🟣2022/7/15 (金)、香川県立図書館を訪問。
●訪問目的:
先週、2022/7/8に香川県内にある複数の歴史博物館に問い合わせたが、現段階で、限定的な情報しかない東かがわ市にあった黒羽城(くれはじょう)と城主 永塩因幡守氏継について何か新しい情報はないか探す為に訪問した。
永塩氏は戦国時代に帰農し、永峰姓に改姓した。永峰姓は東かがわ市が日本で一番多い。私の父方の曽祖母は、東かがわ市黒羽(くれは)の旧家 永峰家の出で、先祖は永塩因幡守氏継の一族。
永塩因幡守氏継は、黒羽城の城主。応仁元年8月4日、自己の最期を予期してか黒羽神社を創建。その後、同年10月3日に京都の相国寺の戦いで討ち死にした。
主君は細川勝元。応仁元年(1467年)、京都の応仁の乱に細川勝元側(東側)として参戦。応仁元年10月3日、御所の北側にある相国寺にて、讃岐守護代の安富元綱らと共に壮絶な最期を遂げた。
※永塩氏については、情報が限定的。長塩氏との関係を調査する必要がある。
https://iss.ndl.go.jp/sp/show/R100000002-I000001862588-00/
●森家は、江戸時代、高松藩松平家に仕えた武士。主に普請役。東かがわ市、小磯の番屋の浜に殿様が来るたびにお膳立てし、かなりの費用がかかった。カシワ谷を切り開いて開拓した。金刀比羅宮の階段の建設にも加わる。
先祖は、1583年、引田の戦いに参戦し、長宗我部元親軍と戦った森(仙石)久村(1566年-1583年、通称:権平)の森氏一族。遡れば、阿波水軍・森家の佐田 九郎左衛門(さた くろうざえもん)の一族。
●阿波水軍 森家の家紋。木瓜紋
●森家の家紋。丸に横木瓜
※木瓜紋
http://www.harimaya.com/o_kamon1/tisiki/mon_moto.html
同族間においては、基本形を損ねることなく家紋の意匠を変化させることで 本家と分家、庶子家の区別をするようになった。たとえば「木瓜紋」の 場合、単純に輪などの外郭を付ける、竪に置く、横に置く、剣を付ける、輪にしても太輪、細輪、二重輪、藤輪、雪輪など を用いることで何種類もの木瓜紋が生まれた。木瓜紋を用いる家が繁栄すると、さらに家紋は 原形を少しずつ変化させながら増えていったのである。
※家紋について
http://hakko-daiodo.com/kamon-c/cate6/mokkou/mokkou5.html
🟣今回、香川県立図書館で調べた文献は以下の通り。
◼️角川日本地名大辞典
◼️香川県中世城館跡詳細分布調査報告
◼️増補三代物語
◼️全讃史
◼️引田町史
◼️大内町史
🟣調査結果は?
まずは、2022/7/8に県内の歴史博物館の学芸課の方に教えて頂いた、「永塩因幡守氏継は、応仁の乱で、細川軍につき、相国寺の戦いで討ち死にした」と言う角川日本地名大辞典の情報を再確認した。
◼️角川日本地名大辞典
●室町末期、永塩因幡守氏継が黒羽城に拠り、細川勝元に属し、応仁元年、京都相国寺合戦で討死したと伝える。
◼️香川県中世城館跡詳細分布調査報告
●黒羽城跡
●時代 : 不明
●所在地 : 香川県東かがわ市黒羽
●緯度経度: 34.202722, 134.406333
●調査年: 2001年
●遺構概要
城
県報2003 : 曲輪(くるわ)+平坦地+土橋
城主 : 永塩因幡守氏継
地名:
「古城(フルシロ)」
「殿さん屋敷」
「南門」
「北門」
「保田池」
「出口」
<立地>
丘陵尾根先端(標高110m、比高80m)。
<現況>
山林。
<保存状況>
良好。
<城跡推定地>
黒羽城の推定地4ヵ所あり。
2ヶ所は平地。
1ヶ所は小高い神社(毘沙門庵向かい)。
山側尾根上の1ヶ所で城の痕跡らしきものあり。
尾根末端の小高い神社に五輪塔あり、現在移転。
●相生小学校跡 東側の道路を南へ約850m進むと、毘沙門天を祀った吉祥寺へ辿り着く。吉祥寺東側に、標高約30mの小高い山があり石段を登ると観音堂があり、ここが黒羽城跡と推定地の一つである。
『香川県中世城館詳細分布調査報告2003』では黒羽城の推定地は四ヶ所あると書かれている。
一ヶ所目は上記にある『観音堂が鎮座する標高約30mの小山』。
二ヶ所目は、『山側尾根上(橘谷池北約180m』。
三ヶ所目は吉祥寺北の菜切川東堤防の下にある『殿さん屋敷』『化粧井戸』の地名がある所。
四ヶ所目は『新選讃岐風土記』にある下内にあり、田畑に開墾されている場所。
