【ファミリーヒストリー】高松藩 森家と徳島藩 碁浦番所役人 八田家との結婚の裏側: 外国船襲来と幕末の海防。 高松藩台場配置図。 志度街道と馬宿。山奥に身を潜めた隠密

こんにちは。

トリリンガル讃岐PRオフィサーの森啓成 (モリヨシナリ) です。

今回は、江戸時代に藩をまたいで結婚した高松藩の森家と徳島藩の碁浦番所役人の八田家と高松藩の思惑、山奥に身を潜めた隠密についてです。

目次

  1. 著者のプロフィール
  2. 徳島藩の碁浦番所役人 八田家の長女 八田キヨと高松藩 森家の森喜平の藩をまたいだ結婚が許された背景は?
  3. 🔹徳島県と香川県の県境である鳴門市北灘町にあった碁浦番所。 現在は国道11号線になっている。
  4. 🔹角川日本地名大辞典による碁浦番所の説明
  5. 🔹馬宿と碁浦の位置と距離
  6. 🔹情報を整理
  7. 国境決定における八田家の役割
  8. 阿波水軍森家と土木技術
  9. 航海の知識と土木の関連性
  10. 武士の身分を守るための選択
  1. 帰農の回避
  2. 普請方としての貢献
  3. 知的資本の継承
  4. ◆高松藩の海防施設-狼煙場、大筒台場一覧
  5. 高松藩 森家と徳島藩 八田家が婚姻を結んだ理由
  6. 藩をまたぐ結婚の特異性
  7. 幕末の緊迫した情勢
  8. 両家のメリット
  9. 八田家と高松藩森家の結婚における家格の考察
  10. 阿波水軍森家の存在感
  11. 婚姻の背景
  12. 椿泊の松鶴城と土佐泊の土佐泊城
  13. 土佐泊城(とさどまりじょう)
  14. 松鶴城(しょうかくじょう)
  15. 🔹森家が馬宿に住んでいた理由
  16. 🔹森喜平と八田家の長女の結婚の背景
  17. 江戸末期〜明治時代の森家
  18. 讃岐の志度街道にあった馬宿村
  19. 馬宿村とは?
  20. 高松藩の海防施設と馬宿
  21. 幕末の1864年に森喜平と八田家の長女の結婚の背景には、高松藩がその結婚を通して何らかの情報入手を目論んだ
  22. 幕末の情勢と海防の重要性:
  23. 森喜平の婚姻の意味:
  24. 隠密活動
  25. 🔹アメリカの黒船が香川県さぬき市の志度浦に来た時、でかい盆を艦長へ贈った男 玉楮象谷とは?

著者のプロフィール

森啓成 (モリヨシナリ)

神戸市生まれ、香川県育ち。米国大学経営学部留学マーケティング専攻。大手エレクトロニクス企業にて海外営業職に20年間従事。その後、香港、中国にて外資系商社の設立に参画し、副社長をへて顧問。その間、米国に2年、シンガポールに2年、中国に12年間滞在。

現在、Bizconsul Office 代表。ビジネス英語講師、全国通訳案内士(英語・中国語)、海外ビジネスコンサルタントとして活動中。

・観光庁インバウンド研修認定講師
・四国遍路通訳ガイド協会 会員
・トリリンガル讃岐PRオフィサー

【保有資格】

【英語:】全国通訳案内士、英検1級、TOEIC L&R: 965点(L満点)、TESOL(英語教授法)、国連英検A級、ビジネス英検A級、他
【中国語】全国通訳案内士、香川せとうち地域通訳案内士、HSK6級、他
【ツーリズム】総合旅行業務取扱管理者、国内旅程管理主任者、せとうち島旅ガイド(瀬戸内国際芸術祭2019公式ガイド)、他

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徳島藩の碁浦番所役人 八田家の長女 八田キヨと高松藩 森家の森喜平の藩をまたいだ結婚が許された背景は?

徳島藩と高松藩の藩境に位置し、機密情報を握っていた碁浦番所の役人の八田家と阿波水軍の分家であり、高松藩の東端に住み普請方として陸・海の情報を持っていた森家の結婚が許された背景は? 


