【タブー】唯一無二の存在 浜田省吾さん! “終わりなき疾走”、”MONEY” に登場する楽器店、メインストリート、映画館の場所は? “19のままさ”の予備校と図書館の場所は? “Daddy’s Town”のパルプの匂いはどこから?

◼️浜田省吾さんの楽曲を聞き始めて、もう40年以上になる。

初めて浜田省吾さんの歌を聞いたのは、小学生の時、CMソングだった「風を感じて」だった。ラーメンをフォークで食べている外国人の姿を強烈に覚えている。

40年以上前に貸しテープ屋で、浜田省吾さんの「生まれたところを遠く離れて」と言う1st アルバムを借りてカセットテープにダビングして擦り切れるほど聞いた。

今よりもワイルドでハングリーな感じの歌い方が印象的だった。大学、アメリカ留学、海外赴任時代ともう40年以上も聞いていると当然ながら歌とともに当時の思い出が蘇る。浜田省吾さんの歌は人生の一部のような存在だ。

◼️浜田 省吾(はまだ しょうご)

1952年〈昭和27年〉12月29日 –

日本のシンガーソングライター

広島県竹原市生まれ。

(生家: 広島県竹原市港町2丁目7番2号)

1961年、9歳の時、広島県江田島市江田島町鷲部へ転居。

浜田省吾さんが当時、通っていた小学校は、現在は江田島図書館になっている。

◼️初恋 

海辺の田舎町 10歳の頃
ラジオから流れてきた“The Beatles”
一瞬で恋に落ちた
教室でも家にいても 大声で歌ってた
“I wanna hold your hand”
“Please please me”“Can’t buy me love”

同じ頃、広島市内で矢沢 永吉 (1949年9月14日 – )さんもビートルズに衝撃を受けていた。

呉市立二河中学を卒業

広島県立呉三津田高校卒業

◼️終わりなき疾走: 歌詞 15の時、通りのウィンドウに飾ってあったギターを見た時、稲妻が俺の身体駆け抜け、全ての夢が走り出した (楽器店: 有限会社公声堂)

広島県呉市中通4丁目11-9 

◼️終わりなき疾走

◼️MONEY: 歌詞 この町のメインストリートわずか数百メートル(れんがどおり:中央地区商店街)、さびれた映画館(呉シネマ:現ポポロシアター)

呉市中央地区商店街

◼️MONEY

この町のメインストリート 僅か数百メートル
さびれた映画館と バーが5、6軒
ハイスクール出た奴等は 次の朝
バックをかかえて出てゆく
兄貴は消えちまった 親父のかわりに
油にまみれて 俺を育てた
奴は自分の夢 俺に背負わせて
心ごまかしているのさ
Money Money makes him crazy
Money Money changes everything
いつか奴等の 足元に BIG MONEY
叩きつけてやる

◼️浜田省吾さんの同級生の両親がやっていた喫茶店サントス

・食べログ

https://s.tabelog.com/hiroshima/A3404/A340401/34009700/

大学受験するも上手くいかず。大竹市へ引越し。

◼️Daddy’ Town: 歌詞 溶けたタール、パルプの匂いの (大竹市の工業地帯)

◼️マイホームタウン: 歌詞 丘の上幾つもの同じような小さな家〜工業地帯の向こう沈んでいく(大竹市の工業地帯)

予備校時代

◼️19のままさ: 歌詞 予備校の湿っぽい廊下で、あの娘を見つけた (広島市中区の英数学館: 現 並木学院)

広島市中区

◼️19のままさ

◼️19のままさ: 歌詞 放課後の図書館のロビーで思い切って声をかけた(広島市中区図書館)

神奈川大学法学部中退。

神奈川大学時代は大学近くのアパートに暮らしていた。奥さんのカヨコさんと出会ったのが菊名駅。

1975年、愛奴のメンバー(ドラムス・パーカッション)としてプロデビューし、1976年にシングル「路地裏の少年」とアルバム『生まれたところを遠く離れて』でソロデビュー。

