源義経に寵愛された静御前と母 磯禅師の終焉の地(墓所)を訪ねて! Part3 (香川県木田郡三木町の静薬師庵。偶然、和爾賀波神社に辿り着いた、本殿裏の森はパワースポットか⁉︎)

🟣長尾駅から静薬師庵

香川県木田郡三木町にある鍛冶池のほとりに老松の木立ちに囲まれて「静薬師庵」がある。

源義経が寵愛した静御前の墓と伝えられる五輪塔がある。

奈良県の吉野で、義経と別れた後、神奈川県の鎌倉、京都を経て、讃岐の長尾寺で得度して尼となり、この地で亡くなったとされる。

静御前が、讃岐に来たのは、母の磯禅師が香川県東かがわ市丹生の小磯出身であったためとされる。

静薬師庵は、静御前終焉の地。静御前と侍女 琴路のお墓がある。

この薬師庵で静御前は、今から約800年前に、この地で自給自足の生活を送り、24歳の若さでこの世を去った。。。

🟣奈良の吉野で源義経と別れた静御前は、文治2年(1186)9月中旬、神奈川県の鎌倉から京都へ帰ることを許され、傷心のうちに母と共に京都の法勝寺の一室に一時身を寄せた。

その後、翌年(1187年)の春から夏にかけての頃、母と共に母の故郷である讃岐の国へと向かった。


讃岐へ帰ってからの静は母の生家、香川県東かがわ市小磯の長町家の屋敷でしばらく静養していたが、すでに母の両親は他界しており、母と共に寺社遍歴の旅に出た。

お遍路の旅に出た親子は、志度寺や八栗寺、屋島寺、六万寺など屋島合戦ゆかりの寺々などで、義経の戦いの跡を偲ぶとともに、そこで亡くなった将兵たちの菩提を弔った。


そして、文治4年(1189年)3月20日、長尾寺(四国霊場第八十七番札所)に参拝したとき、9代住職の宥意和尚から「いろはうた」などによって世の無常を諭さされ、母とともに得度を受け、剃髪して尼となった。

母は磯禅尼、静は宥心尼と名乗った。

この後、義経からもらった形見の鼓を煩悩の種と思い切って川へ捨てた。

長尾寺の境内に、静御前が剃髪した際の髪が埋められている剃髪塚がある。


それからの静は母の縁者がいたといわれる現在の香川県木田郡三木町井戸中代(なかだい)に行き、鍛冶池(かじいけ)という池の畔にささやかな草庵を結んだ。

その後、静と母は、京都から追ってきた静の侍女であった琴路(ことじ)と共にひたすら念仏三昧の月日を送った。

この静薬師庵は、香川県木田郡三木町の鍛治池のほとりに今も残る。静御前、静御前の子、侍女の琴路の墓がある。


建久元年(1190年)11月、母の磯禅尼は長尾寺からの帰りに、井戸川のほとりで倒れ、69歳で亡くなった。

この場所は、長尾駅から歩いて10分くらいの県道10号線沿いにある。

1年余りの後、静も母の後を追い24歳でこの世を去った。

静が亡くなってから7日目の夜、琴路もまた後を追うように鍛冶池に入水して相果てたと伝わる。

🟣和爾賀波神社(わにかわじんじゃ)

香川県木田郡三木町にある神社。

長尾寺と静薬師の中間地点辺りにある。

讃岐国三木郡の式内社和爾賀波神社の論社のひとつである。

創建時期は不明。

主祭神 : トヨタマヒメ(豊玉姫、日本書紀)またはトヨタマビメ(豊玉毘売、古事記) 日本神話に登場する女神。神武天皇(初代天皇)の父方の祖母、母方の伯母として知られる。

社伝によると、豊玉比売命が鰐(ワニ)に乗って川を遡り、この地に上陸したという。その川は鰐川(鴨部川)という。

和爾賀波神社の西に2Kmの距離にある鰐河神社の社伝によると、豊玉姫命が亀に乗って讃岐国山田郡潟元(屋島付近)に上陸し、鵜葺草葺不合尊をこの地で産む。その後、鰐(ワニ)に乗って川を遡り、この地に上陸したという。

↑ 豊玉姫と妹(玉依姫)

