【貴重】インドの猛虎 タイガー・ジェット・シンの素顔に迫る! ドキュメンタリー映像! 必殺技コブラクローはチョークか否か? 日本政府から表彰された理由は?

🟣タイガー・ジェット・シンとは?

タイガー・ジェット・シン(Tiger Jeet Singh

本名:Jagjit Singh Hans

1944年4月3日 –

インド・パンジャーブ州ルディヤーナー出身でカナダ在住のプロレスラー、実業家。

スペリングの通り、より原音に近いリングネームの表記はタイガー・ジート・シン(「ジート」はパンジャーブ語で「勝利」の意味)。

シク教徒。

ニックネームは「インドの猛虎(狂虎)」「狂える虎」。

息子のタイガー・アリ・シンもプロレスラーであり、WWEのリングでも活動した。

フェンシングのサーベルを振りかざす姿で一世を風靡した悪役レスラー。

しかし、ここぞという場面では正統派レスリングを見せ、アントニオ猪木らトップクラスのレスラーにも勝利している。

言動には独自の哲学を徹底して貫いており、多くの関係者から一目置かれる存在となっている。

日本国外や地元トロントではベビーフェイスとして活躍を続ける一方、プロレス以外の様々な事業を経営している。

プロレス業界のみならず、財界、政界とも繋がりがあり、北米インド人社会では最も著名な人物の一人である。

🟣ドキュメンタリー映像

●Tiger Jeet Singh Doc. (Part 1 of 5)

🟣Tiger Jeet Singh Public School Opens

🟣息子のタイガー・アリ・シンへのインタビュー

🟣金網デスマッチ 対 ザ・シーク

🟣タイガー・ジェット・シン〜作られたヒール

1972年、アントニオ猪木を代表に新日本プロレスが創立されるが、しばらくはNWAと日本プロレス(後に全日本プロレス)、AWAと国際プロレスとの提携により、当時ネームバリューの高い外国人選手のほとんどは、新日本プロレスへの参戦が事実上不可能であった。

また、創立間もない新日本プロレスは高額のギャラを外国人レスラーに払える状況では無く、無名の選手を育て上げるという手法に依存せざるを得なかった。

そういった背景があって、タイガー・ジェット・シンを新日本プロレスに売り込んだのは、当時インドと独自のネットワークを築いていた吉田なる貿易商とされる。

この吉田氏が香港でシンの試合を観戦し、新日本側に紹介したといわれている。

猪木が無名外国人選手のプロフィールに目を通している時に、口にナイフを咥えているシンの写真に注目した。

この時猪木は、「ナイフじゃなくどうせならサーベルでも咥えさせてみろ」と語ったという。

このような状況で1973年の5月、シンは初来日した。

ただし、本来は同年7月からのシリーズに参戦する予定だったのが、新日本プロレス渉外担当者の手続きに間違いがあり、シンは二か月早く来日してしまった。

そこで同年5月4日、会場の川崎市立体育館の客席にシンを招いた。

新日本プロレスにしてみれば、「手違いとはいえ、せっかく来日したのだから日本のプロレスを生で見てもらおう」という、シンに対する配慮だった。

ところがこの日の山本小鉄対スティーブ・リッカードの試合中、シンは突如乱入し、山本小鉄をメッタ打ちにした。

この時はターバンは巻いていたが、サーベルは持っていなかった。


この様子を見た猪木は目玉レスラーになると考え、急遽渉外担当に命じシンを一旦香港へ向かわせ、業務用ビザを受けた後に日本へ戻るよう指示した。

その間、新日本プロレスは前述の猪木案を実現すべく、日本国内でサーベルを手配し、日本に戻ってきたシンに与えた。

ヒールとして日本で活躍することを望んでいたシンは、大いに喜んだという。

既述の通りシンとスティーブ・リッカードは来日前から面識があったため、当初のシンはリッカードのセコンド役という位置づけだったが、その尋常ではない暴れっぷりに人気が集中し、シリーズ終盤にはついに対猪木との初シングル戦が実現した。

