◼️戦後29年目の1974年にフィリピンのルパング島から帰還した小野田寛郎さんはゲリラ戦術や破壊工作の訓練を目的に設置された陸軍中野学校二俣分校卒のエリート。
英語も中国語も話せた。
小野田さんの2人の兄は東大卒
ちなみに、陸軍中野学校はスパイ技術養成機関から太平洋戦争を機にゲリラ戦術教育機関となった。
🔸戦争が続いていると信じ29年潜伏を続けた「最後の日本兵」小野田寛郎さん 戦いを終えメディアの前に(1974年)
◼️小野田 寛郎(おのだ ひろお)さん
1922年〈大正11年〉3月19日 – 2014年〈平成26年〉1月16日)
日本の陸軍軍人、実業家。
最終階級は予備陸軍少尉。
旧制海南中学校・久留米第一陸軍予備士官学校・陸軍中野学校二俣分校卒。
長兄・敏郎は東京帝国大学医学部・陸軍軍医学校卒の軍医将校(終戦時最終階級陸軍軍医中佐)
次兄・格郎は東京帝国大学、陸軍経理学校卒の経理将校(最終階級陸軍主計大尉)
弟・滋郎は陸軍士官学校に入校し航空部隊関係の兵科将校(最終階級陸軍少尉)
🔸陸軍中野学校とは?
大日本帝国陸軍の情報機関の一つで、諜報や防諜、宣伝など秘密戦に関する教育や訓練を目的とした軍学校である。
かつての所在地は東京都中野区中野4丁目付近で、校名の中野は地名に由来する。偽装用の通称号は東部第33部隊。
卒業生には、桃井かおりさんの父 桃井真 氏や政治家 木村武千代氏などがいる。
木村武千代さんは、香川県さぬき市津田の出身で、東大卒業、外務省勤務、陸軍中野学校卒業後、政治家となった。香川県東かがわ市水主出身の政治家 三土 忠造さんの秘書もしていた。
🔸陸軍中野学校二俣分校(りくぐんなかのがっこうふたまたぶんこう)とは?
ゲリラ戦要員の短期育成を目的とした大日本帝国陸軍の教育機関。
帝国陸軍の解散とともに廃止された。
所在地は、現在の静岡県浜松市天竜区二俣町二俣。
現在跡地には浜松市社会福祉協議会天竜地区センターと浜松市天竜区役所南館が建てられており、すぐ傍に「陸軍中野学校二俣分校校趾碑」がある。
設立当時、生徒は服に軍曹の階級章を付け腰には軍刀を吊っていたため、同校の地元では(普通の)幹部候補生学校ができた、というくらいに思っていた。
諜報や防諜、宣伝など秘密戦に関する教育から、ゲリラ戦術の教育に変化していった中野学校とは異なり、当初からゲリラ戦術、破壊工作の訓練を目的に設置された。
ここでは日本軍に共通認識されていた戦陣訓の「生きて虜囚の辱めを受けず」という通常の教えとは正反対の「たとえ国賊の汚名を着ても どんな生き恥をさらしてでも生き延びよ」「できる限り生きて任務を遂行するのが中野魂である」という教えだった。
卒業生に小野田寛郎や谷本喜久男、末次一郎等がいる。
◼️大和朝廷が日本を統一していく過程で大和朝廷にまつろわぬ者たち、敵対する者達は当然、悪者とされた。
現地では普通に暮らす人々だが、大和朝廷の支配に従わない者たちは次々と戦いの渦に飲み込まれていった。
大和朝廷にまつろわぬ者たちは、土蜘蛛、鬼などと呼ばれた。
日本各地には悪者とされた罪のない者たちの伝承が多く残る。
東北の蝦夷(エミシ)、毛人
南九州の熊襲(くまそ)、隼人(ハヤト)
奈良県 葛城一言主神社参道の蜘蛛塚 (境内にも蜘蛛塚がある。蜘蛛とは出雲族のこと。この地で物部勢力と戦った出雲族の大彦=長髄彦は葛城を去り、北陸を経て長野に移り住み布施氏となった。奈良県の葛城や桜井市など各地に出雲族は住んでいたが、そのことは語られない)
岩手県 蝦夷の族長 アテルイ
岡山県の温羅(鬼退治伝承)→桃太郎
島根県 出雲王家の口伝
和歌山県海南市 名草戸畔(ナグサトベ)」の口伝
◼️名草 戸畔(なぐさとべ )とは?
