【タブー】政治家 アントニオ猪木、国会質疑で注意を受けるもマイペース! UFOに関する質問をぶつける! 北朝鮮でプロレス外交! イラクで人質を救出!

◼️政治家 アントニオ猪木

🔸参議院議員

当選回数 

2回

在任期間

1989年7月23日 – 1995年7月22日

2013年7月29日 – 2019年7月28日

◼️2度目の参議院議員となった後の2015年2月6日、参院決算委員会で質問に立った際、安倍晋三首相の「元気ぶり」について言及し「私も健康には気をつけているが、首相がなぜ『元気なのかなあ』と私なりに分析をしたんです。

国会答弁で立ったり座ったりを繰り返すから、首相も鍛えられているのではないかなと。私も若いころは師匠の力道山に屈伸運動を1000回、2000回とやらされました」と発言した。

◼️国会での質疑に「元気ですか!」と絶叫してから入る猪木に2014年3月に山崎力委員長(当時)に「元気が出るだけでなく心臓に悪い方もいる」と注意された。

翌日は末松信介外交防衛委員長(当時)に「(東日本大震災の)被災地が沈んでいたときに『元気ですか』との声で、みんな元気になった」と力説し許可を得た上で絶叫した。

◼️政界引退に前後して「息苦しさを感じるようになり、階段の上り下りに息切れするよう」になったため、2019年秋に診察を受けたところ「100万人に数人」の特定疾患とされる心アミロイドーシスに罹患していることが判明している。

その後、2021年11月27日放送のNHK BSプレミアム『燃える闘魂 ラストスタンド 〜アントニオ猪木 病床からのメッセージ〜』にて、正式な病名は心アミロイドーシスではなく「全身性トランスサイレチンアミロイドーシス」だと公表した

◼️イラクで人質解放に成功!

◼️北朝鮮でのプロレス外交

https://www.dailymotion.com/video/x25dotw

◼️国会質問 猪木の常識非常識


https://www.dailymotion.com/video/x1gkwau

◼️国会質問 ライオンのエピソード


https://www.dailymotion.com/video/x5cqsvy

◼️国会質問 注意を受ける

https://www.dailymotion.com/video/x2pw9d2

◼️国会質問 注意を受ける

◼️国会質問 注意の翌日にまた、、

https://m.youtube.com/watch?v=TvKVRAsWdsA

◼️国会質問 UFOに関する質問

https://www.dailymotion.com/video/x2lj9hf

◼️アントニオ猪木とは?

本名:猪木 寛至〈いのき かんじ〉

1943年〈昭和18年〉2月20日 – 2022年〈令和4年〉10月1日)

日本のプロレスラー、実業家、政治家。

位階は従四位。

神奈川県横浜市鶴見区出身。

血液型はAB型。

新日本プロレス設立後のキャッチフレーズは「燃える闘魂」。

日本プロレス所属時代のキャッチフレーズは「若獅子」。

愛称は「アントン」。

複数の結婚歴と離婚歴があり(事実婚を含めて4回結婚している)、二番目の妻は女優の倍賞美津子である。

倍賞との間に娘が一人いる。

1991年にイラクのカルバラーにてイスラム教に改宗しており、ムスリム名は「モハメッド・フセイン・イノキ」。

ただし、ワシントン・ポストによると本人は仏教徒とも自認しており、葬儀も仏式で行われ、「闘覚院機魂寛道居士」の戒名も与えられた。

プロレスラーとしては新日本プロレスの創業や異種格闘技戦で活躍。

政治家としては参議院議員(2期)、スポーツ平和党代表、次世代の党国民運動局長兼参議院政策調査会長、日本を元気にする会最高顧問、同代表などを歴任。

◼️イラク在留邦人人質解放までの真相


1990年(平成2年)湾岸戦争が危惧される中、イラクのサッダーム・フセイン大統領は、在留外国人を国外出国禁止(事実上の人質)とした。

その中に多くの日本人が含まれており、安否が気遣われていたが、外務省主導による、人質解放交渉は遅々として進まなかった。

解決の糸口さえ見えない外務省の人質交渉に痺れを切らした猪木は、被害者家族等を率いてあえて緊張高まるイラクでのイベント”スポーツと平和の祭典”を行うため、バグダードに向かうということを決断する。

猪木に対して外務省はイラク行きを止めるよう説得するもこれを拒否。

すると今度は人質被害者家族に対し圧力を掛け「いつ戦争が起こるか分からないし、日本政府としては責任を持てない。そんな所に行くことはまかりならん、もしどうしても猪木議員とイラクに行く場合は、……それはあなた方も含めて命の保証が無いという意味です」と猛烈に反対した。

イラク邦人人質被害者家族(あやめの会)は悩んだ末に、外務省が動かないために、猪木に全てを託すことにしたのである。

1990年(平成2年)11月、猪木は日本の各航空会社にイラクへの出航を要請したが、外務省の強い圧力もあり、他のいずれの航空会社も拒否してきたことでイラクへの直行便の計画は暗礁に乗り上げた。

やむなく猪木は、園遊会の会場で当時の駐日トルコ特命全権大使に懇願したところチャーター機の費用を猪木個人が負担することが条件で、トルコ大使の仲介によりトルコ航空の協力でバグダード入りが可能となった。

1990年(平成2年)12月1日、平和の祭典関係者や人質被害者41家族46人と共にトルコ経由でバグダード入りを果たした。

この時フセイン大統領は、一国会議員でしかない猪木を国賓級の扱いで迎えたという。

イラクでのスポーツと平和の祭典は邦人人質を中心に人質被害者家族とイラク人観衆が会場を中心に向き合う中で始まり、12月2日、3日の両日に渡り、ロックコンサートと、日本の大太鼓を初めとする伝統芸能や空手トーナメント、そして最後にプロレスが行われ無事終了し平和の祭典は成功を収める一方、イベント開催中に家族の面談は許されたものの解放までには至らなかった。

焦りと落胆の中、帰路に着くべく機中に着いた時、フライト直前の猪木にイラク政府から「大統領からお話があります」と告げられ急遽猪木だけ飛行機を降り、この結果まず12月5日在留邦人の解放が決まり、7日には人質全員の解放が決定した。

◼️猪木はかつて新日本プロレスのパキスタン遠征において、格闘技の英雄アクラム・ペールワンと対戦し腕を折るなどして勝利を収めると一躍国民的一大事になり、同行した妻の倍賞美津子と共に猪木が国王と並んで国民に挨拶をする姿が当地のマスメディアで大きく紹介された。

その後パキスタン人ジャーナリスト、フマユン・A・ムガールの計らいにより4度パキスタン遠征を行い、パキスタンでは毎年12月8日は猪木の日として登録されている。