【讃岐秘話】東かがわ市・森家400年の軌跡――阿波水軍・森権平久村から、高松藩士、八田・永峰・三谷・有馬・三宅家との婚姻、そして神戸へ
はじめに
私の故郷、香川県東かがわ市馬篠には、400年以上にわたって続いてきた森家の歴史があります。
そのルーツをたどると、戦国時代の阿波に生きた森一族、鳴門・土佐泊城と阿波水軍、そして1583年の引田の戦いで18歳の若さで討死した森権平久村へと遡ります。
一方、引田の戦いから馬篠へ落ち延びた森家は、戦国の動乱を生き延び、江戸時代には高松藩領で土地を開き、治水や道路・橋などの普請に携わり、金刀比羅宮の石段造営にも関わりました。
馬篠の近く、小磯の大筒台の見回りに高松藩主一行が来ると森家が接待しました。
そして幕末から明治にかけては、徳島藩の碁浦御番所役人を世襲した八田家、讃岐黒羽の旧家・永峰家や三谷家、有馬家、三宅家など、阿波・讃岐の旧家との婚姻によって、森家の血脈はさらに広がっていきました。
その先には、徳島藩の御料理方を務めた生藤家、讃岐黒羽の永峰家、三谷家、神戸へ移住した一族、そして神戸オリエンタルホテルで昭和天皇に料理を献上した人物へと続く、意外な近代史があります。
また、讃岐黒羽の三谷家は瀬戸内寂聴さんや町会議長らを輩出しました。
本稿では、家に残る家系図、除籍謄本、過去帳、家紋・家紋瓦、墓、古い家の記憶、そして地域に残る伝承や史料を重ね合わせながら、東かがわ市馬篠の森家がどのように成立し、どのような人々と結びつきながら今日まで続いてきたのかを整理します。
一人ひとりの先祖の人生をたどっていくと、森家の歴史は単なる家系図ではありません。
そこには、戦国の戦乱を生き抜いた武士、一族の命運を背負って戦場に散った若者、藩境を越えて結ばれた婚姻、地域を支えた普請、そして戦争の時代に日中戦争で戦死した森静雄まで、時代の変化に翻弄されながらも生き抜いてきた人々の姿があります。
これは、香川県東かがわ市馬篠に生きた森家の歴史をたどる記録です。
・東かがわ市は香川県の東端にあり、徳島県との県境に意味する。

・高松藩 森家が住んだ馬篠。1573年、引田の戦いで長宗我部元親軍により森権平久村が討ち死にした伊座。その一族の者が馬篠の柏が生い茂る山へ落ち延び一帯を開拓し柏谷と名付けた。幕末〜明治初期に森家と婚姻を結んだ讃岐黒羽の永峰家と三谷家、そして、鳴門市北灘町碁浦の八田家。

・明治初期に森家と婚姻を結んだ大内郡誉水村の有馬家、美馬郡穴吹村の三宅家

・森家の菩提寺は1684年に小砂(こざれ)から三本松へ移った勝覚寺。1582年の中富川の戦いで長宗我部元親軍により討ち死にした赤沢信濃守宗伝の子が阿波板野から大内郡小砂に逃れてきて一族の菩提を弔う為、勝覚寺を開基した。森権平久村の母は赤沢一族の赤沢伊賀守の娘だった関係から森家の菩提寺は勝覚寺となった。

・幕末期、瀬戸内海には外国船が行き来していた。馬篠の近くの小磯には大筒台が造られた。高松藩主一行が見回りに来た際には森家がお膳立てして接待していた。


・小磯の大筒台

・森家の菩提寺は板西城主 赤沢信濃守宗伝の子が中富川の戦いから落ち延びてきた小砂で開基した勝覚寺

目次
- はじめに
- 引田の戦いから馬篠への移住
- 1.森家の最も古い記憶――阿波森氏と森権平久村
- 2.1582年――赤沢氏と中富川の戦い
- 3.1583年――引田の戦いと森権平久村
- 4.森家はなぜ馬篠へ来たのか
- 5.森家の家紋――丸に木瓜
- 6.森家の墓と過去帳
- 7.森家の江戸期の系譜
- 8.森喜平――近代森家の中心人物
- 9.徳島藩・碁浦御番所役人家――八田家
- 10.八田孫兵衛と1641年の阿波・讃岐国境
- 11.碁浦御番所
- 12.生藤家――徳島藩の御料理方
- 13.森喜平と八田キヨの子どもたち
- 14.森虎太郎――永峰チヨとの結婚
- 15.永峰家――讃岐黒羽の旧家
- 16.永塩因幡守氏継と讃岐黒羽
- 17.森マサと有馬家
- 18.森マサと三谷家――有馬家を介したつながり
- 19.三谷家と黒羽
- 20.森トヨと三谷磯八
- 21.森ヤスと徳島県美馬郡三宅家
- 22.森家の婚姻ネットワーク
- 23.森家に伝わった武家文化
- 24.森家の普請・土木従事
- 25.森家と金刀比羅宮
- 26.森トメノ――森家の記憶を伝えた女性
- 27.神戸新聞と森家
- 28.森功と神戸オリエンタルホテル
- 29.森静雄――日中戦争で戦死
- 30.森家の家系を一本の線で見る
- 31.永峰チヨから黒羽の歴史へ
- 32.三谷家から瀬戸内寂聴へ
- 33.森家を取り巻く旧家ネットワーク
- 34.「阿波水軍の末裔」という位置付けについて
- 35.森家の歴史を支える「5種類の証拠」
- 36.森家の歴史で特に重要な人物
- 37.森家の歴史の核心
- 38.そして現在の森家へ
- 39.森家の系譜を「歴史」として見る
- 40.馬篠森家の400年史・最終系譜
- おわりに
引田の戦いから馬篠への移住
これまでの家系図、過去帳、除籍謄本、家紋・家紋瓦、墓所、家伝、地域史、そしてこれまで整理してきた阿波・讃岐の武家・庄屋・旧家との婚姻関係を一つにまとめると、香川県東かがわ市馬篠の森家は、阿波の森氏・水軍系武士層を起点とするという家伝を持ち、戦国期の戦乱を経て讃岐馬篠に定着し、江戸期には高松藩領の森家として存続、さらに徳島藩士八田家、讃岐黒羽の永峰家・三谷家・有馬家、阿波の三宅家などと婚姻を重ねながら、近代へ血脈をつないだ家系として整理できる。
香川県東かがわ市馬篠に伝わる森家の歴史をたどると、その背後には阿波と讃岐を結ぶ瀬戸内海東部の武士・水軍・庄屋・藩士層のネットワークが浮かび上がる。
森家に伝わる家伝では、祖先は阿波の森氏であり、戦国時代には鳴門・土佐泊を基盤とした森氏一族とつながる。
その中で特に重要なのが、天正11年(1583)の引田の戦いで討死したと伝わる森権平久村である。
そして戦国期の動乱を経て阿波 森一族の一部が讃岐に定着し、東かがわ市馬篠の柏の木が生い茂る土地を開拓、治水し、柏谷と名付け森家の基盤を築いた。
森家は柏谷一帯の山林と土地を所有していた。
その流れは、
阿波森氏・水軍系武士層
↓
戦国期の讃岐への移住
↓
馬篠への定着
↓
高松藩領の森家
↓
徳島藩碁浦御番所役人・八田家との婚姻
↓
讃岐黒羽の永峰・三谷・有馬家との婚姻
↓
阿波三宅家・生藤家とのつながり
↓
明治・大正・昭和の森家
という非常に興味深い展開を見せる。
1.森家の最も古い記憶――阿波森氏と森権平久村
森家の歴史を考える上で、最も重要な人物の一人が、
森権平久村
である。
森家の伝承では、森権平久村は阿波の森氏一族に属し、鳴門・土佐泊を基盤とした森氏の森村吉の次男にあたる。
森村吉(九郎左衛門)は、森志摩守村春の弟である。1582年に仙石秀久の家臣となった森村吉の長男は森村重 (後に徳島藩海上方 森甚五兵衛家)、次男は森権平久村、三男は信濃小諸へ移り仙石秀久の娘と結婚した森村明となる。
・阿波水軍森家の家系図

