【昭和ロック史】日本のロックシーンを塗り替えた伝説のバンド 「キャロル」! 日本のロックバンドのライブ映像テレビ初放送! 現在のメンバーの姿は? 矢沢永吉さん、ジョニー大倉さん、内海利勝さん、ユウ岡崎さん!

◼️CAROL(キャロル)とは?

1970年代に活動した日本のロックバンド。

1972年に結成し同年デビュー、1975年解散。

◼️アマチュア期

1972年4月、矢沢永吉が川崎駅近くのイトウ楽器店に自ら書いた貼り紙で募集をかけ、同年6月結成される。

貼り紙の文句は、「ビートルズとロックンロール好きなヤツ、求ム!」だった。

当時はフォークがメジャーシーンに浮上しはじめ、ディスコはバタバタ倒れて、ロックンロールを演奏できる場所がなくなっていった時期だった。

ジョニー大倉が矢沢に電話して京急川崎駅で待ち合わせたが、矢沢は当時吉田拓郎みたいな肩まで伸びた長い髪で、ジョニーのリーゼントを笑ったという。

近くの喫茶店で2~3時間話をしたが、その頃から矢沢は「ビッグになるために俺は広島から出て来た」と言っていたという。

もともと、ビートルズのコピーバンドとしてスタートし、ハンブルク時代のビートルズのロッカーズスタイルを真似することで注目を集める。

また、オリジナル曲にもその影響が多く見られる。矢沢=大倉の二人で多くの作詞作曲を担当(主に矢沢永吉作曲、ジョニー大倉作詞)した。

当初、バンドのコンセプトをつくっていたのはジョニー大倉。

クリスマス・キャロルにインスピレーションを受けたという「キャロル」というバンド名に始まり、革ジャンにリーゼントというスタイル導入も彼の発案によるもの。

当時、まともな革ジャンを売っているのはバイクショップぐらいしかなかったという。

ビートルズの本の中にあったハンブルク時代の写真を見てジョニーが「これしかない!」と思いついたものだが、当時リーゼントでエレキギターを持ったら笑われたという。

矢沢は、バンド結成当初はマッシュルームカットだった。

矢沢は著書『成りあがり』の中で、革ジャン・リーゼント・ロックンロールというアイデアは、キャロル前の矢沢のバンド「ヤマト」の頃からの構想だったと書いている。

ジョニーはキャロル結成時にも精神病院に入院して一時連絡が付かず、半年後に現れた時には顔中切り傷があるような状態で、デビューから2年半、解散に至るまでのキャロルの動きは、大部分、矢沢によって決定されていく。

矢沢はキャロル結成時には既に100曲以上のオリジナル曲を持っており、矢沢の性格、矢沢の生き方がキャロルの方向を決めていった。

ファンやマスコミに触れるキャロルは、大半、矢沢に代表されていた。

キャロル結成後の同年8月、横浜伊勢佐木町のディスコ・ピーナツで初演奏。

ピーナツでは店のレギュラー・バンド、いわゆる”ハコバン”として採用された。

もっぱら初期のビートルズナンバーやロックロール・スタンダード、またお客からのリクエストにも応える。

他に京浜地区のゴーゴーホールやナイトクラブ等でライブ活動を行う。

メンバーの送り迎え、セッティング、店のマネージャーとの交渉など、バンドマネジメントは全て矢沢が行う。

深夜から明け方まで、”荒くれの兵隊”や、”夜の商売の女”、”酔っ払い相手”に演奏するヘヴィな下積み時代をおくり鍛え上げられる。

東京蒲田の名門キャバレー・ウラシマに出演する頃には、キャロルのトレードマークともなる「革ジャン・リーゼント・ロックンロール」の三大要素も確立しつつあった。

◼️プロデビュー

フジテレビの人気番組『リブ・ヤング!』「ロキシー・ファッション 出演者募集」と言う企画に、ジョニーがハガキを送ったが断られた。

これに頭にきた矢沢が『リブ・ヤング!』の担当者に電話を掛け、「俺たち、とっくの昔からロキシー・ファッションだけど?」などとハッタリをかました後、しつこくデモテープを送り続け番組出演が決まった。

当時、吉田拓郎を始め、フォーク歌手の多くはテレビを拒否し、ラジオ出演やコンサートを通じてファンを増やす道を選んだが、矢沢は無名のキャロルを世に知らしめるには、テレビ出演が最も有効と考えた。