🔹徳島県と香川県の県境である鳴門市北灘町にあった碁浦番所。 現在は国道11号線になっている。

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🔹角川日本地名大辞典による碁浦番所の説明

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高松藩の森家が香川県の東端の馬宿、馬篠に住んだ理由、藩をまたいで森喜平と碁浦番所の役人兼庄屋だった八田家の長女が結婚した背景の裏側について考察する。

🔹馬宿と碁浦の位置と距離

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🔹情報の整理

  • 森家は1583年の引田の戦いで現在の白鳥 伊座で討死した阿波水軍の森権平久村の一族だった。森権平久村亡き後、縁者が嫁いでいた日下家を頼り、馬宿にすんだが、後に馬篠の未開の山奥を開拓して移り住んだ。山奥の海岸沿いに家を経て阿波水軍の知見を活かし船で高松方面や阿波方面へ行き来していた。
  • 森家は、橋や道路を建設する普請の仕事に従事して高松藩に貢献することにより、帰農せずに、江戸時代に武士の身分を守った。金刀比羅宮の石段造営に参加したり、小磯の北山にあった明神鼻の大筒台場に高松藩主一行が見回りに来た際はお膳立てをし、接待した。人里離れた山奥に住み、何か特殊な任務を担っていたようだ。
  • 森喜平は江戸時代末期に徳島藩と高松藩の藩境にあった碁浦番所の役人を200年以上務めた禄持ちの八田家当主 八田孫平の長女 八田キヨと藩をまたいで婚姻を結んだ。
  • 八田家が代々役人を務めた碁浦御番所には、伊能忠敬や久米通賢、松浦武四郎らも訪れた。また、八田家は天正年間に阿波と讃岐の国境を決める際に重要な役割を果たした。

阿波水軍 森権平久村とは?https://note.com/embed/notes/nb0a8fee603d1

徳島藩 碁浦御番所とは?https://note.com/embed/notes/nc3b43d7c8699

・碁浦御番所

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国境決定における八田家の役割


天正13年(1585年)に讃岐国と阿波国の国境が定められた際、八田家が重要な役割を果たしたことが記録に残っている。当時の八田家当主 八田孫兵衛が、「碁浦邑御番人 庄屋 八田孫太夫 先祖覚書」に「御国御境目為証人私先祖 八田孫兵衛高松へ罷出候節御上使様御出ニ而御境之儀此方于者西坪ケ谷筋之尾切と申上候」と記しているように、八田家の先祖が国境決定の証人として高松に出向いたことが記録されている。

これは、八田家が単なる番所の管理者にとどまらず、地域の地理や歴史に精通し、国境のような重要な事柄に関与するほどの信頼と権威を持っていたことを物語っている。

阿波水軍森家と土木技術

阿波水軍であった森家が土木技術を持っていた背景には、海を舞台とした活動で培われた知識や経験が大きく関わっていた。

航海の知識と土木の関連性


森家は阿波国(現在の徳島県)で強力な水軍を率いていた。森家一族は船の操船技術だけでなく、水中の知識にも長けていたと伝えられている。

  • 港湾・水利施設の建設・維持: 水軍にとって、船の停泊地である港や、河川を遡上するための水路の整備は不可欠だった。潮の流れや地形を熟知し、適切な場所に施設を建設・維持する技術は、現代でいう土木技術と深く結びついていた。
  • 造船技術: 水軍は多くの船を保有しており、その建造や修理には高度な木工技術や構造計算の知識が必要だった。これは、橋や建築物の建設に応用できる技術だった。
  • 地理・測量技術: 航海の安全を確保するためには、沿岸部の地形や水深を正確に把握する測量技術が求められた。この測量技術は、陸上での道路建設や土地開発にも役立った。

武士の身分を守るための選択


森権平久村の一族は、引田の戦いで森権平久村を亡くした後、帰農することなく武士の身分を守るため、高松藩の普請方として橋や道路の建設、金刀比羅宮の石段造営に貢献し、武士の身分を守った。

帰農の回避

江戸時代、武士が戦での働き場を失ったり、禄を離れたりすると、生計を立てるために農民になる「帰農」を選択することが一般的だった。

しかしながら、森家は代々武士としての誇りを持ち、家名を存続させることに尽力した。このため、家が持つ海運や土木に関する技術を活かし、藩に役立つ形で武士の身分を維持する道を選んだ。

普請方としての貢献


普請方とは、土木工事を担当する役職だ。金刀比羅宮の石段造営のような大規模な工事は、当時の公共事業として非常に重要だった。このような難易度の高い大規模な工事を任されるということは、森家がその分野で専門的な知識と技術を持っていたことの証であり、高松藩からの信頼が厚かったことを示している。