・森権平久村の母は阿波赤沢家一族の赤沢伊賀守の娘。同じく板西城主 赤沢信濃守宗伝の子が板野から小砂に逃れてきて勝覚寺を開基し、森家の菩提寺となった。


さらに森権平久村の母は赤沢伊賀守の娘であり、この赤沢氏との関係は、後の森家の菩提寺となる勝覚寺との関係を考える上でも重要である。
・阿波水軍森家は徳島藩海上方として260年間、蜂須賀家の参勤交代の海上移動や海防などの役割を果たした。


・蜂須賀家の家紋は蜂須賀卍、森家の家紋は木瓜紋。



・第19代当主 森甚一郎氏の遺構集『木瓜の香り』

・阿波水軍森一族である讃岐高松藩の森家の家紋は丸に木瓜。家の家紋瓦、上が江戸期、下が明治期。



2.1582年――赤沢氏と中富川の戦い
天正10年(1582)、阿波では中富川の戦いが起こった。
この戦いで長宗我部元親軍と三好方が激突し、板西城主として知られる赤沢信濃守宗伝が討死した。

その後、その一子が讃岐へ逃れ、小砂の地に入り、後の勝覚寺につながった。

ここに、
赤沢氏
↓
小砂
↓
勝覚寺
という流れが生じる。
一方、翌1583年には同じ三好方だった森氏にも大きな転機が訪れる。
海暁閣 勝覚寺

境内はTVドラマ『裸の大将』の撮影地にも選ばれた。

3.1583年――引田の戦いと森権平久村
天正11年(1583)の引田の戦いは、森家の歴史を考える上で極めて重要な出来事である。
仙石秀久軍と長宗我部元親軍が讃岐東部で激突し、仙石軍は敗走した。
この戦いで森権平久村が伊座の地で討死した。
そして森権平久村は、わずか18歳で戦死したとされる。
東かがわ市伊座には森権平に関係する墓・伝承・木像などが残り、森権平庵などの地域伝承とも結びついている。


権平は味方を逃がすため自ら殿を務め伊座の地で討ち死にした。
引田城を長宗我部元親軍に取り囲まれた仙石秀久と森村吉らは引田城を脱出し、海路で小豆島、淡路島へと逃れた。
一方、陸路で逃れた森一族の一部は、馬篠へと落ち延びたと伝わる。

4.森家はなぜ馬篠へ来たのか
森家に伝わる最大の家伝の一つが、先祖は森権平久村と関係があり、引田の戦いを逃れた森一族の一部が讃岐馬篠へ落ち延びた、江戸期には普請の仕事をして橋や道路を作り、金刀比羅宮の石段造営にも参画したというものである。
第二次世界大戦中まで甲冑、刀、槍があったが、鉄類供出令により、国に差し出した。戦後は刀の鍔(つば)が三個くらい残り、壁に飾ってあったのを子供の頃見た。
馬篠は現在の東かがわ市に位置し、讃岐東部と阿波との境界に近い。
戦国期の東讃と阿波東部は、現代の県境ほど明確に分断された地域ではない。
引田・馬篠・大内・丹生・小砂・阿波東部は、海路・陸路を通じて人・物・婚姻・軍事情報が行き交う地域だった。
したがって、
阿波の武士層が東讃へ移住する
という現象そのものは、地域史の大きな流れの中で理解することができる。
森家では、その後、馬篠の山林を開き、柏谷と呼ばれる地域を開発したと伝わる。
治水を行い、ため池を築き、山林・土地を所有していったという家伝も残る。
現在の
柏谷上池
柏谷下池
も、この開拓史を考える材料となる。
・柏谷

・柏谷上池。この池では鰻が穫れていた。

・私は子供の頃、下記のすぐ手前の場所に砦(とりで)があったと聞いたことがある。実際、この場所には古い井戸の跡がある。
なぜこんな山奥の目立たない場所に住んでいるのか疑問に思っていたが、引田の戦いで長宗我部元親軍の兵士から逃れて身を隠す必要があったと考えると腑に落ちる。

5.森家の家紋――丸に木瓜
森家に伝わる家紋は、
丸に木瓜
である。
これは森家のアイデンティティを考える上で重要な物証の一つである。
さらに森家には、
丸に木瓜を施した家紋瓦
が残っている。
また、墓石の家紋も丸に木瓜となっている。
・森一族の証としての家紋瓦


家紋瓦は、単なる口伝ではなく、実際に家屋などに使用された物質資料である。
したがって、
「森家が丸に木瓜を代々使用してきた」
ことを示す具体的資料として価値がある。
阿波森家の家紋は木瓜紋で、その一族の家紋として丸に木瓜紋を使用したと考えられる。
6.森家の墓と過去帳
森家の菩提寺として重要なのが、
真宗興正派海暁閣・勝覚寺
である。
勝覚寺は現在、東かがわ市三本松にある。
森家の過去帳には、江戸期から近代に至る森家の人物が記録されている。
ただし、現在確認している過去帳は昭和期に書き改められたものであり、江戸前期の人物については勝覚寺に残る過去帳を確認する必要がある。
それでも、
1700年
→ 1758年
→ 1774年
→ 1866年
→ 1918年
と続く森家当主層の記録は、森家が江戸期を通じて馬篠周辺で家を維持していたことを考える上で重要である。


7.森家の江戸期の系譜
現在整理できる森家の系譜は、おおむね次のようになる。
第1世代
円照信士
1700年(元禄13年)没。
推定生年は17世紀中頃。
妻は、
妙心信女
1704年没。
江戸初期の森家を考える上で、現在確認できる重要な世代である。
⸻
第2世代
道玄信士
1758年(宝暦8年)没。
妻は、
妙春信女
1721年没。
⸻
第3世代
道清信士
1774年(安永3年)没。
妻は、
妙清信女
1787年(天明7年)没。
「道清」「妙清」と共通する「清」の字を持つ点も興味深い。
⸻
第4世代
森義右エ門
法名・法聚信士。
1866年(慶応2年)11月10日没。
妻は、
智観信女
1879年(明治12年)3月1日没。





