【超貴重!】ダウンタウンの初期の漫才映像! 吉本興業入り前の素人名人会、NSC時代(まさと&ひとし)、ライト兄弟時代の漫才映像!

🟣ダウンタウン

●NSC入学

松本人志、浜田雅功、共に尼崎市立潮小学校、尼崎市立大成中学校の同級生。

高校はお互い別々だったが、高校卒業後の1982年3月に、浜田が吉本の開校した新人タレント養成所「吉本総合芸能学院(通称:NSC)」による1期生募集のチラシを見つけたことがきっかけで、1982年す4月4日にNSC1期生として入学。

当時の松本は就職が決まっていたが、浜田から誘われて吉本入りを決意した。

1982年6月、入学2ヶ月目で、テレビ番組初出演となる毎日放送『素人名人会』にて名人賞を獲得。

その1ヵ月後には『第3回今宮子供えびすマンザイ新人コンクール』で福笑い大賞を受賞。

これらの功績が認められ、NSC在学生では異例の早さで「なんば花月」の公演へ5日間ではあるが特別出演する。

1982年8月、フジテレビ『笑ってる場合ですよ!』の素人・アマチュア芸人の勝ち抜けコーナー「お笑い君こそスターだ!」に「まさし・ひとし」として出場し、5週勝ち抜きグランドチャンピオンとなった。

番組内ではNSC在学生ということは伏せられ、素人として出演していた。

劇場で舞台を踏みながら『第13回NHK上方漫才コンテスト』や『第4回ABC漫才・落語新人コンクール』へ出場。

1983年4月21日、阪急ファイブ8F・オレンジルームで同期のハイヒール、銀次・政二と共にコントライブ「ごんたくれ」(全3回)の第1回公演を開催。後の心斎橋筋2丁目劇場の笑いの原型を開拓させたイベントであった。

●コンビ名

「松本・浜田」「まさし・ひとし」「青空てるお・はるお」「ライト兄弟」「まさと&ひとし」などコンビ名を定着させずに活動していたが、1983年5月にコンビ名を現在の「ダウンタウン」に改名。同年6月6日になんば花月上席初出演を果たす。

コンビ名の由来について松本は「考え過ぎるのやめようって。どこかの喫茶店で、週刊誌をペラペラッとやって、指で押さえたところをコンビ名にしようぜってなったんですよ。それがダウンタウンだったんです」と語った。

1984年、『第14回NHK上方漫才コンテスト』で優秀賞を受賞。『第5回ABC漫才・落語新人コンクール』で最優秀新人賞を受賞した。

「心斎橋筋2丁目劇場 in 南海ホール」誕生


当時の吉本興業は、漫才ブームの終焉によって花月三館(なんば花月・うめだ花月・京都花月)の観客も若年層より年配層が多くを占めていた。

NSC時代から2人のマネージャー的存在であった大崎洋(現・吉本興業ホールディングス代表取締役会長)は、才能はあるが注目度が低かったダウンタウンに対して「彼らの場を作ってやらんといかん」と、大崎が発起人となり当時大阪・心斎橋に南海電気鉄道が賃貸契約していた劇場「南海ホール」での定期開催を計画。

笑いのターゲットを若年層に絞り、若手芸人と共に1984年7月12日「心斎橋筋2丁目劇場 in 南海ホール」(通称「心劇」)を毎週末に開催した。

「心斎橋筋2丁目劇場」オープン 編集
1985年10月、関西テレビ『今夜はねむれナイト』内の3分程度のコントコーナー「ダウンタウン劇場(シアター)」でテレビレギュラー番組を獲得。

またラジオ大阪『おっと!モモンガ』金曜日の司会者に起用される。南海ホールでの定期ライブ「心斎橋筋2丁目劇場」も徐々に反響を呼ぶようになり多くの若者から支持を受ける。

1986年、南海ホールでの定期ライブ「心斎橋筋2丁目劇場」は非常階段、130R、今田耕司、東野幸治らとの公演で人気を博し、入場できない程のファンが詰めかけていた。

同時期には南海ホールの経営が南海電鉄から吉本に移り、「大阪にもスタジオアルタのようなホールを創ろう!」という企画が持ち上がったことから、総工費約2,000万円をかけて改装され、同年5月16日、正式に「心斎橋筋2丁目劇場」の名称で、吉本の常設劇場としてリニューアルオープン。

