【才能の塊】上沼恵美子さん! 南あわじ市出身! 抜群の歌唱力と漫才センスと巧みな話術! 徹子の部屋出演! 大阪ラプソディー! 海原千里・万里の漫才!

🟣上沼恵美子さんプロフィール

上沼 恵美子(かみぬま えみこ)

1955年〈昭和30年〉4月13日 –

日本のローカルタレント、歌手、司会者。

上沼事務所所属。

夫は元メディアプルポ代表取締役会長・元関西テレビプロデューサーの上沼真平。


●経歴

3人兄妹の末っ子(6歳上の姉と2歳上兄がいる)。

兵庫県の淡路島にある三原郡福良町(現・南あわじ市)の出身で、島内の中学校を卒業。

海原千里・万里時代は、事務所の意向で姉が年齢詐称させられていたため、4歳違いの姉妹として活動。

学生時代はバスケットボール部に所属していた。

●海原千里・万里時代


1971年 – 1977年
父が演芸好きだったことから、幼少時から姉妹揃って演芸や歌を見たり聞いたりして育つ。

祖母は浄瑠璃の師匠、太棹三味線の名手だった。

姉は浄瑠璃のものまね、自身は美空ひばりのものまねをしていた。

元々は歌手志望だったが、漫才コンビとしてデビューするはずだった姉の相方がデビュー前に失踪したため、姉と漫才コンビを組むことになり、1968年(昭和43年)4月中頃大須演芸場の舞台に立つ。

中学校卒業後、1971年に姉妹漫才コンビ「海原千里・万里」の妹海原千里(海原お浜・小浜門下)としてデビュー。

同年、上方お笑い大賞銀賞を受賞する。高校生ながら巧みな話術で一躍スターになり、当時人気アイドルで白雪姫と称されていた天地真理に倣い、「漫才界の白雪姫」と呼ばれていた。

1973年にはNHK漫才コンテスト優秀敢闘賞を受賞し、1975年にはレコード「大阪ラプソディー」が40万枚を売り上げて大ヒットする。

19歳の時、1974年5月初旬に盲腸で大正病院に10日間入院。

1975年、20歳の時に出演した関西テレビ『日曜ドキドキパンチ』で、関西テレビディレクターの上沼真平と出会う。

1977年5月22日、8歳上の真平と結婚。親族・親類全員が反対する状況下での結婚だった。

姉とのコンビを解消し、ラスベガスからカウアイ島へと渡る新婚旅行を経て、芸能界を引退する。

義母は2007年(平成19年)に89歳で亡くなっている。

真平の父・健吉は上沼が嫁ぐ前の1969年に亡くなっていて、大阪府箕面市の18坪の家に真平と姑と3人で暮らすことになる。

●コンビ解散後
1978年4月、長男(後に上沼恵美子事務所スタッフとなる上沼清太郎)を出産後の7月に芸能界へ復帰。

1983年5月に次男(後に構成作家となるゆじぇーろ)を出産した。

芸能界復帰について、上沼は後に番組内で「自分には専業主婦は耐えられなかった」と述懐している。

また、読売テレビ『上沼・高田のクギズケ!』内で島田紳助の引退について触れた際は、自身の引退時に「番組スタッフとかが離れていったことが寂しかった」と明かした。

●1990年代
1994年(平成6年)と1995年にはNHK『NHK紅白歌合戦』の紅組司会を担当した。

1994年の『第45回NHK紅白歌合戦』で紅組司会を担当した際、「上沼恵美子なんて大阪だけのタレントです。それをNHKが紅組の司会に起用したっていうことは風当たりも強かったですし、やはりベテラン歌手にはいびられました」「ベテラン歌手から『あんたみたいなもんが紅組の司会ってなんやの』という態度で迫られた」と語っている。

出場歌手と面談した際、「横を向いて目を会わせてくれない方が4、5人いた」と『あさイチ』(NHK総合テレビ、2015年12月25日放送)で語っており、「その人たちは未だに大っキライです」とも述べた。

しかし、翌1995年の『第46回NHK紅白歌合戦』での紅組司会の際については「ころっと変わりました。大事にされました」と話している。

●2000年代
2002年のNHKが実施したタレント好感度ランキングでは、女性部門で久本雅美、松嶋菜々子に次いで3位になる。2003年度長者番付大阪地区では、芸能人部門で1位となった。

2007年下期のNHK連続テレビ小説『ちりとてちん』で語りを担当した。

同作では主人公の老年後という設定での参加だったが、放送されたストーリー分の時代よりも後の時代から回想して語るという設定だったため、実際に本人が主役として画面に登場することはなかった。

ただし、『第46回NHK紅白歌合戦』の映像の流用という形で本人役での出演を果たしている。

2007年より大会委員長の島田紳助からの直々の依頼により、朝日放送『M-1グランプリ』に初の女性審査員として出演。同番組が2010年で一旦終了し2015年から再開後も、2016年からは筆頭審査員として出演している。

●2010年代
2014年2月中旬に急性A型肝炎を患い入院するも、3月3日にラジオの生放送で復帰した。

●歌手活動
幼少時から数々のちびっこのど自慢大会に出場し、「のど自慢荒らし」と呼ばれていた。

当時のライバルは天童よしみで、毎回天童が優勝するため、自身は準優勝であったという。

デビュー当時、北島三郎のコンサートの前座を務めた際、北島に歌唱力を認められ、北島の下で歌手への転向を勧められたが断ったというエピソードがある。

後に海原千里・万里として1976年に発売した「大阪ラプソディー」がヒットを記録している。

コンビ解消後も歌手として、1年に一度のペースで大阪フェスティバルホールなどの会場を使用して関西地区限定でコンサートを行っており、NHKの歌番組にも度々出演している。

🟣徹子の部屋

https://m.bilibili.com/video/BV15r4y1Y7tW

🟣大阪ラプソディー

🟣海原千里・万里トーク

https://m.youtube.com/watch?v=ZOBhejHR8KU

🟣海原千里・万里トーク

https://m.youtube.com/watch?v=45hSD6ziWGk

🟣海原千里・万里 漫才

🟣ダウンタウンと初共演

🟣上沼恵美子 x 松本人志

https://m.bilibili.com/video/BV1V7411e7x9

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