【タブー】小学生の時、母親に連れられ高松スカラ座で観た映画「エレファントマン」 19世紀のイギリスに実在したジョゼフ・メリックの人生とは?

◼️昭和時代、高松市田町に高松東宝会館と言う映画館があり、邦画系の東宝と洋画系のスカラ座が同一ビル内にあった。

忘れもしない小学生の頃、母親に連れられてこのスカラ座で「エレファントマン」を観た。

映画の途中、隣りで母親が泣いているのを初めて観た。

なぜ母がこの映画を選んだかは分からないが、何か私に伝えたいことがあったのかもしれない。

私は、映画の内容があまり理解できず、主人公の容姿が特殊だなと言うことと、見せ物小屋の支配人の意地悪さ、医師役の方の表情と目、そして主人公が制作したお城が特に印象に残っている。

その医師役が、名優 アンソニー・ホプキンスだったことを今日、知った💦

当時、頭で覚えた算数の公式は綺麗さっぱり忘れてしまったが、心で記憶したことは何年経っても忘れないものだとつくづく感じる。

高松市田町の高松東宝会館は、1957年に開業、東宝とスカラ座の2館体制でスタートした。

当時、高松市内の映画館は19館あり、香川県内の東宝系映画館は丸亀東宝、坂出東宝、三本松東宝の3軒が存在した。

この高松東宝会館は、2004年に閉館され、2006年、跡地にスーパーホテルが開業した。

◼️昭和時代、中学生の時、高松三越近くの大劇パラスでロッキー3を観た。

映画を観た後、義経さんでうどんを食べた記憶がある💦

映画のテーマ曲だったサバイバーのEye of the Tigerが今も脳裏にこだまする^_^

この辺りで、思い出すのは手打ちラーメンの木蘭、中華料理の平安閣、三越6階のお子様ランチと屋上遊園地😃

●大劇パラスがあった高松市内町

◼️エレファントマンとは?

◼️予告編

◼️The Elephant Man – Train Station Scene

マスクを剥ぎとられるシーン

◼️ジョゼフ・ケアリー・メリック (Joseph Carey Merrick)

1862年8月5日 – 1890年4月11日

ヴィクトリア朝時代のイギリスで、今日では主にプロテウス症候群が原因と推測されている身体の極度な変形、膨張から「エレファント・マン」(The Elephant Man)として知られた人物。

↑ ジョゼフ・メリック。彼の死の前年・1889年撮影

彼を最初に診察した医師フレデリック・トレヴェスがまとめた回想録を基に作家のバーナード・ポメランスが戯曲にした事から世に広まり映画化され、広く知られるに至った。


◼️ジョゼフ・ケアリー・メリック

1862年8月5日にイギリスのレスターで生まれた。彼は生まれつきの重度の身体障害を持っており、その症状は徐々に進行していった。

幼少期には他の子供たちと同様に教育を受けたが、やがて身体的な変形が進行し、社会的に孤立していった。

1884年、彼は見せ物小屋で「エレファント・マン」として展示されることとなった。これは彼にとって辛い時期で、巡業興行で奇形を見世物として扱われた経験は彼にとって屈辱的だった。

1886年、フレデリック・トレヴェスとの出会いが彼の人生を変えた。トレヴェスはメリックを見つけ、彼を見世物としてではなく人間として扱い、ロンドン病院に連れて行った。そこでメリックは医療と人道的なケアを受けることができた。

メリックはトレヴェスの支援を受けながら、文学や文化に興味を持ち、友人や支援者と交流した。彼は後にロンドンの高級寄宿学校に招かれ、社交界に参加する機会を得た。

1890年代には、彼の健康状態が急速に悪化し始めた。そして、1890年4月11日に彼は自宅で死亡が確認された。その時点での彼の年齢はわずか27歳だった。その死因ははっきりとはわかっていないが、首の骨の異常による窒息とされている。

メリックの生涯は偏見や苦難に満ちたものだったが、彼の物語は彼の知性と人間性に焦点を当て、人々の心を打つものとなっている。

◼️The Elephant Man – Last Sleep Scene

◼️突然の死

1890年4月11日、すでにかなりの衰弱をみせていたメリックは、正午まで起き出さないのが通例になっていた。

彼の係であった看護婦・アイアランドがこの日も必要な世話をしたが、特に変わった様子はなく、午後1時半にはメイドが昼食を運んで来、好きな時間に食べられるように置いていった。

3時を少し回ったころ、定例の午後の回診にきたトレヴェス付きの研修医・ホッジスが、ベッドに仰向けに寝た姿勢で亡くなっていたメリックを見つけた。

享年27歳だった。

昼食はメイドが置いていった場所に手をつけずにそのまま残されており、ホッジスは自分の一存で遺体に触れぬほうがよいと判断、先輩であるアッシュの立会いを求め、死後最初の検査はこの両名によって行われた。

死後直ちに検死官ウィン・バクスターによって検死陪審が開かれ、メリックの叔父チャールズ・バーナバスによる形式的な遺体確認のあと、生前のメリックを最後に見たアイアランド、死んでいる彼を最初に見たホッジスがそれぞれ証言、それらにもとづいて、死因は頸椎の脱臼あるいは窒息による自然死と判断された。

翌朝の『タイムズ』紙には、「エレファント・マンの死」なる大見出しと共にその詳細が報じられ、ロンドン病院理事長のカー・ゴムのメッセージも併せて掲載された。

生前のメリックに支援を寄せた人たちへの感謝の辞とともに、彼らから寄せられた寄付金の残金の今後の扱いとして、各方面に必要と考えられる謝礼を支払った後、病院の一般会計に組み入れる予定である旨が報告された。

一方で医学専門誌『ブリティッシュ・メディカル・ジャーナル』にもメリックの最後の日々やその死因などに関する記事が掲載された。

一説には仰向けに寝ることを試みた際の事故、また自殺説も取り沙汰された。

ディスカバリーチャンネルが2011年に製作した『蘇るエレファントマン』では、彼の骨格標本を詳細に検査したところ、頚椎の損傷具合から彼独特の就寝方法を取ろうとした際に、頚椎が脱臼し、絶命。

そして結果として巨大な頭部の重みで仰向けになった状態で発見された事故と結論付け、自殺説を否定している。

死後、亡骸各部の石膏型および骨格標本が保存されて研究の対象となっているほか、彼の使用した帽子や本人が組み上げた建物の模型等、いくつかの遺品は博物館で見ることができる。

皮膚などの組織標本も保存されていたが、第二次世界大戦下で失われた。

◼️メリックが看護婦たちと作り、ケンドールに贈ったボール紙製のマインツ大聖堂の模型

◼️DVD

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