平安から室町時代にかけて数回の遷宮の記録がある。

式内和爾賀波神社の論社は4社あるが、この数多くの遷宮の影響があると推測される。

明治5年(1872年)郷社となる。

本殿の裏。鳥がさえずり、木々に囲まれた森。ここからは、何か神聖な雰囲気を感じた。この奥は、飛んでいる粒子が細かそう。

🟣神話におけるサメ

この魚は、現代ではサメと呼ばれることが一般的だが、和邇(ワニ)や、鱶(フカ)という呼称も古くから使われており、日本の古典では『古事記』や『風土記』にも「ワニ」として登場する。

現在でも、出雲弁ではサメのことをワニと言う。 シロワニ、ミズワニなど一部のサメは、漁業者の間で伝えられてきた呼称を採用し、「ワニ」の名を戴いたまま現在に至っている。 また、フカという呼称は鱶鰭(フカヒレ)などの言葉に今も残っている。

『古事記』では、大国主の因幡の白兎の伝説に登場する。また、のちに山幸彦こと火遠理命が娶った海神の娘、豊玉毘売(トヨタマビメ)も、出産の際に八尋和邇(ヤヒロワニ)の姿と化していた。


このほか、志摩市磯部町には、鮫は『龍宮の使い』であり、川を遡り、7尾の鮫が伊雑宮に参拝するという伝承がある。

また、『出雲国風土記』に仁多郡で「和爾」が玉日女命を慕って川を遡上したことにちなんで恋山と名付けられた説話が収録されている。

このように、日本神話においてサメは縁深い存在であった。実際に弥生時代の銅剣のうちにはサメの線刻画を持つものがあり、考古学的にもサメに関する信仰の存在が認められている。

琉球の神話や伝承では、サメは海神の使いであるとされ、神聖な生き物とされていた。人間に襲いかかり食らうという獰猛なイメージよりも、溺れた人間を救ったり、神の意思に背き悪事を働いた者を食い殺すという伝承が多く、海の平穏を守る番人のようなイメージが大きい。病気の母親に滋養をつけさせるために、悪天候の中無理をして漁に出た親孝行な若者の舟が波に飲まれ沈没し溺れたときに、海神の使いである黄金色のサメが現れ、背鰭に若者を捕まらせて無事に村まで送り届けたという昔話も残っている。

豊玉姫が化した和邇について、ワニなのかサメなのか論争をするのは文系学者の視点の故であり、理系学者の視点から見れば、ここで和邇と化したのは豊玉姫の安産を予祝するためであり、卵を産むワニではなく、胎生種と卵胎生種がいて出産をして、多産であるサメである、と宮﨑照雄は主張している。

●長尾寺、和爾賀波神社、静薬師の位置関係

鴨部川と和爾賀波神社

鰐河神社と和爾賀波神社

●鰐河神社(わにかわじんじゃ)

香川県木田郡三木町にある神社。

讃岐国三木郡高岡郷の式内社和爾賀波神社の論社のひとつ。

さぬき十五社の一つ。

創建時期は不明。

同じく和爾賀波神社の論社の白山神社は、鰐河神社の境外末社という説がある。

社伝によると、豊玉姫命が亀に乗って讃岐国山田郡潟元(屋島付近)に上陸し、鵜葺草葺不合尊をこの地で産む。その後鰐に乗って川を遡り、この地に上陸したという。行基がこの地に創建したという。

延喜7年(907年)に八幡神を配祀し、高岡八幡とも称していた。また神仏習合により別当寺として応神寺が創建されている。

明治元年(1868年)の神仏分離で応神寺は廃止される。

明治5年(1872年)鰐河神社に改称され郷社となる。

その他

鰐河神社の獅子舞の獅子頭は、高さ63cm・幅90cm・長さ100cm。獅子舞油単を合わせると全長約13mになる。獅子舞は50人がかりで動かすという巨大なものであり、三木町指定文化財である。三木町獅子舞フェスタなどで見ることが可能。


さぬき市の願興寺の脱活乾漆聖観音坐像(国の重要文化財)は、鰐河神社の別当寺の応神寺の本尊という言い伝えがある。


豊玉姫神が鰐に乗って遡った川は、後に鰐川となり、現在の新川と言われている。尚、近くにある和爾賀波神社(和尓賀波神社の論社)によると鰐川は鴨部川のことという。

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