【東かがわ市】仙石秀久の家臣 森権平(森久村)と阿波水軍 森家との関係は? 長宗我部元親の軍と戦い、18才で壮絶な最期を遂げた森権平とは? 森権平の位牌はどこにあるか? 高松藩 森家と徳島藩 碁浦番所役人の八田家との結婚の背景

おはようございます。

トリリンガル讃岐PRオフィサーのモリヨシナリです。

今回は、安土桃山時代(1568年〜1600年)に仙石秀久の家臣として太く短く生きた武士、”引田の戦い”で若干18才で壮絶な最期を遂げた 森権平(森久村) と阿波水軍 森家との関係についてです。

ぜひ最後までお付き合いください。

香川県東かがわ市伊座にある森権平(森久村)の墓

モリヨシナリのプロフィール



神戸市生まれ、香川県育ち。米国大学経営学部留学マーケティング専攻。大手エレクトロニクス企業にて海外営業職に20年間従事。その後、香港、中国にて外資系商社の設立に参画し、副社長をへて顧問。その間、米国に2年、シンガポールに2年、中国に12年間滞在。

現在、Bizconsul Office 代表。ビジネス英語講師、全国通訳案内士(英語・中国語)、海外ビジネスコンサルタントとして活動中。

・観光庁インバウンド研修認定講師
・四国遍路通訳ガイド協会 会員
・トリリンガル讃岐PRオフィサー

保有資格:
【英語:】全国通訳案内士、英検1級、TOEIC L&R: 965点(L満点)、TESOL(英語教授法)、国連英検A級、ビジネス英検A級、他
【中国語】全国通訳案内士、香川せとうち地域通訳案内士、HSK6級、他
【ツーリズム】総合旅行業務取扱管理者、国内旅程管理主任者、せとうち島旅ガイド(瀬戸内国際芸術祭2019公式ガイド)、他

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仙石秀久の家臣 森権平とは?

森(仙石)久村

1566年〜1583年

官位・通称:権平

森(仙石)村吉の次男。

森権平の通り名で知られる。

仙石秀久との盟約で人質に出された際、秀久に寵愛され仙石の姓と久の一字を賜った。

1583年4月21日、引田の戦いで、仙石軍は長宗我部元親軍に緒戦で勝利して追撃するが、敵の反撃を受けて敗走。

その際に森権平久村が殿を務め稲吉新蔵人と激戦になったが、深田に馬の足を取られた上敵に包囲され戦死した。

享年18歳。

🔹東かがわ市伊座にある森権平の墓

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引田の戦いで敗れ、仲間が引田城へ引き上げたといわれる、森権平について調べたい。 | レファレンス協同データベースレファレンス協同データベース

仙石秀久とは?

仙石秀久 – Wikipediaja.m.wikipedia.org

仙石 秀久(せんごく ひでひさ)

戦国時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。

信濃小諸藩の初代藩主。

出石藩仙石家初代。

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🔹仙石氏の家臣

四宮光利
太郎左衛門。四宮氏は信濃から讃岐に移住し、引田城主として寒川氏に仕えた。兄・光武は三好氏に攻められ落城。光利は豊臣家に臣従し、秀久の家臣となり、天正年間に乙井城主となり、諏訪神社を建立している。

小川伊勢守
秀久に仕える。天正11年(1583年)、讃岐に渡り、四国攻めの橋頭堡として法勲寺城を築く。四国国分後、讃岐に計350石を賜る。

広田藤吾
秀久に仕え、天正9年(1581年)11月、淡路州本城攻めに功があった。

🔹森権平

引田の戦いでは仙石軍の殿を務め伊座まで退くも、長宗我部元親軍の稲吉新蔵人に討ち取られた。享年18。死後、地元の人々から足の神様として祀られている。

後藤基次
黒田家からの追放後、一時秀久に仕える。天正13年(1583年)には讃岐高松城(喜岡城)攻めで初陣を遂げた(諸説あり)。後に黒田長政から許しを得たため黒田家に帰参した。

庄林一心
加藤家三傑の一人。元荒木家の家臣で、荒木家没落後に秀久に仕えた。後に秀久が改易処分を受けたため、加藤清正の家臣になった。

羽床資吉
羽床資載の次男。弥三郎。天正7年(1579年)、羽床城開城時に長宗我部家への人質となる。天正10年(1582年)、父資載の没後、羽床氏当主となる。四国攻め後、秀久に仕える。天正14年(1586年)10月、戸次川合戦で討死。

大平国祐(大平伊賀守國祐)
天文7年(1538年)生れ。永禄5年(1562年)、土佐吾川郡弘岡城にて長宗我部元親に敗れ香川之景を頼り讃州多度郡中村に来るが後に姫之郷を領して元亀3年(1572年)、讃州和田獅子ノ鼻城主となる。天正6年(1578年)5月、法華宗雲風山国祐寺を興す。天正13年(1585年)より秀久に仕え、侍大将となる。天正14年(1586年)、戸次川合戦敗北により秀久が失脚すると、かつての家臣の下に身を寄せた。慶長8年(1603年)7月4日没。

