【讃岐秘話】細川京兆家重臣 長塩家と讃岐黒羽 永峰家の関係を子孫が書いた家系図から読み解く
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今回は、讃岐黒羽の永峰家の子孫が書いた永峰家 家系図から摂津守護代 長塩家と永峰家の関係性を考察します。
この家系図は、平成16年(2004年)に東かがわ市文化財保護協会から発行された『郷土東かがわ 第71号』の永峰雄吉氏に関する記事執筆に際して子孫の方から寄贈された家系図です。
目次
- 『郷土東かがわ市 第71号』(東かがわ市文化財保護協会 発行)
- 讃岐黒羽 永峰家子孫の方が寄贈された永峰家家系図
- 『全讃史』の記述
- 1467年8月に永塩因幡守氏継が創建した黒羽神社
- 『増補 三代物語』の記述
- 細川勝元の領地、丹波国、摂津国、阿波国、讃岐国
- 京都御所北側にある相国寺
- 角川日本地名大辞典の記述
- 『引田町史』の記述
- 応仁元年(1467年)10月3日、京都御所北側の相国寺にて安富元綱らと共に討ち死にした。
プロフィール
森啓成(Yoshinari Mori)
せとうちインバウンド戦略コンサルタント
Bizconsul Office 代表
全国通訳案内士(英語・中国語)
観光庁インバウンド研修認定講師
ビジネス英語講師
「語学力を武器に国際キャリアを築きたい個人」と「インバウンドで成果を出したい企業・自治体」を支援。
米国大学経営学部マーケティング専攻。大手エレクトロニクス企業にて20年間、海外営業に従事し、北京オフィス所長を歴任。その後、香港・中国の外資系商社にて副社長・顧問を務める。米国・シンガポール・中国など通算16年以上の海外滞在経験を持つ。
現在は、瀬戸内の海上交流文化にルーツを持つ背景を活かし、海外ビジネス実務、ツーリズム、語学教育を融合した活動を展開。
自治体・観光事業者向けのインバウンド人材育成、地域観光ブランディング支援に加え、直島・豊島をはじめとする瀬戸内アートエリアで、海外経営者・富裕層VIP向けのプライベートアテンドを多数担当している。瀬戸内国際芸術祭 2019 公式ガイド。
保有資格
語学
• 全国通訳案内士(英語・中国語)
• 英検1級
• TOEIC L&R 965点(リスニング満点)
• 国連英検A級
• HSK6級
• 香川せとうち地域通訳案内士(中国語)
ツーリズム
• 総合旅行業務取扱管理者
• 国内旅行業務取扱管理者
• 国内旅程管理主任者
• せとうち島旅ガイド
『郷土東かがわ市 第71号』(東かがわ市文化財保護協会 発行)


下記の※2に本『郷土東かがわ 第71号』(東かがわ市文化財保護協会発行)に讃岐黒羽の永峰家の子孫 住友倉庫の専務だった永峰千年氏が「永峰家家系図」を寄贈されたことが記載されている。

讃岐黒羽 永峰家西家の直系子孫の方が寄贈した永峰家家系図


この家系図の冒頭部分には、永塩因幡守氏継が先祖として書かれています。
讃岐国 黒羽城主
永塩因幡守氏継(ながしお・いなばのかみ・うじつぐ)
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永峰
讃岐黒羽 永峰家の子孫 永峰千年氏の手書きにより冒頭部分に以下のように書かれています。
『応仁の乱に際し、讃岐の守護・細川勝元に属し、山名持豊軍と戦うため1467年(応仁元年)10月3日京都へ出陣。
1472年(文明4年)5月〜10月の相国寺の役で戦死。
1477年(文明9年)11月一族郎党は帰郷。 以後 永峰 と改姓した。
当時 武士を捨てる時は姓を改める習慣があった。』
※相国寺の戦いは1467年に勃発した応仁の乱の中で最も過酷な戦いでした。上記の記述中の戦いは別の戦いであった可能性もあります。応仁の乱は1467年から1477年まで約11年間続きました。現実的には、応仁の乱後に永塩(長塩)家の一部は讃岐黒羽に帰り、一部は摂津に残ったと考えられます。
讃岐の歴史書である『全讃史』や『三代物語』における黒羽城、永塩因幡守氏継の記述には下記のように書かれています。
『全讃史』の記述