8月6日には大阪城野外音楽堂で当時の2丁目劇場主要メンバー「おさわがせ2丁目探険隊 来てもた大阪城」を開催した。

『4時ですよーだ』


1987年4月6日、ダウンタウンがメインの平日夕方の帯番組『4時ですよーだ』(毎日放送)が放送開始。

この番組を機にダウンタウンの人気が爆発、同年9月27日には大阪厚生年金会館でコンサート「DOWNTOWN SCANDALS」を開催し、会場は若年層の女性ファンで超満員となった。

その人気に肖って当時の吉本若手タレントでは珍しく、写真集の発売や歌手としてデビューアルバムも発売。

このダウンタウンの影響で、NSC7期生(1988年度)の生徒数がそれまでのNSC卒業生の総数を上回る現象も起こった。

関西で爆発的な人気を獲得したダウンタウンは、その勢いで東京へも活躍の場を広げる。

1988年10月13日、ウッチャンナンチャン・野沢直子・清水ミチコとのコント番組『夢で逢えたら』(フジテレビ)が関東ローカル(後に全国ネット)でスタート。

また、2丁目劇場の東京公演「おでかけでっせ、ラフォーレまっせ」をラフォーレ原宿で不定期に開催していた。

●東京進出


1989年、吉本から本格的な東京進出命令が下る。以前から『ひょうきん予備校』『欽ドン!ハッケヨーイ笑った!』、そして前年からスタートしていた『夢で逢えたら』などの東京に出向いて番組へ出演していたが、『4時ですよーだ』の司会を同年4月より7月まで一時交代し、『森田一義アワー 笑っていいとも!』(フジテレビ)の月曜レギュラーとなる。

9月29日に『4時ですよーだ』が最終回を迎え、10月3日、『ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!』(日本テレビ)が関東ローカルで放送開始。

1991年4月からは『世界の常識・非常識!』(フジテレビ)にレギュラー出演。

1991年12月8日、3度の特番放送を経て『世界の常識・非常識!』の後番組『ダウンタウンのごっつええ感じ』が放送開始される。

ダウンタウンが得意とするシュールなコントで全国的に不動の人気を獲得し、全盛期には視聴率20%を越えるお化け番組へと成長。

1993年10月21日には読売テレビ制作の全国ネット番組『ダウンタウンDX』が、1994年10月17日にはフジテレビで音楽番組『HEY!HEY!HEY! MUSIC CHAMP』が放送開始された。

個人としての活動〜『ごっつええ感じ』終了


浜田は東京進出後に数々のドラマへ出演するなど俳優業にも分野を広げ、1995年3月15日に浜田は小室哲哉との音楽ユニット・H Jungle with tを結成し、デビューシングル『WOW WAR TONIGHT 〜時には起こせよムーヴメント』を発売するとオリコンチャートで7週連続1位を獲得、CDセールスは約200万枚という大ヒットとなった。

同年の大晦日放送『第46回NHK紅白歌合戦』にも初出場し、同番組では松本が浜田には内緒でゲスト出演していた。

一方で松本はお笑いの活動にこだわり、1994年には入場料1万円のライブ「寸止め海峡(仮題)」、1995年には日本武道館で初の芸人による1人単独ライブ「松風’95」が行われ独自の笑いを生み出し続けていった。

1993年から1995年にかけて、松本が『週刊朝日』に連載していたエッセイ(「オフオフダウンタウン」)が単行本化される。

題名は『遺書』『松本』で、それぞれ250万部、200万部を売り上げた。

1995年には芸能人長者番付で松本が1位、浜田が2位となった。

1997年11月、番組改編期でもない11月に『ダウンタウンのごっつええ感じ』が突如打ち切りとなり、それを受けダウンタウンのバラエティ番組の傾向が変化していく。

🟣吉本興業入り前の素人名人会

1982年6月、NSC入学2ヶ月目で、テレビ番組初出演となる毎日放送『素人名人会』にて名人賞を獲得。

🟣NSC時代

1982年8月、フジテレビ『笑ってる場合ですよ!』の素人・アマチュア芸人の勝ち抜けコーナー「お笑い君こそスターだ!」に「まさし・ひとし」として出場し、5週勝ち抜きグランドチャンピオンとなった。 NSC在学生はふせて素人として出場していた。

🟣1982年末「ライト兄弟(松本・浜田)」

●やすしさんが漫才の批評をする

🟣ダウンタウン初期の漫才

●初期のネタ

🟣1986年 (昭和61年) の漫才

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