NHK教育テレビ「できるかな」最終回にノッポさんが喋ったシーンの動画! 高見のっぽさんについて! インタビュー動画! わくわくさんの現在は?

🟣できるかな 最終回Youtube動画

●のっぽさんが話す最後のシーンの動画‼️

🟣↓最終回動画 解説付きバージョン




🟣わくわくさんは、現在、YouTuberとして活動中

●『できるかな』の最終回(1990年3月9日)にノッポさんが初めて子供たちに語りかけた事は、当時の子供たちに衝撃を与えた。この最後の台詞はすべてアドリブだったが、放送終了後は街を歩いているといきなり大の大人が高見を見て泣き出すなど、反響の大きさに驚いたという。

●『できるかな』は、NHK教育テレビで1970年4月8日から1990年3月9日まで放送されていた幼稚園・保育園向けの教育番組、工作番組である。「ノッポさん」と「ゴン太くん」が、テレビを見ている幼児に、身近にあるものを使って工作の楽しさを教える。

●「できるかな」の前身『なにしてあそぼう』

ムウくん




1966年4月12日 – にスタート。当初、ノッポさんの相方は「ムウくん」という赤い色をした熊の子で、2人で絵を書いたり工作をする番組だった。1970年3月28日 『なにしてあそぼう』最終回。これに伴って、ムウくんも降板。

●「できるかな」の最終回では、それまで20年間「無言」を貫いたノッポさんが、最終回の終盤で「あーあ、しゃべっちゃった」と話したことは大きな話題になり、高見自身その時の心境と経緯を著書『ノッポさんがしゃべった日』に書いている。

「できるかな」の前身番組である、「なにしてあそぼう」から数えると1966年から1990年まで24年間、一言もしゃべらなかったことになる。

●最終回 1990年3月9日 

ノッポさんが最終回にして初めて言葉を発する。番組終盤、ノッポさんたちの後ろから後継番組となる『つくってあそぼ』(当初は『ともだちいっぱい』の曜日別コーナー)の「ワクワクさん」(久保田雅人)と熊の「ゴロリ」が登場。

ナレーターのかずきが「あれ?ノッポさん、後ろに誰かいますよ?ほらほら」と語りかけたのに対し、ノッポさんが第一声「ええ、知ってますよ~」と発声。

お姉さんの「え?今、誰が返事したの?」という言葉に対して「え?僕!」。「ひゃあ~!」。それに続いて、「はぁ~、あーあ、喋っちゃった。今日はね、特別なんです。えーとね、長い間ね、みんなと友達でいましたけど、『できるかな』は4月から、あの『ともだちいっぱい』という新しい番組と変わります。でね、今日はその番組の出演者の紹介です(後略)」と、ノッポさんの発した言葉は、視聴者への別れの挨拶と後番組の紹介であった。

ワクワクさんがノッポさんの手本に続き、折りたたんだ紙から星を切り抜く工作をし成功。ノッポさんは合格と評した。本編終了後『つくってあそぼ』の放送開始日時を記した新番組告知画面を表示。こうして『できるかな』は、『なにしてあそぼう』から23年続いたその歴史にピリオドを打つ。








🟣ノッポさん語る




感動のメッセージ


インタビュー


🟣高見のっぽ プロフィール


1934年5月10日〜

京都府太秦生まれ。

1966年から20年以上に渡り、NHK教育テレビで放送された『なにしてあそぼう』~『できるかな』では、一言もしゃべらずに鮮やかに工作を生み出す“ノッポさん”として出演。

同時に、作家・高見映として多数の児童書、絵本、エッセイなどを発表。

現在は、俳優・作家・歌手として幅広く活躍中。

本名、高見嘉明

🟣人物

高見 のっぽ(たかみ のっぽ、以前の芸名:高見 映(たかみ えい)

本名:高見 嘉明(たかみ よしあき) 

1934年5月10日 –

身長 181cm

日本の俳優、作家。京都府京都市右京区太秦出身。

『なにしてあそぼう』『できるかな』(NHK教育、1966年 – 1990年)にて、一切喋らないキャラクター「ノッポさん」を務め上げた。放送終了後の現在でも「ノッポさん」の愛称で親しまれている。

🟣概要

京都府京都市右京区太秦の役者長屋に生まれ、4歳から東京市向島区(現在の東京都墨田区)に育つ。5人兄弟の第4子。

小学校4年のとき岐阜県羽島郡笠松町に疎開し、高校2年までこの地で過ごす。帰京後、東京都立立川高等学校卒業。

父・嘉一(芸名は柳妻麗三郎(やなづま れいざぶろう)、松旭斎天秀(しょうきょくさい てんしゅう)、チャーリー高見など)は芸人、奇術師、俳優、工場長と様々な職業を経験し、第二次世界大戦後、芸人に復帰した人物。

