🟣2022/5/2 月曜日 快晴
本日は、香川県高松市にある卑弥呼説もある倭迹迹日百襲姫 (やまとととひももそひめ) ゆかりの地である讃岐唯一の一の宮、田村神社を訪問😃
卑弥呼説のある倭迹迹日百襲姫の奈良県から讃岐の高松に来たルートは下記の通り。
香川県東かがわ市にある水主神社の言い伝えによると倭迹迹日百襲姫は、幼少期に、奈良県から東かがわ市に渡ってきて成人になるまでを水主神社辺りに置いた宮で過ごしたとある。
🟣倭迹迹日百襲姫の足どり : 奈良から香川へのルート
●孝霊神社(別名: 廬戸神社。奈良県磯城郡田原本町黒田262)から大和川を下って堺の港へ
●堺から途中、淡路島の伊弉諾神宮に立ち寄り、東かがわ市馬篠で休む(艪掛神社)
●艪掛神社から東かがわ市引田の安戸池
●安戸池から塩竃神社
●塩竃神社から水主神社へ
🟣水主神社 (香川県東かがわ市)


「弥生時代後期、女王卑弥呼の死後、再び争乱が繰り返され、水主神社の祭神倭迹迹日百襲姫は、この争乱を避けて、この地に来られたと伝えられています。
姫は未来を予知する呪術にすぐれ、日照に苦しむ人々のために雨を降らせ、水源を教え、水路を開き米作りを助けたといわれています。
境内は県の自然環境保全地域に指定され、付近からは 縄文時代の石器、弥生・古墳時代の土器が多数発見され、山上には姫の御陵といわれる古墳もあり、宝蔵庫には多くの文化財が納められています。
社殿はすべて春日造りで統一されており、社領を示す立石は大内・白鳥町内に今も残っています。
與田寺へ向う途中の弘海寺付近には昔有名な「石風呂」があり、宿屋が栄え、「チンチン同しに髪結うて、水主のお寺へ参らんか。」とこどもたちが歌ったほどにぎやかな土地でありました」
百襲姫は、7歳の時に奈良県を出発し、8歳で讃岐にたどり着き、成人するまで水主の宮内で暮らしたとあります。
欠史八代の天皇の年齢の例にもあるように、当時の年齢の数え方は、半年で1歳と数えたのではないかと言う説があります。
🟣倭迹迹日百襲姫の足どり : 水主神社から高松市香川町の船岡山へ移動

●船岡山と田村神社の位置関係


●船岡山古墳と船岡池

●船岡山古墳と船山神社

●船岡山古墳と船山神社と田村神社

●200基の古墳がある岩清尾山塊と田村神社と船岡山古墳

倭迹迹日百襲姫は、東かがわ市の水主神社から現在の高松市香川町にある船岡山へと移動し宮を置いた。
船岡山の頂上には、2基の古墳 (3世紀代築造)がある。水主神社の山上にも姫の御陵と呼ばれる古墳がある。当時の地方豪族の墓なのだろうか?
🟣田村神社 (香川県高松市一宮町)
近隣に 船山神社 があり田村神社と同じく百襲姫と弟の 吉備津彦命 を祀る。
船山神社は元々、船岡山に鎮座していた。
2022/5/2は、船岡山古墳から田村神社を巡った。
●船岡山古墳→ 船山神社 → 田村神社→花泉→袂井→休石
🟣田村神社 : 「延喜式名神大一宮正一位田村神社」 社伝によると、建仁元年(1201)、正一位を奉授した。
●北門の大鳥居



●なぜか、いきなり八咫烏の像がある😃 意味深すぎる。


●祭神の倭迹迹日百襲姫命と吉備津彦命の像。倭迹迹日百襲姫の弟の吉備津彦命は、岡山で温羅征伐をした。それが桃太郎伝説となっている。
もうひとりの弟 稚武彦命(わかたけひこのみこと)の高松市鬼無での鬼(=海賊)退治にも知恵を授けた。




●海軍少年飛行兵之碑

●拝殿
主祭神 : 田村大神(倭迹迹日百襲姫命、五十狹芹彦命、猿田彦大神、天隠山命、天五田根命の5柱の総称)