1972年10月8日、日本のロックシーンを塗り替える歴史的事件が起きた。

『リブ・ヤング!』「ロキシー・ファッション 出演者募集」というダンス大会に出演。

番組に集まったフィフティーズファッションの男女がツイストを踊り、その演奏を務めたのが革ジャン4人組のキャロルで、「ジョニー・B.グッド」や「グッド・オールド・ロックンロール」といった名曲を抜群のノリで演った。

生放送で司会の愛川欽也が、「この中からリーゼントの一番キマってるナウいやつを1人選ぶ」と宣言し、内田裕也も出演していたが、完全にキャロルが番組を圧倒した。

番組の最後に愛川がツイストを踊るたくさんのロックンローラーの中から選んだ1人を連れて来るのかと思ったら、センターに連れて来たのは矢沢で、矢沢の存在感は凄く、愛川が「キミが一番キマってた、名前は?」「矢沢です」「矢沢クンね」といったやりとりがあった。

内田から先に直接オファーを受けたが、たまたま家で番組を見ていたミッキー・カーチスの目に留まり、番組プロデューサーの石田弘にミッキーから電話があり、「レコーディングしたいから、彼らを(先約がかかる前に)押さえておいて欲しい」と伝えられ、リーダーの矢沢がミッキーと電話で話し、内田のレーベルか、ミッキーのレーベルかでメンバーは迷ったが、結局、バンドは内田に丁寧に侘びをいれ、ミッキーを選ぶ。

キャバレーで演奏していたようなバンドが一気にメジャーに駆け上がる伝説の始まりだった。

●キャロル / ライブ・イン”リブ・ヤング”

●キャロル 1973年 2度目のリブヤング

『リブ・ヤング!』出演3日後の10月11日、日本フォノグラムと専属契約を結ぶ。

しかし、金銭的にバンド側に著しく不利な契約を長期で結んでしまい、後にバンドはミッキーとも袂を分かつ。

デビュー曲「ルイジアンナ」のレコーディング直前、ドラムスを担当していた今井が「体が弱いからプロになるのはイヤだ」と言って脱退し、ミッキーの紹介1972年11月、ユウ岡崎が正式メンバーとなった。

1972年12月20日、「ルイジアンナ」でデビュー。

結成から3、4ヶ月でのプロデビューであった。

同曲のドーナツ盤レコードには、東京・文京公会堂の無料コンサートチケットが同梱されていた。

同コンサートには和田アキ子が友情出演している。

ミッキーのアイデアで「ルイジアンナ」でデビュー以降、異例の毎月一枚のシングルをリリース。

1972年12月から1973年6月までの7枚のシングルが毎月売り出された。

「ルイジアンナ」が20万枚、「ヘイ・タクシー」が10万枚、「ファンキー・モンキー・ベイビー」は30万枚を売り上げた。

その他のレコードも平均10万枚を売り上げ、コンサートはどこも満員だった。

2枚目のシングル「ヘイ・タクシー / 恋の救急車」のレコーディング終了直後、ドラムのユウ岡崎がトラブルを起こして逮捕され、またミッキーの紹介で相原誠(後にダウン・タウン・ブギウギ・バンドに参加)がドラマーとして加入。

3枚目のシングル「やりきれない気持ち / ホープ」のレコーディング終了後、ユウ岡崎が仮釈放されたため、スタッフと矢沢は相原をクビにしてユウ岡崎をメンバーに戻した。

『ぎんざNOW!』(TBS)の総合プロデューサー・青柳脩がキャロルの不良っぽさの虜になり、1973年初頭から翌1974年にかけて、『ぎんざNOW!』木曜日に16回以上出演。

有名な解散ライブは『ぎんざNOW!』の特別編として後にテレビ放送された。

1973年2月28日、内田裕也プロデュースの「第1回ロックンロール・カーニバル」(渋谷公会堂)に出演。『リブ・ヤング!』の熱演で、週刊誌も大きく取り上げ、篠山紀信、山本寛斎、龍村仁ら、業界人や若いクリエーター、地方のイベンターたちも会場に集まった。

彼らはキャロルのロックバンドという以上の新時代のヒーローたる存在感にいち早く着目、篠山は『リブ・ヤング!』出演時からキャロルをマークし、キャロルを被写体としてフォト・セッションを続け、その作品はディスクジャケットや宣伝用写真として用いられた他、『週刊プレイボーイ』が毎週グラビアに掲載。キャロルのビジュアル・イメージ作りに一役買った。

当時キャロルのメンバーはライブの前に大量に酒を飲みステージに上がった。

「第1回ロックンロール・カーニバル」では、初の大舞台ということもあって、高ぶった感情を抑えようとメンバー全員で楽屋で大酒を煽り、極度のトランス状態に陥り、ジョニーが失神した。