大平国常
永禄12年(1569年)生れ。大平国祐の長男。しかし実は次男で大平主膳(永禄4年(1561年)生れ。天正6年(1578年)、阿波重清陣にて討死)が長男という説が有力。天正14年(1586年)12月12日、戸次川合戦で国祐家臣 加地又五郎、合田助十郎とともに討死。享年18。

🔹森村吉

通称は石見、九郎左衛門。後に仙石姓を与えられる。森元村の次男で、森村春の弟。森権平の父。天正10年(1582年)、淡路を抑え森家を援助していた仙石秀久に招かれ家臣になる。天正11年(1583年)の引田の戦いでは緒戦の勝利に貢献した。四国攻めの後も秀久に従い、秀久が信濃小諸を拝領後は7,000石を与えられた。三男・村明の系統は代々仙石家に仕えている。

森権平庵と森権平の墓がある香川県東かがわ市伊座から久米通賢が住んでいた東かがわ市馬宿

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🔹東かがわ市馬宿にある讃岐塩田開拓の父 久米通賢の墓

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阿波水軍 森家とは?

阿波水軍(あわすいぐん)は、森家が率いた阿波の徳島藩の水軍のこと。

歴史
森甚五兵衛(もり じんごべい)という名は代々、森家の当主に襲名され、その当主ごとに甚五兵衛の後ろに名が通常付けられた。

森家は、豊臣秀吉により1590年に天下統一される以前から、阿波の水軍の長であった。

そのため阿波水軍は狭義の意味では、徳島藩の水軍の意味であるが、広義では、安土桃山時代の頃の蜂須賀家の阿波入国以前の森家の率いる水軍を指す。

朝鮮の役、大坂冬の陣及び大坂夏の陣の功績など徳川家の幕藩体制が確立する過程で重要な役割を果たした。

蜂須賀家支配下の徳島藩にあっては、水軍の長である森家は、藩の中老職にあり、参勤交代をもっぱら担当した。

また、16代目森甚五兵衛村晟(むらひら)は明治維新の際、戊辰戦争に明治政府側に家臣団を連れて従軍し、各地を転戦した。

阿波水軍 – Wikipediaja.m.wikipedia.org

歴代の阿波水軍 森甚五兵衛

森 甚五兵衛(もり じんごべえ)は、戦国時代・江戸時代に蜂須賀家で阿波水軍を率いた森家が代々襲名した名称。

歴史
蜂須賀氏が徳島藩の大名として入国する前から、阿波国(徳島)にあり、豊臣秀吉の朝鮮出兵にも参加した。

また代々、蜂須賀氏の中老として参勤交代における瀬戸内海の海上移動などで重責を果たした。

細川氏・三好氏の時代から阿波の土佐泊(鳴門市)を拠点に水軍として活躍した森氏は近世においても水軍区を家職とした武家であった。

「古事記」によると、森氏は本姓藤原、俵(田原)藤太秀郷の末裔とされる。因幡出身とされる家祖佐田九郎左衛門(のち九郎兵衞)は、森飛騨守と久米安芸守の取次で阿波国守護の細川氏に仕え、名東郡西黒田村(徳島市国府町)で三八貫が給されたが後にこれを没収された。

松永久秀に一時仕えたが、程なくして久秀のもとからも去った。

二代元村は、森飛騨守の姓を譲り受け、森志摩守と改名した。

天文年間初め、讃岐諸将が伊予河野氏と呼応市阿波侵攻の報せを受けると、元村は土佐泊城に、四宮和泉は北泊城に配され守りを固めるとともに元村は引田の寒川氏を攻め勝利したという。

後に元村は隠居し、板東郡沖野原(鳴門市大津町)で兵力を蓄え嫡子村春が土佐泊城を結ぶ吉野川の中継地点に位置することから森氏は細川氏・三好氏のもとで吉野川本流と阿波玄関口を掌握したのではないかと考えられている。

歴代 森甚五兵衛


森甚五兵衛 – Wikipediaja.m.wikipedia.org

森甚五兵衛、森甚太夫の禄高

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阿波水軍 森家と森権平の関係

阿波水軍 森家当主 森甚一郎 著「木瓜の香り」より

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🔹阿波水軍 森家の家系図。森権平久村は、阿波水軍の開祖 佐田九郎左エ門(佐田九郎兵衛)のひ孫となる。森権平は、阿波水軍の初代 森甚五兵衛である森村重の弟である。

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🔹森権平の叔母が讃岐 四宮家の三男に嫁いでいる。この三男は、日下家の養子となった。

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日下家の家系図

四宮右近の三男が日下家の養子となり、森権平の叔母が四宮家三男に嫁いでいる。

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大庄屋 日下家の禄高

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松平家の禄高

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高松藩 包丁人の禄高

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高松藩 鷹匠の禄高

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森権平庵と森権平の墓 五輪塔

🔹東かがわ市伊座にある森権平庵

足の神様として信仰を集めている。

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🔹東かがわ市伊座にある森権平の墓 五輪塔

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森権平の墓 五輪塔

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森権平の位牌は何処に?