黒羽城:
永塩因幡守氏継、之(黒羽城)に居る。応仁元年(1467年)、細川勝元に従い、洛陽の相国寺に戦死せり。

1467年8月に永塩因幡守氏継が創建した黒羽神社
最期を悟ってか、戦勝を祈願して妙見を祀った。上杉謙信をはじめとして戦国武将は妙見信仰を持つ武将が多かった。

『増補 三代物語』の記述
黒羽城跡:
永塩因幡守氏継の居城、細川勝元に属し、応仁元年(1467年)十月三日、安富元綱と同じく、洛陽相国寺合戦に戦死す。

細川勝元の領地、丹波国、摂津国、阿波国、讃岐国
黒羽は讃岐大内郡に属する細川勝元の領地でした。

京都御所北側にある相国寺

角川日本地名大辞典の記述


『引田町史』の記述

1467年8月4日、永塩因幡守氏継、黒羽神社を創建

永塩因幡守氏継が讃岐黒羽の南山にある観音堂に観音像を寄進

永塩因幡守氏継が讃岐黒羽の南山にある観音堂に寄進した観音像 (引田町史)

応仁元年(1467年)10月3日、京都御所北側の相国寺にて安富元綱らと共に討ち死にした。
安富元綱 – Wikipediaja.wikipedia.org

『尼崎市公式サイト』の歴代の摂津守護代の記述
https://www.archives.city.amagasaki.hyogo.jp/apedia/index.php?key=守護・守護代

【讃岐秘話】摂津守護代・長塩(永塩)家の主要人物一覧(活動時期、主君、根拠資料): 細川京兆家の重臣
https://note.com/embed/notes/ne5b7b69fc0f8

『引田町人物史』の永峰家家系図
永塩因幡守氏継 (黒羽城主、細川勝元家臣)
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長塩備前守又四郎元親 (細川政元家臣)
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長塩又四郎: 『天文日記』に長塩又四郎の記述がある。家系図には書かれていない。1549年の三好長慶による下克上により長塩家が摂津での役職や拠点を完全に失った時代に生きた長塩家の一員。長塩又四郎は、縁者を頼って讃岐黒羽に移住したと推測される。摂津から讃岐黒羽は淡路島経由で比較的容易に移動できる。
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永峰宅本 (1553年〜1631年)
この後、五郎右衛門 (東家: 地主)、五郎右衛門の子孫が西家: 庄屋となり、同時に周辺の南野村、安戸村へ勢力を拡大していく。