●本社拝殿・奥殿は宝永7年(1710年)の造営で、春日造。奥殿は二重構造で前方は本殿に接続していて、神座があり、その床下に「定水井」と呼ばれる深淵がある。
社伝によれば、古くは「定水井(さだみずのい)」という井戸にいかだを浮かべて、その上に神を祀っていた。その後、和銅2年(709年)に行基によって社殿が設けられたのが創建とする。この「定水井」は現在も奥殿の下にある。
なお、「定水井(さだみずのい)」は今も奥殿の下にあり、御神体とされている。龍神がすむとされ、覗くと絶命すると言われる。
現在、奥殿には垣根で近づくことができず鬱蒼と茂った木々でほとんど見ることはできない。拝殿は明治10年の再建で、入母屋造。
●一帯は湧水地であり、現在も当社の奥殿が深淵の上に建てられているように、水神信仰を基盤とした神社である。讃岐国内では名神大社三社の1つで、讃岐国の一宮として崇敬された。また、現在に伝わる神宝は「田村神社古神宝類」として国の重要文化財に指定されている。
なお「田村」の社名は鎮座地名によるもので、他の田村神社のような坂上田村麻呂との関係はない。

🟣田村神社の言い伝え
水神と関係する興味深い伝説が田村神社には伝え続けられている。
それは奥殿の地下10メートル程に眠る”深い淵”だ。この淵の奥深くで湧き出ている出水には、龍神が棲んでいるという伝説があり、田村神社の御神体となっている。つまりここが、田村神社の中心地だ。
しかもこの淵を見た者には、恐ろしい祟りが起きるという。そんな奥殿の下に眠る淵は、もちろん見ることはできない。
実際に深い淵を見てしまった人はどうなったのだろうか?
江戸時代、田村神社の改築工事を命じられた武村斉庵(たけむらさいあん)という人が、当時の宮司に「淵を見たい」と言い出した。困った宮司は「どんな祟りがあるか分からない」と断ったが、それでもどうしてもと頼まれ、見せることにした。
すると…淵から水が巻き上がり、中から龍が赤い舌を巻きながら頭を出して斉庵をギョロッと睨んだ!斉庵は気分が悪くなり、その日の晩に亡くなってしまったと言う。
また、ある別の大工が工事中に誤って、淵の中にノミを落としてしまった。するとしばらくして龍が現れ、落としたノミを差し出してくださったそう。これを丁重にいただけば良かったものの、大工は驚いて足で蹴飛ばしてしまったらしい。この大工もたちまち亡くなってしまった。
現在、この龍が棲む淵に近付けるのは宮司のみ。掃除や神事の際に入るだけだ。
淵には蓋がされ、沢山の石が古墳のように盛られてあるそう。淵の中は見られないが、中から風が吹く音が確かに聞こえるらしい。
●宇都伎社



●神使い
http://www.eigonoshinzui.com/god’smessenger.html
🟣花泉(はなのい)
境内外の西側、授与所の裏側あたりにある。社伝によれば、倭迹迹日百襲姫が御手を洗われた所。
●花泉に行き方 : 隋神門を南に出て、西側の白壁沿いを北へ進むと四国88か所札所の「一宮寺(いちのみやじ)」の山門がある。この山門の左斜め前にある。


●一宮寺の山門の左斜め前に花泉はある。

●花泉: この日は水が干上がっていた。






🟣袂井(たもとい)」という境内外東側にある水源。
百襲姫命が、地元の人にもらった鳥芋(ごや)を食べて熱病にかかった時に、
侍女が袂を浸して水を奉った井。
●境内東側にあるトイレ横の出入り口を出て左手にある路地を歩くとすぐに袂井がある。


●路地





●袂井


🟣休石(やすみいし) : 百襲姫が腰をかけたとされる石。 境内外東方約100m、畑の真ん中にある。脇の碑には「倭迹迹日百襲姫命腰掛石」と書かれている。
●行き方: 境内東側にあるトイレ横から外へ。

●出入り口を出てすぐの左手の路地を進むと袂井がある。真っ直ぐ進み県道172号を渡る。


●県道172号を渡る際、交通量が多いので注意。県道を渡った右手に一宮町の郵便局がある。

●県道を渡り、そのままあぜ道を真っ直ぐ進む。前方のビニールハウスを過ぎた辺りの左手の田んぼの中に腰掛石がある。

●小麦畑と畑の間のセメント部分を歩いていく。前方のビニールハウスの横にかすかに腰掛石が見える。

●平均台にようなブロック部分を歩いて腰掛石が置いてある場所へ



●休石 (やすみいし): 倭迹迹日百襲姫が腰を掛けたと言われる休石。






●腰掛石は田んぼの真ん中にあり非常に見逃しやすい。田村神社の東門を出て県道172号を渡ってから、約70-80mくらいあぜ道を真っ直ぐ歩いた左手にある。

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