◼️人物像

自分自身のアイドルとして名前を挙げているのは、ビートルズ、ボブ・ディラン、モハメド・アリ、ジャクソン・ブラウンの4組。ジャクソン・ブラウン以降は、そこまで熱中した存在はいないという。

特にジャクソン・ブラウンには強く傾倒しており、自身が設立した個人事務所の「Road&Sky」、1980年代に活動を共にしたバックバンドの「THE FUSE」は、それぞれ彼の曲名からの引用であり、さらには飼っていた犬にまで「ジャクソン」と名付けるほどだった。

1997年に発売されたブラウンのベスト盤には、ライナーノーツを寄稿している。ブラウン本人とも交友があり、彼からプレゼントされたナショナル・ギターを宝物として大切にしている。

トレードマークはサングラス。人前ではまったく外さないことでも知られる。

サングラスをかけだした由縁は、自身の好きなボブ・ディランやスティーヴィー・ワンダー、ジョン・レノンらがかけていたのを真似したため。

また、ドラムは目立たないため何とかして自分を売り込もうとした苦肉の策でもあったらしい。

1980年1月8日放送の『セイ!ヤング』では、20歳の頃、吉田拓郎のバックバンドで帯同した際に、6歳上の拓郎と比べてえらくこっちが子供っぽく、何とか折り合いをつけるために、俺はサングラスをかける、お前はヒゲを伸ばせと、甘く見られてはいけないとサングラスをかけはじめたのがきっかけと話している。

他に「素顔を覚えられるのが嫌だから」ともインタビューで答えている。

時々、サングラスをかけたまま顔を洗ってしまうこともあるという。

関西で行われたライブでは、節電もほぼなく非常に明るいと感銘を受けたらしい。東日本大震災で節電となった東京は非常に世の中が暗いと発言した。しかし、その話の落ちは部屋の中でもサングラスをしていたためというもの。

1987年、写真週刊誌FRIDAYにサングラスをはずし妻と歩く姿が盗撮され、掲載された。

その後、自らの盗撮に絡めビートたけしのフライデー襲撃事件について、「法的なこと云々を言うのはたやすいけど、正直言って「よくやった」「たいしたもんだ(笑)」、「ある人にとってはプライバシーは命をかけて守るものかもしれない。撃ち殺されて仕方ないんだぞというくらいにね。でも、この事件もそう認識されることがなくて気の毒でしたよね。なんの借りも貸しもないだろう、あんたたちにはっていう気持はありましたからね。」と語った。

公式な写真や映像では、サングラスを外して素顔を確認できるものは一切ない。

サングラスを外していても向こう側を向いていたり、顔に影が当たっていたり、目を閉じていたりするため、素顔を覗くことはできない。

『浜田省吾事典』には子供の頃の素顔は掲載されている。

テレビやラジオにはほとんど出演しないが、音楽誌には先のロッキング・オン関係本を中心に露出は少なくない。

特に1980年代には音楽誌の読書アンケートでも佐野元春、甲斐バンドと並んで圧倒的な支持を受けていた。

ところが、事前に用意されたとも思わせるウィットの利く言葉で埋める佐野や甲斐よしひろに比べると、インタビューはあまり面白いとは言い難く、浜田を特集した号は大きな反響がなかったという。