『香川県中世城館詳細分布調査報告2003』では二ヶ所めを城跡として有力視している。
●遺物概要
発掘概要 :
県報2003: 2001年踏査。
その他概要 :
『全讃史』。
『増補三代物語』。
『古今讃岐名勝図絵』。
『讃岐国名勝図会』。
『新撰讃岐国風土記』。
『讃陽古城記』。
『日本城郭大系第15巻香川・徳島・高知』(新人物往来社 1979)。
『引田町史』(1995)。
『香川県中世城館跡詳細分布調査報告』(県教委 2003)。
県報2003、30-3010-02。
◼️増補三代物語
●黒羽城跡 永塩因幡守氏継の居城、細川勝元に属し、応仁元年十月三日、安富元綱と同じく、洛陽相国寺合戦に戦死す。
◼️全讃史
●黒羽城 永塩因幡守氏継、之に居る。応仁元年、細川勝元に従い、洛陽の相国寺に戦死せり。
◼️引田町史
●黒羽神社 : 香川県神社誌、並びに、明治12年、村戸長 永峰安三郎による大内郡役所への書上に、応仁元年八月四日、永塩因幡守氏継公の創立。
●応仁元年八月四日、永塩因幡守氏継、黒羽神社創建(香川県神社誌)。応仁元年十月、永塩因幡守氏継 相国寺合戦にて討死(三代物語)
🟣永塩因幡守氏継(ながしお いなばのかみ うじつぐ) の経歴を更新
●永塩因幡守氏継(ながしお いなばのかみ うじつぐ)
●生誕: 不明。死没 : 応仁元年(1467年)10月3日
生年月日不明 〜 応仁元年(1467年)10月3日
※官位に因幡守とあるが、永塩氏継と因幡国(鳥取県東部)との関係は不明。因幡国の国司、守護一覧には名前は出てこない。地元の地方豪族だったと推測。
●室町時代(1336年〜1467年) 後期の武将。
現在の香川県東かがわ市黒羽(くれは)にあった黒羽城 城主。
細川勝元の重臣として東讃守護代を世襲していた安富氏一族惣領の安富元綱らと共に相国寺の戦いにて討ち死にした。
主君 : 細川勝元(讃岐国守護。東讃守護代は安富元綱。ちなみに西讃守護代は香川氏)
氏族 : 永塩氏
●生涯
生年月日は不明。
生誕地は黒羽と推測。
※長塩氏との関係を調査する必要あり。「新・肥後細川家侍帳」によると、長塩清右衛門を祖とする「長塩家」が三軒記載あり。召出しは綱利代と下るが、古くは細川京兆家の家臣であったもよう。清右衛門の祖父・長塩阿波守は、阿波国中之郡の領主だとされ、足利義輝に殉死したとされている。
良峰(良岑)流の長塩氏の家紋は、「丸に上文字」紋だとする資料があるが、細川家家臣・長塩氏の家紋は「上」の文字が左右にひっくりかえっている。桓武天皇まで遡る長塩氏の末裔と考えられる。
長塩清一郎家・・四百石
長塩新兵衛家・・四百石
長塩平格家・・二百五十石
この三家が揃って明治に至った。
※『長塩永塩一族』(日本家系家紋研究所編、日本家系家紋研究所、1987)
●応仁元年(1467)年8月4日、現在の香川県東かがわ市黒羽に天御中主神(あめのみなかぬしのかみ)を奉祀し、黒羽神社を創建。後に天御中主神は妙見大明神へと変わる。
讃岐の守護は細川勝元、東讃の守護代は安富元綱。安富元綱は家宰として京都で勝元に近侍していた。
応仁元年(1467年)に応仁の乱が起こると、安富元綱は西讃守護代の香川氏と共に讃岐の軍勢を指揮し、京都を転戦。
永塩因幡守氏継は細川勝元の東軍に属していた。
戦局が西軍有利となる中、応仁元年10月3日、西軍は東軍の本陣であった相国寺を一気に攻撃した(相国寺の戦い)。
東軍の安富元綱は3000騎を率いて相国寺を守ったが、一部の僧侶が西軍に内応して相国寺内部から火を放ったことから東軍側は動揺し総崩れとなった。
元綱は敵の猛攻撃を押し返し奮戦したものの、激戦の末、弟の盛継と共に壮絶な戦死を遂げた。
永塩因幡守氏継も激しい相国寺の戦いの中で、安富元綱らと共に討ち死にした。
相国寺の戦いは応仁の乱でも激戦の一つであった。
<永塩一族のその後>
相国寺の戦いで、永塩因幡守氏継と共に永塩氏一族の他の者も亡くなったと推測される。
このことがきっかけとなり、黒羽に残っていた永塩氏一族は、帰農し、永峰姓に改姓したと推測される。その後、一族の復興が図られた。
※日本姓氏語源辞典によると、永峰姓は、香川県東かがわ市黒羽で戦国時代に永塩氏が帰農して塩を「峰」として改姓したと伝わる。
※参考: 黒羽神社由緒、角川日本地名大辞典、応仁記、日本姓氏語源辞典、県報2003、三代物語、全讃史、香川県神社誌、引田町史