【讃岐秘話】高松藩 森喜平の三女と結婚した徳島藩美馬郡穴吹村の三宅家。 アインシュタインと交流した外科医 三宅速(はやり)博士とは? 日本初の脳腫瘍摘出手術に成功

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今回は、高松藩 森喜平の三女 森ヤスと結婚した徳島県美馬郡穴吹村の三宅家のルーツに関する考察です。
目次
- 美馬郡穴吹村の三宅家のルーツは?
- 最も可能性が高いルーツ:【小笠原・三好一族流(備前三宅氏あるいは阿波守護代被官)】
- 備前三宅氏(児島三宅氏)の阿波流入説
- 対抗候補:【摂津守護代・長塩氏とも響き合う「摂津三宅氏」の西下説】
- 三好政権下でのセット移動:
- 下克上と阿波への落去・土着:
- なぜ「穴吹大平」という場所なのか?
- 今後のルーツ探しの鍵は?
- アインシュタインと交流し、日本で初めて脳腫瘍手術に成功した美馬市穴吹町出身の外科医 三宅速
- 故郷・美馬市穴吹町とのつながり
- アルベルト・アインシュタイン博士との至高の友情
- 運命の出会い(1922年)
- 終生の親友として
- 悲劇的な別れとアインシュタインの弔辞
- アインシュタインが滞在した神戸オリエンタルホテルで英語を使って勤務した大叔母 森トメノ
美馬郡穴吹村の三宅家のルーツは?
高松藩大内郡馬篠村の森喜平は阿波水軍 森氏を先祖に持ち、1845年(弘化三年)生まれ、1864年(元治元年)に徳島藩の八田キヨと結婚した。
八田キヨは、徳島藩 碁浦御番所役人を231年間世襲した禄持ちの八田家当主 八田孫平の長女である。
その森喜平と八田キヨの子女の婚姻関係を除籍謄本をもとに紐解いていく。
長女 森マサは讃岐誉水村 有馬氏の長男 有馬丑松と結婚。この有馬氏のルーツは三田 有馬氏の可能性があり、現在調査中である。有馬丑松は神戸に居を構えていた。
長男 森虎太郎は讃岐黒羽村地主・庄屋 永峰市次郎の長女 永峰チヨ(摂津守護代 長塩家子孫)と結婚。孫は昭和31年に神戸オリエンタルホテルで昭和天皇に料理を献上した森功。森功の曽祖母の八田キヨの母方は徳島藩で代々、蜂須賀家の御料理方を務めた下助任に住んだ生藤家の系譜。
二女 森トヨは讃岐黒羽の十河氏系三谷家の三谷伊之八と結婚。この家系の先祖は瀬戸内寂聴と同じ先祖の三谷景則となる。三谷家は讃岐国造をルーツに持つ。伊之八の孫は後に政治家となった。
そして、
三女 森ヤスは長女 森マサの夫 有馬丑松の弟 有馬助次郎と結婚した。この有馬助次郎は美馬郡穴吹村の三宅家の養子になったと思っていたが、除籍謄本を精査すると森ヤスは、明治31年に有馬助次郎と離婚し、その後、明治33年に徳島県美馬郡穴吹村の三宅利吉の長男 三宅勝と結婚していた。
今回は、この美馬郡穴吹村の三宅家のルーツを考察する。
・明治28年に讃岐誉水村の有馬丑松の弟 有馬助次郎に嫁いだと記載がある三女 森ヤス

・別の除籍謄本に森ヤスは、有馬助次郎と離婚後、美馬郡穴吹村の三宅利吉の長男 三宅勝と結婚したと記載がある。

・東かがわ市馬篠と美馬市穴吹町の位置関係

・吉野川を挟んで穴吹町は、うだつの町 脇町の対岸に位置する。

公益財団法人国土地理協会 -市町村変更情報:今後の市町村変更情報-市町村変更に伴う、合併情報、変更情報を提供。地理・人口統計データと各種の地図を提供する財団法人。www.kokudo.or.jp