森権平の位牌は、引田の大庄屋 日下家にある。森権平の叔母が四宮家の三男に嫁ぎ、その三男が日下家の養子となった関係から、阿波水軍 森家が、森権平の位牌の管理を日下家に依頼した。

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🔹日下家 家系図

黄色で囲った部分に、森権平の叔母が日下家に嫁いだとある。その関係から、森権平の死後、日下家により位牌が祀られている。

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東かがわ市 森家に伝わる言い伝え


私の祖父母がまだ存命していたときに聞かされた話し。

森家の先祖は、森権平の一族で、森家は元は、東かがわ市の馬宿に住んでいたが、その後、横内に移り住み、馬篠の柏谷を切り開いて住んだ。

かつて、馬宿に住んでいた関係から、近隣の北灘町碁浦の碁浦番所役人兼庄屋の八田家当主 八田孫平の長女 八田キヨや黒羽の庄屋 永峰家から森家に嫁入りしたり、黒羽の三谷家に森家から嫁いだりした。

森権平は、通称で、本名は、森久村と言い、阿波水軍の開祖 佐田 九郎左衛門のひ孫となる。

佐田 九郎左衛門は、徳島県阿南市の椿泊にある佐田神社に祀られている。

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森権平は、盟約で、幼少の頃、仙石家の人質となったが、仙石秀久の寵愛を受けた。仙石秀久の家臣として、引田の戦いに参戦し、長宗我部元親の家臣と戦い、東かがわ市伊座にて討死にした。

その後、一族の者は、馬宿に住んだ。

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森家は、江戸時代、松平家に仕え、普請の仕事をしていた。

金刀比羅宮の階段を築いたり、橋や道を作ったりする土木事業に携わっていた。

松平家の殿様が丹生の小磯の浜に来る度に、接待の準備などをせねばならず経済的に大変だった。


🔹明治39年生まれの大叔母の神戸新聞のインタビュー記事 


1964年(昭和39年)12月29日(火曜日)の神戸新聞のインタビュー記事(58歳時)

聞き手 : 古山桂子 記者

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🔹神戸新聞記事 「大叔母の生まれた明治39年には、武士だった祖父(森喜平)も、阿波浄瑠璃の上手い祖母(碁浦出身の八田キヨ)も達者だった。」

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【昭和39年の神戸新聞】明治時代に東かがわ市で生まれた大伯母のインタビュー記事(古山桂子記者)! 旧・神戸オリエンタルホテルで英語を使い電話交換手のリーダーを務める! 川島芳子、昭和天皇宿泊時の勤務! 二・二六事件、GHQ占領時代の電話交換! 瀬戸内寂聴さんとの交流! | BIZCONSUL OFFICE

🔹森家の江戸時代の戸籍

武士だった森義右エ門、その長男の森喜平(弘化3年5月4日生まれ)は私の高祖父、喜平の妻 碁浦番所の役人兼庄屋だった八田孫平の長女 八田キヨ(弘化3年9月18日生まれ)。八田キヨは阿波浄瑠璃の三味線が上手かったと大叔母の神戸新聞でのインタビュー記事に載っている。桜の季節には舟に乗って三味線を弾きながら絹島へ渡り、遊山を楽しんでいた。

武士だった森喜平の長男 森虎太郎、その妻は東かがわ市黒羽中村の庄屋 永峰家当主 永峰市次郎の長女 永峰チヨ。

森虎太郎の妹 森トヨは、東かがわ市黒羽の三谷家 三谷磯吉に嫁いだ。この三谷家は江戸時代から代々、製糖業を営んでいた瀬戸内寂聴さんの祖父 三谷峯吉さんの家系。その関係から大叔母は、引田の積善坊での三谷家の法事に手伝いに行っていた。

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🔹高祖母 八田キヨの実家 碁浦番所

この番所には、北海道の名付け親 松浦武四郎や測量中の伊能忠敬、久米通賢らも訪れた。

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🔹碁浦御番所 (角川日本地名大辞典より)

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🔹東かがわ市黒羽出身の曽祖母 永峰チヨ

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🔹黒羽の庄屋だった永峰家の長女 曽祖母の永峰チヨ。

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森家には、第二次世界大戦前まで、甲冑、刀などがあったが、戦時中に政府に供出した。

戦後は刀のツバが数個、残され応接間に飾られていた。

◼️徳島藩の碁浦番所役人 八田家の長女 八田キヨと高松藩 森家の森喜平の結婚


🔹徳島県と香川県の県境である鳴門市北灘町にあった碁浦番所

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森家がかつて住んでいた馬宿が香川県の東端にあり、碁浦番所が徳島藩と高松藩の藩境にあったことから、森家が馬宿に住んでいた理由、そして森喜平と八田家の長女の結婚について、考察する。

🔸馬宿と碁浦の位置と距離。

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🔹情報を整理

  • 森家は高松藩の武士であり、普請の仕事をしていた。
  • 森家は元々、香川県東端の馬宿に住んでいた。
  • 森喜平は森家の一族であり、徳島藩と高松藩の藩境にあった碁浦番所の役人 八田家の長女 八田キヨと結婚した。
  • 八田家は碁浦番所の役人兼庄屋を務めており、禄高があった。

