【タブー】日本史上最恐の「日本三大怨霊」菅原道真、平将門、崇徳天皇と香川県との関係は?

◼️日本三大怨霊(にほんさんだいおんりょう)とは?

日本に数多伝わる怨霊の中でも特定の三人を指す呼称。

日本三大怨霊とは一般に菅原道真・平将門・崇徳天皇(崇徳院)を指す言葉!

歴史学者山田雄司は、菅原道真・平将門・崇徳天皇が三大怨霊とみなされるようになった背景には、江戸時代における読本や歌舞伎などが大きく影響を与えているとしている。

これらの菅原道真(すがわらのみちざね)・平将門(たいらのまさかど)・崇徳上皇(すとくじょうこう)は、香川県と縁があることはあまり知られていない。

 ・菅原道真: 国司として讃岐に赴任。香川県の滝宮天満宮境内に居住した。

・平将門の乱に乗じて蜂起した藤原純友により讃岐国府は陥落された。


・崇徳天皇は高松市の白峯で崩御。白峯陵に眠る。

🔹崇徳院の白峯陵と讃岐国府跡と滝宮天満宮を結ぶ南北の謎のエネルギーライン。

画像

◼️【菅原道真】平安時代の886年、41歳で讃岐(現・香川県)に赴任し、4年間国司を務めた。

仁和2年(886年)讃岐守(讃岐国司)を拝任、式部少輔兼文章博士を辞し、任国へ下向することとなった。

道真はこの任が「左遷である」と言われていることが残念であると述べており、度々悲しみの意を表している。

送別の宴で、道真は摂政藤原基経から詩をともに唱和するよう求められたが、落涙・嗚咽して一言しか発せなかったという。

●菅原道真が住んでいた滝宮天満宮と崇徳院が亡くなった白峯陵。

●讃岐国府跡と滝宮天満宮。讃岐国府は平将門の乱に乗じて反乱を起こした藤原純友により陥落された。

🔸道真が怨霊と見る向きが決定的となったのは、延喜23年に醍醐天皇の皇子保明親王が薨去し、これを受けて道真の復権が行われた頃だと見られている。

さらに延長3年に保明親王の皇子慶頼王、承平3年には時平の長男保忠が没しており、これも道真の怨霊説を補強する形となった。

清涼殿落雷事件によって道真の怨霊は雷と結び付けられ、朝廷は火雷神が祀られていた京都北野寺の寺内社北野神社に道真を祀った。

太宰府には先に醍醐天皇の勅命によって藤原仲平が建立した安楽寺の廟を安楽寺天満宮に改修して道真の祟りを鎮めようとした。

また時平の弟藤原忠平の子藤原師輔は北野神社を支援し、天徳3年(959年)に祭文を捧げ、社殿を造営している。

師輔は兄であり、時平の娘を妻としていた藤原実頼の家と競っており、道真の怨霊の強調は実頼の系統を圧迫する目的があったのではないかという説がある。

正暦4年(994年)には疫病が流行し、これは道真の祟りとして正二位・左大臣が贈られている。

一方で寛和2年(982年)には慶滋保胤が道真を学問の神として祀る祭文を挙げており、寛弘9年(1012年)には大江匡衡の祭文によって学問の神的側面が強調されている。

また冤罪を晴らす神としての信仰もあり、『栄華物語』には太宰府に配流された藤原伊周が雪冤を願って太宰府天神を参詣する姿が描かれている。

以降、北野信仰は中・下層階級から摂関家に至るまで広まった。

『北野天神縁起絵巻』に描かれた、清涼殿落雷事件

◼️【平将門】939年、役人でありながら海賊の棟梁となった藤原純友(ふじわらのすみとも)が平将門の乱に乗じて蜂起し、讃岐の国府を陥落させた。

関東で平将門が乱を起こした頃とほぼ時を同じくして瀬戸内の海賊を率いて乱を起こし、藤原純友の勢力は畿内に進出、天慶2年(939年)には純友は部下・藤原文元に摂津国須岐駅において備前国・播磨国の介(備前介・藤原子高、播磨介・島田惟幹)を襲撃させ、これを捕らえた。