美馬郡穴吹町の三宅家について、「阿波西部の旧地侍・三好圏の土豪層」という大枠の仮説をベースにしながら、そのルーツについて、阿波・美馬郡の地域史と名字の分布から可能性が高いシナリオを考察していきます。
一番可能性が高いルーツ(氏族としての源流)は、以下の2つのいずれか、あるいはそれが融合したものと考えられます。
最も可能性が高いルーツ:【小笠原・三好一族流(備前三宅氏あるいは阿波守護代被官)】
阿波国美馬郡・三好郡を含む西阿波一帯は、中世において阿波守護代・三好氏(ひいてはその本家である小笠原氏)の絶対的な勢力圏でした。
この地域で「三宅」を称する有力家系が生まれる背景として、最も自然なのが「三好氏の軍事・政治ネットワーク(畿内との往来)の中で土着した武士」というルーツです。
備前三宅氏(児島三宅氏)の阿波流入説
古くから瀬戸内海の制海権を持ち、のちに宇喜多氏や三好氏とも結んだ「備前児島の三宅氏(佐々木挙兵に供奉した名族など諸説あり)」の一派が、塩飽や讃岐を経由、あるいは阿波守護・細川氏や守護代・三好氏の被官(家臣)として阿波西部に配置され、山間部の警備や木材・鉱山資源、あるいは交通路(穴吹から讃岐へ抜ける街道など)の管理のために大平に土着したというルートです。
戦国期の阿波において、三宅氏は三好長慶の熱い信任を得た近習や、阿波・讃岐の国人(地侍)として散見されます。
対抗候補:【摂津守護代・長塩氏とも響き合う「摂津三宅氏」の西下説】
もう一つ、非常に無視できない有力なルーツが「摂津国三島郡三宅(現・大阪府茨木市三宅)を発祥とする中世武士・摂津三宅氏」の末裔、あるいはその名跡を継いだ系統です。
森喜平の長男が結婚した永峰チヨのルーツが「細川京兆家に仕え摂津守護代を歴任した長塩氏(永塩氏)」であることは、この三宅家のルーツを解き明かす上でも決定的なミッシングリンクになり得ます。
三好政権下でのセット移動:
中世末期、細川氏や三好長慶が摂津(畿内)と阿波・讃岐を一体として統治していた時代、摂津の有力武士であった「三宅氏」と「長塩氏」は、同じ政治・軍事空間にいました。
下克上と阿波への落去・土着:
1549年の江口の戦い前後や、その後の織田信長による畿内制圧、あるいは三好家の衰退の過程で、摂津の拠点を失った長塩氏が讃岐黒羽へ下ったように、摂津三宅氏の一族もまた、縁故を頼って阿波西部に下向し、山間部の防衛拠点(穴吹大平)に土着したというシナリオです。
これであれば、明治期以降、あるいは近世において、森家を中心に「長塩氏の末裔(永峰家)」と「穴吹の三宅家」が婚姻関係を結ぶ(あるいはそのネットワーク内で結びつく)地盤が、数百年前の畿内・阿波の歴史的動乱においてすでに出来上がっていたことになります。
なぜ「穴吹大平」という場所なのか?
大平(おおひら)は、穴吹川の流域を見下ろす標高のある山間集落です。こうした場所におかれた有力家系は、平地農民ではなく、中世においては「山城(岩倉城や脇城など)を支える詰めの城や砦を守る地侍」であり、近世(徳島藩政下)においては「山林や木材の利権を管理し、地域をまとめる棟梁(庄屋・郷士格)」としての役割を担っていたと推測されます。
阿波水軍の森家、碁浦御番所役人の八田家、摂津守護代後裔の永峰家、十河氏系の三谷家。これらの「家々の婚姻ネットワーク」を考慮すると、穴吹大平の三宅家は、「三好・細川の全盛期に畿内や瀬戸内から阿波西部に拠点を移し、山間部の実力者となった武家(地侍)の末裔」と考えるのが、歴史的・地理的観点から最も整合性が取れます。
今後のルーツ探しの鍵は?
この三宅家のルーツ探しの鍵は、「家紋」が最大のヒントになります。
もし墓石や家紋瓦の家紋が「三つ星(渡辺星)」や「抱き茗荷」、あるいは児島三宅氏に多い「輪違い」「引両」であれば、瀬戸内・備前系の武士ルーツの可能性が高まります。
もし摂津三宅氏ゆかりの紋(あるいは細川・三好に関連する紋)であれば、畿内からの西下説が極めて濃厚になります。
アインシュタインと交流し、日本で初めて脳腫瘍手術に成功した美馬市穴吹町出身の外科医 三宅速
上記の穴吹町の三宅家との関係は不明ですが、同じ美馬市穴吹町出身の著名人に三宅速(はやり)博士がいます。

