🟣三代目 澤村 田之助(さんだいめ さわむら たのすけ)とは?
新字体:沢村
弘化2年2月8日〈西暦1845年3月15日〉 – 明治11年〈1878年〉7月7日
幕末から明治にかけて活躍した歌舞伎役者。
屋号は紀伊國屋。
定紋は釻菊(かんぎく)、替紋は波に千鳥。
俳名に曙山。
美貌の女形として人気を博したが、後年には脱疽により四肢を切断してなお舞台に立ちつづけた、悲劇の名優としても知られる。
●人生
江戸生まれ。父は五代目澤村宗十郎、兄は二代目澤村訥升。
はじめ初代澤村由次郎。『都鳥廓白浪』(忍の惣太)の吉田松若が好評で、天才子役として四代目市川小團次に激賞された。
安政5年(1858年) 、三代目澤村田之助を襲名。翌年には16歳にして守田座の立女形となる。『処女翫浮名横櫛』(切られお富)、『月缺皿恋路宵闇』(紅皿欠皿)などの二代目河竹新七(黙阿弥)の作品に数多く出演し、悪婆役を得意にする。
美貌と美声、実力によって三都の人気を博したため、田之助髷、田之助襟、田之助下駄など、その名を冠した商品が出回るほどだった。
文久2年(1862年)、『紅皿欠皿』の舞台で宙乗りの演技中に落下、そのときの負傷から脱疽を患い、年を経るごとに悪化する。
慶応3年(1867年)、ジェームス・カーティス・ヘボンの執刀により左足膝上まで切断し、以後アメリカから取り寄せた義足をつけて舞台をつとめるものの、病状は一進一退をくりかえす。
最終的には膝から下の両足、右の手首から先、左手の小指以外の指をことごとく失い、それでもなお女形として成功を収めた。
明治5年(1872年) 正月、京都南座で『国性爺姿写真鏡』(通称:古今彦三)の芸者古今(『国性爺合戦』の錦祥女に相当)を引退の興行としたが、千秋楽を三日後に控えて突然降板、これが事実上最後の舞台となった。
以後、芝居茶屋の紀伊國屋を経営し、維新後は澤村座を開場して舞台復帰を模索、芝居に対する意欲は終生変わらなかった。
しかし澤村座は興業的にはめぐまれず、上方への出勤が多くなる。
最後は病の悪化とともに精神にも変調をきたし、明治11年(1878年)に33歳で死去した。白粉の鉛毒に侵されたといわれている。
容貌、技芸、人気ともに当時の女形としては第一人者であり、その勝気な性格によって、長命さえすれば九代目市川團十郎や五代目尾上菊五郎らと並ぶ大立者になっていたであろうと言われた。
脱疽によって四肢を切断した後も、その艶やかな芸風に変りはなかったと伝えられる。
彼の芸は四代目澤村源之助を経て、六代目河原崎國太郎、九代目澤村宗十郎に継承された。