このような経緯を経て、ターバンを巻きサーベルを振りかざすという、タイガー・ジェット・シン独自のスタイルが確立されたが、当時の新日本プロレスは、「タイガー・ジェット・シンは勝手に日本に来た。決して新日本プロレスが招いたわけでは無い」との旨のギミックでシンを売り込んだ。

このギミックについて当時のスポーツ新聞はシンを「謎の怪人」「狂人(後述する)」等と報道し、一応の成功を収めた。

後に「インドの猛虎」「狂虎」といった表現に落ち着く。

🟣人物像

●ミスター高橋によると、初来日時における新日本プロレスでの自身の週給は3000ドルであり、最終額は8000ドル。

●高橋は著書の中で、シンが狂人どころか非常に聡明で紳士的な人間であることを強調しており、ヒールとしてのキャラクターは完全に演技であることを明かしている(先述の通りインド社会では名士として知られており、インドで募金活動をするなど、善意や篤志もある)。

「手が付けられないほど、試合中に本当に狂ってしまったのは猪木」とも証言されている。

●山本小鉄が巡業先のスポンサーの社長宅で、バーベキューに呼ばれたことがあった。社長は「どうせなら外国人レスラーも連れてきてよ」と言い、当時外国人選手係でもあった山本小鉄は、シンと一緒に赴いた。

シンはターバンにスーツという、インド式の正装であった。

そのうちバーベキューの火力が強くなり、段々汗ばんできたきたシンは、「社長、上着を脱いでもよろしいでしょうか」と一言断りを入れたという。シンの紳士ぶりを象徴する一例である。

●天龍源一郎によると、自分で財を築いたという自負が強く、他のレスラーを卑下している部分もあったという。

天龍は「飛行場に着いて、タクシーに『タイガー・ジェット・シンの家まで』と言えば、俺の家に着くんだ」と何百回も自慢し、如何に自分の力で財を成したかを自慢するシンに苦笑していた。

カナダのトロント地区はインド系住民の多い地であり、この地でのシンは、デビュー直後の数年間を除いて一貫してベビーフェイスである。

またアメリカのデトロイトなどでザ・シークと対戦する際もベビーフェイスとして活動している。

●オーストラリアではヒールのポジションであった。

ヒールとしてのモデルはザ・シークであり、狂人キャラを貫く点、決してプライベートを明かさない点にそれが見える。


●リングの内外を問わず、大変な倹約家として知られる。

トロントでの事業が成功した大きな要因であり、それを物語る一例としてシンと親しいある日本人プロレス記者は、「(シンがメインを取っていた全盛期の頃)週に100万円稼ぐシンが(来日中に)使う金は一日5,000円以下だった」と語る。

●1977年1月、スタン・ハンセンが新日本に初参戦した当時、外国人レスラーのエース格としてシンが君臨していた。

この頃のハンセンは「サンマルチノの首を折った男」との売り込みで多少の知名度はあったものの、先に参戦していた全日本においては「馬力だけの不器用なレスラー」との烙印を押されていた二流レスラーの扱いであった。

そんなハンセンがシンとツアーを同行するうちに多大な影響を受けることになる。

普段は物静かで寡黙なシンがリングに向かう時は急変して大暴れしながら入場、さらに欧米では考えられない観客を追い回し時に暴行を加えるシーンなどがそれで、すぐにハンセンも自分のスタイルとして取り入れるようになる。

後にハンセンはシンとの関係についてこのように語る。

「それまで見たことのないタイガーのナチュラルな暴れっぷりに、プロとして大きな感銘を受けた。『ブレーキの壊れたダンプカー』というフレーズは間違いなくタイガーの影響だ。