知的資本の継承

森家のような家では、代々培われてきた知識や技術が家の中で子々孫々にわたり継承されていく。水軍としての実務経験、そして地域開発に貢献した土木技術の専門性は、森家が武士としての身分を保ち、新たな役割を見出す上で大きな力となった。この適応力が、激動の時代を生き抜く鍵だったのだろう。手に職がなければ、帰農して農業に専念するしかなかったであろう。

◆高松藩の海防施設-狼煙場、大筒台場一覧

🔸高松藩の海防施設一覧

https://www.pref.kagawa.lg.jp/documents/7796/kaiboushisetsu.pdf

高松藩 馬篠に住んでいた森家は、小磯北山の明神鼻にあった大筒台場に高松藩主一行が見回りに来た際は森家がお膳立てをし接待していた。普請の仕事に従事していた森家は、大筒台場の建設にも関わっていたと考えられる。

徳島藩の碁浦番所で200年以上、役人を務めていた禄持ちの八田家は陸路間の通行手形の確認に加え、海路移動の監視役もしていた。

また、徳島藩の海上方だった阿波水軍 森家は3,000石を有し、徳島藩の海防を260年以上、担った。

このように、森家一族は、瀬戸内海の海防に関わりが強かった。

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小磯北山の大筒台場
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江戸時代、小磯の北山 明神鼻に大筒台場があった。倭迹迹日百襲姫を祀る袖掛神社の北側にあたる。

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・北山明神鼻の大筒台場の図

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高松藩 森家と徳島藩 八田家が婚姻を結んだ理由

藩をまたぐ結婚の特異性


江戸時代において、特に武士身分で藩をまたいで結婚することは、基本的に藩の許可が必要であり、容易ではなかった。しかし、これが実現した背景には、通常のしきたりを上回るメリットが両家や藩にあったと考えられる。

幕末の緊迫した情勢

幕末期は、外国船の来航によって海防の強化が急務となり、藩にとって情報収集と防御体制の整備が最重要課題であった。

  • 八田家の持つ情報価値: 200年以上も碁浦番所役人であり庄屋も兼ねていた八田家は、阿波と讃岐の国境という要地で、地域の動向や人々の往来に関する大量の情報を持っていた。特に、外様大名である徳島藩(蜂須賀家)の要所であったため、高松藩にとっては蜂須賀家の動向を探る上で、八田家との関係強化は非常に有益だった。
  • 森家の持つ技術力と忠誠心: 森家は武士(郷士)でありながら、水軍としてのルーツを持つ土木技術集団として高松藩の普請方に貢献していた。森家の技術力は海防施設の構築にも不可欠であり、過酷な戦乱を生き抜き、藩への忠誠心も厚かった。

両家のメリット

このような背景から、両家の結婚には以下のようなメリットがあったと推測できる。

  1. 高松藩の思惑: 高松藩としては、八田家が持つ情報網と、森家の技術力・忠誠心を利用し、自藩の海防や情報収集体制を強化したかった。藩をまたぐ結婚を許可することで、高松藩は阿波と讃岐の国境地帯における影響力をさらに強めることができたと考えられる。
  2. 八田家のメリット: 禄持ちの名家であった八田家が、高松藩の郷士的な立場にある森家と婚姻を結ぶことは、高松藩との繋がりを深め、さらなる安定と繁栄を築く上で有利だった可能性がある。特に、水戸徳川家の分家で、親藩である有力な高松藩とのパイプを持つことで、幕末の混乱期に、徳島藩内で重宝され、家格の維持や向上にも繋がると判断した。
  3. 森家のメリット: 城下に住まない武士(郷士)であった森家にとって、八田家という地域の名家との結婚は、経済的な安定や社会的信用の向上に繋がり、武士としての地位をより確固たるものにする絶好の機会だった。
  4. 徳島藩の思惑: 八田家が持つ機密が隣藩に漏れるリスクを承知の上で、それに見合う、あるいはそれ以上の森家が持つ情報(特に普請方としての地政学的知見や水軍の情報)や、森家を介した高松藩との穏便な関係維持といったメリットがあったため、婚姻を許可した。

このように、八田家と森家の結婚は、個人の愛情だけでなく、両家の家格、当時の政治情勢、そして互いが持つ「情報」と「技術」という資源が複雑に絡み合った結果、実現した非常に戦略的な縁談だったと言える。

