◼️隅田川 浪五郎(すみだがわ なみごろう)
天保元年(1830年) – 没年不詳
幕末明治期の手品師、曲芸師
江戸生まれ。
日本で初めてパスポートを取得した人物である。
🔸外務省のサイトにある隅田川浪五郎に関する記述
https://www.mofa.go.jp/mofaj/annai/honsho/shiryo/qa/sonota_01.html
幕末から明治初期にかけて「旅券(パスポート)」に一定した呼び名はなく、印章、印鑑、旅切手、免状などの名称が使用されていました。「旅券」という正式な名称が決まるのは、1878年(明治11年)のことです。
実際の旅券(印章)第1号は、慶應2年10月17日(1866年11月23日)付で江戸幕府の日本外国事務(外国奉行)が隅田川浪五郎(すみだがわ・なみごろう)に発給したものです。浪五郎は「日本帝国一座」という曲芸団を率いて、パリ万博を目指してまずは米国へと渡りました。外務省が編纂した幕末期の外交史料集『続通信全覧』には、浪五郎に発給された「印章写」が所収されています。そこには、年齢、身長(身丈)とともに「鼻高キ方」「面細長方」などの人相書が記載されているほか、「日本政府許航佗邦記」の角印が押されているのが見られます(写真参照)。
なお、幕末期において、「日本国民」であることを証明し海外での保護を要請するのに必要な政府発行の証書を制定する過程については『続通信全覧 類輯之部 船艦門』に関係記録が含まれています。
↑ ル・モンド誌に掲載された日本帝国一座の軽業。1867年
◼️生涯
アメリカ人のサーカス曲芸師リチャード・リズリー・カーライル(1864年に来日し、西洋式曲芸を日本で初めて披露した)の誘いで自身の一家4名と、濱碇定吉の一家7名と、松井菊治郎の一家5名らと伴に「帝国日本芸人一座(英語: Imperial Japanese Troupe)」となった隅田川は、パリ万国博覧会出演を目指し渡米する。
その際、慶應2年10月17日(1866年11月23日)付で、江戸幕府の外国奉行から印章を取得した。
これが日本国旅券の第1号である。なお日本国旅券には、神田相生町に住み年齢三七歳、身長五尺と記載されていた。
一行はリズリーをマネージャーに、慶應3年1月からサンフランシスコを始め全米各地を巡業し絶賛され、4月にはジョンソン大統領にまで謁見した。
その後ニューヨーク市で6週間滞在、1867年にはパリ万国博覧会に出演し、3か月フランスのパリに滞在、イギリスのロンドンで11週間の滞在を始め、オランダ・スペイン・ポルトガルなど、ヨーロッパ各地を回り、ジャパニーズ・アクロバット・ブームを引き起こした。
明治2年(1869年)に帰国、1875年にフランス人に誘われ再び出国、帰国後は「三遊亭遊成」の名で寄席に出演した。
紙で作った蝶を扇子で仰ぎ、自由に舞い遊ばせる奇術「胡蝶の舞」を得意としていた。
1867年1月9日、サンフランシスコのアカデミー・オブ・ミュージックにて「Butterfly Trick(胡蝶の舞のこと)」を演じたことが記録に残っている。
また、ル・モンド紙の1867年11月23日号にイラスト入りで紹介されるなど、パリでも賞賛された。
◼️奇術 手妻
🔸江戸古典奇術『手妻』: 藤山 晃太郎 at TEDxTokyo (日本語)
◼️海を渡った幕末の曲芸団―高野広八の米欧漫遊記 (中公新書)
🔸慶応二年(1866)秋、曲芸師一行が横浜を旅立った。
目的地はアメリカ、高野広八を後見役とする一行の名は帝国日本芸人一座。
その妙技は各地の観客を魅了し、好評の中、巡業地をヨーロッパまで広げる。
この間、一行はアメリカ大統領をはじめ各国の貴人・有力者との交流を行なう一方で、好奇心旺盛に巡業地の町を散策したり、取り囲んだ野次馬と乱闘したり、夜は娼婦を求めて出歩くなど、市井人ならではの約三年に及ぶ異文化を体験する。