伝 紀元前663年6月
日本書紀や和歌山市の伝承に登場する、神武東征と戦った人物である。
伝承によると女性。
🔸名草戸畔は日本書紀での名で、地元では名草姫(なぐさひめ)とも。
一説に、名草戸畔とは特定の人物の名ではなく、「名草の長」という地位を表す言葉であるという。
また、姥(トメ)を由来とする説、アイヌ語で乳を意味する「トペ」が女性の族長を示す言葉となり、そこからトベに訛ったと考える説もあったとされる。
🔸名草邑(のちの名草郡あたり、現在の和歌山市名草山周辺)の統治者だった。
しかし、神武東征で進軍中だったイワレヒコ(のちの神武天皇)との戦いで戦死した。
名草戸畔の死後は、代わって紀氏が紀伊を治めた。
紀氏は、自らの系図で名草戸畔を遠縁に位置づけることで、正当性を主張した。
🔸日本書紀
日本書紀では、「巻第三 神武天皇即位前紀 戊午年六月」冒頭の
「六月乙未朔丁巳 軍至名草邑 則誅名草戸畔者〈戸畔 此云妬鼙〉 (鼙は鼓の下に卑)
(旧暦6月1日、軍が名草邑に着き、そこで名草戸畔という名の者〈戸畔はトベと読む〉を誅殺した。)」
が、名草戸畔や名草邑に関する唯一の記述である。
紀元前660年とされる神武天皇即位の3年前のことで、神武の兄五瀬命の死の後、狭野を越え熊野神邑から再度海路を征く前の話である。
🔸伝承
地元の伝承は次のように伝える。
熊野古道を現海南市に少し入ったそばのクモ池周辺が戦場になった。
名草戸畔はここで殺され、頭、胴、足(脚の意か)が切り離された。
名草の住民により、頭は宇賀部(うかべ)神社(別名おこべさん)、胴は杉尾神社(別名おはらさん)、足は千種神社(別名あしがみさん)に埋葬された。
和歌山市のいくつかの神社は名草姫命(名草戸畔)と名草彦命を祀っており、その本社は吉原の中言神社である。
名草姫命と名草彦命の関係は姉弟である。
◼️小野田寛郎さんのご実家は和歌山県海南市の宇賀部神社の宮司家 (小野田城の城主)
小野田寛郎 氏の家に伝わる伝承の概要は、
「神武軍は名草戸畔に追い払われた為、熊野をまわって奈良に移動」
「名草戸畔は戦死、最終的には王権側が勝利し名草は降伏した形」
◼️小野田口伝とは?
小野田家では、「神武軍は名草戸畔に追い払われたため、仕方なく熊野をまわって奈良に移動した」「しかし名草戸畔は戦死、最終的には王権側が勝利し、名草は降伏する形となった」という物語が伝わってきた。
戦前まで、名草地方ではよく知られた伝承だったが、文字に書かれない「口伝」のため、今では知る人は残り少なくなっている。
2014年1月16日に91歳で亡くなられた小野田寛郎さんは、江戸末期の生まれの祖父・儀平氏と、明治生まれの父・種次郎氏から聞いた「生きた口伝」を語ることのできる最後の伝承保持者だった。
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◼️なかひらまいさんの「名草戸畔」
郷土史家・小薮繁喜氏と海南市の宇賀部神社 宮司家出身の小野田寛郎 氏から採集した伝承
郷土史家の小野田家はナグサトベの末裔であるという伝承が内々で伝えられてきたと言う。
郷土史家の小薮繁喜氏の母は南方家の出身であるようだ。
南方熊楠の容貌を見ていると出雲ドラビィタ系縄文人であるような感じがする。出雲族の血を引く海部氏の流れではないだろうか。
南方熊楠の先祖は出雲の大国主の息子のタケミナカタと言う説も見られる。
出雲の大国主の息子であるタケミナカタ → タケ南方
長髄彦はニギハヤヒ(徐福)の娘と結婚し、その子孫は藤白神社の宮司。南方熊楠の名は藤白神社の宮司が名付けた。
◼️名草戸畔(なぐさとべ)~名草地方にいた女王のお話~
https://wakayama.mypl.net/mp/ichioshi_wakayama/?sid=37590
「日本書紀」に、九州から攻めてきた神武軍に「殺された」と一言だけ記されている。
しかし、和歌山市出身の郷土史家・小薮繁喜氏が70年もの間保存していた、名草小学校の演劇の台本や、ナグサトベの頭を祀る「宇賀部神社(うかべじんじゃ)」宮司家出身・故小野田寛郎氏の家に内々に語り継がれてきた「口伝」によると、「名草戸畔は負けていない」「神武軍は名草軍に撃退されて仕方なく熊野に行った。しかし最終的に神武が勝利し天皇に即位した。そのため名草は降伏する形になったが、神武軍を追い払った名草は負けていない」「名草戸畔は殺されたのではなく戦死した」という一般で語られているのとは違う物語が存在する。
◼️【解説動画】ナグサトベ伝承の内容とは?