通常であれば、片や徳島藩の機密情報を大量に持つ八田家、片や高松藩の普請方を務め、地政学的な情報や海の情報を豊富に持つ森家という組み合わせでの婚姻は、両藩から情報漏洩のリスクを警戒され、許可されることはありえない。しかし、両藩がこの婚姻を許可したということは、それぞれの藩にとって、そのリスクを上回る戦略的なメリットがあったと考えられる。

両藩が婚姻を許可した背景

徳島藩の思惑

徳島藩が八田家と森家の婚姻を許可したのは、森家が持つ高松藩側の情報、特に普請方としての地域情報や阿波水軍出身としての海の専門知識を評価した。これらの情報は、徳島藩の防衛計画や経済活動にとって非常に価値があったと考えられる。また、婚姻を通じて高松藩との連絡網を構築し、有事の際の緩衝材とする狙いもあったかもしれない。

高松藩の思惑

高松藩は、森家を介して徳島藩の内部情報を静かに把握できるという大きなメリットが得られる。藩主が西国諸藩の動静を監察する役割を担っていたことを考えると、隣接する徳島藩の動向は特に重要であり、阿波水軍出身の森家はまさにその情報収集の要だったと言える。藩主一行が小磯北山の大筒台場に見回りに来た際に接待していたことも、森家の持つ特殊な情報が藩にとって重要であったかを物語る。

江戸時代の情報戦

江戸時代は鎖国体制ではあったが、幕府や各藩は国内外の情報を熱心に収集していた。例えば、幕府は飛脚や庭番といった役職を使い、諸藩の動向や世間の風聞などの情報を集めていた。高松藩と徳島藩の間の婚姻も、こうした情報収集ネットワークの一環として機能していたと考えられる。

森家と八田家の婚姻は、単なる個人間の結びつきではなく、両藩の力関係、情報戦略、そして地域における特定の家の重要性を示す、まさに「政略結婚」の典型例だったのかもしれない。森家も八田家も同じ藩の者と結婚する方が安全で幸せに平和に暮らせたのはいうまでもない。

徳島藩が超機密情報を持つ八田家と高松藩 森家の婚姻を許した本当の理由は?

徳島藩が幕末期に碁浦御番所の役人を200年以上務めた八田家と高松藩の森家との結婚を許した背景には、情報漏洩のリスクを上回る複雑な事情や戦略的な意図があったと考えられる。八田家が200年以上にわたり築き上げた情報網と信頼関係が、この決断に大きく関わっていた可能性が高い。

1. 戦略的な信頼関係の構築

徳島藩と高松藩は国境を接しており、常に情報を共有し、連携を強化する必要があったと考えられる。特に幕末の動乱期には、各藩が生き残りをかける中で、隣藩との関係は非常に重要だった。八田家が長年にわたり国境での情報収集と管理を担っていたことから、その情報力や地域での影響力は徳島藩にとって不可欠なものだった。高松藩の武士である森家と、徳島藩の碁浦番所役人である八田家が結婚することは、両藩間の非公式ながらも強固な協力関係を築く上で有利に働いた可能性がある。情報漏洩のリスクを考慮した上で、それ以上に得られる利益(相互の情報共有、有事の際の協力体制の強化など)が大きいと判断されたと言える。

2. 八田家の特別な地位

八田家が碁浦番所の役人兼庄屋を務め、禄持ちであったことから、徳島藩内でも一定の地位を確立していたことがうかがえる。また、八田家は200年以上にわたり番所役人を務めており、その間に徳島藩の多くの機密情報を知り得る立場にあった。このような特別な家柄が結びつくことは、両藩にとって単なる姻戚関係以上の政治的意味合いを持っていた可能性がある。

3. 時代の変化への対応

幕末は外国船の来航による海防問題や、開国か鎖国かといった激しい議論が交わされる激動の時代だった。こうした状況下で、諸国の外国船、海防、軍事、地政的情報、密貿易といったあらゆる情報を持つ八田家は、徳島藩にとって非常に貴重な存在だった。高松藩との連携を通じて、より広範な情報を迅速に収集し、共有することは、情報が命綱となる時代において、藩の存続と発展にとって不可欠な要素だったと考えられる。情報漏洩のリスクはあったものの、それ以上に最新の情報や他藩との連携のメリットを重視した結果とも考えられる。特に高松藩は水戸松平家の分家であり、親藩大名だったことも考慮されたと考えられる。

