蜂須賀正氏 – 日本人として初めて野生のゴリラと対面。徳川慶喜の孫。派手な女性関係。自家用機で日本脱出。白金密輸。華族礼遇停止処分。ケンブリッジ大学卒。ロスチャイルド男爵と親交 –

2019/12/24

最終更新日: 2020/10/3



興味を持った人物!

🟥蜂須賀 正氏(はちすか・まさうじ)とは?

この方の破天荒ぶり、溢れんばかりの情熱を自分の興味のあるのみに注ぐ、その痛快な人生は第三者としてみる場合はこの上なく面白い🤣

大正から昭和初期にかけて、猟銃を肩にエジプト、アイスランド、フィリピン、コンゴと辺境の地を探検し、世界の学者がまともに相手にしなかった絶滅鳥ドードーの研究に情熱を傾けた鳥類学者。







日本人として初めて野生のゴリラと対面した人物。 

華族でありながら破天荒、自由奔放に己の道を生きた人物。












⚫️蜂須賀 正氏(はちすか まさうじ、1903年2月15日 – 1953年5月4日)

日本の華族(侯爵)、貴族院議員、探検家、鳥類学者、飛行家。

絶滅鳥ドードーの研究で知られた他、沖縄本島と宮古島との間に引かれた生物地理学上の線である蜂須賀線に名をとどめている。

モーリシャス・ドードー







世界一の珍しい鳥: 破格の人<ハチスカ・マサウジ>の博物随想集

■経歴:
旧徳島藩主蜂須賀家の第18代当主として東京に生まれる。

お印は椿、後に兜。

父 蜂須賀正韶 第17代当主


父 蜂須賀正韶は侯爵、貴族院副議長。


母、筆子は徳川慶喜の4女。


姉、年子はデザイナー。


父からは、政治家になることを望まれていた。

学習院初等科に入った頃から生物に著しい関心を示し、先輩の黒田長禮に出会ってから鳥類学に志す。

1919年、学習院中等科在学中、日本鳥学会に参加。

1920年9月に渡英。

1921年、父の母校ケンブリッジ大学モードリアン・カレッジに入学。 ウォルターロスチャイルド男爵もケンブリッジ大学モードリン・カレッジの出身である。

政治学を修めるという口実だったが、もっぱら鳥類の研究に没頭し、大英博物館や剥製店や古書店に通い詰める。 

さらに、銀行家で『絶滅鳥大図説』の著者であるウォルター・ロスチャイルド男爵と親交を結ぶ。さらに、豊富な資金力に物を言わせて探検隊を結成し、アイスランドやモロッコ、アルジェリア、エジプト、コンゴ、南米、東南アジアなどを踏破。

1928年、英国から一時帰国中に、有尾人を求めてフィリピンでジャングル探検を決行。
卒業論文は「鳳凰とは何か」で、伝説上の霊鳥鳳凰のモデルを、カンムリセイランとした。

マレー半島に生息するカンムリセイラン(鳥類学者蜂須賀正氏はケンブリッジ大学に提出した卒業論文「鳳凰とは何か」において、鳳凰のモデルを、カンムリセイランとした。頭がニワトリに似、頸がヘビのようで、背中に亀甲状の模様があり、尾が縦に平たく魚に似ている、といったカンムリセイランの特徴を挙げた。



1928年、渡瀬庄三郎と共に日本生物地理学会を設立。

1930年、再び渡欧。

1930年暮から1931年5月にかけて、ベルギー政府探検隊のアフリカ探検に参加、日本人として初めて野生ゴリラと対面した。

1933年2月3日、父の死去に伴って一時帰国。

1933年2月15日に襲爵し、貴族院議員となる(~1943年12月9日)。 この年、交際していた女性が自殺未遂を起こした事件で非難を浴びる。

自ら資格を取得して飛行機を操縦し、1934年には空路で単身ポーランドに渡るなど、破天荒な行動力で人気を集めたが、派手な女性関係で顰蹙を買う。 同年、財産を秘密裏に米国に移そうとして物議をかもしたこともあった。

1935年に再び外遊の旅へ出発し、そのまま病気と称して米国に住みつくも、スピード違反で拘留を受ける。 その後、帰国して静岡県熱海市の別荘に居を構えたが、1943年11月30日、品行不良ゆえに宮内省から華族礼遇停止処分を受けた。

