【タブー】高松市民にも存在を知られていない高松市歌とはどんな歌か? 作詞者は高橋是清の側近だった政界の重鎮 東かがわ市出身の三土忠造 翁! 観音寺市にある日本で唯一の石積みアーチ式の豊稔池ダムの名付け親! 香川県民歌を知っているか?

◼️高松市歌とは?

「高松市歌」(たかまつしか)とは、日本の香川県高松市が1912年(明治45年)に制定した市歌。

高松市歌(その一)。作詞・三土忠造、作曲・楠美恩三郎。

高松市歌(その二)。作詞・堀沢周安、作曲・岡野貞一。

1910年(明治43年)に宇高連絡船の定期就航と合わせて高松駅の駅舎を高松港寄りで新築移転することを記念し、同年4月から市歌の制定作業を開始した。

作詞・作曲は2曲いずれも依頼によるもので、その一は後に文部大臣や鉄道大臣を歴任した地元政治家の三土忠造が、その二は香川県師範学校の国語教諭に在職していた堀沢周安がそれぞれ作詞した。

特に、堀沢はその後も「丸亀市歌」や「坂出市歌」「多度津町歌」など県内の市町歌を何篇も作詞している。

発表演奏は1912年(明治45年)6月5日に高松城(現在の玉藻公園)で開催された。

市では『広報たかまつ』2009年(平成21年)12月号など発行物では不定期に市歌を取り上げる場合があるが、市の公式サイトでは一切紹介されておらず「使用については把握していない」として、公的行事で演奏されることも無くなっている。

高松市参事会では上記の2曲に加えて国文学者の赤松景福に作詞、香川師範学校音楽教諭の川添安蔵に作曲を依頼した「高松市歌(その三)」を追加して『高松唱歌』と題した読本へ収録し、市歌制定の前年に当たる1911年(明治44年)にこの3曲を市内の尋常小学校で教える唱歌として文部省への検定申請を行った。

文部省の認可は1912年(明治45年)2月1日付の官報第8590号で告示され、その後の6月に前述の発表演奏会が行われたが『高松唱歌』で追加された「その三」は当初から「その一」「その二」とは対照的に公式の市歌としては認められておらず、1938年(昭和13年)刊の『高松市史』をはじめ市の公的な出版物ではオミットされている。

◼️高松市歌 その1 歌詞

◼️高松市歌 その1

◼️高松市歌 その2

◼️高松市歌(その1)の作詞者 三土忠造翁とは?

🔸三土忠造翁は、香川県観音寺市の、日本で唯一の石積みアーチ式ダム豊稔池の名付け親である。

◼️高松市歌 その1の作曲家は?

楠美 恩三郎(くすみ おんざぶろう)

1868年4月17日(慶応4年3月25日) – 1927年(昭和2年)10月8日)は、日本の作曲家、教育者。青森県弘前市出身。

弘前藩士、楠美晩翠の三男として生まれる。

1889年(明治22年)、東京音楽学校師範部を卒業。

1902年(明治35年)、東京音楽学校助教授、

1910年(明治43年)〜1917年(大正6年)まで同教授として活躍し、日本の音楽教育に貢献した。

また、島崎赤太郎、岡野貞一、南能衛、上真行、小山作之助らとともに、文部省編『尋常小学唱歌』の作曲委員の一人として参加し、『尋常小学読本唱歌』の編纂にもたずさわった。

数多くの校歌の作詞・作曲を手がけた事でも有名。

🔸代表作

『お星様』(作詞:石原和三郎)
『木の実拾い』(作詞:旗野十一郎)
『手毬と紙鳶』(作詞:吉丸一昌)
『同窓会』(作詞:加藤里路)

◼️香川県民歌

◼️プロフィール