後に猪木からNWF王座を奪うことになり、この時初めて俺(ハンセン)は外国人レスラーのトップになったという実感が湧いてきた。

アンドレは別格として、タイガーを超えたことが大きな喜びだった。

俺にとってタイガーは親友ではないが、大きな存在であったことは間違いない」

●シンとハンセンは新日本・全日本通算で10年以上もツアーを同行することになるが、リング内での絡みは非常に少ない。

決して不仲ということではなく、血で血を洗うような惨劇に発展しにくかったのはハンセンのシンに対するリスペクトが大きい。

事実この両者は極めて尖ったキャラクターでありながら、ツアー移動中のプライベートでは一緒に一枚の写真に収まっていることが多い。

●かつてメインをとっていた全盛期は、「会場にいる者全てが俺の敵だ、だから俺は観客でもカメラマンでも殴る」と、自身のヒール哲学を徹底的に貫いていたシンだが、体力的な衰えとかつての盟友だった上田馬之助の交通事故が転機となり、ファンに愛されるヒールに転向。

リビングレジェンドのイメージが色濃くなった近年は、観客に暴行を加え、それでなおかつファンに敬愛されるという唯一無二のキャラクターを確立している。

プロレスの楽しみ方も多様化し、1970-1980年代のように本気でシンを怖がって逃げるファンは減り、逆にシンに襲われることを一種のステータスと認めている新しい世代のファンが増えている。


●1990年代後半からはしばしばサイン会等を行い、ファンとの交流に努めている。

また、ゴージャス松野らとCDアルバム『愛が地球を救うのだ』を発表し、アニメ『妖怪人間ベム』の主題歌を熱唱したり、バラエティ番組『BANG! BANG! BANG!』にゲスト出演したりと、プロレス以外のメディアでも活躍した。

●初来日時から関係者でも容易に近付けない雰囲気を放っていたが、実際は電話魔であり大の写真好き。

暇さえあればカメラマンを呼び付けては自身の写真撮影を要求していた。

●田中秀和リングアナは若い頃、新日本プロレスのリング上でプロレスラーに暴行を受けることがしばしばあった。

そのことについて自身のブログで、「シンが僕を襲う場合は悪役としての、プロとしての信念や魂のようなものを感じられた。

シンが襲いに来るか否かは雰囲気で分かるようになったし、襲われると分かっていても僕は逃げなかった。

シンが悪役のプロなら僕はシンに襲われるプロだ。

しかし、アブドーラ・ザ・ブッチャーの場合は単に殴られ損だったので、すぐに逃げた」と語る。

●来日間もない頃は英会話が苦手であり、いわゆるブロークン・イングリッシュで発音していたため、日本人には却って聞き取りやすかった。

ある日本人プロレス記者は、「陽気にペラペラ喋りたてるアメリカンと違い、シンの英語は不思議と誠意が伝わってくる」とも語る。


●2007年ハッスルの青森大会辺りから昔以上に凶悪度が増し始める。

青森大会では対戦したKUSHIDA選手が瀕死の大流血に陥り、他の大会(主に後楽園ホール)では女性客にサーベルを突き刺したり、OLを椅子で殴るなどの狂乱ファイトに、観客の子供は泣き叫びカップルは逃げ惑い、果ては客席で観戦していたスポンサーのお偉いさんも襲われるなど阿鼻叫喚の往年のシンの世界を展開させている。

また、60を過ぎた肉体にもかかわらず筋骨隆々で100 kgを超える選手にいまでもアルゼンチン・バックブリーカーを掛ける。

●日本ではシンにブッチャーとザ・シークを加え、「世界三大ヒール」等と称されることが多い。

相手選手を反則攻撃で痛めつけ、凶器で流血させるという全盛期の基本的なスタイルは共通しているものの、三者とも独自のキャラクターをしっかりと築いていた。


●ある日本人プロレス記者は、ザ・シークはレスラー仲間から尊敬されるヒール、ブッチャーはファンに愛されるヒール、そしてシンはファンに恐怖を与えるヒールと大別する。

日本における三者の全盛期は多少の差異はあるものの、一般的に1970-1980年代とされる。

この頃、悪の限りを尽くしながらもブッチャーは絶大な人気を誇り、同じくシークは年齢的にピークを過ぎていたものの、プロモーターとしてビジネスをしっかりこなしていた。


同じ頃シンは、既述の新宿伊勢丹襲撃事件を筆頭に観客や記者への暴行等を繰り返し、やがてリングの外でもヒールというキャラクターを貫いた。

ブッチャーやシークは概ね試合中でのみ凶行に及び、リングを降りるとインタビューや写真撮影等に気さくに応じていたのに対し、シンの場合は控え室や移動中等でもファンや関係者をしばしば襲っていた。