幕末の徳島藩の状況

徳島藩は阿波国と淡路国を領有する大藩であり、豊臣秀吉の時代から蜂須賀家が治めていた。藩政改革も行われ、特に阿波藍は全国ブランドとなり、藩の経済を支えた。しかし、幕末には財政難や一揆も多発しており、不安定な状況の中で、藩の存続のためにあらゆる手段を講じる必要があったと考えられる。

八田家と高松藩森家の結婚における家格の考察

八田家と高松藩森家の婚姻が、阿波水軍森家の家格も考慮された上で結ばれたと推測される。当時の婚姻においては、家と家のつながり、そしてその家格が重視されることが多かった。

阿波水軍森家の存在感

阿波水軍森家は、代々「森甚五兵衛」を名乗り、蜂須賀家に仕える有力な水軍衆として、3000石という高い石高を有していた。彼らは蜂須賀家が入国する以前から阿波国で活動し、豊臣秀吉の朝鮮出兵にも参加経験があった。また、蜂須賀家の中老として参勤交代の海上移動を担うなど、藩政においても重要な役割を果たす存在だった。

江戸時代前には、阿波水軍森家は鳴門市の土佐泊に城を構えており、後に阿南市の椿泊へ本拠地を移した。この土佐泊という場所は、碁浦御番所があった八田家とも地理的に近く、両家が以前から互いの存在を知っていた。


婚姻の背景

八田家は徳島藩の碁浦御番所の役人兼庄屋を務め、阿波国と讃岐国の国境警備という重要な役割を担っていた。また、徳島藩から禄をもらう「禄持ち」であり、家格は武士であった。高松藩森家は、阿波水軍森家の分家にあたり、高松藩松平家に普請方として仕える郷士だった。

このような背景から、八田家が高松藩森家と縁組をする際、単に「高松藩の郷士」というだけでなく、そのルーツである「阿波水軍森家」の持つ権威や実績、そして3000石という石高なども、家格を測る上で考慮された可能性がある。

高松藩森家が阿波水軍森家の分家であることを考慮すると、八田家との婚姻は、その血筋が持つ歴史的背景や社会的な地位が、両家の良好な関係をさらに確かなものにする上で重要な要素であったと言える。

・鳴門市北灘町碁浦と鳴門市土佐泊。土佐泊に阿波水軍 森家の居城があった。蜂須賀家の入封後、土佐泊から阿南市の椿泊の松鶴城へ移り住んだ。

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椿泊の松鶴城と土佐泊の土佐泊城

阿波水軍を率いた森氏の主要な居城であった土佐泊城と、後に移り住んだ松鶴城について。


土佐泊城(とさどまりじょう)


土佐泊城は、徳島県鳴門市鳴門町土佐泊浦、大毛島に位置した城で、鳴門市指定史跡。

歴史と特徴

  • 築城者と時期: 天文年間(1532~1555年)に森元村が築城したとされる。
  • 立地: 北および北東斜面は急傾斜で、南および西は海に面しており、特に西側は小鳴門海峡に面した良港を押さえる「海賊城」のような姿をしていた。紀伊水道と瀬戸内海の入口を押さえる海上交通の要衝だった。
  • 森氏の抵抗: 天正10年(1582年)に土佐の長宗我部元親が阿波を平定しようと侵攻した際も、森氏は元親に服従せず、落城することなく持ちこたえた数少ない城の一つだった。その後、天正13年(1585年)に豊臣秀吉が四国へ侵攻した際にはその先導を務めた。

現在の状況

現在は城跡が鳴門町土佐泊浦の松瀬山にある。城郭の大部分が南海病院の敷地内にあり、現在立ち入りは禁止されている。

松鶴城(しょうかくじょう)

松鶴城は、徳島県阿南市椿泊町にあった城で、別名を椿泊城とも呼ばれる。

歴史と特徴

  • 築城者と時期: 森氏の二代目当主である森村春が、天正14年(1586年)に築城したとされている。
  • 移転の経緯: 森氏は元々、土佐泊城を本拠としていたが、豊臣秀吉の四国平定後、阿波国に入封した蜂須賀家政に仕えることになり、この時、蜂須賀家政から福井庄椿泊など約3,000石を与えられ、この地に移り住んで松鶴城を築いた。
  • 阿波水軍の本拠地: 江戸時代に入ると、松鶴城は徳島藩の海上方を務める森甚五兵衛家の居城となり、代々、阿波水軍の総大将を務めた。森家は徳島藩から3000石を支給され、その規模は小大名に匹敵すると言われている。阿波水軍は朝鮮出兵や大坂の陣などで戦功を挙げ、全国にその名が知られた。
  • 椿泊の発展: 森氏は水軍の大将として活躍する傍ら、椿泊の町を松鶴城の城下町として整備し、海上交通の要衝として多くの人で賑わったと伝えられている。