8.森喜平――近代森家の中心人物
そして近代森家の重要人物となるのが、高松藩 森義右エ門の長男
森喜平
である。
・森喜平
生年月日:
1845年(弘化2年)5月4日
没年:
1918年(大正7年)4月7日
行年:
74歳
除籍謄本により生年月日を確認できる点は非常に重要である。
森喜平は、父・森義右エ門の死後、若くして家を継いだ。
そして森喜平の妻となったのが、
八田キヨ
である。
・幕末から明治期を生きた森喜平を戸主とする除籍謄本

9.徳島藩・碁浦御番所役人家――八田家
八田キヨは、
徳島藩碁浦御番所役人・八田家
の女性である。
生年月日:
1846年(弘化3年)9月18日
没年:
1937年(昭和12年)
行年:
91歳
八田キヨは、徳島藩の碁浦御番所役人を231年間、務めた八田家当主・第九代八田孫平の長女である。
つまり森喜平と八田キヨの結婚は、
高松藩領の森家
×
徳島藩の番所役人八田家
という、藩境を越えた武士層同士の婚姻だった。
これは森家の歴史を理解する上で非常に重要である。
・碁浦御番所役人 八田家当主 八田孫平を戸主とする除籍謄本。

・徳島県板野郡碁浦村壱番屋敷

・碁浦御番所。高祖母 八田キヨの生家。ここには測量中の伊能忠敬や久米通賢、四国遍路途中の松浦武四郎らが訪れた。

・碁浦御番所の三ツ道具

・史跡 碁浦御番所跡 (鳴門市北灘町大須の駐車場に建つ石碑)


・伊能忠敬上陸地点 (碁浦)

・松浦武四郎が記した四国遍路道中雑誌に碁浦の記述がある。


・碁浦邑御番人 庄屋 八田孫太夫先祖覚書 (鳴門市史 上巻 643ページ)
2641年、八田孫兵衛が境目証人として阿波・讃岐国境決定争議に参加し、その活躍により碁浦御番所役人を命ぜられた記録が書かれている。



・『碁浦御番所 八田家文書』 阿波・讃岐両国の国境確認書 (1641年10月22日発行)



10.八田孫兵衛と1641年の阿波・讃岐国境
八田家の歴史で特に注目される人物が、
八田孫兵衛
である。
1641年の阿波・讃岐国境をめぐる協議に、阿波側の「境目証人」として高松へ赴いた記録が残る。
この国境協議は、現在の香川県と徳島県の県境の歴史を考える上でも重要な出来事である。
そして、この功績を契機として八田家が碁浦御番所役人を務めるようになった。
八田家は、その後、231年間にわたり番所役を世襲した。

11.碁浦御番所
八田家が役人を務めた碁浦御番所は、阿波・讃岐間の交通・海運を監視する重要な場所だった。
八田家屋敷は、
八田キヨの生家
としても重要である。
この家から森家へ嫁いだ八田キヨを通じて、森家は徳島藩の番所役人家と直接結びついた。
さらに八田キヨの母は、
下助任に住んだ徳島藩御料理方の家系である生藤家 (いけふじ)の生藤辨蔵の娘 生藤タケ
である。


12.生藤家――徳島藩の御料理方
八田キヨの母は、
生藤タケ
である。
その父、つまり八田キヨの母方祖父が、
徳島藩士・生藤辨蔵
である。
生藤家は徳島の下助任に居住し、徳島藩の御料理方を務めた家系として藩士録に残る。
また、同じ下助任には生藤万之丞家があり、徳島藩の料理方・藩士層との関係をさらに調査している。
このため森家には、
阿波水軍系森氏
+
碁浦御番所役人八田家
+
徳島藩御料理方生藤家
という徳島側の武家ネットワークが入っていることになる。
・江戸時代、万福寺の北東に住んでいた生藤家


13.森喜平と八田キヨの子どもたち
森喜平と八田キヨの間には、森家のその後の婚姻関係を決定づける子どもたちがいた。
特に重要なのが、
長女 森マサ
長男 森虎太郎
二女 森トヨ
三女 森ヤス
である。
この四人の婚姻によって、森家は東讃・阿波の複数の旧家と結びついていく。

高祖父:森喜平 (高松藩普請方。阿波水軍森家の分家)
高祖母:八田キヨ(徳島藩碁浦御番所役人を231年間世襲。八田家。母方は徳島藩御料理方 生藤家)
↓
長女 森マサ
夫:有馬丑松 → 娘:有馬アサノが讃岐黒羽 三谷伊之八と結婚。息子の三谷猪織の子は引田町会議長を務めた。
|
長男:森虎太郎 (曽祖父)
妻:永峰チヨ (讃岐黒羽城主 永塩一族守氏継の末裔。細川京兆家家臣摂津守護代 長塩家一族)
|
二女:森トヨ
夫:讃岐黒羽 三谷家 三谷磯八。三谷家は十河氏と同族でこの三谷家の先祖は、瀬戸内寂聴の先祖と同じ先祖で1584年の長宗我部元親軍による虎丸城陥落の後、讃岐黒羽へ落ち延びた三谷景則。
|
三女:森ヤス
夫:徳島藩美馬郡穴吹村の三宅勝。同じく穴吹村出身の三宅速(みやけはやり)は医学博士でアインシュタインと交流があった人物)。来日時、アインシュタインは神戸オリエンタルホテルに宿泊した。後に、森ヤスの兄 森虎太郎の娘 森トメノは英語を使って大正時代〜昭和時代にかけて神戸オリエンタルホテルに勤務した。森ヤスが嫁いだ三宅家と三宅速(はやり)家の関係は調査中。

14.森虎太郎――永峰チヨとの結婚
森家の次代の中心人物が、
森虎太郎
である。
生年月日:
1868年(明治元年/慶応4年)4月23日
森喜平・八田キヨの長男である。
そして虎太郎の妻となったのが、
永峰チヨ
である。
生年月日:
1872年(明治5年)4月3日
結婚:
1889年(明治22年)3月7日
森虎太郎と結婚。
ここから森家と讃岐黒羽の永峰家が結びつく。
・讃岐黒羽城主 永塩因幡守氏継の子孫である旧家出身の永峰チヨが森家に嫁いで来ると朝になると引田の港から森家の裏の海に新鮮な魚介類が届けられるようになった。
永峰家は、讃岐黒羽の地主、庄屋の家系であり、元は永塩姓であった。戦国時代に永塩から永峰に改姓した。永塩(長塩)家は細川京兆家の細川勝元に使え摂津守護代を代々務めた。


永峰チヨ
明治5年4月3日讃岐黒羽生まれ
大内郡黒羽村の永峰市次郎の長女(=チヨ)は明治22年(1889年)3月7日に森虎太郎と婚姻届を提出し、同日入籍した。
夫・森虎太郎の死亡等に関する処理日:
昭和15年(1940年)11月29日
永峰チヨの死亡日時:
昭和25年(1950年)10月30日 午前4時30分

