讃岐の隠密: 幕末期、高松藩と徳島藩の藩を跨いだ婚姻の背景にあった特殊な事情

目次

  1. 高松藩の隠密、森家の出自と所在地
  2. 森家が掌握する高松藩の機密
  3. 普請方としての役割: 
  4. 小磯の大筒台の警備:
  5. 八田家が掌握する徳島藩の機密
  6. 碁浦番所の要衝性:
  7. 庄屋としての影響力:
  8. 両家を繋ぐ婚姻の「特命」性
  9. 藩を跨ぐ結婚の難しさ:
  10. 幕末の時代背景:
  11. 密かな情報網の構築:

高松藩の隠密、森家の出自と所在地

森家は江戸時代、東かがわ市馬篠の海岸近くの山中に居を構えていました。この森家は、戦国時代から江戸時代初期にかけて阿波国(現在の徳島県)で活躍した森水軍の系譜を引く家系です。

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もともと阿波水軍森家の始祖は、因幡国(現在の鳥取県東部)の佐田九郎左衛門(後の佐田九郎兵衛)で、彼は細川氏に仕え、阿波国守護の地位にあった細川氏のもとで土佐泊(現在の鳴門市)を拠点に水軍として活動していました。

その後、三好氏が阿波国を支配するようになると、森家は三好氏に仕え、吉野川本流と阿波の玄関口を掌握する重要な役割を担いました。

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森水軍の海上における能力は突出しており、三好氏が畿内(京・大坂周辺)に勢力を拡大できた背景には、彼らの活躍が大きく貢献していました。

天正13年(1585年)、豊臣秀吉による四国平定後に蜂須賀家が阿波国に入国した後も、森家は徳島藩蜂須賀家の中老として、参勤交代における瀬戸内海の海上輸送を代々担うなど、江戸時代を通じて徳島藩の海事を世襲してきました。

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高松藩の森家がこの由緒ある阿波水軍森家の末裔であるということは、彼らが海に関する深い知識と技術を持ち、海路を用いた活動に長けていたことを意味します。

この地理的優位性と血筋は、幕末の緊迫した時代に、森家が海路を用いて高松と阿波方面を頻繁に行き来し、隠密活動を行う上で極めて有利な条件であったと考えられます。

山間部に身を潜めつつも、海路を巧みに利用し、両藩の情報を収集・伝達する役割を担っていたと推察されます。

森家が掌握する高松藩の機密

森家は高松藩において、単なる郷士以上の重責を担っていました。

普請方としての役割: 

橋や道路の建設といった藩の土木工事を担う普請方として、高松藩のインフラ整備に関する深い知識を有していました。

特に金刀比羅宮の石段造営にも参加したという記録は、その技術力と信頼性の高さを示しています。このような役職は、藩内の要衝や交通路に関する詳細な情報を自然と掌握することに繋がります。

小磯の大筒台の警備:


幕末期、外国船の来航による海防の重要性が増す中、高松藩の海防拠点である小磯の大筒台の警備に関わっていたことは、森家が藩の軍事機密、特に沿岸防御体制に関する最重要情報を知り得る立場にあったことを意味します。

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さらには高松藩主一行が視察に訪れた際の接待役も務めるなど、藩主との直接的な接点を持つほど、藩内での信頼は極めて高かったと推測されます。

これらの事実は、森家が高松藩の内部における地理的・軍事的な機密情報を知り得る、重要な存在であったことを示しています。

八田家が掌握する徳島藩の機密

一方、徳島藩の八田家もまた、重要な情報源でした。八田家は徳島藩板野の碁浦番所役人兼庄屋を200年以上にわたって務めていました。

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碁浦番所の要衝性:

碁浦番所は、徳島藩と高松藩の藩境に位置し、瀬戸内海の海上交通の要衝でもあります。

この番所は、人や物の出入りを監視し、取り締まる役割を担っており、通行する商人や船乗りを通じて、高松藩を含む他藩の動向や外国船に関する情報を得る拠点でした。

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碁浦御番所
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庄屋としての影響力:

八田家が庄屋を兼ねていたことは、地域住民に対する影響力が大きく、民間レベルでの情報収集にも長けていたことを意味します。

八田家は、徳島藩にとって地政学上の機密情報を扱う最前線にいると同時に、広範な情報網を保持していました。

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両家を繋ぐ婚姻の「特命」性

1864年(元治元年)の森喜平と八田キヨの婚姻は、通常ではあり得ない藩を跨いでの結婚であり、そこに高松藩から森家への「特命」があったと推察されます。

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1864年(元治元年)、高松藩は松平頼聡(まつだいらよりあき)を藩主とする東讃岐12万石の藩でした。この時期、水戸徳川家の分家である高松藩松平家は、幕府から西日本諸藩の動向を監視する役割を与えられていました。

徳島藩の蜂須賀家はかつて豊臣氏の臣下であった外様大名でした。阿波と淡路併せて25万7千石を誇り、藍の栽培がほぼ独占状態となっていた徳島藩蜂須賀家の監視を強める意味合いもあり、江戸時代後期に徳川家斉は22男を蜂須賀家の養子にしています。


※ 徳川家斉が22男の斉裕(なりひろ)を蜂須賀家の養子にしたのは、文政10年(1827年)です。斉裕は文政4年(1821年)生まれなので、6歳のときに養子入りしたことになります。


※ 昭和39年、大叔母が神戸新聞の元論説委員の古山桂子さんからインタビューを受けた際の記事。記事内容は、武家のしつけ、阿波浄瑠璃の三味線が上手かった祖母(八田キヨ)、英語を使い旧神戸オリエンタルホテルで電話交換手のリーダーをした経験、警察官との結婚、2.26事件時の勤務、川島芳子の宿泊、神戸大空襲で自宅は全焼するも夫婦共に生き延びた体験、GHQ宿舎での勤務など。

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上記の記事にある武士だった祖父とは、森喜平、阿波浄瑠璃が上手かった祖母とは、碁浦番所 八田家出身の八田キヨのこと。大叔母が生まれた1906年(明治39年)当時、森喜平も八田キヨも元気だった。春になると舟に乗って近くの島に三味線を弾きながら遊山へ行っていた。

※ 森トメノ (明治39年:1906年生まれ)

祖父 森虎太郎 (高松藩普請方)
祖母 八田キヨ (徳島藩 碁浦御番所 八田家)

父 森虎太郎 (森喜平長男)
母 永峰チヨ (黒羽城主 永塩因幡守氏継の子孫 永峰杢左衛門家出身)

叔母 森トヨ (森虎太郎妹。黒羽 十河氏系三谷宗家の三谷磯八に嫁ぐ。瀬戸内寂聴さんは三谷宗家の分家 屋号: 甚六の子孫)

妹 森ミヤコ (黒羽の旧家 与頭を務めた永峰杢左衛門家に嫁ぐ。永峰家は永塩因幡守氏継/長塩備前守又四郎元親の子孫)

藩を跨ぐ結婚の難しさ:


江戸時代において、武士が藩を跨いで結婚することは、情報漏洩を防ぐ観点から厳しく制限されていました。

ましてや、八田家のように徳島藩の要衝で200年以上に渡り機密情報を扱ってきた家と、森家のように高松藩の軍事・普請機密を持つ家との婚姻は、両藩にとって極めて大きなリスクを伴うものです。

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幕末の時代背景:

しかし、19世紀半ば、幕末の激動期には、外国船が瀬戸内海を行き交い、薩長土肥が倒幕を企てる中、各藩は他藩の動向を常に警戒していました。

高松藩は親藩(徳川将軍家と血縁関係のある藩)として西国(西日本)の外様大名の監視役という幕府からの役割を帯びており、特に外様大名である徳島藩の情報は、藩の存続に関わるほどの重要性を持っていました。

密かな情報網の構築:


このような切迫した状況下で、両藩が互いの情報を強烈に欲していたことは疑いようがありません。

公的な情報交換が難しい中、婚姻という血縁関係を通じて、非公式だが信頼性の高い情報チャネルを構築しようとしたのがこの結婚の本質であると言えます。そうでなければ、両家はわざわざリスクを冒してまで他藩の者と婚姻を結ぶ必要はありませんし、両藩から婚姻の許可もおりません。

森家は海路を介した隠密活動に長け、阿波水軍の系譜を引くという背景もあり、高松藩は森家を通じて徳島藩の、特に海上防衛や藩境の監視に関する機密情報を収集しようとしました。また、徳島藩側も、高松藩の軍事情報や幕府の動向を森家から得るメリットがあったと考えられます。

森家は高松藩の親藩としての責務と、幕末の緊迫した情勢の中で、海と陸、表と裏の両方で重要な役割を担っていたと言えます。森喜平と八田キヨの結婚は、高松藩が森家に与えた「特命」であり、両藩の情報戦における極めて巧妙な一手であった可能性が高いといえます。

まとめ

幕末期に高松藩の森家と徳島藩の八田家という、藩の機密を掌握する立場にあった両家間で結ばれた婚姻が、単なる縁組ではなく、緊迫した時代背景の下で構築された「藩を跨ぐ特命の情報網」であった可能性を、歴史的背景と両家の役割から考察しました。

高松藩の森家は、阿波水軍の系譜を引く者として海路に長け、高松藩内では普請方や海防拠点(小磯の大筒台)の警備に関わるなど、地理的・軍事的な機密情報を掌握していました。一方、徳島藩の八田家は、藩境の要衝である碁浦番所の役人兼庄屋を代々務め、海上交通や民間レベルの情報を集める最前線にいました。

江戸時代に厳しく制限されていた武士の藩を跨ぐ婚姻が、幕末の元治元年(1864年)に成立した背景には、親藩である高松藩が幕府の命を受け、外様大名である徳島藩の動向を監視する戦略的な必要性があったと推察されます。

この婚姻は、両藩が公的な情報交換が困難な中で、極めて信頼性の高い血縁による非公式な情報チャネルを密かに築こうとした、両藩の情報戦における巧妙な一手であった可能性が高いと言えます。


ポイント整理

1. 高松藩:森家の役割と機密: 森家は阿波水軍の系譜を引いており、海路を用いた活動に長けていました。高松藩では普請方としてインフラや交通路の詳細を知り、特に海防拠点である小磯の大筒台の警備に関わることで、沿岸防御体制など軍事機密を掌握していました。森家は海と陸、表と裏の両方で重要な役割を担っていました。

2. 徳島藩:八田家の役割と機密: 八田家は徳島藩板野の碁浦番所役人兼庄屋を200年以上にわたって務めていました。碁浦番所は藩境と海上交通の要衝にあり、人や物の出入りを監視することで、通行人や船乗りを通じて高松藩を含む他藩の動向や外国船に関する情報を得る最前線でした。庄屋としての影響力も併せ持ち、広範な情報を保持していました。

3. 婚姻の「特命」性とその背景: 1864年(元治元年)の森喜平と八田キヨの婚姻は、情報漏洩を防ぐため厳しく制限されていた藩を跨ぐ結婚であり、大きなリスクを伴うものでした。当時、高松藩は親藩として幕府から西国諸藩、特に外様大名である徳島藩の動向監視という役割を与えられていました。この切迫した状況下で、公的な情報交換が難しい両藩が、互いの情報を得るため、婚姻という血縁関係を通じて非公式だが信頼性の高い情報チャネルを構築しようとしたのが、この結婚の本質であると推察されます。

4. 結論: 森喜平と八田キヨの結婚は、高松藩が森家に与えた「特命」であり、阿波水軍の系譜を引く森家を通じて徳島藩の機密情報を収集しようとする、両藩の情報戦における極めて巧妙な一手であった可能性が高いといえます。

以上