チャーリー・チャップリンの物まねを得意とし、京都のマキノ・プロダクションに俳優・柳妻麗三郎として在籍していた時期に嘉明が生まれた。その影響で、芸で身を立てる事を志す。フレッド・アステアを尊敬し、ダンサーとして芸歴をスタートさせたが、なかなか陽の目を見ず、自殺を考えたこともある。

30代半ばで、NHK教育『なにしてあそぼう』(後に『できるかな』)のノッポさん役に抜擢される。名前の由来は当時としては高身長だったことから。

以後24年間しゃべらない(意思表示はジェスチャーだけの)キャラクターを演じ続け、国民的な知名度を得るに至った。『できるかな』の最終回(1990年3月)にノッポさんが初めて子供たちに語りかけた事は、当時の子供たちに衝撃を与えた。

この最後の台詞はすべてアドリブだったが、放送終了後は街を歩いているといきなり大の大人が高見を見て泣き出すなど、反響の大きさに驚いたという。

子供のことを小さい人と呼び、常に敬意を払って接している。

かつては放送作家としても活動しており、10年以上にわたり『ひらけ!ポンキッキ』(フジテレビ)などの筆頭構成作家として台本を手掛けた。

また、最初期のオリジナルソング「ぼくわるかった」「傷だらけのぼく」「シャワシャワシャワー」「雨のふる日はぼくゴリラ」「しんぞうのうた」「つみきのうた」「たまねぎにんじん」「おさんぽ」等の作詞も担当、楽曲を提供した。

その関係もあり、後年イベントステージや放送で、フジテレビの『ひらけ!ポンキッキ』とNHK総合・教育の『にこにこぷん』が局を超えた“夢の競演”を行なった際、その橋渡し役を行なったともいわれている。

『できるかな』放送終了後は、絵本・児童文学作家としての活動を主としており、50冊近くの著書を上梓している。高見ノッポ名義で著作する事が多い。

2005年12月からは、NHK『みんなのうた』において、初の短編ミュージカル映画形式の『グラスホッパー物語』を歌い、自ら脚本・作詞・歌唱・振付も手がけた。翌年DVD・CDで同曲をリリース。

71歳にして歌手デビューを果たし、異例の10ヶ月ロングラン放送を記録[6]。海外の映像祭でも評価を得て、文化庁メディア芸術祭で受賞。

2006年の『第57回NHK紅白歌合戦』にも特別出演、続いて第58回放送文化賞の受賞へとつながり、幼児・児童教育の分野を中心とする長年の功績が称えられた。名義は高見のっぽ

なお、上記の『グラスホッパー物語』を機に芸名を「高見のっぽ」「ノッポさん」にした。この反響を受けて、2007年4月には楽曲第2弾『ハーイ!グラスホッパー』を、『みんなのうた』で発表。

カナヅチだったが、50歳になり腹が出てきたので水泳を始めた。上達が早く(平泳ぎの蹴りが良いと言われた)、プロのコーチから無料でコーチすると申し出があったほどであった。

薦められて1986年、日本水泳連盟マスターズ関東大会平泳ぎ25m部門に出場し、金メダルを獲得した。

1987年にはマスターズ世界大会に出場、60人中14位であった。

相手の年齢や立場にとらわれず、周囲に敬意をはらう姿勢や、その優しい人柄は多くの人から愛されている。

イギリスのロックギタリストジミー・ペイジと顔つきが似ている事を、みうらじゅんが宝島社の「VOWでやんす」において、「ジミー・ペイジとノッポさんは同一人物説」のコラムで指摘している。

2010年9月7日、森永製菓「森永ホットケーキミックス」ホームページにて、期間限定で同商品のイメージキャラクターを務めることが発表され話題を呼ぶ。

森永製菓「森永ホットケーキミックス」では、トップページにノッポさんからのメッセージムービーが見られた。

また、期間限定コンテンツ「ノッポさんの親子でつくろう!ホットケーキ」では、実際にノッポさんが子供たちと一緒にホットケーキ作りに挑戦したり、「小さいひと」の気持ちをよく理解するノッポさんだからこそ答えられるパパ・ママのお悩み相談室を毎月更新していた。

2013年より、自身が演出・選曲するひとり芝居「ノッポさんの宮沢賢治〜ぼくは賢治さんが大好き」公演をノッポさんの宮沢賢治制作委員会が企画・運営・開催。

🟣著書

↑内容紹介

ノッポさんからの心温まる珠玉のメッセージ 

子どものことを「小さい人」と呼び、子どもにも大人にも敬意を持って接するノッポさん。ノッポさんの子どもとのつき合い方、大人とのつき合い方、幼少時の記憶など、ノッポさんの生き方や人生哲学を一冊にギュッと凝縮。

『できるかな』のノッポさんに再び出会える懐かしさともに、自分の中の「小さい人」と向き合える感覚を味わえます。インタビューや紙芝居もついて、読み応え十分の内容。 

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