翌天慶3年(940年)には、2月に淡路国・8月には伊予国と讃岐国の国府を襲撃し、略奪を行った。

瀬戸内海を転戦し、天慶4年(941年)5月上旬には大宰府を陥落させた。

三大怨霊のうち、平将門だけは実際に讃岐には来ていないが、平将門の乱に乗じて蜂起した藤原純友が讃岐を陥落させた。

◼️承平天慶の乱(じょうへいてんぎょうのらん)

平安時代中期のほぼ同時期に起きた、関東での平将門の乱と瀬戸内海での藤原純友の乱(ふじわらのすみとものらん)の総称。

一般に承平・天慶の両元号の期間に発生した事からこのように呼称されている。

ただの反乱ではなく日本の律令国家衰退と武士のおこりを象徴したものであった。

「東の将門、西の純友」という言葉も生まれた。

鎮圧には平将門の乱の方に平貞盛が率いる平氏の、藤原純友の乱の方に源経基が率いる源氏の力を借りたので日本の世に源平二氏が進出するきっかけにもなった。

🔸将門塚: 築土神社や神田神社同様に、古くから江戸の地における霊地として、尊崇と畏怖とが入り混じった崇敬を受け続けてきた。この地に対して不敬な行為に及べば祟りがあるという伝承が出来た。

1923年(大正12年)の関東大震災後に都市再開発(復興計画)として大蔵省の仮庁舎を建てようとした際、工事関係者や省職員、さらには時の大蔵大臣(第1次若槻内閣)・早速整爾の相次ぐ不審死が起こったことで、将門の祟りが省内で噂されることとなり、省内の動揺を抑えるため仮庁舎を取り壊して鎮魂碑を立てた。

1928年(昭和3年)3月には大蔵省が主催して鎮魂祭を行っている。

しかし、早速が大蔵大臣に就任、それから程なくして亡くなったのは仮庁舎建設の3年後の1926年(大正15年)であり、仮庁舎建設には関わっていない。

また、工事部長だった矢橋賢吉が死亡したのは建設から4年後の1927年(昭和2年)である。

さらに、大蔵省庁舎が落雷による火災で焼失したのは、17年後の1940年(昭和15年)の事であり、この日都内では20ヶ所で落雷していて、航空局に落雷して発生した火災が延焼したものであった。

また、第二次世界大戦後に戦災復興都市計画として、GHQが丸の内・大手町周辺の区画整理にとって障害となるこの地を撤去・造成しようとした時、不審な事故が相次いだため、計画を取り止めた。

アメリカ軍のブルドーザーが作業中に横転し、運転手が投げ出されて死亡。

それまでも事故があり日本人の労務者に怪我人が出ていたので付近を調査したところ、転覆したブルドーザーの前に半分埋まっている墓のようなものが見つかり大騒ぎとなった。

当時町内会長であった遠藤政蔵により、将門の首塚の碑であることが判明し、GHQ当局に陳情を重ねた結果、塚の取り壊しが中止された。

それらの結果、大手町周辺が高層ビル街へと発展する過程においても、首塚は取り壊しや移転を免れて残ることとなり、現在でも毎日、香華の絶えない程の崇敬ぶりを示しており、近隣の企業が参加した「史蹟将門塚保存会」が設立され、維持管理を行っている。

平将門の怨霊

◼️【崇徳天皇】1156年の保元の乱で敗れた後、讃岐に流刑となる。「讃岐院」とも号し、地元役人の娘との間に子供をもうけ、京に戻ることなくそのまま讃岐で亡くなった。

香川県坂出市の白峯陵に眠る。

◼️プロフィール

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です