その様子がメディアを通じて知られるようになり、唯一無二の恐怖を与えるヒールを確立した。

またブッチャーとシークは、小型の鋭利な凶器で相手を静的に流血させることがほとんどであったが、三者の中で最も若く長身なシンは、小型の凶器からテーブル、テレビカメラの三脚、竹箒、三連パイプイス等と大型の凶器までを動的に使いこなし、リング狭しとスピーディーに暴れるスタイルが特徴であった。

一時は手錠で相手の自由を奪ったり火を放ったりと演出も豊富であった。

この違いについてアントニオ猪木は、「ブッチャーとシークのスタイルは残酷ショーだが、シンはそれと違う」と語る。


●息子タイガー・アリ・シンらが幼少期の頃、来日に伴いシンが留守のときは家はジット夫人が守ることとなった。

躾に厳しい母が常駐する一方、久方ぶりにシンが帰国したら幼い息子らをつい溺愛してしまう。

そのため息子アリ・シンらにとっては、「家では母(ジット夫人)が悪役」であった。

ただしケンカに負けて帰ってくると普段は優しい父シンも、「白人のガキどもなんかもっとブッ飛ばせ」と激怒していた。

●2018年の時点でも狂人のギミックを守り抜いており、それ故に建前を取っ払った内容にする必要のある自伝を製作・許可しないと言われている。

実際2010年代前半から半ば頃に企画されたものの、断念される結果に終わっている。

2021年2月25日、シンが自身の財団を通じ東日本大震災における日本の被災児童へ支援を行ったことで、日本とカナダの友好促進に貢献したとし、佐々山拓也・在トロント総領事より表彰された。

日本政府から表彰! ニュース動画!

🟣エピソード

必殺技 コブラクロー

シンの代名詞とも称される技で、フォール勝ちのほとんどをこの技で収めている。

建前上は、指を2本折り曲げてVの字を作った状態で頚動脈に押し当てて相手を酸欠状態に陥れる合法的な技とされるが、実際はチョーク攻撃(反則)に過ぎなかった。

しかし、前述の通り創立間もない頃の新日本プロレスは、営業面でシンを看板選手として売り込む必要があり、彼の残虐性と実力とをビジュアル的にアピールすべく、コブラクローを反則としない暗黙の了解があったとされる。

そのため新日本プロレスが名付け親の感が強く、それを嫌ってか、全日本プロレス移籍後はこの技を「タイガークロー」と呼ぶ解説者もいた。

他にこの技の使い手はほとんど見られない。


この技の繰り出し方は主に3通りある。

・相手がリング中央にいる時


相手を蹴る、あるいは殴る等をして相手が一瞬無防備になった隙に仕掛けるが、あまり決定打にはならない。


・相手をロープに振ってカウンターで仕掛ける


このパターンで多くのフォール勝ちを納めている。ただし、技に入る直前のモーションが大きく、それを見抜かれて相手にかわされることもしばしばある。


・ロープ際 → エプロン → 場外 へと相手を誘う


ファンが最も興奮するのがこのパターンとされる。まずロープ際の相手にコブラクローを仕掛ける。

相手はロープを掴むので、レフェリーはロープブレイクを宣言するがシンはそれに応じない。

この時点で反則には違いないので、完全なチョーク攻撃へとシフトする。

反則負けとされるカウント5の直前に、一瞬手を緩め、反則カウントをリセットさせ、またチョークを仕掛ける。

これを繰り返している間に、自然と両者は徐々にリングの外へと移動し、やがてエプロンへ達する。

次に、エプロンからはみ出た相手の頭部を、さらに下方の場外へと向けて締め下ろし、同様に反則カウント5をとられないようにこれを繰り返し、最終的に相手が場外へ落ち、直後に場外乱闘へと発展する。

