不思議な話し。 愛媛県西予市の戒名と位牌を持つ鯨の話し。 鯨様とは?
◼️愛媛県西予市明浜町に鯨を祀る鯨塚がある。
なぜ鯨を祀るのか?
◼️碆ノ手(はやのて)の鯨塚
江戸時代、天保の大飢饉の際、この地の村人は餓死寸前となった。
もうだめかと腹をくくった。
そんな中、ある日、沖から鯨が近づいてきた。
鯨は、なぜか海岸にやって来て、浜辺に打ち上げられた。
鯨は身を持って村人を餓死から救った (寄鯨)。
そのときの鯨を手厚く葬った墓が鯨塚。
当時の宇和島藩主 #伊達宗紀 は鯨にいたく感謝し、多くの民衆の命を救ったその鯨の葬式をあげ、大名と同じ位の戒名を鯨に与えた。
戒名:
「鱗王院殿法界全果大居士(りんおういんでんほっかいぜんかだいこじ)」
西予市明浜町の金剛寺に鯨様の位牌と過去帳が残る。
◼️伊達宗紀(むねただ)はその後、長生きし、100歳近くまで生きた。
伊達宗紀の年齢は、実際は100歳以上ではなかったのかとも言われているが、幕府の届け(官年)では寛政4年(1792年)生まれと出されているため、この出生年が有力である。
もっとも、幕府の届けに関しては「嗣子になった際2歳年長にして届けている」という話もあり、実際にこの届出に基づいて年齢を計算していた時期もあった。
そのため、亡くなった明治22年(1889年)には実際には98歳であるが「100歳になった」ので、それを祝って明治天皇と皇后から下賜品を賜っている。
若いころは酒豪で鳴らしたものの、晩年には酒量を控えるようになった。また、現代のボケ防止にも通じる朝晩の散歩や長続きしやすい趣味(書道など)を長年の日課とした。老いによる難聴になった以外は体の不調もなく、自分よりはるかに年下の者が苦労するほどの急な階段も楽に上り下りできたと言われている。
側近の者が「侯の長寿の秘訣は何でございますか」と問うたところ「それは女色を慎むことにある」と答えたため、重ねて「侯におかせられましては何歳から女色を慎まれましたか」と質問するとおおらかに「70歳じゃ」(75歳、80歳とする場合も)と言った、という逸話が、特に宇和島では有名である。
◼️捨身鯨 捨身兎
手塚治虫の「ブッダ」の一場面
◼️犬に噛まれた少年を捨て身で助けたネコ
◼️人の命を救った動物達
◼️愛媛県西予市明浜町の鯨様
江戸時代、天保の大飢餓の頃、この地の高山湾に打ち上げられ、多くの人々を餓死から救った大鯨がいた。
藩主も民衆も鯨に謝意の意を表し手厚く供養した鯨塚。
墓標には時の宇和島藩主により「鱗王院殿法界全果大居士(りんおういんでんほっかいぜんかだいこじ)」と大名級の立派な戒名が送られており、地元では現在でも「鯨様」と呼ばれ、慕われ崇められている。
◼️鯨塚
https://www.city.seiyo.ehime.jp/miryoku/seiyoshibunkazai/bunkazai/shi/sminzoku_yukei/4651.html
高山湾の入口の碆ノ手の近くに、小さな祠が海に向かって建っている。この中に「鱗王院殿法界全果大居士」と殿様級の戒名のついた立派な鯨の墓がある。地元では「鯨様」と呼んで親しみ崇めている。
金剛寺の過去帳に「天保8年(1837)6月21日大鯨がとれ、金剛寺に葬式をし、鱗王院殿法界全果大居士の戒名をつけた。喪主は都屋吉右衛門で、家に位牌を安置した」とある。これは藩主伊達春山公の御沙汰によるもので、龍華山等覚寺の丈獄和尚がこの法号をつけたといわれる。神戸市の鯨塚研究家である進藤直作氏は、「これ程手厚く供養せられている鯨は、全国の何処にも見当たらない」とその著書『鯨の文化史』に特筆されている。
平成24年、落石により祠が倒壊するも石碑に損傷はなかった。現在は近くの磯に移転されている。石碑の土台部分には鯨骨の破片が複数入れてあった。
◼️西予市明浜町地域(旧・明浜町)には3つの鯨塚があるが、最もよく知られているのは、高山地区の鯨塚である。
市明浜総合支所のある高山集落と大早津海岸の間の海に面した国道の道端にある。ここは古くは丸石綱代と呼ばれた。
いわれは、1837年(天保8年)の6月21日(旧暦、7月23日)、大きな鯨がこの海岸に打ち上げられた。
この年は天保の(大)飢饉と呼ばれる大飢饉に見舞われ、苦しんでいたが、この鯨のおかげで、村民はどうにか餓死せずに済んだ。
これに感謝して、村人たちは鯨様と奉った。
鱗王院殿法界全果大居士の戒名がおくられ、手厚くまつられた。
墓碑の銘を揮毫したのは宇和島藩藩主・伊達宗紀公である。
院殿大居士の戒名は当時の殿様級であり、全国的にも大変珍しいとされる。
町指定有形民俗文化財。