◼️万博当時の太陽の塔
太陽の塔は、丹下健三が設計した「お祭り広場」中央(やや南寄り)に、広場を覆う銀色のトラスで構築された大屋根から塔の上半分がつき出す形で建てられ、テーマ館の一部となっていた。
1967年の最初の公式記者会見において岡本は高さ60メートルの「(仮称)生命の樹」を制作し、その内部は過去・現在・未来の三層構造になることを発表している(『読売新聞』1967年10月22日付)。
この基本構想の思想的背景として岡本が愛読した世界的宗教学者ミルチャ・エリアーデの著書の存在が指摘されている。
岡本は大屋根の下に万博のテーマを紹介する展示プロデューサーに就任していたが、就任以前からテーマである「人類の進歩と調和」に反発。
そして先に設計が完成していた大屋根の模型を見るなり「70mだな」と呟き、穴の空いた大屋根から顔を出す太陽の塔を設計した。
なお「当然ながら反発した丹下や部下に対し『頭を下げあって馴れ合うだけの調和なんて卑しい』という信念を曲げず大喧嘩した末に大屋根に穴を開けさせ太陽の塔を建てた」というような話が流布しているが、平野暁臣によれば、丹下健三の権力を考えれば太陽の塔を白紙にすることは簡単であり、万博全体として見れば太陽の塔はあったほうが良いので白紙にはしなかった。
そもそも二人は万博以前から関わりがありプロデューサーに推薦したのも丹下のため、太陽の塔が建ったのは丹下のおかげと語っている。
テーマ館サブプロデューサーであった小松左京(SF作家)が石原慎太郎の小説『太陽の季節』の中の障子を破る場面を連想し、それを聞いた岡本太郎が「太陽の〜」と命名したとの証言を、ノンフィクション作家の松浦晋也が小松から直接聞いたとして伝聞を記しているが、岡本がどのレベルで述べたのかについては熟考が必要である。
一方で「前年の1969年にプレ作品『若い太陽の塔』が製作公開されている。
小松の談話は、完成した塔を見た発言のように聞こえるが、それだと時系列的に矛盾する。」「1952年に岡本は『太陽の神話』という作品を作っている。
太陽がモチーフなのはそのかなり前から。」という学説(同上)がある。
万博会期中は、観客は「過去」の展示部分であるテーマ館の地下部分から、透明のトンネル状の通路を通って太陽の塔内に進入した。
万博終了後この通路は撤去され、通路跡はコンクリートでふさがれているが、その跡は今でもはっきりと確認できる。
塔の右腕の内部に設置されたエスカレーターは、大屋根(空中テーマ館)につながっていた(現在、腕の開口部はふさがれている)。
また、塔の西側と東側には、同じく岡本太郎作のオブジェ「母の塔」、「青春の塔」が建てられていた。
◼️芸術も建築も ”闘いだ” ~岡本太郎と丹下健三
↑ 24:40に丹下健三さんが旧・東京都庁舎のロビーに岡本太郎さんの壁画を飾るようにしたことの説明がある。丹下健三さんは岡本太郎さんの作品が世の中に出るようにサポートしていた。万博会場の「太陽の塔」の建設でも支持した。
●旧・東京都庁舎ロビーにあった岡本太郎さんの壁画
◼️このインタビューの中に太陽の塔が屋根を貫くことを丹下さんに理解してもらったことが語られている。
◼️丹下健三の大屋根(大阪万博)
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◼️太陽の塔の建設について説明する岡本太郎さん
◼️丹下健三さん設計の大屋根の穴から顔を出す岡本太郎さん
◼️丹下健三さんの傑作
●香川県庁舎
●旧・香川県立体育館
解体の危機に晒されている💦💦💦
◼️岡本太郎さんの傑作
●太陽の塔
●東京国立博物館には、太陽の塔のモチーフだったとも言われる土偶がある。
https://www.joyphoto.com/japanese/travel/151031/tohaku_jomon.html
●欽ちゃんの仮装大賞で「太陽の塔」に扮した岡本太郎さん
●岡本太郎さんの傑作のひとつ、近鉄バッファローズのツノマーク