Part1、2、3、最終回
◼️宇賀部神社の宮司家 小野田家の先祖は名草戸畔ではないのではないか??
◼️出雲王家 登美家の口伝書で伝わる神武東征の内容とは?
「出雲王国とヤマト政権」によると、ニギハヤヒ(徐福)から5、6代目にヒコナギサタケ王、その王子のイツセがいた。
古事記、日本書紀では、イツセが神武東征のリーダーとなっている。
記紀では、イツセが途中で戦死したため、弟のイワレビコ(神武天皇)が後を継いで東征を成し遂げ、神武天皇として即位したというストーリーになっている。
しかし、出雲口伝では、実際には、神武天皇は架空の人物で、神武東征のモデルとなった物部東征は2回行われた。
記紀で書かれた神武東征のストーリーは全てがフィクションではなく、部分的に正しかったり、史実をベースに話を変えてある。
🔸第1次物部東征のリーダーはイツセ。
ヤマトの大王が大軍を連れて出雲と戦争を始めたため、ヤマトは手薄となった。
物部王国にとって敵であるはずの出雲とヤマトが同族争いをしている為、漁夫の利が期待できる。
「倭国大乱」最中の165年ごろ、イツセはヤマトへの遷都を計画した。
有明海を出発したのだが、記紀の神武東征では瀬戸内海を進んだことになっている。吉備王国の勢力内を通過することは得策ではなく、四国の南を進んだ。
そして、紀伊国上陸の日を迎えた。
紀ノ川をさかのぼる予定だったが、すさまじい数のヤマト軍が現れた。
ヤマト軍のリーダーは大彦。記紀では長髄彦(ながすねひこ)と書かれ、朝敵扱いだが、大彦は大王の子、つまり王子だ。
大彦は人望もあり、次の大王候補だった。大彦が皇軍で、物部軍が朝敵ということになるはずだが、大彦の磯城王朝が物部王朝に政権交代するので、勝者が正義、敗者が悪と描かれた。
イツセは大彦軍を回避して、紀ノ川での上陸を断念し、紀ノ川河口のすぐ南にある名草山に登った。
そこで、名草村の戸畔(とべ)である女村長が戦いをしかけ、毒矢を射たところ、イツセに命中し、イツセは亡くなった。
この部分の日本書紀の記述は下記の通り。
六月の乙未の朔丁巳に、軍、名草邑に至る。すなわち名草戸畔という者を誅す。
日本書紀では、史実とは反対のことが書かれている。
名草戸畔は出雲王の子孫を婿に迎え、出雲王家と親戚にあたる。
出雲族は母系社会であり、女性が指導者となっていた。
物部は中国から渡来して来た為、男系社会。
名草戸畔は、日本書紀ではごく簡単に触れられているだけだが、名草山付近では小野田寛郎さんの家に代々、伝わる日本書紀とは違う内容の伝承が残る。
🔸イツセの死後
イツセの死後、弟のウマシマジがリーダーとなる(イワレビコではない)。
神武東征のストーリーの通り、紀ノ川を離れ、熊野へ海路、向かった。
記紀では、八咫烏(やたがらす)が道案内してヤマトへ入ることになっている。
ウマシマジ軍が上陸した熊野には、熊野本宮大社、熊野速玉神社が建てられた。
熊野本宮大社では素戔嗚尊(すさのおのみこと)を主祭神にまつり、熊野速玉神社では速玉大神をまつっているが、この両神はともに徐福のこと。
「徐福」は、出雲では「火明」(ホアカリ)と呼ばれ、後に筑紫では、「饒速日」(ニギハヤヒ)を名乗り、記紀ではアマテラスの弟、「スサノオ」となっている。日本の歴史では中国から来た徐福の名前は意図的に消されている。出雲口伝では徐福は2度、日本に来ている。