これによってキャロルは失神するほどの強烈なステージをするという噂が飛び交い、キャロル人気に拍車をかけた。

マスメディアのインタビューでは、矢沢が挑発的に喋りまくり、あとの三人は難しい顔をして黙るという戦略をとった。

1973年6月25日にリリースした7枚目のシングル「ファンキー・モンキー・ベイビー」は、当時のロックバンドとしては異例の30万枚を売り上げ、今なお多くのアーティストにカバーされている代表曲となった。

同年、NHKのディレクターだった龍村仁がドキュメンタリー『キャロル』を制作したが、放映の是非を巡ってNHK上層部と揉め、大きな社会問題になった。

この事件は、キャロルがひとつのロックンロールバンドを超えて、社会現象として1つの色に塗り替えた。

この頃からキャロルのコンサートは軒並みソールドアウトとなり、パニック状態となる。

キャロルのスタイルに呼応して暴走族がコンサート会場に集まって集会を行い、演奏中に観客が暴れるなどの事件が起きたため、キャロルに会場を貸さない地方自治体も現れ、メンバーも苛立ちを募らせた。

ジョニーは著書で「ドラッグを始めたのは、キャロルがデビューしてすぐのころ」と書いており、当時ドラッグに依存する生活ぶりで破綻をきたしていたこともあり、人気絶頂時のツアー中、京都公演出発の朝に失踪、1973年11月23日~1974年2月中旬まで行方不明となった。

発見されたのは川崎の精神病院だった。そのこともあり、矢沢のバンド内での影響力がさらに増す。

暫くは3人での活動を進め、ジョニーを待ち、探したが出て来なかったので新メンバー・サミーを加えて活動した(その後ジョニーが復帰)。

1974年3月21~4月5日、山本寛斎のファッションショーでのステージと龍村仁の映画撮影のため、渡欧しパリでライブを行う。

1974年8月ワンステップフェスティバル出演、15日の大トリを務めた。

◼️解散・その後

メンバー間で軋轢が生じ、1975年4月13日、日比谷野外音楽堂で解散。

3千人収容の会場に7千人がつめかけた。

解散ライブでは、特殊効果用の爆竹200発が雨で暴発し、火がセットに燃え移り、“CAROL”と書かれた電飾が焼けて崩れ落ちるというハプニングがあった。

それを演出と思った観客も多かった。このあまりにも象徴的なハプニングが伝説をいっそうかきたて、現在もなお歴史的名シーンとなった。

この解散ライブは「ロックのメッカ」としての、その後多くの「野音伝説」を生むきっかけとなった。

解散ライブのテレビ放映は、同年7月12日にTBSテレビ『特番ぎんざNOW!』という番組で1時間枠が組まれ「グッバイ・キャロル」というタイトルで放送された。

日本のロックバンドのライブ映像がテレビ放送されたのは、これが最初ともいわれる。

2003年に発売されたDVDは、旧作としては異例の7万枚の売り上げ。

解散後、矢沢永吉はソロ活動に転じ、日本を代表するロック・ミュージシャンに成長。

娘さんと

ジョニー大倉はソロ活動の傍ら、俳優としても活躍していたが、2014年11月19日、肺炎により死去。62歳没。

ジョニー大倉の次男と長男

内海利勝はイギリスのレゲエバンドThe Cimaronsとのコラボレーションで作品を発表したほか、原田芳雄のサポートやソロ活動を展開。2012年には矢沢のライブに出演し、37年ぶりの競演を実現させた。

ユウ岡崎は『C’s Graffiti Japanese Rock’n Roll Band』で活動している。

◼️キャロルの曲作りリハーサル風景

◼️キャロル・ファンキーモンキーベイビー試作版

◼️涙のテディーボーイ TV完全版

◼️【ラストコンサート】壮絶!絶叫!炸裂! 燃えつきる-キャロル・ラスト・ライヴ‼︎ 1975 4.13.雨の日比谷野外音楽堂 16チャンネル録音でとらえた完全ドキュメント‼︎

◼️ザ・プリーズ

ジョニー大倉、内海利勝、高橋ジョージ

◼️内海利勝【Part of 1/3】/ex.キャロル/出会った頃の矢沢永吉/ジョニー大倉とゴールデン街/ファンキー・モンキー・ベイビー誕生秘話

◼️内海利勝 & ユウ岡崎

ex CAROL w/H Goto & S. Amari 〜 Anytime Woman – Funky Monkey Baby 〜

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