三宅速 – Wikipediaja.wikipedia.org
三宅 速(みやけ はやり)は、日本の近代医学、特に内臓外科や脳外科の黎明期を支えた世界的な外科医であり医学博士です。
慶応3年(1867年)3月18日、徳島県美馬郡穴吹町舞中島(現:美馬市穴吹町)の代々続く医師の家(三宅速は9代目)に生まれました。
シェーグレン症候群と慢性甲状腺炎を結ぶ点と線「三宅速と橋本策」 | 監修者コラム | SS-info.net – シェーグレン症候群情報サイトss-info.jp
東京帝国大学(現:東京大学)医科大学を卒業後、1899年にドイツへ留学。当時「外科学の巨頭」と称されたミクリッツ教授に師事し、胆石症の研究などで世界的な評価を得ました。
帰国後は、のちに九州帝国大学(現:九州大学)の初代外科部長・第一外科教授に就任し、その卓越したメスさばきから「内臓外科の名手」と絶賛され、日本初の脳腫瘍摘出手術を成功させるなど、日本の医学界に不滅の足跡を残しました。

故郷・美馬市穴吹町とのつながり
三宅速の生家がある美馬市穴吹町舞中島(旧:美馬郡穴吹町)は、吉野川の「川中島(善入寺島などと並ぶ中州)」として知られる独特の歴史と風土を持つ地域です。
この地で育まれた強靭な精神と探究心が、のちの世界的な名医としての土台となりました。
現在も美馬市穴吹町にある三宅家の菩提寺「光泉寺(こうせんじ)」には、三宅速夫妻の墓所があり、そこには親友アルベルト・アインシュタイン博士から贈られた哀悼の言葉(ドイツ語の碑文)が刻まれた「アインシュタイン碑」が建立されています。
故郷である穴吹の地は、現在も世界的な天才物理学者との友情の証を未来へ伝える特別な場所となっています。
世界的外科医・三宅速 – 【美馬市】観光サイト郷土の偉人町が生んだ世界的外科医 三宅 速(はやり) 1866年3月18日~1945年6月29日(享年80歳) 1…www.city.mima.lg.jp

アルベルト・アインシュタイン博士との至高の友情
三宅速の生涯を語る上で最も劇的であり、世界中で語り継がれているのが、物理学者アルベルト・アインシュタイン博士との国境を越えた深い親交です。
運命の出会い(1922年)
大正11年(1922年)、欧米視察の帰路にあった三宅速は、日本に向かう北野丸の船内で、同じく訪日の途中であったアインシュタイン博士と乗り合わせました。この航海中、アインシュタイン博士が激しい腹痛(急性盲腸炎の疑いなど諸説あり)に襲われて重症に陥りました。船医の手におえない中、乗り合わせていた内臓外科の権威である三宅速がただちに適切な治療と看病を行い、博士は奇跡的に一命を取り留めました。
終生の親友として
この事件をきっかけに、二人は互いの才能と人間性を深くリスペクトし合う終生の親友となりました。アインシュタイン博士が訪日した際には三宅の案内で日本の文化に触れ、その後も文通や交流が途絶えることはありませんでした。
悲劇的な別れとアインシュタインの弔辞
1945年(昭和20年)6月29日、三宅速は疎開先であった岡山大空襲に遭い、妻のミホとともに防空壕で非業の死を遂げました。戦後、この悲報を知ったアインシュタイン博士は深く傷つき、涙を流して哀悼の意を捧げたと伝えられています。博士は親愛なる友のために、自らの手で以下のような熱いメッセージ(悼文)を書き送りました。
「人類の発展のために尽くし、我々すべての人間を愛し、高潔な人格を備えた偉大な外科医・三宅速博士、そしてその慈愛に満ちた妻ミホ。二人は戦争の犠牲となって、この世を去ってしまった。私は、これまでにこれほど清らかな友情を結んだことはなかった。ここに、二人の冥福を心から祈る。」
この美しい弔辞は、前述の通り美馬市穴吹町の光泉寺の墓碑に刻まれ、時を超えて二人の奇跡的な絆を今に伝えています。
アインシュタインが滞在した神戸オリエンタルホテルで英語を使って勤務した大叔母 森トメノ
・アインシュタインが1922年、神戸港に到着した後、滞在した神戸オリエンタルホテル。1925年からこのホテルで英語を使って電話交換手として働き出した明治生まれの大叔母 森トメノ (永峰チヨの娘)。当時、国内外からホテルにかかってきた電話は電話交換手が名前や部屋番号などを聞き各部屋に繋げていた。
外国人宿泊客が海外へ国際電話をかける際にも、電話交換手がゲストの発音する海外の都市名、人名、複雑な市外局番などを一発で正確に聞き取る必要があった。
神戸新聞のインタビュー記事:
以上
