【タブー】伝説のロックバンド BOØWYの解散理由は公表されているのか? 懐かしの映像で軌跡を振り返る!

◼️BOØWY(ボウイ)とは?

日本のロックバンド。


1980年代に活躍。


1981年、群馬県高崎市出身の氷室京介、布袋寅泰、松井恒松を中心に東京で結成される。


初ライブ後に高橋まことが加入し、1982年3月に『MORAL』でレコードデビュー。

当初は6人編成だったが同年秋に2人が脱退し、以降は解散まで4人編成で活動する。

活動期間1981年 – 1988年

◼️メンバー


氷室京介:ボーカル(リーダー)


布袋寅泰:ギター


松井恒松(現:常松):ベース


高橋まこと:ドラムス

◼️概要
8エイトビートを基調としポップでありながらもシャープでエッジの効いた縦ノリのロックサウンドや、ジャン=ポール・ゴルチエをステージ衣装に使用したり、逆立てたヘアースタイルなどの斬新なビジュアル等が多くの支持を集め、5thアルバム『BEAT EMOTION』と6thアルバム『PSYCHOPATH』は当時のロックバンドのアルバムとしては異例のミリオンセラーを記録した。


シングルでも1987年に『MARIONETTE』が初登場1位を記録し、名実ともにトップバンドへとのし上がった。


しかし人気絶頂の最中の1987年12月24日に解散を宣言。


この突然の出来事は世間に大きな衝撃を与えた。


翌年1988年4月4日、5日に完成直後の東京ドームで行った『LAST GIGS』にてバンド活動に終止符を打つ。


9万枚以上用意されていたこのライブのチケットは僅か10分で完売、予約の電話が殺到した結果、文京区の電話回線がパンクするという事態も起こり、これら一連の流れからBOØWYボウイの人気は社会現象にまで発展した。


翌月にリリースされた『“LAST GIGS”』は、ライブ・アルバムとしては異例とも言える150万枚のセールスを記録している。


また、フォトグラファー加藤正憲によって撮影された『“GIGS” JUST A HERO TOUR 1986』のジャケット写真は、BOØWYボウイを象徴する一枚として有名である。


バンド名に含まれている∅(空集合)には、「どこにも属さない、誰にも似ていない」という意味を持たせている。


その音楽性やバンドスタイル、メディアをほとんど利用しない強気な姿勢、斬新なビジュアル、絶頂期での解散、後に起こるバンドブームの火付け役となり全国に数多くのロックキッズを生むなど、BOØWYボウイが及ぼした影響は絶大である。


解散後も、ベスト・アルバムや未発表音源がリリースされると常にチャートの上位にランクインしており、今日でもなお日本のロックシーンに変革をもたらした伝説のバンドとしてその地位を確固たるものとしている。

◼️解散の理由


バンド側からの正式な解散理由は、解散から35年を経た2023年現在も発表されていない。


各メンバーが様々な状況が折り重なった結果だといったニュアンスの発言をしている。


要因のひとつとして布袋は「自身が海外での活動を強く希望した」としている。


ブレイクする以前からバンド内で「トップに立ったら解散する」と決めていたことも挙げられる。


東芝EMI移籍後の1985年末頃に布袋が「今はバンドの勢いが出てきたから、あと1、2年はこのまま(バンドを継続して)いくと思うけど、その後個人で独り立ちできるようにしていったほうがいいんじゃないかな」という話をしたことを高橋が著書や「1224 THE ORIGINAL」発売時のイベントで発言している。


◼️布袋は1986年10月のインタビューで「最終形のものを描く時が来ると思うんですよ。売れる売れない関係なく。レコード作ったりツアーやって『これで俺らはやることやった』って思う時が来ると思う。そしたらそこでおしまいだと思う。ある意味じゃ解散に向けて頑張ってるんだと思う」と語っている。

ブレイクしたことによりファン層が変わりアイドルのように扱われ始めたこと、あからさまにBOØWYボウイを真似たようなバンドが数多く出てきたことなど、これらの状況に違和感を覚えたとも語られている。

『PSYCHOPATH』のジャケットで布袋が髭を蓄えているのは「アイドルにはなりたくない」という当時の心境からであり、このアルバムのツアー『BOØWY ROCK’N’ROLL REVIEW DR.FEELMAN’S PSYCHOPATHIC HEARTS CLUB BAND TOUR』前半では彼本来のステージアクションがなく「まったく動く気になれなかった」「最初は髭を生やしたままステージに出ようかとも思った」と述べている。

◼️布袋によれば「100万枚とか売れる風になると当たり前にロック好きじゃない子も入ってくる。それがミュージシャンとしてすごく居心地が悪くなってきた。誰も自分のギターなんか聴いてないんじゃないか、ただキャーキャー言ってるだけじゃないかと感じるようになった」「後期になっていくと、上手くいけば上手くいくほどだんだん味気なくなり、メンバー全員がバンドや自分自身に対して違和感を抱くようになった」といった状況が重なり、次第にギクシャクしていったという。また「(バンドに対する)一番大きな傷(=解散するという事)は自分達で付けるべきだと思った」「自分たちで作ったバンドだから、人に壊されるよりは自分たちで壊した方が筋だという思いもあった」とコメントしている。