🔹森家が馬宿に住んでいた理由

馬宿が香川県の東端、つまり高松藩の東端に位置していたことは、森家が馬宿に住んでいた理由を考える上で非常に重要である。

  1. 国境警備との関連: 馬宿は高松藩の東端に位置するため、国境警備に関わる任務を担っていた可能性がある。碁浦番所は徳島藩との藩境に位置するため、馬宿から碁浦番所への連絡や往来は比較的容易であったと考えられる。森家が普請の仕事だけでなく、国境警備に関連する何らかの役割を担っていた可能性がある。
  2. 情報伝達の役割: 国境付近は情報伝達の要所でもある。馬宿が藩からの情報や物資を碁浦番所へ伝達する中継地点のような役割を担っていた場合、森家がその役目を担っていた可能性も考えられる。
  3. 地理的な要因: 馬宿は高松城下からは離れているが、街道沿いに位置していたため、交通の便は比較的良かったと考えられる。普請に必要な資材の運搬や、藩との連絡を行う上で、馬宿は便利な場所であった。

🔹森喜平と八田家の長女の結婚の背景

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馬宿と碁浦番所の位置関係から、森喜平と八田家の長女の結婚は、地理的な近さが大きく影響していたと考えられる。国境付近という特殊な環境の中で、両家は交流を深め、婚姻関係に至ったのかもしれない。

また、両家がそれぞれ藩の役目を担っていたことも、結婚の背景として考えられる。森家は高松藩のために国境警備の役目を担い、八田家は碁浦番所という重要な拠点を守っていた。そのような状況の中で、両家は互いの立場を理解し、協力関係を築いていた可能性がある。

江戸時代が終わり、武士ではなくなった森家は、明治時代、農業に従事することにし、土地を求めて、馬宿を去り、馬篠の柏谷を切り開いて移り住んだ。

明治元年生まれの曽祖父  森虎太郎の妹 森トヨは、馬宿の隣りの東かがわ市黒羽の瀬戸内寂聴さんの祖父 三谷峯八さんの家系の三谷磯八さんのところへ嫁いだ。

曽祖父  森虎太郎は、同じく東かがわ市黒羽の庄屋だった永峰家の長女 永峰チヨと結婚した。

今後の調査の方向性

今回の情報を踏まえて、今後の調査では以下のような点を重点的に調査することで、より深い理解が得られる可能性がある。

  • 高松藩の国境警備に関する記録: 高松藩が国境警備をどのように行っていたのか、どのような役職が置かれていたのか。
  • 街道の記録: 馬宿を通る街道がどのような役割を果たしていたのか、どのような施設が設置されていたのかを調査。
  • 両家の交流を示す記録: 両家の間でどのような交流があったのかを示す記録(例えば、書簡、贈答品の記録など)がないか調査。
  • 八田家文書の内容精査

讃岐三白 塩田を開発した東かがわ市の馬宿出身の久米通賢。江戸時代、和三盆作りにより高松藩の財政を支えた東かがわ市黒羽、馬宿の製糖業者。



香川県資料

https://www.pref.kagawa.lg.jp/documents/14715/44_53.pdf

讃岐の志度街道

しどかいどう

香川県:高松市志度街道

高松藩五街道の一。東下ひがししも道・東讃浜とうさんはま街道、また単に浜街道ともいう。「全讃史」に「東下道 東浜、志度、鴨部、西村、引田。右府城より阿州に至る駅道なり」とある。

高松城南大手の常磐ときわ橋を起点に片原かたはら町・通とおり町・塩屋しおや町を抜け、今いま橋を渡って東へ海岸沿いに東浜ひがしはま村松島まつしま・木太きた村・古高松ふるたかまつ村を経て寒川さんがわ郡志度しど(現大川郡志度町)に至る。

寛永国絵図には、志度からさらに天野あまの峠(現志度町)を越え、鴨部中筋かべなかすじ村・鴨部東山ひがしやま村(現同上)を経て寒川郡津田つだ村(現大川郡津田町)へ入り、馬篠うましの峠を越えて大内おおち郡町田まちだ村(現同郡大内町)で中筋大道に合する小道、大内郡西にし村・三本松さんぼんまつ村(現同上)、引田ひけた村・馬宿うまやど村(現同郡引田町)を通って坂元さかもとから阿波に至る大道が描かれており、東下道はほぼこれにあたる。

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【阿波水軍】仙石秀久の家臣 森権平(森久村)と阿波水軍 森家との関係は? 引田の戦いに参戦し、18才で壮絶な最期を遂げた森権平とは? 森喜平の位牌はどこにあるか? 高松藩 森家と徳島藩 碁浦番所役人の八田家との結婚の背景

22森啓成 (モリヨシナリ | Yoshinari Mori)@Bizconsul Office代表2025年1月7日 16:33

おはようございます。

トリリンガル讃岐PRオフィサーのモリヨシナリです。

今回は、安土桃山時代(1568年〜1600年)に仙石秀久の家臣として太く短く生きた武士、”引田の戦い”で若干18才で壮絶な最期を遂げた 森権平(森久村) と阿波水軍 森家との関係についてです。