●新日本プロレス参戦時の1981年2月6日、上田馬之助やワイルド・サモアンズ(アファ&シカ)らと共に昼間から酒を飲み、札幌のストリップ劇場(札幌コマ劇場)で乱闘事件を起こしたことがある。

シンがサモアンズを囃し立てて舞台に上げようとしたところ、他の客と諍いを起こし、駆けつけた警察官にヘッドロックをかけて眼鏡のフレームを曲げてしまったという。

シンと上田は警察に連行されたが、当日は札幌中島体育センターで猪木とのUWA世界ヘビー級王座戦が組まれていた。最悪の場合、興行の目玉であるタイトルマッチが中止になるところだったが、眼鏡を新日本側で弁償することで拘留は避けられ、無事に試合に出ることができたという。


●新日本プロレスへの参戦以前には「ヒンズー・ハリケーン」のリングネームを使用したこともある。


●シンは怖いレスラーの象徴であり、ファンに恐怖心を与えていたがゆえに警察にも何度か世話になっている。

初めに警察に通報されたのはテレビを見た視聴者からであった。

サーベルのことを「あんな危険なものを使わせていつも猪木さんや坂口さんが血まみれにされているから取り締まることはできないのか」という通報を受けて、新間寿と共に警視庁に呼ばれて本部に行ったことがある。

そして2度目はサーベルを持ってくるように言われ、新間は警官にサーベルを見せて「切っ先は尖っているわけではなく、人を刺すためのものではない。

タイガーがサーベルを使う時は、柄の部分で攻撃をする。刺したり、切ったりが目的ではないことは、テレビを見ていればわかるでしょう」と説明した。


新宿伊勢丹事件における四谷警察署の対応は、もし猪木が告訴するのであれば10人がかりで逮捕しに行くとしていたが、新間は「璽光尊事件で双葉山を逮捕に行った警察官が何人だったか知っていますか?20人以上ですよ」と警察に返答した。

●1970年代半ばの新日本プロレスは、シンを中心に回っていると言っても過言では無かった。

事実シンが登場する興行は飛ぶように売れ、新日本プロレスはシンが登場しない興行との抱き合わせ販売もした。

またNWFがシンを介して様々な手法で新日本プロレスに揺さぶりをかけたかのように見せ、当時はマイナーなタイトルだったNWFのベルトやタイトル戦の付加価値を高めた。


●新日本プロレス時代、『ワールドプロレスリング』の放送局であるテレビ朝日には毎週のようにシンの狂乱ファイトに抗議する電話が寄せられ、テレビ朝日に10台ある電話全てがパンクしたという。

抗議電話の中には、「テレビ朝日の社長を出せ」といった内容もあったという。

テレビ朝日はビデオリサーチやニールセンによる視聴率調査の他にもこの抗議電話も視聴率の指標とし、抗議電話の回数が多かった場合はすぐに高視聴率であると判断していたという(シンが参戦したシリーズにおける視聴率発表日は『’77アジア・チャンピオン・シリーズ』までは放送の翌週、『’78新春黄金シリーズ』以降は放送の翌日に発表)。


●アントニオ猪木夫妻に対する新宿伊勢丹事件の際、タクシーのボンネットをへこまされたタクシー会社は新日本から弁償の申し出を受けると「弁償なんてとんでもない。

ウチはいまみんなで、これは面白いからって猪木さんにサインでもしてもらって、ボンネットをどこかに残していこうという話をしていたんです」と返し、2〜3日後に新日本の関係者はサインとグッズを持ってタクシー会社を訪問し、事態は丸く収まった。