・永峰杢左衛門家の永峰チヨ

・永峰チヨの実家横にある永峰宅本の墓

・永峰家西家の永峰千年氏から東かがわ市文化財保護協会に寄贈された永峰家の家系図。始祖は黒羽城主 永塩因幡守氏継。



・長塩・永塩家の系譜

・長塩永塩一族



・引田町人物史記載の永峰家の家系図
永塩因幡守氏継 (細川勝元により摂津から讃岐黒羽へ派遣。黒羽城主。1467年8月に黒羽神社創建。1467年応仁の乱で相国寺にて討死)
↓
長塩備前守又四郎元親
↓
長塩又四郎
↓
永塩宅本 (1553-1631)長塩から永峰へ改姓し、帰農。讃岐黒羽永峰宅元祖)
↓
永峰東家(地主)、永峰西家(庄屋)
↓
南野村庄屋
↓
引田安戸村へ勢力拡大


・永峰東家の永峰杢左衛門家の家系図
永峰杢左衛門
↓
永峰直三郎
↓
永峰市次郎 (長女:永峰チヨ)
↓
永峰栗太郎
↓
永峰修一 (永峰チヨの娘 森ミヤコと結婚)
↓
永峰義史 (東山の庄屋 朝倉家と婚姻)


・永峰チヨの娘は実家の永峰家に嫁いだ。

15.永峰家――讃岐黒羽の旧家
永峰チヨは、讃岐黒羽の地主・庄屋層である永峰家の女性である。
この永峰家について重要なのが、
永塩因幡守氏継
である。
永塩氏は長塩氏とも表記され、細川京兆家の直臣であった。
さらに永峰家には、
永峰宅本
を祖先とする系譜が伝わる。
1631年に永峰宅本が没したという系譜情報も整理されている。
したがって森家と永峰家の婚姻は、
戦国・中世武士層の系譜を伝える黒羽の旧家
との婚姻という意味を持つ。
阿波 森家もかつて細川家に仕えていた。
阿波水軍森家の始祖は、因幡国から来た佐田九郎兵衛で、森家の居城があった松鶴城があった阿南市椿泊町の佐田神社に祀られている。

阿波森甚五兵衛家代々の墓も椿泊にある。
・阿南市椿泊にある森村重の墓

・阿南市椿泊にある森村春の墓

分家の森甚大夫家の代々の墓は板野町の地蔵寺にある。


振袖地蔵
近くに赤沢信濃守宗伝の娘 カヨを供養する振袖地蔵がある。
赤沢信濃守の妻は自害、娘は幼なくして土佐方に斬られこの地で亡くなった。
兄は板野から讃岐小砂に逃れ勝覚寺を開基した。
・諏訪神社東にある振袖地蔵



16.永塩因幡守氏継と讃岐黒羽
永峰家の伝承で特に注目されるのが、
永塩因幡守氏継
である。
応仁の乱の時代、細川勝元側として戦った人物で、京都相国寺周辺で討死した。
・京都御所北側にある相国寺

また永塩因幡守氏継は、細川勝元に讃岐の派遣され、
讃岐黒羽城主
であった。
永塩因幡守氏継は、1467年8月に黒羽神社を創建し、10月に応仁の乱に参戦し、安富元綱らと共に相国寺で亡くなった (全讃史、三代物語、引田町史)。
また、南山にある観音堂に木彫りの観音像を寄進した。
17.森マサと有馬家
森喜平・八田キヨの長女、
森マサ
は、
讃岐誉水村の有馬家
と婚姻した。
夫は、
有馬丑松
である。
さらに有馬家は神戸とのつながりを持っていた。
このため森家には、
東讃の有馬家
↓
神戸
という新たな地域ネットワークが形成される。
有馬氏については三田有馬氏との関係を含めて、現在も調査対象となっている。
ここは「有馬家」という同姓の複数系統があるため、今後は系図・墓・除籍・地域史を照合して系統を確定する必要がある。
この森マサと有馬丑松の娘の有馬アサノは、讃岐黒羽の三谷伊之八と結婚し、三谷猪織を産んだ。

三谷猪織とナツエの子が後に引田町会議長を務めた。
・引田町史




18.森マサと三谷家――有馬家を介したつながり

森喜平の長女 森マサの娘である
有馬アサノ
は、
讃岐黒羽の三谷伊之八
と結婚した。
ここから森家と三谷家との結びつきが生じる。
三谷家については、
1584年、長宗我部元親軍による虎丸城陥落後に十河存保方の三谷家が黒羽に来住し三谷景則を祖先とする系譜が伝わる。
さらに三谷氏は讃岐国造や植田氏など、讃岐の古い在地勢力へつながる系譜伝承を持つ。
三谷景則は瀬戸内寂聴さんの先祖でもある。

・讃岐黒羽の十河氏系三谷家の三谷景則を先祖とする瀬戸内寂聴さん。

戦国時代、三谷家の本拠地は高松市三谷町にあった三谷城、王佐山城だった。

瀬戸内寂聴さんの父の三谷豊吉さんの先祖 三谷景則は、1584年 (天正12年)に長宗我部元親軍により虎丸城 (東かがわ市)が陥落した後、東かがわ市黒羽(くれは)に逃れ、帰農した。
このとき行動を共にしていた十河存保(そごうまさやす)は虎丸城陥落後、豊臣秀吉を頼って大坂へ逃れた。
三谷家も十河家も元は讃岐国造の血統である植田家の分家となる。三谷家の元の拠点は高松市三谷町の三谷城だった。
・引田町人物史記載の三谷家の家系図

三谷景則が1584年に讃岐黒羽へ落ち延び、定着した。

瀬戸内寂聴さんの家系は、屋号を甚六といい、讃岐和三盆の製糖業で財をなした家系だったが、瀬戸内寂聴さんの祖父の三谷峰八さんの代にあることがあり、工場は番頭の手に渡った。


【写真】右端: 瀬戸内寂聴さんの母 コハルと1才の晴美(瀬戸内寂聴さん)、姉の艶(つや)(真ん中)、瀬戸内いと(左端)。コハルさんは戦時中に空襲で亡くなられた。
いとの夫 傳(つたえ)は、坂出の塩田を開いた久米通賢の次男で、瀬戸内家の女婿になった。傳がクリスチャンになり、いとがそれにならった。久米通賢は代々、黒羽の隣りの馬宿に住んでいたが、通賢の生家は屋島の四国村に移転され大切に保管されている。
瀬戸内いとがクリスチャンだった為、引田の菩提寺にある瀬戸内家の墓石には十字架が彫られた下に、ヨハネ黙示録十四章十三節の「今より後、主にありて死ぬる人は幸ひなり」という言葉が刻まれている。
瀬戸内家はクリスチャンだったが、徳島市の眉山前で神仏具店を営んでいた。現在は、瀬戸内寂聴さんの姉の子孫が受け継いでいる。