現在の状況

松鶴城の跡地は、現在の阿南市立椿泊小学校となっており、小学校の西側に城の石碑があり、南側の石垣が遺構として残されている。

椿泊には阿波水軍 森家の始祖である佐田九郎左エ門を祀る佐田神社があり、周辺には阿波水軍 森家代々の当主の墓がある。

🔹森家が馬宿に住んでいた理由

森家は、1583年の引田の戦いで仙石秀久の臣下として参戦し、討死した阿波水軍 森家の一族だった。森権平久村亡き後、縁者が嫁いでいた日下家を頼り、馬宿に住んだ。馬宿は、香川県の東端、つまり高松藩の東端に位置し徳島藩との国境近くにあった。

※森権平久村の母は、板西城主 赤沢信濃守宗伝の一族である赤沢伊賀守の娘、祖母は撫養城主 小笠原家の出身だった。森権平久村の叔母は引田の四宮家に嫁いだが、その夫が日下家の養子となり、日下家を継ぐことになった。日下家は元は現在のさぬき市の寒川出身の武士だった。日下家は江戸時代には大内郡の大庄屋、馬宿村及び引田村の庄屋を務めた。

🔹森喜平と八田家の長女の結婚の背景

元治元年(1864年)12月28日に高松藩の森喜平と徳島藩の八田キヨが結婚した。

🔸森家の戸籍謄本:

(廿は、”にじゅう”と読む)

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高松藩の森家は、馬篠の未開の山を切り開き、土地を開拓し柏谷と名付けた。一帯の山林と土地を所有した。普請の仕事により、高松藩に貢献し、武士の身分を守った。北山の明神鼻にあった大筒台場に高松藩主一行が見回りに来た際にはお膳立てし、接待をしていた。江戸時代後期になると瀬戸内海に外国船が行き来するよいになり、各藩は沿岸沿いの警備に神経を注いでいた。

徳島藩の碁浦御番所は阿波と讃岐の国境沿いに位置し、200年以上、四国遍路や物資の移動など陸路での移動者の手形確認と監視、また海路移動の監視役でもあった。八田家には諸国に関する相当な量の情報が集まっていた。八田家文書の一部は現在、徳島県立図書館や鳴門市立図書館、徳島市立図書館などで閲覧できる。大量の文書があったが、研究目的で貸し出されたが、再三の返却依頼にも応じず行方不明となった。阿波国風土記や出雲旧家の古文書同様に日本の触れてはいけない歴史に関わる文書を回収している集団がいる。記紀と異なる日本の本当の成り立ちを書いた古文書は回収されてしまう。

高松藩主の松平家は水戸徳川家の分家、徳川一門の親藩大名だった。瀬戸内地域の外様大名の動静を監察する役目もあり、徳島藩の外様大名である蜂須賀家の動向を調査したい意向があった。

このような背景があり、高松藩の森家と徳島藩の八田家は藩をまたいで婚姻を結んだ。

両家は、それぞれ藩の役目を担っていた。森家は高松藩のために普請の仕事に加え高松藩東讃の瀬戸内海やを行き来する外国船の監視、八田家は碁浦番所という重要な拠点を守っていた。そのような状況の中で、両家は互いの立場を理解し、協力関係を築いていた。

江戸末期〜明治時代の森家


明治元年生まれの曽祖父 森虎太郎の妹 森トヨは、馬宿の隣りの東かがわ市黒羽の十河氏系三谷宗家に嫁いだ。

この三谷宗家からは町会議員や瀬戸内寂聴さんが出ている。瀬戸内寂聴さんは、三谷宗家の分家の屋号: 甚六家の末裔である。

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左端:瀬戸内イト。右端が瀬戸内寂聴さんと母親

「ほんまの家族」が知る寂聴さんの素顔 徳島の仏具店の親族が語る:朝日新聞デジタル


曽祖父 森虎太郎は、同じく東かがわ市黒羽中村の旧家で庄屋、与頭を務めた永峰家の長女 永峰チヨと結婚した。永峰家は、黒羽城主 永塩因幡守氏継の末裔であり、1467年、自分の最期を悟り、黒羽神社を創建した。1467年、細川方から応仁の乱に参戦し、安富元綱らと共に京都御所の北側に現存する相国寺で壮絶な最期を遂げた。残された一族は、氏継公の死を深く悲しみ、武士を捨てて帰農し、永峰家に改姓した。

