2020/10/10
最終更新日: 2020/10/10
🟣2015年、NHK和歌山放送局で南方熊楠の映像が発見された!
南方熊楠の映像を初めて見た!熊楠の写真は多く残っているが、映像は他にないだろう。もし大英博物館勤務時代の熊楠が英語を話す映像が発見されればどんな風に英語を話していたのかわかって面白いのだが、、それは無理か 笑
残っている記録によると野村益三子爵は1935年(昭和10年)5月18日に南方熊楠邸を訪問した。
和歌山県田辺田辺市沖に浮かぶ神島(かしま)の国指定の天然記念物化にからんだ件での訪問だったのか。
神島は、1935年(昭和10年)12月24日に、国の天然記念物に指定された。
●南方熊楠は、神島の保存運動に奔走していた。親交があった柳田國男を通じて、柳田國男の弟、松岡静雄の妻、初子の兄である野村益三(貴族院子爵議員)に神島保存、国の天然記念物化を働きかけていたのかもしれない。
🟣神島(かしま)とは?
神島(かしま)は、和歌山県田辺市にある無人島。全島が照葉樹林に覆われ、南方系の植物が多く知られることから、天然記念物に指定されている。南方熊楠が保存運動に動いたことでも知られている。
神社合祀によってこの島の森林が伐採される計画が出たとき、南方はこれに猛烈な反対運動を行い、地元の協力を得ると共に、中央の研究者や役人に働きかけ、法律的な保護がつくこととなった。
1929年(昭和4年)6月1日に昭和天皇が訪れた。
1930年(昭和5年)に和歌山県の天然記念物に、更に1935年(昭和10年)に国の天然記念物に指定された。
🟣野村益三とは?
野村 益三(のむら ますぞう)
1875年(明治8年)3月5日 – 1959年(昭和34年)12月25日
明治から昭和期の教員、政治家、華族。貴族院子爵議員。
🟣経歴
外務省出仕・野村靖の長男として生まれる。
父の死去に伴い、1909年2月19日に子爵を襲爵した。
東京帝国大学農学部を修了し、1910年、ドイツ帝国に留学した。
1905年、和歌山県立粉河中学校教諭に就任。
以後、愛知県立第五中学校教諭、愛知県立第五中学校教諭、神奈川県立第四中学校教諭などを歴任。
その他、教科書調査会副会長、帝国水産会長、南洋水産協会長、産業組合中央金庫評議員、大日本育英会評議員、帝国教育会評議員会議長、大日本農会理事、東京農業大学理事、国語審議会委員、教育評議会委員、文政審議会委員、物価審議会委員、農林計画委員会委員などを務めた。
1911年7月、貴族院子爵議員に選出され、研究会に所属して活動し、1946年4月13日に辞職するまで五期在任した。
🟣柳田國男は、弟の松岡静雄(海軍大佐、言語学者・民族学者)の妻・初子(通信大臣、内務大臣を務めた野村靖の娘)を通じて野村益三、入江貫一、本野一郎、中勘助らと親戚関係にあたる。
野村益三の父、野村靖は、岩倉使節団の一員として渡欧もしている。
野村靖の長男が、野村益三、娘が初子(柳田國男の弟の後妻) である。
🟣柳田國男は、南方熊楠と親交があり、熊楠のことを「日本民俗学最大の恩人」と述べ(「民俗学の恩人」『柳田國男全集』第32巻、筑摩書房)、さらには「日本人の可能性の極限かとも思い、また時としてはさらにそれよりもなお一つ向うかと思うことさえある」とも述べている(「南方熊楠」『柳田國男全集』第32巻、筑摩書房)。