中央 蜂須賀正氏、右 妻 蜂須賀知恵子


戦争末期には自家用機で日本脱出を計画して問題となったり、子爵 高辻正長と共謀して白金の密輸に関与した廉で検察の取調べを受けたりするなど醜聞にまみれ、「醜類有爵者」と嘲笑された。

密輸の件では1945年5月10日に国家総動員法違反容疑で起訴。

1945年7月28日、敗戦直前に爵位を返上して平民となる。

戦後は、在米中に結婚した智恵子夫人との壮絶な離婚訴訟や、遺産相続の揉め事、財宝の行方不明事件、横井英樹への貸し金をめぐる訴訟などで週刊誌に数多くのゴシップを提供した。

1953年、日本生物地理学会の会長に就任。 畢生の論文「ドードーとその一族、またはマスカリン群島の絶滅鳥について」(1953年)を北海道大学に提出、理学博士号を取得。まもなく狭心症により熱海で死去。

享年50。

墓所は蜂須賀家歴代の墓所のある徳島市の万年山墓地。 法名は理光院。

東京三田二丁目の5万坪の旧邸は、1950年暮に今日では約1000億円でオーストラリア政府に売却され、現在、駐日オーストラリア大使館となっている。 

南の探検 (平凡社ライブラリー (570))

家族:
・昭和14年(1939年)3月10日に入籍した夫人 智恵子(日系アメリカ人 永峰治之の長女)明治42年(1909年)1月20日生~平成8年(1996年)5月27日没)

・長女 正子(蜂須賀家19代当主,昭和16年(1941年)1月7日生)

■蜂須賀正氏の娘 蜂須賀 正子(はちすか まさこ)


昭和16年(1941年1月7日 – )は、蜂須賀家19代当主。


英語学者。


18代当主 蜂須賀正氏の娘。 母は蜂須賀智恵子。

祖父は17代当主 蜂須賀正韶。祖母は徳川筆子。

曽祖父は15代将軍徳川慶喜。伯母は蜂須賀年子。

歴代の当主(徳島藩主を含め)で唯一の女性である。実子はなく、養子を取っていないため、蜂須賀家最後の当主となる。

平成16年(2004年)、蜂須賀家の歴史的資料などを徳島市に寄贈した。 寄贈された資料は徳島市立徳島城博物館にて展示されている。




絶滅鳥ドードーを追い求めた男 〔空飛ぶ侯爵、蜂須賀正氏 1903-53〕

🟥蜂須賀正氏と交流があったウォルターロスチャイルド男爵とは?

ウォルターロスチャイルド男爵


生年月日1868年2月8日
出生地 イギリス イングランド・ロンドン
没年月日1937年8月27日(69歳没)

なぜ銀行家のロスチャイルド男爵と蜂須賀正氏が交流があったか不思議だったが、このロスチャイルド男爵も無類の動物好きだった。

銀行業そっちのけで動物研究に多大な時間と資金を使っていた。有り余る財産を持ってしても剥製収集や飼っていた動物を養う資金は多額に及び借金までしたり、父に保険金をかけたりした。

破天荒ぶりが、蜂須賀正氏とどこか似ている。

🟣ロスチャイルド家の異端児 ウォルター・ロスチャイルド、新種のキリンを発見、ロスチャイルドキリンと名付ける。ゾウガメにまたがり、シマウマの馬車に乗る。

第2代ロスチャイルド男爵ライオネル・ウォルター・ロスチャイルド(英語: Lionel Walter Rothschild, 2nd Baron Rothschild

1868年2月8日 – 1937年8月27日)

イギリスの動物学者、政治家、貴族。

シマウマの馬車に乗るウォルター。ハイド・パークをこれで回って話題になった


餌をゾウカメの前にぶら下げ歩かせる。

トリングパークで飼っていたガラパゴスゾウガメに乗るウォルター。

このゾウガメは「ロトゥマ」と名付けられ、年齢は150歳以上だったという。

英国ロスチャイルド家の嫡流であるが、銀行業には関心を持たず、動物学研究に傾倒した。


🟣経歴

初代ロスチャイルド男爵ナサニエル・ロスチャイルドとその夫人エンマ・ルイーザ・フォン・ロートシルトの間の長男としてロンドンに生まれる。

弟にチャールズ・ロスチャイルドがいる。

子供の頃から動物好きだった。子供の頃には蛾や蝶の蒐集をしていた。

ケンブリッジ大学モードリン・カレッジで動物学を学ぶ。その卒業論文は高い学術的レベルにあり、教授たちから大学に留まって学者になることを薦められたが、1889年には大学の研究室を去って曾祖父ネイサン・メイアー・ロスチャイルドによって設立された投資銀行N・M・ロスチャイルド&サンズで働くようになった。

