卑弥呼説のある奈良の箸墓古墳に眠る倭迹迹日百襲姫 (やまとととひももそひめ) は幼少期、香川県東かがわ市に住んでいた! 奈良県孝霊神社から東かがわ市を経て高松市田村神社までの予想ルートは?

作成日: 2020/11/13

最終更新日: 2022/5/2

🟣倭迹迹日百襲姫

卑弥呼説のある奈良県桜井市の箸墓古墳に眠るとされる倭迹迹日百襲姫(やまとととひももそひめ)は、幼少の頃、奈良県の孝霊神社から香川県東かがわ市に来ており、下記のように東かがわ市内 に伝承が残る場所がある。

ちなみに、奈良県の孝霊神社は、別名「廬⼾神社(いおとじんじゃ)」ともいわれ、古事記中つ巻には、第7代孝霊天皇の宮として⿊⽥廬⼾宮(くろだいおとのみや)が記されている。

2017年に、東かがわ市の水主神社を訪問し朱印を書いて頂いた折、宮司である大内さんに倭迹迹日百襲は本当に水主神社辺りに住んでいたのかどうかについてお聞きしたことがある。

その時の宮司さんのお答えは、「倭迹迹日百襲姫の伝承がこの地に残っているということは、何かそういう伝承が残る何かがあったのではないでしょうか」というものだった。

やはり水主神社だけでなくこの讃岐の東の地に、艪掛神社、袖掛神社、保田池、塩竃神社、安戸池などで伝承が残っているということは奈良から何か巫女的な存在が実際に来ていたのだろう。

倭迹迹日百襲姫の伝承は高松市の船岡山、船山神社、田村神社などでも残っている。

当時、讃岐の民をまとめ弥生米による稲作を普及させ、水源確保の為の溜池造成の指揮をとるにはそのようなカリスマ性を持つ存在が必要であったのだろう。

●艪掛(ろかけ)神社 : 馬篠

●安戸(あど)池 : 引田

●塩竃(しおがま)神社 : 引田

●水主神社 : 水主 (宮を置いた。父の孝霊天皇も一時期住んでいたと推測される)

●保田池 : 西村

●袖掛(そでかけ)神社 : 小磯 (暑くてたまらず袖を切り離した伝承が残る)

🟣倭迹迹日百襲姫は、東かがわ市の水主神社で成年まで過ごした後、高松市香川町の船岡山へ移動し、宮を置いた。その後、田村神社に移動した。この辺りに住む間、弟の高松市鬼無での鬼(海賊)退治にも知恵を授けている。

●船岡山 : 香川町

●船山神社 : 仏生山町

●田村神社 : 一宮町

●<参考> 岡山神社(岡山県岡山市北区)の祭神も倭迹迹日百襲

岡山神社↑

東かがわ市馬篠にある艪掛(ろかけ)神社 

艪掛(ろかけ)神社

水主神社

水主神社↑

🟣卑弥呼説のある奈良の箸墓古墳に眠る倭迹迹日百襲姫(やまとととひももそひめ)

百襲姫は奈良県磯城郡田原本町黒田にある庵戸神社(廬戸神社、孝霊神社)から堺の港へ下り、淡路島の伊弉諾神宮に寄り、東かがわ市の馬篠の浜で休み(艪掛神社)、引田の安戸池 、塩竃神社に辿り着いた。安堵の浦(安戸池)に着いたとき、「姿見の井戸」で身つくろいをし、暑かったので着物の袖を引きちぎったと伝えられている。

その後、水主神社に宮を置き(大内と呼ばれた)水路を開き、弥生米を与え米作りに尽力した。

その後、高松市の香川町の船岡山に宮を置いた。後、田村神社へ移動。弟の 吉備津彦 を助け 岡山県の温羅 を征伐したり、また、別の弟 稚武彦命の高松市鬼無(きなし) 辺りでの鬼(=この地では海賊)退治に知恵を授けた。高松市鬼無には鬼ヶ塚が残っている。その際の話しが、桃太郎伝説として残っている。

歴史は勝者が作り、それまでの歴史を書き変えていく。

吉備津彦は、第7代孝霊天皇の皇子であり、倭迹迹日百襲の弟、また四道将軍の1人で、西道に派遣された。

温羅とは、今の韓国から来た古代吉備地方の統治者であり製鉄を得意とする一族であったが、大和朝廷から派遣された吉備津彦に征伐された。

大和朝廷からすれば、当時、各地方の統治者は、まつろわぬ民として鬼や土蜘蛛、蝦夷、熊襲、隼人などと呼ばれ、征伐の対象とされた。

葛城一言主神社(奈良県御所市森脇)に訪れた際、参道と境内に土蜘蛛を葬った土蜘蛛塚があった。大和朝廷による従わない地方の民は征伐の対象だが、現地側からすると大和朝廷は自分達を支配下に治めようとする敵である。