●ミスター高橋によると「腕折事件」以後、骨折していることを装うため帰国までシンの右腕に包帯を巻き続けることを提案した。

何日も同じ部位を覆っていたため後に腕の皮膚が炎症を起こしたが、シンは帰国までこれを実行したという。


●今では当たり前のように見られるリング外の場外フェンスは、1980年から新日本プロレスがシン対策(観客の安全を確保するため)として常設したのが最初である。

フェンス設置直後は、オーバー・ザ・フェンスなる新ルールが設けられた(相手選手をフェンスの外に出せば反則負け)。

これにより場外乱闘の行動半径が狭められる格好となったが、代わりにシンはフェンス目掛けてパイプ椅子を投げつける、通称「イス投げ」というムーブメントを確立した。


●1979年8月26日、東京スポーツ社主催『プロレス夢のオールスター戦』で、ファン投票で1位に選ばれたメインカードが、シン&アブドーラ・ザ・ブッチャー対馬場&猪木(BI砲)であった。

対戦前は「俺がブッチャーと組むくらいならむしろ猪木と組んで、ブッチャー・馬場組と対戦してやる」と、ブッチャーとのコンビを露骨に拒否したが、後年「あのオールスター戦のことはよく覚えている。

もしメインが、ザ・ファンクス対馬場・猪木であれば、全日本プロレスの色が相当濃かっただろう。

それを押さえて俺(シン)を含めたカードが1位で、しかもメインをとったことは今でも誇りに思う」と語っている。

ちなみに馬場は引き分けで終わることを望みそれで予定はほぼ決まっていたが、試合直前に猪木から馬場へ電話があり、「俺(猪木)とシンで話がついたから」と語り、結果はシンのピンフォール負けであった。


●新日本参戦時の試合中に、観客に傘で殴りかかられたことがある。

その際には徹底的な制裁を加え、続行中の試合実況において「先ほどのお客さんは病院に搬送されました」というリポートがあった。

当時の東京スポーツでも、「決してマネをしないでください」という見出しと共に掲載されたが、これは実際には「一般人にも容赦なく暴行を加えるシン」の恐怖を演出するためにミスター高橋が仕掛けたものであり、シンに殴りかかったのは一般人ではなく、当時新日本プロレスの営業マンだった稲川好繁である。

事前の打ち合わせでは、高橋は稲川に「シンには手加減するように言っておくから」と思い切り攻撃するように伝え、逆にシンには「たとえ素人相手でも手加減したらウソっぽくなるから」と、思い切り反撃するように伝えたという。

果たせるかな、稲川は安心して思い切りシンに攻撃を加えたが、聞いていた話と違い、シンに容赦ない反撃を喰らい本当に病院送りになってしまい、後年「あれは酷かったな」と苦笑しており、高橋の方も、「彼(稲川)には悪い事をした。今更遅いけど。」と語っている。


●入場テーマ曲は『サーベルタイガー』で、新日本プロレス時代からハッスル時代迄、彼の主戦場で流されている。

ただし全日本プロレスでは、ブッチャーやザ・シークのテーマ曲でもあった『吹けよ風、呼べよ嵐』(ピンク・フロイド)が使用された。全日本プロレスにおいて同曲は、日本テレビの選曲による凶悪レスラーの入場テーマ曲」という扱いであったためである。

シン対シーク、シン対ブッチャーが実現したときは、双方の入場時にこの曲が流された。


●1979年、栗栖正伸が家族と共にアメリカへ移住するため飛行機に乗っていた時、栗栖の赤ちゃんがなかなか泣き止まないことがあった。

たまたま同じ便に乗り合わせていたシンは、「私(シン)は長距離の移動は慣れているし、うちにも同じ年頃の赤ちゃんがいる。」と言って栗栖の赤ちゃんを抱きかかえ、そのままベビーシッター役を引き受けた。栗栖はシンに深く感謝し、その出来事をずっと忘れずにおり、実際、1990年にシンが新日本プロレスに戻って来たときには栗栖は恩返しとばかり「イス大王」としてシンに加担した。


●新日本プロレス時代のサーベルは新日本側で準備していたものであり、全日本プロレス熊谷大会に乱入した際、凶器はサーベルではなく、モップの柄を使用していた。そして全日本参戦初日に自費でサーベルを購入している。