🔸徐福 = ホアカリ = ニギハヤヒ = スサノオ
熊野付近(新宮市)には徐福公園がある。
徐福本人は熊野へ来ていないが、子孫である物部が熊野へ上陸し、ヤマトへ向かわず残った人たちが熊野に定着した。
徐福の子孫が上陸した史実を徐福の上陸に変えている。
紀ノ川で物部軍を撃退した大彦(長髄彦のこと)だが、物部の軍団を見て、次に戦ったらかなわないと感じたものの、本家の出雲はヒボコや吉備に攻められて援軍を出す余裕がなく、伊賀(三重県伊賀市)に新しい王国をつくろうと考え、ヤマトを去った。
大彦という有力者がいなくなったヤマトでは、ヤマトを統一できる人物が見あたらない。
出雲王家の分家に太田タネヒコがいた。記紀にはオオタタネコと書かれ、三輪山を祀る大神神社の初代神主とされている。
太田タネヒコは、大彦が去った後にヤマトを統一できるのは熊野の物部勢以外にないと考え、物部をヤマトへ導いて、自分が大王になろうと考えた。
記紀に書かれた八咫烏とは、太田タネヒコのこと。
物部勢は、太田タネヒコの申し出を受け入れ、山の中をヤマトへ向けて進んだ。
ヤマトに入った物部勢は、三輪山の南西の鳥見山(とみやま)に登った。
そこは、三輪山の太陽神の遙拝地だった。
出雲族は太陽を信仰しており、出雲族の聖地だった。
現在は、鳥見山の登り口に等彌神社(とみじんじゃ)がある。
1736年に境内から、八咫烏の土偶が発掘され、神宝とされている。
この後、物部は、ヤマトで、民衆の支持を得られず、宗教戦争が起こった後に、倭迹迹日百襲姫(1人目の卑弥呼)と太田タネヒコが纒向にて政治を行うことになる。
◼️出雲王家の口伝に伝わるヤマト政権の歴代王朝 (出雲王国とヤマト政権)
1)海部王朝|初代天皇(アメノムラクモ)、二代 沼川耳
2)磯城王朝|3代〜9代。出雲族の太陽信仰。(物部第一次東征、鳥見山、太田タネヒコ、三輪山、倭迹迹日百襲姫 = 1人目の卑弥呼、纒向) → オオヒビ(第9代開化天皇)のとき、太田タネヒコは倭迹迹日百襲姫の人気を利用して、物部勢をヤマトから追放した。
3)物部王朝|10代 崇神天皇〜14代 二韓征服。(第二次物部東征、宇佐神宮の豊玉姫 = 2人目の卑弥呼)
4)応神王朝|15代 応神天皇 住吉大社創建。
5)仁徳王朝|16代 仁徳天皇〜25代 和の六王と巨大古墳。
6)蘇我王朝|26代 継体天皇(オホド王) 〜 現在の天皇家に続くと言われる出雲系の蘇我王朝。
◼️魏志倭人伝に書かれた卑弥呼(中国からみた蔑称)は倭迹迹日百襲姫豊玉姫の2人のことを指す。
中国側の歴史書には、倭の国では、男の王が70~80年続いて(海王朝)、後漢王朝の桓帝と霊帝の147年~188年に日本が戦乱の世となった(倭国大乱、磯城王朝)が、その後、卑弥呼が女王となって平和が来た。そして、卑弥呼の弟が卑弥呼の世話をしたと書かれてあるが、ここでいう卑弥呼は倭迹迹日百襲姫、弟とは太田タネヒコを指す。
●出雲: 太田タネヒコ = 八咫烏
●出雲: 倭迹迹日百襲(モモソ姫) = 1人目の卑弥呼
●宇佐家: 豊玉姫 = 2人目の卑弥呼。中国へ使いを送った人物。
◼️プロフィール