【引田町人物史の家系図】
永塩因幡守氏継から始まり、永峰宅本を経て、東家(本家)の五郎右衛門、西家(分家)の五良三郎へと至る血脈の繋がりを、時系列に沿って説明します。
永峰(永塩、長塩)家一族の歴史は、応仁の乱の時代に生きた永塩因幡守氏継から始まります。室町時代の当主であった永塩因幡守氏継は、応仁元年(1467年)に京都相国寺にて亡くなりました。1477年の応仁の乱の終結後、一部は讃岐黒羽に帰郷し、一部は摂津に残りました。その後、戦国時代へと血筋は引き継がれ、長塩備前守又四郎元親が永正元年(1504年)に亡くなっています。
その直系と考えられる長塩又四郎(『天文日記』に名前が記載されています。)の代の時に、三好長慶の下克上が起こり細川京兆家に最後まで仕えていた長塩家は1549年に摂津の拠点と役職を完全に失ってしまいました。
この長塩家(永塩家)の流れを汲み、安土桃山時代から江戸時代初期にかけて生きたのが永峰宅本です。
永峰宅本は天文22年(1553年)に生まれ、讃岐国黒羽の永峰家の元祖となりました。墓石には、1553年〜1631年と刻まれています。
彼は江戸幕府が開かれたあとの寛永8年(1631年)に78歳で亡くなるまで、一族の強固な土台を築きました。
永峰宅本の死後、時代は江戸時代中期へと進み、一族は地域を統治する大きな集団へと成長します。
永峰宅本の血脈からは東家の祖となる初代五郎右衛門が生まれ、彼は延宝9年(1681年)に亡くなりました。
その跡を継いだ2代目五郎右衛門は享保21年(1736年)に亡くなり、さらにその跡を継いだ3代目五郎右衛門は延享2年(1745年)に亡くなっています。
この3代目五郎右衛門の子供たちの代で、本家と分家の力強いバトンリレーが行われました。
本家(東家:地主)を継承したのが長男である4代目の永峰五郎右衛門であり、彼は安永7年(1778年)に亡くなりました。そして、この4代目五郎右衛門の実の兄弟(弟)として分家を興したのが、西家初代となる永峰五良三郎です。西家初代五良三郎は、兄の死からわずか4年後である天明2年(1782年)に世を去りました。
このように、1467年に亡くなった永塩因幡守氏継の血筋は、1631年に亡くなった永峰宅本を経て、1700年代後半にほぼ同時期を駆け抜けた4代目五郎右衛門と初代五良三郎という実の兄弟を通じて、地域の信用を守る本家(東家: 地主)と、実務を担う分家(西家: 庄屋)の強固な一族へと成長していきました。
応仁の乱の年代別経過
1466年(文正元年)
将軍・足利義政の後継問題が激化。
斯波氏・畠山氏の家督争いが深刻化。
「文正の政変」が起こり、有力守護大名が対立した。
1467年(応仁元年)
1月、上御霊神社付近で「上御霊合戦」が発生し、応仁の乱が始まる。
東軍(細川勝元側)と西軍(山名宗全側)が京都で全面衝突。
京都市街の大部分が焼失した。
1468年(応仁2年)
戦乱が京都周辺から地方へ拡大。
諸国の守護大名が東西両軍に分かれて争う。
将軍家の権威が低下し始める。
1469年(文明元年)
戦況は膠着状態となる。
各地で小規模戦闘や略奪・放火が続発。
京都の荒廃が深刻化した。
1470年(文明2年)
西軍が各地で攻勢を強める。
但馬・丹波・若狭などでも戦闘が続いた。
幕府の統制力がさらに低下。
1471年(文明3年)
地方武士や国人勢力が独自に行動を始める。
各地で下剋上の兆候が見え始める。
1472年(文明4年)
東西両軍とも決定打を欠き、局地戦が中心となる。
和平交渉も進められたが成立しなかった。
京都では放火・包囲戦が継続。
1473年(文明5年)
東軍の細川勝元、西軍の山名宗全が相次いで死去。
両軍の求心力が低下し、和睦機運が高まる。
1474年(文明6年)
有力大名が次第に領国へ帰国。
京都での大規模戦闘は減少した。
1475年(文明7年)
戦乱は局地化。
地方では守護大名や国人の独立傾向が強まる。
1476年(文明8年)
東西両軍とも戦意を失い、停戦状態に近づく。
京都復興の動きも始まる。
1477年(文明9年)
西軍が京都から撤退し、応仁の乱が終結。
しかし幕府権威は失墜し、全国で戦国時代へ移行していった。
1477年の讃岐黒羽への帰郷と永峰宅本(1553-1631)の時代
1467年8月
永塩因幡守氏継、黒羽神社創建
1467年10月
京都相国寺にて永塩因幡守氏継が討ち死に。
応仁の乱は、1467年から1477年まで続いた。
応仁の乱 – Wikipediaja.wikipedia.org

