【タブー】大阪「梅田」の地名の由来は? JR大阪駅北側の貨物駅跡地に眠っていたものとは?

🟣グランフロント大阪か梅田スカイビルを望む ↓

今から30年近く前に会社帰りに梅田スカイビル内にあったLECと言う資格予備校の司法書士コースに通学していた。

当時、ヨドバシカメラがあった辺りには屋台村やゴルフ練習場があり、もつ鍋が流行っていた笑😃

グランフロント大阪の西側の道路を渡り梅田スカイビルまで歩いていくわけだが、当時は細い寂しい道を歩いていくと途中から地下道になっていた。

当時、何か寂しい暗い雰囲気を感じながら、夜、その地下道を通って通学していた💦 

そのときは、その近くの土地がどんな場所であるかは全く知らなかった💦💦

もし知っていたら怖さが倍増し通れなかったかもしれない。

※グランフロント大阪とは、大阪市北区大深町にある複合商業施設。梅田貨物駅跡地の再開発エリアの先行開発区域として2013年に開業した。

◼️梅田の由来は?

大阪市北区は、豊臣秀吉がいた頃、低湿地で幾度となく氾濫を起こすため、秀吉の命令により低湿地を埋め立てることが決定し、そして田畑に変わった。

この大規模な埋め立てにより田畑に変わった大阪市北区は「埋田(うめだ)」と呼ばれるようになった

グランフロント大阪があった辺りは、湿地が周りより深かった為、大深町と呼ばれた。現在の地名も北区大深町と言う。

しかしながら、さすがに江戸時代の人たちは、埋田という地名は印象が悪いと言うことで地名を改名したいと思い、そこで当時、埋田(大阪市北区)にあった「露天神社(つゆのてんじんじゃ)」や「綱敷天神社(つなしきてんじんじゃ)」にゆかりがある「梅」という字をあてて、「梅田」へと改名した。

※露天神社は通称「お初天神」と呼ばれ現在も多くの参拝者がいる。

梅田は元々、低湿地帯を埋め立てた「埋田(うめだ)」と言う地名だったが、イメージが良くないと言う理由で、江戸時代に梅田(うめだ)となった。

●大阪駅

1874年(明治7年)に大阪駅 – 神戸駅間の鉄道開業と同時に開業した。

建設はジョン・イングランド ら英国人技士団の指導の下で進められた。

駅舎は赤煉瓦造り2階建てで、現在の四つ橋筋より西側の西梅田スクエア(大阪中央郵便局旧局舎跡付近)にあった。

当時の梅田は民家がわずかにあるだけで駅周辺は田圃が広がっていた。

初代駅舎 構内(1870年代)

初代駅舎(1874年 – 1899年

●梅田が「埋田」だったことを示す初代大阪駅舎建設前の写真。周りは田畑だった。(ジョン・イングランド)

駅舎東北側から撮影した転車台(ジョン・イングランド)

◼️JR大阪駅北側の貨物駅跡地の地中に眠っていたものは?

→1500体以上の人骨

JR大阪駅北側の貨物駅跡地「うめきた」は、2024年夏の街開きを目指す大型再開発事業。

都市公園を中心に医療や健康産業を誘致して最先端のビジネス拠点にするという”未来の健康都市プラン”だが、実はその地中から2020年に1500体の人骨が出て来た。

「うめきた」は旧国鉄梅田貨物駅の跡地約24ヘクタールを新しい街に変える壮大な事業だが、東側の1期区域では、2013年にグランフロント大阪が完成した。

2期事業は2025年開催を目指す「大阪万博」との相乗効果を狙って財界、大阪府・市が一体になり、「関西再生」の目玉にしようと力を入れている。

江戸時代から「梅田墓」と呼ばれていた墓地を発掘調査したところ、身を屈めて棺桶に入った土葬の人骨や骨壺に収められた火葬の人骨、土をかけて投げ込まれただけの人骨などが続々と出てきた。

「梅田墓」は「曾根崎村千日墓地」と呼ばれ、江戸から明治の初めまであった「大坂七墓」の一つだ。

この時代、大坂の町には蒲生、千日、飛田など7カ所に墓地があり、盂蘭盆会(うらぼんえ)の旧暦の7月16日には町民たちが7つの墓を巡る「七墓巡り」が流行っていた。

夕方から翌日の未明にかけてすり鉦(がね)や木魚、鈴を鳴らし、扇子や団扇を手に提灯をぶら下げて練り歩いたそうだ。

●貨物駅跡地の発掘調査。後方にグランフロント大阪が見える↓

↑ 1500体超の人骨が出土した「梅田墓」の発掘現場 (大阪市北区)

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