ぜひ最後までお付き合いください。

モリヨシナリのプロフィール



神戸市生まれ、香川県育ち。米国大学経営学部留学マーケティング専攻。大手エレクトロニクス企業にて海外営業職に20年間従事。その後、香港、中国にて外資系商社の設立に参画し、副社長をへて顧問。その間、米国に2年、シンガポールに2年、中国に12年間滞在。

現在、Bizconsul Office 代表。ビジネス英語講師、全国通訳案内士(英語・中国語)、海外ビジネスコンサルタントとして活動中。

・観光庁インバウンド研修認定講師
・四国遍路通訳ガイド協会 会員
・トリリンガル讃岐PRオフィサー

保有資格:
【英語:】全国通訳案内士、英検1級、TOEIC L&R: 965点(L満点)、TESOL(英語教授法)、国連英検A級、ビジネス英検A級、他
【中国語】全国通訳案内士、香川せとうち地域通訳案内士、HSK6級、他
【ツーリズム】総合旅行業務取扱管理者、国内旅程管理主任者、せとうち島旅ガイド(瀬戸内国際芸術祭2019公式ガイド)、他

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目次

  1. モリヨシナリのプロフィール
  2. 仙石秀久の家臣 森権平とは?
  3. 仙石秀久とは?
  4. 🔹仙石氏の家臣
  5. 🔹森権平
  6. 🔹森村吉
  7. 森権平庵と森権平の墓がある香川県東かがわ市伊座から久米通賢が住んでいた東かがわ市馬宿
  8. 🔹東かがわ市馬宿にある讃岐塩田開拓の父 久米通賢の墓
  9. 阿波水軍 森家とは?
  10. 歴代の阿波水軍 森甚五兵衛

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仙石秀久の家臣 森権平とは?

森(仙石)久村

1566年〜1583年

官位・通称:権平

森(仙石)村吉の次男。

森権平の通り名で知られる。

仙石秀久との盟約で人質に出された際、秀久に寵愛され仙石の姓と久の一字を賜った。

1583年4月21日、引田の戦いで、仙石軍は長宗我部元親軍に緒戦で勝利して追撃するが、敵の反撃を受けて敗走。

その際に森権平久村が殿を務め稲吉新蔵人と激戦になったが、深田に馬の足を取られた上敵に包囲され戦死した。

享年18歳。

🔹東かがわ市伊座にある森権平の墓

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引田の戦いで敗れ、仲間が引田城へ引き上げたといわれる、森権平について調べたい。 | レファレンス協同データベースレファレンス協同データベース(レファ協)は、国立国会図書館が全国の図書館等と協同で構築する調べ物のための検索サービスです。crd.ndl.go.jp

仙石秀久とは?

仙石秀久 – Wikipediaja.m.wikipedia.org

仙石 秀久(せんごく ひでひさ)

戦国時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。

信濃小諸藩の初代藩主。

出石藩仙石家初代。

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🔹仙石氏の家臣

四宮光利
太郎左衛門。四宮氏は信濃から讃岐に移住し、引田城主として寒川氏に仕えた。兄・光武は三好氏に攻められ落城。光利は豊臣家に臣従し、秀久の家臣となり、天正年間に乙井城主となり、諏訪神社を建立している。

小川伊勢守
秀久に仕える。天正11年(1583年)、讃岐に渡り、四国攻めの橋頭堡として法勲寺城を築く。四国国分後、讃岐に計350石を賜る。

広田藤吾
秀久に仕え、天正9年(1581年)11月、淡路州本城攻めに功があった。

🔹森権平

引田の戦いでは仙石軍の殿を務め伊座まで退くも、長宗我部元親軍の稲吉新蔵人に討ち取られた。享年18。死後、地元の人々から足の神様として祀られている。

後藤基次
黒田家からの追放後、一時秀久に仕える。天正13年(1583年)には讃岐高松城(喜岡城)攻めで初陣を遂げた(諸説あり)。後に黒田長政から許しを得たため黒田家に帰参した。

庄林一心
加藤家三傑の一人。元荒木家の家臣で、荒木家没落後に秀久に仕えた。後に秀久が改易処分を受けたため、加藤清正の家臣になった。

羽床資吉
羽床資載の次男。弥三郎。天正7年(1579年)、羽床城開城時に長宗我部家への人質となる。天正10年(1582年)、父資載の没後、羽床氏当主となる。四国攻め後、秀久に仕える。天正14年(1586年)10月、戸次川合戦で討死。

大平国祐(大平伊賀守國祐)
天文7年(1538年)生れ。永禄5年(1562年)、土佐吾川郡弘岡城にて長宗我部元親に敗れ香川之景を頼り讃州多度郡中村に来るが後に姫之郷を領して元亀3年(1572年)、讃州和田獅子ノ鼻城主となる。天正6年(1578年)5月、法華宗雲風山国祐寺を興す。天正13年(1585年)より秀久に仕え、侍大将となる。天正14年(1586年)、戸次川合戦敗北により秀久が失脚すると、かつての家臣の下に身を寄せた。慶長8年(1603年)7月4日没。

大平国常
永禄12年(1569年)生れ。大平国祐の長男。しかし実は次男で大平主膳(永禄4年(1561年)生れ。天正6年(1578年)、阿波重清陣にて討死)が長男という説が有力。天正14年(1586年)12月12日、戸次川合戦で国祐家臣 加地又五郎、合田助十郎とともに討死。享年18。