瀬戸内商店 – Wikipediaja.wikipedia.org
徳島に帰った寂聴さん、好き放題に仏具店を改装 支払いは、おい:朝日新聞■瀬戸内啓資さん、宮本祥子さんに聞く③ 徳島出身の瀬戸内寂聴さんは阿波踊りが大好きだった。故郷に戻ったときには、生家の瀬戸www.asahi.com
19.三谷家と黒羽
森家との関係で重要なのは、三谷家が単なる婚姻先ではなく、
讃岐黒羽に根を張った旧家
であることである。
三谷伊之八の子には、
三谷猪織
がおり、
その子は後に、引田町会議長を務めた三谷正俊
へとつながる系統である。
つまり森家から見ると、
森家
↓
有馬家
↓
三谷家
↓
引田の地域社会
というつながりも形成されている。
20.森トヨと三谷磯八


森喜平・八田キヨの二女、
森トヨ
もまた讃岐黒羽の三谷家と結婚した。
夫は、
森マサの娘と結婚した
三谷伊之八の隣りの三谷磯八
である。
この三谷家も十河氏系の家系として伝わっている。
したがって森家は、一人の子女の婚姻だけでなく、
複数の婚姻を通じて三谷家と重層的につながっている
ことになる。
これは非常に重要である。
21.森ヤスと徳島県美馬郡三宅家

三女、
森ヤス
は、
明治33年
に徳島県美馬郡穴吹村の
三宅利吉
の長男、
三宅勝
と結婚した。
ここで森家は再び阿波側と繋がる。
つまり、
森家
→ 八田家
→ 生藤家
→ 阿波三宅家
という徳島側のネットワークが形成される。
森家の婚姻圏は、東讃だけではなく、阿波東部から美馬郡まで広がっていたことになる。

・森ヤスは美馬郡穴吹村の三宅利吉の長男 三宅勝と結婚。
父: 三宅利吉
長男: 三宅勝 – 森ヤスと結婚

・東かがわ市馬篠と美馬市穴吹町の位置関係

・吉野川を挟んで穴吹町は、うだつの町 脇町の対岸に位置する。

公益財団法人国土地理協会 -市町村変更情報:今後の市町村変更情報-市町村変更に伴う、合併情報、変更情報を提供。地理・人口統計データと各種の地図を提供する財団法人。www.kokudo.or.jp

三宅氏 – Wikipediaja.wikipedia.org

アインシュタインと交流し、日本で初めて脳腫瘍手術に成功した美馬市穴吹町出身の外科医 三宅速
森ヤスと結婚した三宅家との関係は現時点で、不明だが、同じ穴吹町内の出身者に三宅速(はやり)博士がいた。

三宅速 – Wikipediaja.wikipedia.org
三宅 速(みやけ はやり)は、日本の近代医学、特に内臓外科や脳外科の黎明期を支えた世界的な外科医であり医学博士である。
慶応3年(1867年)3月18日、徳島県美馬郡穴吹町舞中島(現:美馬市穴吹町)の代々続く医師の家(三宅速は9代目)に生まれた。
初代は江戸時代に岡山から美馬に来たと伝えられている。
初代 三宅文庵 (岡山から穴吹へ来た)
8代 三宅玄達
9代 三宅速、長男:三宅博、孫:比企寿美子
シェーグレン症候群と慢性甲状腺炎を結ぶ点と線「三宅速と橋本策」 | 監修者コラム | SS-info.net – シェーグレン症候群情報サイトss-info.jp

東京帝国大学(現:東京大学)医科大学を卒業後、1899年にドイツへ留学。当時「外科学の巨頭」と称されたミクリッツ教授に師事し、胆石症の研究などで世界的な評価を得た。
帰国後は、のちに九州帝国大学(現:九州大学)の初代外科部長・第一外科教授に就任し、その卓越したメスさばきから「内臓外科の名手」と絶賛され、日本初の脳腫瘍摘出手術を成功させるなど、日本の医学界に不滅の足跡を残した。

故郷・美馬市穴吹町とのつながり
三宅速の生家がある美馬市穴吹町舞中島(旧:美馬郡穴吹町)は、吉野川の「川中島(善入寺島などと並ぶ中州)」として知られる独特の歴史と風土を持つ地域である。
この地で育まれた強靭な精神と探究心が、のちの世界的な名医としての土台となった。
現在も美馬市穴吹町にある三宅家の菩提寺「光泉寺(こうせんじ)」には、三宅速夫妻の墓所があり、そこには親友アルベルト・アインシュタイン博士から贈られた哀悼の言葉(ドイツ語の碑文)が刻まれた「アインシュタイン碑」が建立されている。
故郷である穴吹の地は、現在も世界的な天才物理学者との友情の証を未来へ伝える特別な場所となっている。
世界的外科医・三宅速 – 【美馬市】観光サイト郷土の偉人町が生んだ世界的外科医 三宅 速(はやり) 1866年3月18日~1945年6月29日(享年80歳) 1…www.city.mima.lg.jp
・穴吹村出身の三宅速博士とアインシュタイン

アルベルト・アインシュタイン博士との友情
三宅速の生涯を語る上で最も劇的であり、世界中で語り継がれているのが、物理学者アルベルト・アインシュタイン博士との国境を越えた深い親交である。
運命の出会い(1922年)
大正11年(1922年)、欧米視察の帰路にあった三宅速は、日本に向かう北野丸の船内で、同じく訪日の途中であったアインシュタイン博士と乗り合わせた。
この航海中、アインシュタイン博士が激しい腹痛(急性盲腸炎の疑いなど諸説あり)に襲われて重症に陥りました。船医の手におえない中、乗り合わせていた内臓外科の権威である三宅速がただちに適切な治療と看病を行い、博士は奇跡的に一命を取り留めた。
・1922年11月17日の午後4時ごろに神戸港第3突堤から上陸した↓
アインシュタインは神戸オリエンタルホテルに滞在した。

アルベルト・アインシュタイン – Wikipediaja.wikipedia.org
Einstein’s Note On Happiness, Given To Bellboy In 1922, Fetches $1.6 Million – Houston Public Mediawww.houstonpublicmedia.org
アインシュタインが、1922(大正11)年11月17日~12月14日頃に神戸を訪問・講演した際、誰と… | レファレンス協同データベースレファレンス協同データベース(レファ協)は、国立国会図書館が全国の図書館等と協同で構築する調べ物のための検索サービスです。crd.ndl.go.jp
アインシュタインが神戸に来た! – 神戸な生活こちらは神戸と阪神間での生活や文化を紹介するブログです。主に地域情報中心ですが、時々趣味の紹介も行いたいと思います。kobe1024.blog.fc2.com
終生の親友として
この事件をきっかけに、二人は互いの才能と人間性を深くリスペクトし合う終生の親友となりました。アインシュタイン博士が訪日した際には三宅の案内で日本の文化に触れ、その後も文通や交流が途絶えることはありませんでした。
悲劇的な別れとアインシュタインの弔辞
1945年(昭和20年)6月29日、三宅速は疎開先であった岡山大空襲に遭い、妻のミホとともに防空壕で非業の死を遂げた。
戦後、この悲報を知ったアインシュタイン博士は深く傷つき、涙を流して哀悼の意を捧げたと伝えられています。博士は親愛なる友のために、自らの手でメッセージ(悼文)を書き送った。
この弔辞は、前述の通り美馬市穴吹町の光泉寺の碑に刻まれ、時を超えて二人の奇跡的な絆を今に伝えている。
・穴吹町の光泉寺にある三宅速とアインシュタイン友情の碑