◼️高橋はこういった状況について「ファンとの温度差みたいなものが出てきていた。こっちは新しい曲を作って演奏しているのに「IMAGE DOWN」や「NO. NEW YORK」を演らないと納得しないようなノリがあったり、布袋がギターソロを弾いているのに氷室ばかり見ているお客さん、氷室が一生懸命歌っているのにまったく違った受け止め方をするお客さんなんかもいたりして、自分たちの音楽が本当に理解されているんだろうかっていうジレンマが生まれてきた」と語っている。

「氷室と布袋の不仲が原因」とされる見方があるが、両者ともに不仲の真偽はともかく解散の原因とは違うと否定している。

◼️氷室は解散後のインタビューにて「雑誌ではライバルという書かれ方をしていたけど、俺は布袋の事を1度もライバルと思った事はない。それがソロとバンドの違いだと思う。バンドの中でメンバーをライバルだと思っていたら、バンドの良さって絶対出ないと思う。俺は布袋を最高のギタリストだと思っていた」と語っている。

◼️布袋も自身のラジオ番組『ミュージックスクエア』内で「僕はヒムロックのこと好きだし、自分が嫌いな人の横でギターを弾けるわけがない。第一BOØWYボウイは僕とヒムロックだけのバンドじゃない。まっちゃんやまこっちゃんのビートがあってのバンドだった訳だから。そんな理由じゃ解散できない」としている。


◼️解散後、氷室は「楽しくて始めたはずのバンドが、ロックビジネスというシステムの中に組み込まれて、少しずつ自分達の考えと違う方向に、勢いがついて転がっていってしまった。あと妙な義務感みたいなものがすごく大きくなって、苦しくなってきた。だから全盛と言われる中で解散したのは決して後悔すべきことじゃなくて正解だったと思うし、それだけ自分たちが音楽を正直にやっていく上でBOØWYボウイ解散はなくてはならないことだったと思う」

「BOØWYボウイの4人で出来る事を全て実現してやりきったというのが結論。なのでもう辞めるしかない。辞めないで、そのまま3年4年と続けるのは厳しい」と語っている。

◼️布袋も解散後のインタビューで「音とか売り上げとかじゃなく、意識が完成したから解散したんだと思う」と語っている。

また著書『秘密』では「決してひとつの理由などではない。もしいま4人が集まり解散の理由を話したとしたら、きっと全員見事にバラバラなのではないかと思う。

BOØWYボウイはBOØWYボウイのもの。4人のもの。「俺にはこんな理由がある」などと4分の1の存在が軽々しく語ってはならないと思う。俺には俺の”絶対に解散せねばならない理由”があったが、それは墓まで持っていく」としている。

◼️松井は「本当にすべてが上手くいっていたら解散なんてしない」とした上で、「確かに口火を切ったのは布袋だけど、それ以前にも解散の危機は何度もあった」「友達としていつも一緒にいたいけど、でもそれと音楽は別にしなきゃっていう分かれ道だったのかもしれない」と語っている。

一方で「満たされてはいなかったけど、もう選択肢が他になかった」「もしまた、あの4人で同じステージに立てたとしたら、それはすごくエキサイティングだろうなと思う」というコメントも残している。

◼️高橋は著書内で、以下の内容を記している。


布袋の妻であった山下久美子のツアーに布袋と松井が参加することとなり、高橋に対しても山下のプロデューサーから「まこっちゃんにドラムを叩いてほしいと布袋が言っている」というオファーがあった。

「(BOØWYの)4人中3人が参加となれば、氷室を除け者にしているようでまずい」と感じた高橋は氷室にこの件を伝えた。すると氷室は「それじゃ来月解散しよう」と言い出し、その直後に単身ロンドンへと旅立ったという。しかし高橋は、この件はあくまで山下のプロデューサーから来た話であり、布袋本人からは一切聞いておらず、確証がない状況だったにもかかわらず氷室に軽々しく話してしまったことを後悔している旨も記している。

また同書にて、解散の理由については「BOØWYボウイというメンバー以外の人間も数多く関わっているプロジェクトともなれば、誰が良くて誰が悪いという単純なことは言えない」としており、各メンバー間においても解散についての捉え方は微妙に異なっている。

◼️吉田豪は、布袋が当時の妻・山下久美子のツアーに注力しすぎたことでメンバー間に溝ができたことが解散理由という説をラジオ番組内で唱えている。


このように、BOØWY側からの正式なコメントは発表されておらず、各メンバーの多種多様なコメントや推測記事等が入り乱れているのが現状である。

🟣BOOWY 1983年7月31日 佐賀県民の森イベント 1 ギャラが野菜の伝説のライブ

🟣ROCK’N ROLL(CLOUDY HEART)【高崎福祉会館】

🟣BOOWY新宿ロフトライブ1984年3月30日①

🟣NO N.Y.

🟣★BOØWY(氷室・布袋・松井・高橋) 伝説のライブ前リハーサル映像

🟣BOØWY ドキュメント 1987年

🟣LA リハ インタビュー動画

🟣【ゲスト高橋まこと】レジェンド降臨!ゲスト”BOØWY”Dr.高橋まことさんと激アツBOØWYトーク!前編

🟣松井常松 – TV出演(1996)

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