●永塩一族と永峰家https://note.com/embed/notes/ne96474268321


このように、明治時代となり、森家は馬宿の隣り村である黒羽中村の庄屋 永峰家の長女と結婚したり、黒羽の三谷家に嫁いだりしている。

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永峰チヨ

・永峰チヨ: 明治時代となり、黒羽の庄屋 永峰家の長女 永峰チヨと森喜平と長男 森虎太郎は結婚した。

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永峰チヨ

・東かがわ市馬宿と黒羽の位置

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坂出の塩田を開発した東かがわ市の馬宿出身の久米通賢。江戸時代、和三盆作りにより高松藩の財政を支えた東かがわ市黒羽、馬宿の製糖業者。瀬戸内寂聴さんの父が養子となった瀬戸内イトは久米通賢の子孫と結婚していた。



香川県資料

https://www.pref.kagawa.lg.jp/documents/14715/44_53.pdf

讃岐の志度街道にあった馬宿村

志度街道 (しどかいどう)

香川県:高松市志度街道

高松藩五街道の一。東下ひがししも道・東讃浜とうさんはま街道、また単に浜街道ともいう。「全讃史」に「東下道 東浜、志度、鴨部、西村、引田。右府城より阿州に至る駅道なり」とある。

高松城南大手の常磐ときわ橋を起点に片原かたはら町・通とおり町・塩屋しおや町を抜け、今いま橋を渡って東へ海岸沿いに東浜ひがしはま村松島まつしま・木太きた村・古高松ふるたかまつ村を経て寒川さんがわ郡志度しど(現大川郡志度町)に至る。

寛永国絵図には、志度からさらに天野あまの峠(現志度町)を越え、鴨部中筋かべなかすじ村・鴨部東山ひがしやま村(現同上)を経て寒川郡津田つだ村(現大川郡津田町)へ入り、馬篠うましの峠を越えて大内おおち郡町田まちだ村(現同郡大内町)で中筋大道に合する小道、大内郡西にし村・三本松さんぼんまつ村(現同上)、引田ひけた村・馬宿うまやど村(現同郡引田町)を通って坂元さかもとから阿波に至る大道が描かれており、東下道はほぼこれにあたる。

・志度街道

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馬宿村とは?

馬宿村(うまやどむら)とは? コトバンク日本歴史地名大系

高松藩の海防施設と馬宿

PDF資料

https://www.pref.kagawa.lg.jp/documents/7796/kaiboushisetsu.pdf


私が、祖父母から聞いた話しでは、森家の先祖は森権平の一族だった、元は馬宿に住んでいた、普請の仕事で橋や道路を作ったり、金刀比羅宮の階段を築く際に参加した、小磯に高松藩の殿様が来たら接待していた。

この話しから、森家は、元は、馬宿に住んでいたが、馬宿から馬篠の未開の山を開拓して移り住んだ。普請の仕事をしながら国境警備の任務も担っていた、また、小磯にも大筒台場があった為、高松藩主一行が見回りに来たら接待をしていた。人里離れた山奥に住みながら何か特殊な任務を担っていたようである。

森家は高松藩東部の台場や番所建築にも関わっていたと考えられる。

幕末の1864年に森喜平と八田家の長女の結婚の背景には、高松藩がその結婚を通して何らかの情報入手を目論んだ

幕末期の瀬戸内海への外国船の来航と海防が藩の最重要事項であったという状況を踏まえると、高松藩の森喜平が徳島藩の碁浦御番所の八田キヨとの婚姻の背景には高松藩の思惑が見える。

以下、当時の状況と合わせて考察する。

幕末の情勢と海防の重要性:

  • 外国船の来航: 19世紀に入り、特にペリー来航以降、外国船が日本近海に頻繁に現れるようになり、日本の沿岸各地で異国船の目撃情報が相次いだ。これは、日本にとって大きな脅威であり、特に海に面した藩にとっては、海防は最重要課題の一つとなった。
  • 高松藩の状況: 高松藩も瀬戸内海に面しており、外国船の来航に備える必要があった。そのため、沿岸警備の強化や情報収集に力を入れていた。
  • 藩境の重要性: 碁浦番所は高松藩と徳島藩の藩境に位置しており、他藩の動静を探る上でも重要な拠点だった。また、諸国の外国船の情報も藩境を通じて伝わってきた。

森喜平の婚姻の意味:

  • 情報入手の可能性: 森喜平が碁浦番所の役人兼庄屋である八田家の長女と結婚したことは、高松藩にとって、番所を通じて徳島藩の情報を入手するルートを確保したことを意味する。特に、外国船に関する情報は、藩にとって非常に重要な情報であり、この婚姻を通じて迅速かつ正確な情報を入手することが期待されたかもしれない。
  • 海防体制の強化: 森喜平の婚姻によって、番所と高松藩東讃の連携がより緊密になり、高松藩の海防体制が強化された可能性も考えられる。
  • 藩の意向: 江戸時代の婚姻は、家同士の繋がりを強めるための政治的な意味合いを持つことが多くあった。高松藩が森喜平の婚姻を後押しした、あるいは何らかの形で関与した可能性は否定できない。当時、武士が他藩の者と結婚する際は藩の許可を必要とした。

日下家と八田家の関係:

森家一族の森権平は、引田の戦いで討死した後、叔母が引田の日下家に嫁いでいた為、阿波水軍の森家は日下家に森権平の供養を頼んだという背景がある。松平家藩主が引田、馬宿辺りに鷹狩りなどで来る際は、日下家に泊まっていた。当時は、森家は日下家と関係があり、大庄屋だった日下家と八田家の間にも何らかの関係があった場合、森家と八田家の間にも繋がりがあったことになる。このような繋がりがあれば、高松藩が森喜平を通じて八田家に接触し、情報入手を目論むことはより自然な流れと言える。

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幕末の情勢、海防の重要性、碁浦番所の位置、そして森家と日下家(引田村と馬宿村の庄屋だった)の関係などを考慮すると、高松藩が森喜平と八田家の結婚を通して何らかの情報入手を目論んだ可能性は十分にある。特に、外国船に関する情報は、藩にとって喫緊の課題であり、藩境に位置する番所を通じて情報を得ようとする動機は十分にあったと考えられる。

隠密の可能性を裏付ける要素

1. 婚姻による情報収集網の確立

徳島藩の八田家との婚姻は、情報収集の面から見て非常に有効な手段である。通常では許されない婚姻が両藩の許可を得て実現したということは、この婚姻が高松藩にとっての情報収集、徳島藩にとっては情報操作や牽制といった戦略的目的があったからだと考えられる。森家は、姻戚関係を利用して八田家から徳島藩の機密情報を入手し、高松藩へ報告する役割を担っていた可能性がある。

2. ロケーションと生活様式

森家の人里離れた「山奥」という居住地は、人目につかずに活動しやすく、情報伝達や秘密の会合を行う上でも有利だった。また、表向きは普請方や半農半士という姿で生活することは、隠密活動を隠蔽するための優れたカモフラージュになる。

3. 特殊な信頼と待遇

藩主がわざわざ山奥の森家まで足を運び接待を受けたことや、八田家との婚姻を許可したことは、森家が高松藩にとって極めて重要な存在であったことを示す。この「重要性」が、徳島藩の動向を探る隠密としての役割であったと解釈することは、非常に合理的である。

隠密活動の内実

もし森家が隠密だったとすれば、森家は以下のような活動をしていた可能性がある。

  • 情報収集: 徳島藩の軍事力、経済状況、人事、他藩との関係など、様々な情報を密かに収集していた。
  • 動静監視: 徳島藩の重要人物の動向や、藩境付近の不審な動きなどを監視していた。
  • 潜入・工作: 八田家との関係を通じて、徳島藩の内部に入り込み、さらに深い情報を探ったり、時には高松藩にとって有利になるような工作を行ったりした可能性も考えられる。

森家は、高松藩にとって徳島藩との関係における「目と耳」のような存在であり、その特殊な役割を果たすために、表向きの身分とは異なる「隠密」としての活動を密かに行っていた可能性は十分にあり得る。

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以上

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