🔹森村吉

通称は石見、九郎左衛門。後に仙石姓を与えられる。森元村の次男で、森村春の弟。森権平の父。天正10年(1582年)、淡路を抑え森家を援助していた仙石秀久に招かれ家臣になる。天正11年(1583年)の引田の戦いでは緒戦の勝利に貢献した。四国攻めの後も秀久に従い、秀久が信濃小諸を拝領後は7,000石を与えられた。三男・村明の系統は代々仙石家に仕えている。

森権平庵と森権平の墓がある香川県東かがわ市伊座から久米通賢が住んでいた東かがわ市馬宿

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🔹東かがわ市馬宿にある讃岐塩田開拓の父 久米通賢の墓

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阿波水軍 森家とは?

阿波水軍(あわすいぐん)は、森家が率いた阿波の徳島藩の水軍のこと。

歴史
森甚五兵衛(もり じんごべい)という名は代々、森家の当主に襲名され、その当主ごとに甚五兵衛の後ろに名が通常付けられた。

森家は、豊臣秀吉により1590年に天下統一される以前から、阿波の水軍の長であった。

そのため阿波水軍は狭義の意味では、徳島藩の水軍の意味であるが、広義では、安土桃山時代の頃の蜂須賀家の阿波入国以前の森家の率いる水軍を指す。

朝鮮の役、大坂冬の陣及び大坂夏の陣の功績など徳川家の幕藩体制が確立する過程で重要な役割を果たした。

蜂須賀家支配下の徳島藩にあっては、水軍の長である森家は、藩の中老職にあり、参勤交代をもっぱら担当した。

また、16代目森甚五兵衛村晟(むらひら)は明治維新の際、戊辰戦争に明治政府側に家臣団を連れて従軍し、各地を転戦した。阿波水軍 – Wikipediaja.m.wikipedia.org

歴代の阿波水軍 森甚五兵衛

森 甚五兵衛(もり じんごべえ)は、戦国時代・江戸時代に蜂須賀家で阿波水軍を率いた森家が代々襲名した名称。

歴史
蜂須賀氏が徳島藩の大名として入国する前から、阿波国(徳島)にあり、豊臣秀吉の朝鮮出兵にも参加した。

また代々、蜂須賀氏の中老として参勤交代における瀬戸内海の海上移動などで重責を果たした。

細川氏・三好氏の時代から阿波の土佐泊(鳴門市)を拠点に水軍として活躍した森氏は近世においても水軍区を家職とした武家であった。

「古事記」によると、森氏は本姓藤原、俵(田原)藤太秀郷の末裔とされる。因幡出身とされる家祖佐田九郎左衛門(のち九郎兵衞)は、森飛騨守と久米安芸守の取次で阿波国守護の細川氏に仕え、名東郡西黒田村(徳島市国府町)で三八貫が給されたが後にこれを没収された。

松永久秀に一時仕えたが、程なくして久秀のもとからも去った。

二代元村は、森飛騨守の姓を譲り受け、森志摩守と改名した。

天文年間初め、讃岐諸将が伊予河野氏と呼応市阿波侵攻の報せを受けると、元村は土佐泊城に、四宮和泉は北泊城に配され守りを固めるとともに元村は引田の寒川氏を攻め勝利したという。

後に元村は隠居し、板東郡沖野原(鳴門市大津町)で兵力を蓄え嫡子村春が土佐泊城を結ぶ吉野川の中継地点に位置することから森氏は細川氏・三好氏のもとで吉野川本流と阿波玄関口を掌握したのではないかと考えられている。

歴代 森甚五兵衛
森甚五兵衛 – Wikipediaja.m.wikipedia.org

森甚五兵衛、森甚太夫の禄高

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阿波水軍 森家と森権平の関係

阿波水軍 森家当主 森甚一郎 著「木瓜の香り」より

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🔹阿波水軍 森家の家系図。森権平久村は、阿波水軍の開祖 佐田九郎左エ門(佐田九郎兵衛)のひ孫となる。森権平は、阿波水軍の初代 森甚五兵衛である森村重の弟である。

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🔹森権平の叔母が讃岐 四宮家の三男に嫁いでいる。この三男は、日下家の養子となった。

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日下家の家系図

四宮右近の三男が日下家の養子となり、森権平の叔母が四宮家三男に嫁いでいる。

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大庄屋 日下家の禄高

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松平家の禄高

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高松藩 包丁人の禄高

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高松藩 鷹匠の禄高

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森権平庵と森権平の墓 五輪塔

🔹東かがわ市伊座にある森権平庵

足の神様として信仰を集めている。

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🔹東かがわ市伊座にある森権平の墓 五輪塔

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森権平の墓 五輪塔

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森権平の位牌は何処に?