・光泉寺にある三宅速夫妻へのアインシュタインの追悼文


※三宅速博士は、疎開中に岡山市で空襲により亡くなった。当時、長男が岡山医科大学に勤務していた関係で疎開していたときに起こった悲劇であった。岡山市はかつて備前と呼ばれていた。もしかするとかつて先祖の備前三宅氏が活躍した備前の土地で三宅博士は亡くなったのかもしれない。
22.森家の婚姻ネットワーク
ここまでを図式化すると、森家を中心に次のようなネットワークが見えてくる。
馬篠・森家
↓
父系
阿波森氏・森水軍の伝承
↓
森喜平の妻
八田キヨ
↓
徳島藩・碁浦御番所役人 八田家
↓
生藤家
徳島藩・御料理方
⸻
そして森喜平の子女から、
森虎太郎
↓
永峰チヨ
↓
讃岐黒羽・永峰家
↓
摂津守護代 永塩・長塩氏
↓
黒羽城主・永塩因幡守氏継
⸻
森マサ
↓
有馬家
↓
誉水・神戸
⸻
森トヨ
↓
三谷家
↓
讃岐黒羽
↓
十河氏系三谷家
↓
三谷景則の系譜
⸻
森ヤス
↓
三宅家
↓
徳島県美馬郡穴吹
という広大な婚姻ネットワークができる。
23.森家に伝わった武家文化
森家には、戦中頃まで、
甲冑
槍
刀
などが存在していた。
また刀の鍔を家の中に飾っていたが、鉄が錆びたため処分したのではないかという記憶も残る。
これは、森家が自らを武家の家として認識していたことを示す家伝として重要である。
24.森家の普請・土木従事
森家には、
江戸時代、
普請
方として道路
や橋、
治水
ため池
などに関わったという家伝がある。
特に、
金刀比羅宮の石段造営
との関係も森家の記憶として伝わっている。
江戸期の森家が高松藩領で普請・土木に関わる家であったとすれば、これは森家の職能を考える上で非常に興味深い。
森喜平についても、
高松藩の普請方
という位置付けが家系資料の中で重要な位置を占めている。
このため森家は、
戦国武士 → 江戸期の藩領社会 → 普請・土木を担う家
という変化を遂げた可能性がある。
水軍の衆は高い土木技術を持っていた為、柏谷を開拓したり、ため池を作ったりできたと言える。
25.森家と金刀比羅宮
金刀比羅宮の石段造営に関する森家の伝承は、今後ぜひ史料を探す価値がある。
もし、
森家の人物名
↓
普請記録
↓
金刀比羅宮の造営記録
がつながれば、森家の江戸期の具体的な活動を裏付ける強力な史料になる。
現時点では、家伝として大切にしつつ、造営記録による確認が必要である。
26.森トメノ――森家の記憶を伝えた女性
森家の近代史を考える上で非常に重要なのが、
森虎太郎の娘
森トメノ
である。
明治生まれの森家女性で、後世に森家の記憶を伝えた人物である。
森トメノの記憶として、
「甲冑や刀があった」
という話が残る。
さらに、神戸から香川へ帰省した際に、
「晴美さんとこの手伝いに行ってくる」
という言葉も私の強い記憶として伝わっている。法事の手伝いに行っていたようだ。
この「晴美さん」が、
瀬戸内寂聴
との関係を持つ地域的・家族的記憶として語られている。
ここは非常に面白い。
なぜなら、森家の婚姻関係をたどると三谷家が登場し、三谷家には瀬戸内寂聴の先祖とされる三谷景則につながる系譜があるからである。
つまり、
森家
→ 三谷家
→ 地域の旧家ネットワーク
→ 瀬戸内寂聴
という関係を、系譜・婚姻・地域の人的ネットワークから検討できる。
27.神戸新聞と森家
森家の近代史では、
神戸新聞
も重要な資料となる。
森トメノに関する神戸新聞のインタビュー記事には、森家の祖父母や家の記憶につながる情報が含まれている。
こうした新聞記事は、過去帳や除籍謄本とは違い、
本人・家族が何を記憶していたのか
を知ることができる。
したがって、
公文書=戸籍
寺院史料=過去帳
物証=墓・家紋瓦
口述史=森トメノの記憶
新聞=神戸新聞
を組み合わせることで、森家史を立体的に復元できる。
・森虎太郎と永峰チヨの娘 明治生まれの森トメノの神戸新聞インタビュー記事。
森トメノは神戸オリエンタルホテルで英語を使って定年まで勤務した。
このホテルにはアインシュタインや昭和天皇皇后、皇族、マリリン・モンロー、ジョーディマジオなどが宿泊した。谷崎潤一郎はこのホテルの料理を気に入り小説にも登場する。また、孫文と頭山満が会談したり、1937年、ヘレン・ケラーが神戸滞在中、住友男爵邸に滞在し、旧オリエンタルホテルのシェフが彼女のために料理を作った。

下記の祖父は森喜平、阿波浄瑠璃の三味線が上手い祖母は八田キヨを指す。八田キヨははるになると三味線を弾きながら舟に乗って近くの絹島へ遊山へ行くような風流な人だった。

28.森功と神戸オリエンタルホテル
森虎太郎・永峰チヨの孫に
森功
がいる。
森功は、昭和31年、神戸オリエンタルホテルで昭和天皇に料理を献上した。
これは森家が、
戦国期の武士
↓
江戸期の藩領社会
↓
明治の庄屋・旧家ネットワーク
↓
昭和期の神戸・ホテル文化
へと時代を越えて展開していったことを象徴するエピソードである。
森家の歴史は単なる「祖先が武士だった」という話ではない。
その後の子孫が、地域社会、神戸、ホテル・料理文化など、それぞれの時代の社会に適応していった歴史でもある。
そして、八田キヨの母方の生藤家は徳島藩御料理方の家系であったことは偶然でないかもしれない。
29.森静雄――日中戦争で戦死
森家の近現代史では、
森静雄
も忘れてはならない人物である。
森静雄は、
1937年に日中戦争で戦死
した。
つまり森家の歴史は、
戦国期の戦場で命を落とした森権平久村から、約350年を経て、再び戦争によって命を失った森静雄へとつながる。
この二人の間には長い年月がある。
しかし、
1583年・引田の戦い
↓
1930年代・日中戦争
という、日本の歴史の大きな転換点において、森家の男性が戦争と向き合ったという記憶が残っている。
これは森家の近現代史の重要な一頁である。
・私の祖父は、1937年(昭和12年)10月20日、27歳という若さで亡くなった。
祖父の写真はこの世に2枚しかない。
生まれてくる長男 (森功)の顔を見ずに亡くなった祖父(左)。