🟣奈良県から東かがわ市までの予想ルート

奈良県磯城郡田原本町黒田 庵戸神社(廬戸神社、孝霊神社)を出発→

大和川を下って堺の港から船を出し、途中、淡路島の伊弉諾神宮(いざなぎじんぐう)に立ち寄り、東かがわ市馬篠の浜で一休み、艪を松に立てかけた(艪掛神社)→

東かがわ市引田の安戸池(塩竃神社)→

香川県かがわ市の水主神社 →

安戸池から陸路で、豊かな水源を求めて水主神社へ向かった。

●水主神社で成年になるまでを過ごした。その間、西村の保田池や小磯の袖掛神社に伝承が残る。

水主神社は、本殿祭神に倭迹々日百襲姫命を祀り、本殿右手には、倭迹迹日百襲姫の母・倭国香姫命を祀る国玉神社。本殿後方には、祭神の父・孝霊天皇を祀る孝霊神社がある。倭迹迹日百襲姫は幼かったことから、恐らく父の孝霊天皇と母も一時期、この水主神社に住んでいたと推測される。

水主神社に住んでいた間、弥生米を与えて稲作作りを推奨し、水源確保にも尽力した。今も水主米は美味しく評価が高い。

その後、高松市香川町の船岡山にて宮を置いた。後、田村神社へ移動した。

この辺りに宮を置いていた間、弟の稚武彦命(わかたけひこのみこと)の高松市鬼無での鬼(=海賊)退治に知恵を授けた。

🟣地図上で見たルート

孝霊神社(別名: 廬戸神社。奈良県磯城郡田原本町黒田262)から大和川を下って堺の港へ。

奈良県磯城郡田原本町黒田の庵戸神社(廬戸神社、孝霊神社)から大和川を下って堺の港へ。

堺の港から船で、淡路島の伊弉諾神宮へ立ち寄る。伊弉諾神宮の位置から判断すると恐らく明石海峡を通ったと思われる。

淡路島の伊弉諾神宮から東かがわ市の馬篠へ。艪を松に立てかけた場所が艪掛(ろかけ)神社

艪掛神社から船で引田の安戸池、塩竃神社へ

東かがわ市引田の安戸池から東かがわ市の水主神社へ

地図を見ると分かるが、東かがわ市の馬篠にある艪掛神社から引田の安戸池を経由して水主神社へ行くより艪掛神社から直接、水主神社へ行く方が断然距離も短いし早く着く。艪掛神社から安戸池の塩竃神社辺りへと移動した理由は何だったのか?

安戸池と水主神社の位置関係

東かがわ市馬篠にある艪掛神社と水主神社の位置関係

安戸池と塩竃神社の位置関係

東かがわ市の水主神社に宮を置いた。住んでいる頃の伝承として、小磯の袖掛神社、西村の保田池の伝承が残る。

袖掛神社では、暑くてたまらず袖を引きちぎった。

●袖掛神社↓

https://www.google.co.jp/maps/place/〒769-2511+香川県東かがわ市+袖掛神社/@34.2724186,134.3130747,16z/data=!4m2!3m1!1s0x35539b776ce9ac11:0xe92df21f3cb5c43a?hl=ja&source=embed

艪掛神社と袖掛神社の位置関係

艪掛神社と袖掛神社の位置関係

水主神社と袖掛神社の位置関係

袖掛神社と水主神社の位置関係

水主神社と保田池の位置関係

水主神社から高松市の船岡山へ

水主神社→艪掛神社→馬篠港→海岸沿いを船で西へ移動→高松港(当時は海岸線は内陸部にあり、200基の古墳が残る岩清尾山塊の近くまでが海岸だった)から船岡山へ。陸路で船岡山にたどり着き宮を構えた。その後、田村神社へ移動した。

水主神社には姫の御陵と呼ばれる古墳がある、また船岡山頂上にも2基の古墳がある。いったい誰の古墳だろうか? 当時の讃岐の地方豪族の墓なのだろうか? よもや船岡山の前方後円墳は倭迹迹日百襲姫の古墳と言うことはなかろうか?

現代だと、水主神社から高松市香川町の船岡山へは、徒歩での移動の方が、海上航路より早い。航路で東かがわ市から高松港辺りまで海岸沿いを漕いでいくのは半島が数カ所突き出ており遠回りになる。当時は陸路では道がなく海上航路を取らざるを得なかったかもしれない。海外沿いを船で西へ移動し、高松港辺りから船岡山まで歩いて移動したのだろう。

“卑弥呼説のある奈良の箸墓古墳に眠る倭迹迹日百襲姫 (やまとととひももそひめ) は幼少期、香川県東かがわ市に住んでいた! 奈良県孝霊神社から東かがわ市を経て高松市田村神社までの予想ルートは?” への1件の返信

  1. 大和川は江戸時代に付け替えられて堺に至るようになりました。古代は大阪城(当時はありませんでしたが)あたりで淀川に合流していたそうですので、堺よりも神戸まわりで淡路島に渡ったのではないかと想像します。

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