森権平の位牌は、引田の大庄屋 日下家にある。森権平の叔母が四宮家の三男に嫁ぎ、その三男が日下家の養子となった関係から、阿波水軍 森家が、森権平の位牌の管理を日下家に依頼した。

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🔹日下家 家系図

黄色で囲った部分に、森権平の叔母が日下家に嫁いだとある。その関係から、森権平の死後、日下家により位牌が祀られている。

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東かがわ市 森家に伝わる言い伝え


私の祖父母がまだ存命していたときに聞かされた話し。

森家の先祖は、森権平の一族で、森家は元は、東かがわ市の馬宿に住んでいたが、その後、横内に移り住み、馬篠の柏谷を切り開いて住んだ。

かつて、馬宿に住んでいた関係から、近隣の北灘町碁浦の碁浦番所役人兼庄屋の八田家当主 八田孫平の長女 八田キヨや黒羽の庄屋 永峰家から森家に嫁入りしたり、黒羽の三谷家に森家から嫁いだりした。

森権平は、通称で、本名は、森久村と言い、阿波水軍の開祖 佐田 九郎左衛門のひ孫となる。

佐田 九郎左衛門は、徳島県阿南市の椿泊にある佐田神社に祀られている。

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森権平は、盟約で、幼少の頃、仙石家の人質となったが、仙石秀久の寵愛を受けた。仙石秀久の家臣として、引田の戦いに参戦し、長宗我部元親の家臣と戦い、東かがわ市伊座にて討死にした。

その後、一族の者は、馬宿に住んだ。

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森家は、江戸時代、松平家に仕え、普請の仕事をしていた。

金刀比羅宮の階段を築いたり、橋や道を作ったりする土木事業に携わっていた。

松平家の殿様が丹生の小磯の浜に来る度に、接待の準備などをせねばならず経済的に大変だった。


🔹明治39年生まれの大叔母の神戸新聞のインタビュー記事 


1964年(昭和39年)12月29日(火曜日)の神戸新聞のインタビュー記事(58歳時)

聞き手 : 古山桂子 記者

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🔹神戸新聞記事 「大叔母の生まれた明治39年には、武士だった祖父(森喜平)も、阿波浄瑠璃の上手い祖母(碁浦出身の八田キヨ)も達者だった。」

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【昭和39年の神戸新聞】明治時代に東かがわ市で生まれた大伯母のインタビュー記事(古山桂子記者)! 旧・神戸オリエンタルホテルで英語を使い電話交換手のリーダーを務める! 川島芳子、昭和天皇宿泊時の勤務! 二・二六事件、GHQ占領時代の電話交換! 瀬戸内寂聴さんとの交流! | BIZCONSUL OFFICE🟣古いアルバムの中から大伯母が神戸新聞社の元論説委員の古山桂子さんからインタビューを受けた記事が出てきた。 大伯母は、まだbizconsul.net

🔹森家の江戸時代の戸籍

武士だった森義右エ門、その長男の森喜平(弘化3年5月4日生まれ)は私の高祖父、喜平の妻 碁浦番所の役人兼庄屋だった八田孫平の長女 八田キヨ(弘化3年9月18日生まれ)。八田キヨは阿波浄瑠璃の三味線が上手かったと大叔母の神戸新聞でのインタビュー記事に載っている。桜の季節には舟に乗って三味線を弾きながら絹島へ渡り、遊山を楽しんでいた。

武士だった森喜平の長男 森虎太郎、その妻は東かがわ市黒羽中村の庄屋 永峰家当主 永峰市次郎の長女 永峰チヨ。

森虎太郎の妹 森トヨは、東かがわ市黒羽の三谷家 三谷磯吉に嫁いだ。この三谷家は江戸時代から代々、製糖業を営んでいた瀬戸内寂聴さんの祖父 三谷峯吉さんの家系。その関係から大叔母は、引田の積善坊での三谷家の法事に手伝いに行っていた。

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🔹高祖母 八田キヨの実家 碁浦番所

この番所には、北海道の名付け親 松浦武四郎や測量中の伊能忠敬、久米通賢らも訪れた。

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🔹碁浦御番所 (角川日本地名大辞典より)

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🔹東かがわ市黒羽出身の曽祖母 永峰チヨ

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🔹黒羽の庄屋だった永峰家の長女 曽祖母の永峰チヨ。

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森家には、第二次世界大戦前まで、甲冑、刀などがあったが、戦時中に政府に供出した。

戦後は刀のツバが数個、残され応接間に飾られていた。

徳島藩の碁浦番所役人 八田家の長女 八田キヨと高松藩 森家の森喜平の結婚


🔹徳島県と香川県の県境である鳴門市北灘町にあった碁浦番所

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森家がかつて住んでいた馬宿が香川県の東端にあり、碁浦番所が徳島藩と高松藩の藩境にあったことから、森家が馬宿に住んでいた理由、そして森喜平と八田家の長女の結婚について、考察する。

🔸馬宿と碁浦の位置と距離。

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🔹情報を整理

  • 森家は高松藩の武士であり、普請の仕事をしていた。
  • 森家は元々、香川県東端の馬宿に住んでいた。
  • 森喜平は森家の一族であり、徳島藩と高松藩の藩境にあった碁浦番所の役人 八田家の長女 八田キヨと結婚した。
  • 八田家は碁浦番所の役人兼庄屋を務めており、禄高があった。

