分の父の顔を知らずして育ち、そして、子供の頃に母も失いました。10代で、香川の片田舎から、たった一人で神戸へと渡り、西洋料理人の道を志します。皿洗いから始まり、日々、鉄拳が飛び交う厳しい修行に耐え抜きました。その手は荒れ、体は疲弊しましたが、彼の心には決して折れない決意が宿っていました。戦中、戦後の日本国中が大変な時期に両親を亡くし、筆舌には尽くし難い辛酸を舐めて育ってきた父は、鉄拳制裁ぐらいでは動じない強固な精神力を宿していたのです。やがて、父は旧・神戸オリエンタルホテルで腕を振るい、その料理は石原裕次郎をはじめ、財界の多くの人々を魅了しました。そして、父の料理は、昭和天皇や皇后両陛下、皇太子殿下(現 上皇)を含む皇族方の口に供されるという、料理人としての最高峰とも言える大役を果たしたのです。晩餐後、十六菊花紋入りの煙草が下賜されました。
また、作家の安部譲二さんの父、日本郵船から来た安部正夫氏がオリエンタルホテルの社長を務めていた時代に、父は13年間皆勤という偉業で表彰されています。その証である表彰状が今も残ります。この頃、日航のパーサーをしながら安藤組組員だった安部譲二さんにも、父はホテルで何度も遭遇していたそうです。2018年、私が安部譲二さんに父の件でメールを送ると、彼は確かにご両親の住んでいた神戸市垂水区のジェームス山の家や、旧神戸オリエンタルホテルに何度も足を運んでいたとの温かい返信をくださいました。
旧神戸オリエンタルホテルは1870年(明治3年)に開業した日本最古級の西洋式ホテルで、谷崎潤一郎の『細雪』にもお見合いの場所として登場します。このホテルは、歴代の料理長が日本の西洋料理史に名を残す名シェフ揃いで、父は第12代総料理長 伊藤孝二氏のもとで腕を磨きました。
私の母の人生もまた、壮絶なものだったのです。戦前、香川県で瓦工場を経営していた実父の仕事の関係で、日本の領土だった現在の北朝鮮の端川(タンセン)市へ渡りました。しかし、日本の敗戦後、彼女は現地に残留を余儀なくされます。ソ連軍の進駐、厳しい食料不足、伝染病、そして異国での差別と暴力というリスクがつきまとう地獄のような日々の中、彼女は命からがら陸路を何日も歩き、船を乗り継いで、ようやく深夜、九州の門司港近くの浜辺に辿り着きました。門司港ではなく普通の浜辺から上陸したそうです。船は浜辺近くまでは行けない為、甲板から木製の細長い板を浜辺近くまで渡し、バランスをとりながら浜辺近くまで歩いていったそうです。辺りは真っ暗な中、細い木の板を渡るのは相当な恐怖だったようです。北朝鮮からの引き揚げの話を聞くたびに、母の持つ途方もない生命力にただただ頭が下がります。
門司港駅から高松駅に帰る際、門司港駅でスリにあい汽車賃を盗まれてしまいました。しかし、戦後の混乱期にも関わらず、危篤な方がお金を貸してくれて高松駅まで帰ることができました。1946年の春ごろに実家にたどり着きました。その際、実家にいた父の兄の奥さんが作ってくれた豆ご飯がこの上なく美味しかったようで、今でも春になると”えんどう豆の豆ご飯”を食べるのは、あの時のことを思い出しているのかもしれません。

◆旧・神戸オリエンタルホテル。屋上の灯台は当時の社長 安部正夫さんが設置した。

◆日本郵船から来た安部正夫さんがオリエンタルホテルの社長だったときに父は13年皆勤の表彰状を頂いている。

◆昭和天皇。晩餐後、十六菊花紋入りの煙草が下賜された。

◆昭和天皇の歌碑

◆神戸メリケンパークオリエンタルホテルの屋上に移動された歌碑と灯台

◆日航のパーサー時代の安部譲二さん。この写真許可は、私が安部さんに父の件を報告した際に直接頂いた。

◆左: 進軍ラッパを持つ祖父。祖父は長男である私の父が生まれてくる前に顔を見ることなく戦没した。

エピローグ:繋がれし生命のバトン
現在、私はアメリカ、シンガポール、中国(上海、北京、深圳)での長きにわたる海外生活を経て、日本でビジネス英語講師、全国通訳案内士(英語・中国語)、そして海外ビジネスコンサルタントとして活動しています。トリリンガル讃岐PRオフィサーとして、この地域の魅力を発信することにも力を入れています。
私のルーツを辿る旅は、単なる過去の確認ではありませんでした。それは、戦国の荒波を乗り越え、江戸の礎を築き、明治の変革を担い、昭和の激動を生き抜いた、名もなき、しかし確かに生きていた先祖たちの息吹を感じる旅です。彼らの苦難と栄光、そして何よりも途方もない生命の強さが、私という存在に繋がっていることを、深く、深く実感しています。
この物語は、個人の歴史が、いかに壮大な日本の歴史と絡み合い、そして現代の私たちにまで受け継がれているかを教えてくれます。私自身の人生もまた、この壮大な系譜の一部なのだと、深く認識するに至りました。この物語が、幾多の困難を乗り越えてきた家族の証として、そして、未来を生きる私たちへのメッセージとして、多くの人々に語り継がれていくことを心から願います。
著者プロフィール
森啓成 (モリヨシナリ)
ビジネス英語講師、全国通訳案内士 (英語・中国語)、海外ビジネスコンサルタント
神戸市生まれ、香川県育ち。米国大学経営学部マーケティング専攻。
大手エレクトロニクス企業にて海外営業職に20年間従事(北京オフィス所長)。その後、香港、中国にて外資系商社設立に参画し、副社長を経て顧問に就任。
アメリカ、シンガポール、中国、ベルギーなど、海外滞在歴は計16年以上。
現在はBizconsul Office代表として、ビジネス英語講師、全国通訳案内士(英語・中国語)、海外ビジネスコンサルタントとして活動中。
観光庁インバウンド研修認定講師、四国遍路通訳ガイド協会会員、トリリンガル讃岐PRオフィサーも務める。
【保有資格】
英語: 全国通訳案内士、英検1級、TOEIC L&R: 965点 (L満点)、TESOL (英語教授法)、国連英検A級、ビジネス英検A級
中国語: 全国通訳案内士、香川せとうち地域通訳案内士、HSK6級
ツーリズム: 総合旅行業務取扱管理者、国内旅行業務取扱管理者、国内旅程管理主任者、せとうち島旅ガイド、観光庁インバウンド研修認定講師
【メディア・研修実績】 香川県広報誌「THEかがわ」インタビュー記事掲載、瀬戸内海放送(KSB)及び岡山放送(OHK)ニュース番組コメント。 観光庁インバウンド研修認定講師として地方自治体や宿泊施設で登壇。 四国運輸局事業コンサルタント、瀬戸内国際芸術祭オフィシャルツアー公式ガイド、香川せとうち地域通訳案内士インバウンド研修講師認定試験面接官を務める。
・香川県登録通訳案内士サイト
・座右の銘は「雨垂れ石を穿つ」

