佐柳島(香川県仲多度郡多度津町)を訪問。島全体がネコカフェか(笑)⁉︎ 島民70名、ネコ100匹、イノシシ100匹⁉︎ 島内の生の声も聞いた!

2019/11/13 水曜日 晴れ

🔴香川県仲多度郡多度津町沖にある佐柳島、通称 ネコ島を初訪問。佐柳島は、さなぎしま と読む!

佐柳島 (さなぎしま)は、島全体が猫カフェみたいやった 笑! 島の方々から問題点もお聞きした‼️

🔴佐柳島の定期船の待合室の方と話してたら人口70数名、ネコ100匹、イノシシも100匹いるとのこと(^。^) えっ、100匹ですか? 聞き返したが、猟銃会の人たちがイノシシの足跡を見て100匹くらいはいる、ということらしい! イノシシの被害は深刻な問題だと言う。さっき会ったおばさんも、イノシシが100匹いると言っていた。ここは、ネコ島でもあるが、イノシシ島でもあるのだ! 作物を作っても、すぐに食べられるそうだ。そう言えば、最近、高松のサンポートでも島から泳いできたイノシシが上陸できないように黄色い網が張られていたのを思い出した。
瀬戸内海を泳ぐイノシシは、よく聞く話しだ。

瀬戸内海を泳ぐイノシシ

🔴1860年に浦賀からサンフランシスコまで航海した咸臨丸の日本人乗組員96名、アメリカ人乗組員11名の計 107名のうち、この佐柳島からは、2名が水夫として乗船した。28島ある塩飽諸島全体では、本島 12名、広島 11名、高見島 3名など計 35名が勝海舟を艦長とする咸臨丸に乗り込んだ。佐柳島の水夫 一人はサンフランシスコへ行く途中で亡くなり、帰れなかったようだ。

佐柳島の本浦港から長崎港へ行く途中で会った おばさんと話をしていると歴史好きの方で、生まれは、佐柳島、育ちは本島だと言う、咸臨丸や海援隊のお話しを聞けた。

佐柳 高次(さなぎ たかじ、天保6年9月28日1835年11月18日) – 明治24年(1891年1月27日)は、幕末志士海援隊隊士。前田音三郎の子。本名は前田常三郎。浦田運次郎の変名を用いた。

讃岐国塩飽佐柳島の出身。嘉永4年(1852年江戸に出府し、安政2年(1855年長崎海軍伝習所の水夫に採用される。1860年万延元年)勝海舟らとともに咸臨丸で渡米(太平洋横断)を経験する。文久2年(1862年)勝の紹介で坂本龍馬と知り合い、神戸海軍操練所、さらに亀山社中(後の海援隊)にも参加した。

幕末の頃、数名の佐柳島の島民が咸臨丸の乗組員に選ばれ勝海舟らと共にアメリカ合衆国サンフランシスコに渡米。航海中に病を患い客死した平田富蔵の墓が乗蓮寺に残る。 また坂本龍馬率いる海援隊の志士として活躍した佐柳高次は「いろは丸沈没事件」当時のいろは丸の航海長を勤め、長崎奉行所占拠事件にも参加している。

🔴佐柳島の両墓制と咸臨丸水夫の墓

🔴朝一でエサをやったら飛び猫も撮れた‼️ しかしながら、私たち観光客はエサをやるのみで、糞尿の掃除はしない‼️ ネコの糞尿の掃除は島民の方々がしていると聞いた。島内で車にひかれるネコもいるという。 船の待合場などで、ネコのエサやお土産物などを販売し、それを清掃費や猫の管理費に充てることはできないものか? ノラ猫たちは、健康管理ができないため、肥満や病気になったりする、また、繁殖しすぎるといけないため去勢処理なども必要になってくる。男木島のネコたちは去勢済みのしるしとして耳に切り込みが入っていたのを思い出す。

🔴ランチは、小学校を修繕した宿泊施設 ネコノシマホステル ↓ に併設されたネコカフェで頂ける。

🔴三洋汽船 時刻表

多度津港→高見島→佐柳島

香川県仲多度郡多度津町の多度津港

定期船は、多度津港→高見島→佐柳島 を往復する。多度津港から佐柳島は、50分かかる。

三洋汽船 時刻表 多度津港→高見島→佐柳島

高見島を出て佐柳島へ向かう

高見島。高見島から佐柳島へ向かう途中

佐柳島の地図

上陸した途端に定期船の待合室前にネコの群れを見た 笑

本浦港から長崎港へ続く海岸線。防波堤の上で、飛びネコの撮影ができる。

10:00に佐柳島に着き、朝一でエサをやるとネコが寄ってきた 笑

ネコが10数匹寄ってきた

防波堤の隙間の一方にエサを置き、飛びネコを撮影

高見島を背景に、飛びネコを撮影

八幡神社で参拝中もネコが寄ってくる 笑

本浦港と長崎港の中間地点にあるネコノシマホステルとネコカフェ

ネコカフェの入り口を入ってすぐの右手にある棚

2019/11/13 水曜日のランチメニューは、手作りカレー。スパイスが効いて美味しい‼️

島内には、イノシシが、100匹くらいいるという。

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