しかしさして重要な役職には就かず、動物学研究を続ける時間的余裕をわざと作った。また銀行業の仕事に際しても大英帝国各地に散らばる支店を活用して動物に関する情報を収集したようである。

1892年にはロスチャイルド家所有の土地トリング・パークに動物園と動物学博物館を設立した。博物館には多くの動物の剥製や昆虫の標本が集められた。

また動物園には世界各地から動物を購入して集め、研究員たちとともにその生態を研究し、動物学の本を次々と刊行した。

彼によって新発見された動物も少なくなく、それらの動物にはロスチャイルド・キリンなどロスチャイルドの名(ジラファ・カメロパルダリス・ロスチルディ Giraffa camelopardaris rothschildi)が冠された。

1899年にバッキンガムシャー・アリスバーリー選挙区から自由統一党候補として出馬して庶民院議員に当選する。以降、議会に行くという名目で銀行業の執務を抜け出してロンドン自然史博物館に通うようになった。

父から受けている手当は巨額だったが、それをもってしても数万匹の動物は養いきれなかった。彼は絶えず借金し、ついには父ナサニエルに無断で父に保険金をかけたことで父の逆鱗に触れた。

父は銀行業務そっちのけで動物学研究に傾倒する長男ウォルターに三行半をつけるか迷っていたが、ここにきてついにウォルターを経営から追放して次男チャールズに経営を委ねることを決意した。

こうしてウォルターは、煩雑な経営から免れて、残りの全生涯を動物学に捧げることができるようになった。銀行の経営を見るようになった弟チャールズも動物学研究に関心を持っており、兄の研究に協力した。チャールズは特にノミの研究で知られる。

第一次世界大戦中の1915年に父が死去し、第2代ロスチャイルド男爵を継承し、貴族院議員となる。

さすがに父が死んだとなれば長男であるウォルターが銀行業を継承すべきという意見もあったが、相変わらず彼には銀行業をやる意思がなく、銀行業は弟チャールズが継ぐことになった。

しかしチャールズは二年ほどで身体を壊したため、最終的には叔父レオポルドの息子であるライオネルとアンソニーの兄弟に受け継がれることになった。この兄弟は銀行業の才能があり、経営は再び軌道に乗ったという。

1917年にオスマン帝国領パレスチナにイギリス軍が進攻したが、その際に英外相アーサー・バルフォアに働きかけ、彼からバルフォア宣言を出させるのに貢献した。

ウォルターはテオドール・ヘルツルの思想に影響を受けていたので、シオニズムに好意を持っていたが、英国ロスチャイルド家は英国ユダヤ人に反シオニズム組織を創設させるなど完全に反シオニズムの立場だったから、ウォルターは英国ロスチャイルド家の中で異端の人物だったといえる。

もっともウォルター自身もシオニズムにさほど熱心だったわけではなく、これを積極的に推進していたのはパリ・ロスチャイルド家のエドモンであった。

絶滅鳥類やトリバネアゲハも研究し、日本の鳥類学者蜂須賀正氏との交流も知られている。

1937年に死去。彼の遺言によりトリング・パークの博物館やその展示物は大英博物館に遺贈されその一部となった。

この博物館は現在「トリング自然史博物館」としてロンドン自然史博物館の姉妹博物館(分館)となっている。

博物館には哺乳類の剥製2000、鳥類の剥製2400(もともとは30万個近くあったが、29万5000個をアメリカの博物館に売却)、爬虫類の剥製680が展示されており、また研究室には30万の鳥類の皮、20万の鳥類の卵、225万の昆虫類が収められているという。

ウォルターの墓には「ask of the beasts and they will tell thee and the birds of the air shall declare unto thee」(動物達に語りかけよ、さすれば獣はそれに応え、空を飛ぶ鳥達も何か告げてくれるであろう)の墓碑銘が刻まれている。

生涯未婚で私生児の娘一人しかなかったため、ロスチャイルド男爵位は甥のヴィクター(弟チャールズの長男)が継承した。 

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