進軍ラッパを持つ祖父(左)。

戦没者名簿
祖父の戦傷病死の場所は、善通寺陸軍病院 丸亀分院となっている。
・丸亀城前にあった善通寺陸軍病院の丸亀分院

・戦没者名簿 (大内町史)

同じ歩兵第12連隊に所属していたと思われる方々は上海の羅店鎮で1937年の9月に亡くなられている。祖父は10月20日に亡くなっている。
上海の羅店鎮は、私が住んでいた静安区から車で1時間弱の位置にあり、何度も訪れていた場所である。

・戦没者名簿記載事項:
森静雄
1910年 明治43年7月27日生まれ
1937年 昭和12年10月20日 善通寺陸軍病院 丸亀分院にて死亡。27歳
30.森家の家系を一本の線で見る
これまでの資料を一つの大きな流れとして整理すると、
戦国期
阿波森氏・森水軍
↓
森村吉
↓
森権平久村
1583年・引田の戦いで討死という伝承
↓
一族の一部が讃岐へ
↓
東かがわ市馬篠
⸻
江戸期
馬篠森家が定着
↓
土地開発・治水・ため池
↓
普請・道路・橋などの伝承
↓
高松藩領の森家
↓
勝覚寺を菩提寺とする
↓
過去帳
円照信士
↓
道玄信士
↓
道清信士
↓
森義右エ門
↓
森喜平 妻:八田キヨ
↓
長女 森マサ 夫:有馬丑松
長男 森虎太郎 妻:永峰チヨ
二女 森トヨ 夫:三谷磯八
三女 森ヤス 夫:三宅勝
⸻
幕末
森喜平
1845年生
↓
八田キヨ
1846年生
↓
1864年12月28日結婚
⸻
八田家
徳島藩碁浦御番所役人
↓
八田孫兵衛
1641年阿波・讃岐国境協議の境目証人
↓
八田孫平
↓
八田キヨ
⸻
明治
森喜平
×
八田キヨ
↓
森マサ
→ 有馬家
森虎太郎
→ 永峰チヨ
森トヨ
→ 三谷家
森ヤス
→ 三宅家
31.永峰チヨから黒羽の歴史へ
森虎太郎
×
永峰チヨ
↓
永峰家
↓
讃岐黒羽の地主・庄屋層
↓
永峰宅本
↓
摂津守護代 永塩・長塩氏の系譜
↓
永塩因幡守氏継
↓
黒羽城主・応仁の乱の武士という伝承
この系統は、森家の歴史を単なる阿波水軍系だけでなく、
讃岐の中世武士層
へもつなげる。
32.三谷家から瀬戸内寂聴へ
森家
↓
森マサ
↓
有馬家
↓
三谷家
そして三谷家には、
三谷景則
につながる系譜伝承がある。
この系譜は、瀬戸内寂聴の先祖との関係を考える上で重要である。
さらに引田には、瀬戸内寂聴の父母・養祖母に関係する墓所や積善坊など、森家の地域史とも重なる場所が存在する。
そのため、
森家・三谷家・引田・瀬戸内寂聴
を一つの地域史のネットワークとして調査する価値がある。
33.森家を取り巻く旧家ネットワーク
家の特徴は、婚姻関係が非常に広いことである。
阿波側
森氏
八田氏
生藤氏
三宅氏
赤沢氏
讃岐側
森氏
永峰氏
三谷氏
有馬氏
という複数の旧家がつながる。
それぞれ単なる一般家庭ではなく、
水軍
藩士
番所役人
御料理方
庄屋
地主
武家
旧家
という地域社会の中核層である。
この点が馬篠森家の家系史の最大の特徴である。
34.「阿波水軍の末裔」という位置付けについて
森家を、
「阿波水軍の末裔」
と表現することには、歴史的に注意が必要である。
現代の意味での「阿波水軍」という固定的な組織がそのまま何百年も続いたという意味ではない。
より正確には、
阿波の森氏系武士・海上活動層につながる家伝を持つ森家
と表現する方が史料学的には安全である。
一方で、
森志摩守・森村吉・森権平久村
↓
引田の戦い
↓
讃岐馬篠
という森家の伝承が残っていること自体には大きな意味がある。
35.森家の歴史を支える「5種類の証拠」
今回の森家研究で特に重要なのは、異なる種類の史料が重なっていることである。
① 公的記録
除籍謄本
森喜平
、八田キヨ、
森虎太郎、永峰チヨなどの生年月日・婚姻関係を確認できる。
⸻
② 寺院史料
過去帳の写し
江戸期から近代の森家の人物を追うことができる。
⸻
③ 物証
墓
の家紋
家紋瓦
ため池
特に丸に木瓜の家紋瓦は重要である。
⸻
④ 口述史
森トメノなどの記憶
甲冑、刀、家の人物関係、地域の人的ネットワークなどを伝える。
⸻
⑤ 地域史・新聞・系譜
神戸新聞
地域史
旧家の系図
寺社資料
これらを相互に照合する。
この方法を取ることで、単なる「家に伝わる話」ではなく、
地域史+家系史+物証+公文書
として森家を研究できる。
36.森家の歴史で特に重要な人物
時代
人物
森家との関係
戦国時代
森志摩守村春
阿波森氏・土佐泊城主
戦国時代
森村吉
森権平久村の父とされる
1583
森権平久村
引田の戦いで討死
江戸初期
円照信士
現存過去帳
系譜の初期人物
江戸
道玄信士
森家当主層
江戸
道清信士
森家当主層
幕末
森義右エ門
森喜平の父
幕末
森喜平 1845–1918
幕末 八田キヨ 1846–1937
明治 森虎太郎 1868–
明治 永峰チヨ 1872–
明治 森マサ 有馬家へ
明治 森トヨ 三谷家へ
明治 森ヤス 三宅家へ
近代 森トメノ 森家の記憶を伝えた人物
昭和 森功 神戸オリエンタルホテルの逸話
昭和 森静雄 日中戦争で戦死
37.森家の歴史の核心
ここまでを一言でまとめるなら、馬篠森家の歴史は、
「阿波と讃岐の境界地域を生き抜いた武士・旧家の歴史」
である。
阿波と讃岐の間には、現在の県境だけでは理解できない人的ネットワークがあった。
森家には、
阿波森氏、
赤沢氏
、八田氏
、生藤氏
、三宅氏
といった阿波側のつながりがあり、
一方で、
永峰氏
、三谷氏
、有馬氏
など讃岐側の旧家とも婚姻によって結びついていった。
つまり森家は、
阿波と讃岐の境界に位置する「橋」のような家
だったとも言える。
38.そして現在の森家へ
1583年の引田の戦いから始まるとすれば、馬篠森家には約440年を超える歴史がある。
その間、
戦国の戦乱
↓
讃岐への移住
↓
馬篠の開拓
↓
江戸期の高松藩領社会
↓
普請・土木
↓
徳島藩八田家との婚姻
↓
明治維新
↓
永峰・三谷・有馬・三宅家との婚姻
↓
神戸とのつながり
↓
昭和の戦争
↓
現代
と、時代が大きく変わっている。
それでも、
森