ブッチャーの新日本プロレス移籍の第一報を伝えたのはテリー・ファンクであった。

トロントの自宅にいたシンにテリーが電話で移籍の旨を伝え、シンはすぐさま折り返し新日本プロレスに確認の電話をした。


●インド人コミュニティーが存在する南アフリカでプロレスのブッカーをしていたこともある。


1987年、全日本プロレスにオファーを出し、ジャイアント馬場はそれに応えてハル薗田をブッキングした。

ハル薗田とその妻は新婚旅行も兼ねて南アフリカに向かったが、その往路、南アフリカ航空295便墜落事故に遭遇し不帰の人となった。

この時ばかりはシンも沈痛な面持ちで、マスコミのインタビューには背広姿で現れ、「ソノダと彼のワイフをこの様な事故で死なせてしまったことは大変申し訳ない」「彼(ソノダ)はとても良い友人でした」と、普段のギミックからは想像も付かない様な真摯な対応を見せた。

その姿はヒール姿しか知らぬ日本のプロレスファンに、薗田の事故死とはまた別の意味で大きな衝撃を与えることになった。薗田夫妻の事故死はもちろんシンには何ら責任はないものであるが、その『償い』として犬猿の仲であるアブドーラ・ザ・ブッチャーと地上最凶悪コンビを結成し、全日本プロレスの興行に貢献したとされる。


とはいえ、この一件も大きなきっかけとなってシンのヒールキャラクターがあくまでギミックであることが明らかとなり、その後のシンのキャラクター性はヒールの内であっても大きく変化してゆくことになる。

それまで悪役として対戦相手(のみならず観客までも)を痛めつけることに終始していたシンが、ほどなくしてブッチャーと仲間割れよりコンビを解消した。

これを機に一転して如何にブッチャーより人気を得るかにシフト、観客からシンコールを受けることになる。

●テレビ東京『開運!なんでも鑑定団』において、シンから譲り受けたサーベルに40万円の鑑定額がついたことがある。

●札幌巡業中、ススキノで飲んで上機嫌になったシンと外国人レスラー数名が、悪戯に近くに停めてあった車数台をひっくり返し、本当に警察沙汰になったことがある。

●函館巡業中、すし屋へ行って「金魚を握ってくれ」と言ったことがある。

●ヘビが苦手であるにもかかわらず、上田馬之助によって中野駅前の蛇料理店や、まむしラーメンで名高いミスター高橋経営のラーメン店に連行された。


●リングネームは、日本語では一般的に「タイガー・ジェット・シン」と表記されるが、東京スポーツだけは1990年代中期辺りから「タイガー・ジット・シン」と表記している。

ミドルネームの英語表記は “Jet” ではなく “Jeet” であり、後者の発音からすると「ジット」となるのが正しいという。

そうした旨の申し入れがシン本人からあったため、以降は「ジット」と表記するようになったという。


●1994年7月8日付東京スポーツ1面トップで「シン7万円(1,000カナダドル)詐欺逮捕」と報じられる。同紙、並びに『紙のプロレス』第11号で本人は全面否定。


●地元では慈善事業家としての一面もありこちらでの評価も高く、2010年9月に自身の名前を冠した公立高校が、カナダのオンタリオ州ミルトンに開校した。

●来日外国人レスラーの中で、日本でタッグを組んだことがある日本人選手の数は最多級である(上田、マサ斎藤、ラッシャー木村、鶴見五郎、阿修羅・原、ザ・グレート・カブキ、キラー・カーン、猪木、栗栖、剛竜馬、安生洋二、ゴージャス松野など)。

●短期間ながらもFMWで活躍していた時期があったため、女子プロレスラーとも縁がある。


井上京子とカレーの早食いマッチが実現した。シンは辛いものが苦手であるが、対決の最中はそのような弱みを一切見せずこれに勝利した。


井上貴子がスタンガンを凶器にヒールとして活躍していた頃、自身を「女タイガージェットシンと呼んで下さい」とアピール。