スポーツ万能で、小4から剣道二段の父について剣道を習い、剣道初段。

中学時代は陸上部、高校時代は野球部に所属していた。

若い頃はツアー中も地方のバッティングセンターで球を打ち込み、バンドやスタッフと草野球を行った。

そのため、2000年には草野球専門誌「草野球の友」創刊号で20000字の巻頭インタビューを受けている。

また、旅をするのも好きで、よく一人で海外に出掛けている。

テレビゲームやパチンコ、麻雀などは全くやらない。

ただしそれらが嫌いというわけではなく、「ずっと同じところに座ってひとつの作業をする」ということが苦手なため。

もともとは喫煙者だったが、現在は禁煙している。

酒も20代〜30代の頃はほぼ毎日飲んでいたが、現在は特別な席以外では飲まないようにしている。

プライベートなことはほとんど話さないため、あまり知られていないが、1978年に結婚している。

ファースト・アルバム『生まれたところを遠く離れて』の裏ジャケットで腕を組んで歩いている女性が現在の夫人である(当時は恋人)。

また、「I am a father」「花火」「五月の絵画」といった父親が主人公の楽曲を作っているが、子供はいない。

◼️髪型は時とともに大きく変化している。

デビューから80年代初頭までは長髪。

1983年〜90年代初頭は基本的に短髪だった。

1993年から1994年にかけて再び後ろで髪を結ぶほどの長髪にしている。

90年代後半は襟足が肩にかかる程度の長さの黒髪。

2001年から2005年は少し茶色の交じる短髪。

2006年頃より若干長髪となり、2011年ごろまではやや白髪が交じる黒色である。

2010年代以降は白髪に近いグレー色となっている。


1996年、ヒゲを伸ばしたことがあるが、不評だった。

メディアに全く出ず、コンサートで初めて本人が動く姿を見たという人に対して、「俺だって生きてるんだから動くさ!」と笑いながら返したエピソードがある。

「東京ラブストーリー」放映当時はツアーの連続で存在自体を知らず、『ラブストーリーは突然に』や『SAY YES』は曲のみで売れていると勘違いしている程だったが、「愛という名のもとに」の主題歌(悲しみは雪のように)を担当した際、同時に「東京ラブストーリー」のVHSも貰い、トレンディドラマの普遍的な切なさに好感を持ったという。

しかしその一方で、トレンディドラマの脚本はリアリティが欠けていることから2,3本見たら失望してしまうとも語っている。

1980年前後に同姓で同学年でもある濱田金吾の所属レコード会社から「浜田といえば金吾です」という挑発的な宣伝コピーを付けられたことがある。

職業は「ソングライター」と評している。

海外でのIMMIGRATIONでの職業欄で、作曲家・作詞家・ミュージシャン・歌手と候補はあるが、「作詞家・作曲家となると、自分よりも優れた人が多くいるので名乗るのは気が引ける」「ミュージシャンと言えるほど楽器はうまくないし、また歌手と言えるほど歌がうまいとは思っていない」と、どれも自信がないとした上で、ソングライターならば胸をはって言えるという理由からである。

2015年12月、第66回NHK紅白歌合戦出演の可能性が報じられたが、直後に事務所がオフィシャルウェブサイトで「そういった事実は一切ない」と否定した。

自分と同じくサングラスをしている人(スティービー・ワンダー等)のことを、「オレと同じ眼鏡かけてる人」と言い、笑いを誘う。

生まれた家は現在も竹原市内に存在する。家の玄関先には訪問者用ノートが置かれており、全国から訪れていることを示している。(生家: 広島県竹原市港町2丁目7番2号)

アルバム「J.BOY」発売後にニッポン放送のラジオ番組へゲスト出演した際、「この前サングラスをかけずにタクシーに乗ったら、運転手に『お客さん、ハマショーに似てますね』と言われ、『よく言われるんです』と返したんです。」というエピソードを披露した。

◼️初期のシングル

1st 路地裏の少年/壁にむかって(1976年4月21日)

2nd 愛のかけひき/キャンパスの冬 (1976年10月21日)

3rd ラブ・トレイン/君に会うまでは (1977年4月21日)

4th 木枯しの季節/独りぼっちのハイウェイ (1977年11月21日)

◼️1stシングルB面 壁にむかって (1976年)

https://m.youtube.com/watch?v=2mYabHNYgTQ&pp=ygUS5aOB44Gr5ZCR44GL44Gj44Gm

◼️【ON THE ROAD 2022 Live at BUDOKAN 開催決定!】「壁にむかって」Music Video

◼️4thシングル 木枯らしの季節 (1977年)

◼️木枯しの季節/浜田省吾 ≪歌詞≫ (1977年)

◼️1.終りなき疾走 2.反抗期 3.明日なき世代 歌詞  “ON THE ROAD”(1982)

このライブのLOを持っていた😃 名曲ばかり!

◼️コンサートのMC。尾崎豊は浜田省吾さんのMCを真似してる気がする。

◼️音声なし。長渕剛のラジオ、スーパーギャングに浜田省吾さんがゲスト出演。トーク対談

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です