🔹森家が馬宿に住んでいた理由

馬宿が香川県の東端、つまり高松藩の東端に位置していたことは、森家が馬宿に住んでいた理由を考える上で非常に重要である。

  1. 国境警備との関連: 馬宿は高松藩の東端に位置するため、国境警備に関わる任務を担っていた可能性がある。碁浦番所は徳島藩との藩境に位置するため、馬宿から碁浦番所への連絡や往来は比較的容易であったと考えられる。森家が普請の仕事だけでなく、国境警備に関連する何らかの役割を担っていた可能性がある。
  2. 情報伝達の役割: 国境付近は情報伝達の要所でもある。馬宿が藩からの情報や物資を碁浦番所へ伝達する中継地点のような役割を担っていた場合、森家がその役目を担っていた可能性も考えられる。
  3. 地理的な要因: 馬宿は高松城下からは離れているが、街道沿いに位置していたため、交通の便は比較的良かったと考えられる。普請に必要な資材の運搬や、藩との連絡を行う上で、馬宿は便利な場所であった。

🔹森喜平と八田家の長女の結婚の背景

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馬宿と碁浦番所の位置関係から、森喜平と八田家の長女の結婚は、地理的な近さが大きく影響していたと考えられる。国境付近という特殊な環境の中で、両家は交流を深め、婚姻関係に至ったのかもしれない。

また、両家がそれぞれ藩の役目を担っていたことも、結婚の背景として考えられる。森家は高松藩のために国境警備の役目を担い、八田家は碁浦番所という重要な拠点を守っていた。そのような状況の中で、両家は互いの立場を理解し、協力関係を築いていた可能性がある。

江戸時代が終わり、武士ではなくなった森家は、明治時代、農業に従事することにし、土地を求めて、馬宿を去り、馬篠の柏谷を切り開いて移り住んだ。

明治元年生まれの曽祖父  森虎太郎の妹 森トヨは、馬宿の隣りの東かがわ市黒羽の瀬戸内寂聴さんの祖父 三谷峯八さんの家系の三谷磯八さんのところへ嫁いだ。

曽祖父  森虎太郎は、同じく東かがわ市黒羽の庄屋だった永峰家の長女 永峰チヨと結婚した。

今後の調査の方向性

今回の情報を踏まえて、今後の調査では以下のような点を重点的に調査することで、より深い理解が得られる可能性がある。

  • 高松藩の国境警備に関する記録: 高松藩が国境警備をどのように行っていたのか、どのような役職が置かれていたのか。
  • 街道の記録: 馬宿を通る街道がどのような役割を果たしていたのか、どのような施設が設置されていたのかを調査。
  • 両家の交流を示す記録: 両家の間でどのような交流があったのかを示す記録(例えば、書簡、贈答品の記録など)がないか調査。
  • 八田家文書の内容精査
  • 高松藩引田郷馬宿村の番所

讃岐三白 塩田を開発した東かがわ市の馬宿出身の久米通賢。江戸時代、和三盆作りにより高松藩の財政を支えた東かがわ市黒羽、馬宿の製糖業者。



香川県資料

https://www.pref.kagawa.lg.jp/documents/14715/44_53.pdf

讃岐の志度街道

しどかいどう

香川県:高松市志度街道

高松藩五街道の一。東下ひがししも道・東讃浜とうさんはま街道、また単に浜街道ともいう。「全讃史」に「東下道 東浜、志度、鴨部、西村、引田。右府城より阿州に至る駅道なり」とある。

高松城南大手の常磐ときわ橋を起点に片原かたはら町・通とおり町・塩屋しおや町を抜け、今いま橋を渡って東へ海岸沿いに東浜ひがしはま村松島まつしま・木太きた村・古高松ふるたかまつ村を経て寒川さんがわ郡志度しど(現大川郡志度町)に至る。

寛永国絵図には、志度からさらに天野あまの峠(現志度町)を越え、鴨部中筋かべなかすじ村・鴨部東山ひがしやま村(現同上)を経て寒川郡津田つだ村(現大川郡津田町)へ入り、馬篠うましの峠を越えて大内おおち郡町田まちだ村(現同郡大内町)で中筋大道に合する小道、大内郡西にし村・三本松さんぼんまつ村(現同上)、引田ひけた村・馬宿うまやど村(現同郡引田町)を通って坂元さかもとから阿波に至る大道が描かれており、東下道はほぼこれにあたる。

馬宿村とは?

馬宿村(うまやどむら)とは? 意味や使い方 – コトバンク日本歴史地名大系

幕末高松藩の海防施設 -狼煙場群を中心として-

資料

https://www.pref.kagawa.lg.jp/documents/7796/kaiboushisetsu.pdf

祖父母から聞いた話しでは、森家は森権平と関係がある、江戸時代、元は馬宿に住んでいた、普請の仕事で金刀比羅宮の階段を築く際に参加した、小磯に高松藩の殿様が来たら接待せねばならず大変だった、と聞いた。

この話しから、森家は、馬宿の番所で勤めながら、普請の仕事もしていた、その関係から徳島藩の碁浦番所の八田家とも繋がりがあり、森喜平と八田キヨは結婚した、と推測される。また、小磯にも番所があった為、高松藩の上級役人が来たら接待していたと考えられる。

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以上