1477年(文明9年)
永塩因幡守氏継の一族郎党が、京都の応仁の乱から黒羽へ帰郷(永峰家子孫の永峰千年氏作成の家系図)。「永峰」へ改姓し、土着を始める。
1549年
三好長慶による下克上で細川京兆家は崩壊、長塩家は摂津での役職と拠点を完全に失った。『天文日記』に名前が出てくる長塩又四郎は、長塩備前守又四郎元親の子か子孫と推測される。又四郎は讃岐黒羽へ縁者を頼って移住したと推測される。
1553年(天文22年)
帰郷から約70年後、永峰宅本が誕生。一族が完全に黒羽の地主(有力者)として定着していく時期。
1583年(天正11年:宅本30歳)
引田の戦い勃発。海蔵院東海寺が焼失。
阿波水軍 森権平久村が伊座で討ち死に。森家の一族が讃岐馬篠へ落ち延び、開拓、治水、一帯の山林と土地を所有した。後にこの家系と永峰家が結婚する(森虎太郎 – 永峰チヨ)。
1583年、30歳の働き盛りだった宅本は、この戦火のなかで一族を率い、寺の焼失や戦の被害という国難を乗り越えて黒羽の領地と人々を守り抜いたと推測される。
1584年
長宗我部元親軍により、虎丸城陥落、十河存保は豊臣秀吉を頼り大阪へ落ち延びた。十河氏系三谷家の三谷景則らが黒羽へ来住。この家系の子孫が瀬戸内寂聴の父 三谷豊吉の家系、黒羽三谷家。黒羽三谷家と森家は明治期に2度、婚姻を結んでいる。
1585年(秀吉の四国統一)
十河氏が没落。
1587年(生駒氏の讃岐入封)
豊臣秀吉の家臣だった生駒親正が新たな領主となり高松城を築き、讃岐の新しい支配体制がスタート。
1590年代(太閤検地・兵農分離)
秀吉の政策により、刀を置いて土地を耕す「農民(庄屋・地主)」としての身分が法的に確定。黒羽での一族の基盤を完全に固める。
1600年〜1615年(関ヶ原・大坂の陣)
豊臣家が滅亡し、徳川幕府による「戦のない平穏な時代」が到来。
1631年(寛永8年)
激動の戦国から平和な江戸への転換を見届け、宅本は78歳で大往生。家の横に祀られる。
・永峰宅の敷地内にある永峰宅本の墓石

海蔵院 東海寺
永峰家の菩提寺。
1583年の引田の戦い時に焼失し、江戸時代に再建された。
長宗我部元親軍は阿波と讃岐の寺社をことごとく焼いて回った。これが、阿波と讃岐に住んだ人のルーツ探しを困難にしている。
東海寺 (東かがわ市) – Wikipediaja.wikipedia.org
永峰杢左衛門家 (東家の系譜)
永峰宅本の子孫 與左衛門家の別家。

【引田町人物史にある永峰杢左衛門家】
東家(本家)の歴代「五郎右衛門」と、そこから分家した「永峰杢左衛門(もくざえもん)家」の世代対比を検証します。
結論から言いますと、杢左衛門家の初代である「①杢左衛門(安永2年・1773年没)」と完全に同世代(兄弟、あるいは従兄弟などの並び)にあたるのは、東家(本家)の「4代目 ④五郎右衛門(安永7年・1778年没)」です。
『引田町人物史』の杢左衛門家の解説文の記述と、それぞれの没年(西暦)を突き合わせると、その明確な裏付けが浮かび上がります。
説明します。
永峰杢左衛門家の解説文が示す「分家の起点」
解説文には、杢左衛門家について重要な記録が残されています。
そこには、五郎右衛門の子孫である「與衛門」の別家(分家)であり、その屋敷も元祖である永峰宅本の墓碑の横にあると記されています。
さらに、屋号は「お頭(おかしら)」と呼ばれ、3代目の永峰杢左衛門は文政11年(1828年)に与頭(くみがしら)を務めていたという、地域の実力者であった事実が並びます。
ここで注目すべきは、杢左衛門家の初代が「與衛門の子孫」から分かれたという点、そしてその初代杢左衛門が亡くなった年です。
没年(西暦)からみる完璧な世代の一致
系図に記載されている杢左衛門家の歴代の没年と、東家(本家)の歴代「五郎右衛門」の没年を西暦で並べると、驚くほどきれいに時代が重なります。
杢左衛門家の初代である①杢左衛門は安永2年(1773年)に亡くなっています。
一方で、本家である東家の4代目④五郎右衛門が亡くなったのは安永7年(1778年)です。
2人の没年の差はわずか5年しか離れていません。この「1773年没」と「1778年没」という極めて近いタイムラインは、彼らが同じ時代を生き、ほぼ同時にそれぞれの家を引っ張っていた「完全なる同世代」であったことを明確に証明しています。
次の世代へのバトンリレーの整合性
この世代の合致は、彼らの子供(次の世代)の没年を見ることで、さらに確固たるものになります。
初代杢左衛門の跡を継いだ2代目の②久米七は、安永2年(1773年)に亡くなっています。これは父親である初代と同じ年に亡くなるという、不慮の事態や代替わりの混乱を思わせる没年です。
そして、その跡を継いだ3代目の③杢左衛門は天保9年(1838年)に亡くなっています。先述の通り、この3代目は文政11年(1828年)に与頭を務めていた人物です。
これに対比する本家の世代を見ると、4代目④五郎右衛門の息子である東家5代目の⑤五郎右衛門は文政9年(1826年)に亡くなっています。
1820年代後半(文政年間)に、本家5代目と、杢左衛門家3代目がそれぞれ一族の前線で活躍していたことになり、親の世代だけでなく子の世代に至るまで、タイムラインが完璧に並行して進んでいることが分かります。
永峰杢左衛門家の初代①杢左衛門(1773年没)と同世代にあたるのは、東家(本家)の4代目 ④五郎右衛門(1778年没)です。
時系列の流れで言えば、東家3代目の③五郎右衛門(1745年没)が亡くなったあとの時代、長男の4代目④五郎右衛門が本家を継ぎ、そのすぐ身内(解説文にある与左衛門の系統)から分かれる形で、初代杢左衛門が「お頭」の屋号を持つ格式高い分家を誕生させた、という緊密な歴史的繋がりが立証されます。