という家名と、
丸に木瓜
という家紋、
馬篠
という土地、
勝覚寺
という菩提寺、
そして家族が語り継いできた記憶が残った。
39.森家の系譜を「歴史」として見る
森家の研究で最も重要なのは、
「森家は戦国武士の子孫なのか」
という一点だけではない。
むしろ重要なのは、
なぜ400年以上にわたって家が残ったのか
である。
その答えとして見えてくるのが、
① 戦国期の移住
② 馬篠での土地開発
③ 治水・ため池・山林管理
④ 江戸期の藩領社会への適応
⑤ 普請・土木などの職能
⑥ 勝覚寺を中心とした地域社会との結びつき
⑦ 八田家など藩士・番所役人家との婚姻
⑧ 永峰・三谷・有馬・三宅など旧家との婚姻
である。
つまり森家は、
戦国武士として生き残った家
であると同時に、
江戸・明治・昭和の社会に合わせて姿を変えながら存続した家
なのである。
40.馬篠森家の400年史・最終系譜
最後に、現在までの研究を最も簡潔に一本の線にすると、次のようになる。
阿波森氏・森水軍
↓
森志摩守村春
↓
森村吉
↓
森権平久村
↓
1583年・引田の戦い
↓
森一族の讃岐への移住伝承
↓
東かがわ市馬篠
↓
馬篠森家の成立・土地開発・治水
↓
勝覚寺を菩提寺とする
↓
円照信士
↓
道玄信士
↓
道清信士
↓
森義右エ門
↓
森喜平(1845–1918)
×
八田キヨ(1846–1937)
徳島藩碁浦御番所役人八田家
↓
森マサ
→ 有馬家
↓
森虎太郎(1868–)
×
永峰チヨ(1872–)
讃岐黒羽永峰家
↓
森トメノ
家伝・記憶を後世へ
↓
森功
神戸・ホテル文化へ
⸻
同時に、
森家
↓
森マサ系
↓
有馬家
↓
三谷家
という流れがあり、
森家
↓
森トヨ
↓
三谷家
という別系統も生じる。
さらに、
森家
↓
森ヤス
↓
三宅家
によって阿波美馬郡へ戻り、
八田キヨの母方からは、
生藤家
↓
徳島藩御料理方
へつながる。
そして森静雄の戦死によって、森家の近代史にも戦争という日本近現代史の大きな出来事が刻まれる。
⸻
結論
香川県東かがわ市馬篠の森家は、これまで確認してきた資料と家伝を総合すると、阿波と讃岐の境界地域に生きた森氏系武士層の伝承を背景に、戦国期の戦乱を経て馬篠に定着し、江戸期には地域社会の中で家を維持し、幕末には高松藩側の森喜平と徳島藩碁浦御番所役人家の八田キヨが結婚、さらに明治期には永峰・三谷・有馬・三宅など東讃・阿波の旧家との婚姻によって広い人的ネットワークを形成した家と位置付けることができる。
そして、この家系の最大の特徴は、単独の系譜ではない。
森家を中心に、森氏・赤沢氏・八田氏・生藤氏・永峰氏・永塩氏・三谷氏・有馬氏・三宅氏という、阿波・讃岐の歴史的な家々が婚姻によって網の目のようにつながっていることである。
その中心にあるのが、
阿波
↓
引田
↓
馬篠
↓
黒羽
↓
高松
↓
徳島
↓
神戸
という瀬戸内海東部の歴史空間である。
したがって、馬篠森家の歴史は一つの家の歴史であると同時に、
「阿波と讃岐の境界で、武士・水軍・番所役人・庄屋・地主・藩士・商工人がどのように婚姻し、土地を守り、家を次代へつないできたのか」
を示す、東讃・阿波地域史の一つのケーススタディーでもある。
そして、森家に残された丸に木瓜の家紋瓦、墓、過去帳、除籍謄本、屋敷・土地の記憶、甲冑や刀の伝承、神戸新聞の記事、森トメノの記憶は、それぞれ単独ではなく、相互に照合することで初めて大きな歴史像を形作る。
その意味で、馬篠森家の研究は、単なる「先祖探し」ではない。
1583年の戦国期から、江戸、明治、大正、昭和、そして令和まで、約400年以上にわたり一つの家がどのように生き残り、地域社会の中で姿を変えながら次代へ受け継がれてきたかを追う歴史研究なのである。
おわりに
森家の歴史をたどっていくと、そこには一本の線ではなく、阿波と讃岐を結ぶ幾重もの人のつながりが見えてきます。
戦国時代の阿波水軍・森一族。
1583年の引田の戦いで討死した森権平久村。
その後、讃岐馬篠に根を下ろした森家。
江戸時代を生きた歴代当主。
高松藩の普請に携わった森家。
徳島藩の碁浦御番所を世襲した八田家との婚姻。
讃岐黒羽の永峰家、長塩・永塩家の系譜。
さらに三谷家、有馬家、三宅家、生藤家へと広がる婚姻関係。
こうして見ていくと、馬篠の森家は、東讃の一つの家だけで完結した家系ではありません。
阿波と讃岐の境界に生きた武士・庄屋・地主・役人・地域の有力者たちとの結びつきの中で、その命脈をつないできた家だったことが分かります。
そして、歴史は戦国時代で終わりません。
明治、大正、昭和へと時代が進むと、一族の活動範囲は神戸などへも広がっていきます。
神戸新聞に残された森トメノの記憶、神戸オリエンタルホテルにまつわる一族の歴史、そして昭和の戦争で日中戦争に出征し、戦死した森静雄。
家に残された甲冑や槍、刀、刀の鐔、丸に木瓜の家紋を刻んだ瓦、墓、過去帳、古い家の記憶。
これらは一つひとつを見るだけでは断片的な資料にすぎません。
しかし、それらを年代順に並べ、人と人との関係をつないでいくと、400年以上にわたる森家の歴史が少しずつ立ち上がってきます。
もちろん、戦国期の森一族と現在の馬篠森家との直接的な血縁関係など、今後さらに史料による検証が必要な部分もあります。
だからこそ、伝承をそのまま史実とするのでも、逆に伝承だからと切り捨てるのでもなく、「確認できる事実」「家に伝わる伝承」「そこから導かれる仮説」を分けて記録しておくことに意味があります。
先祖たちがどこから来て、どこで生き、誰と結ばれ、どのように土地を守り、そして次の世代へ何を残したのか。
その足跡をたどることは、単に「自分の家系を調べる」ということではありません。
それは、阿波と讃岐の境界地域で生きてきた人々の歴史、東かがわの地域史、そして瀬戸内海を舞台にした人々の移動と交流を知ることにもつながります。
馬篠の森家に残された小さな記録の一つひとつが、やがて地域の歴史を照らす一つの資料になる。
この記録が、そのための出発点になればと思います。
以上