杢左衛門家系図
杢左衛門
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久米七
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杢左衛門
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杢左衛門
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直三郎
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市次郎 (長女のチヨが馬篠の森虎太郎へ嫁ぐ)
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栗太郎
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修一 – 森ミヤコ (永峰チヨの娘)
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義史 (不動産業) – 讃岐東山庄屋の朝倉家の娘
余談だが、義史さんの息子さんは地元の高校の野球部のピッチャーで、私は小学生の頃、野球を教えてもらった。義史さんは私の父とは従兄弟ということで親しかった。
義史さんの母親と私の父の父親が兄妹だった。
森虎太郎 – 永峰チヨ
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姉: 森ミヤコ、弟: 森静雄(1937年、日中戦争中に戦死、私の祖父)
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永峰義史(ミヤコ長男)、森功(私の父)
ちなみに、私の高祖母の八田キヨの母方は徳島藩下助任に住み代々蜂須賀家の御料理方を務めた生藤家です。父の中にそういうDNAが流れていたからでしょうか、父は昭和31年に神戸オリエンタルホテルにて昭和天皇に料理を献上しました。

森喜平を戸主とする除籍謄本
・阿波・讃岐の国境武士層の婚姻関係から判明したこと 〜讃岐大内郡 有馬家と阿波三好郡 三宅家の系譜の考察〜 【讃岐: 森家、永峰家、三谷家、有馬家 / 阿波: 八田家、三宅家、生藤家】
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https://note.com/embed/notes/n2f507d8fe1d1
高松藩 森喜平 – 八田キヨ (徳島藩碁浦御番所役人を231年間世襲した禄持ちの八田家当主の長女)
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長男: 森虎太郎 – 永峰チヨ (永峰杢左衛門家当主 永峰市次郎の長女)
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娘: 森ミヤコ – 永峰修一
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永峰義史 (不動産業) – 讃岐東山庄屋: 朝倉家の娘

・永峰チヨ: 私の父方の曽祖母


・私の大叔母にあたる森ミヤコの除籍謄本。
森ミヤコは私の祖父の姉

総括:瀬戸内の秩序を紡いだ一族のDNA
今回、永峰千年氏が残された貴重な家系図と、我が家に伝わる除籍謄本、そして歴史書の記述が点と線で完全に繋がりました。
応仁の乱で散った永塩因幡守氏継の武骨、下克上の荒波を越えて黒羽に活路を見出した長塩又四郎の智略、そして激動の戦国から太閤検地・江戸の太平への大転換期を生き抜いた永峰宅本。
この長塩(永塩)=永峰家の歩みは、そのまま阿波水軍の森家、碁浦御番所の八田家、そして讃岐国造の末裔たる三谷家との婚姻関係へと網の目のように結びついていきます。
戦国から近代へ、瀬戸内の流通・国境・産業を支え続けてきた先祖たちの歴史は、決して色褪せることなく、今も我々子孫のDNAの中に脈々と受け継がれています。
以上

