【高松藩 森家】江戸時代、高松藩の東端に生きた郷士 森家に関する一考察: 瀬戸内寂聴、松浦武四郎、永塩因幡守氏継、阿波水軍 森氏との接点

高松藩 森家の歴史と特徴

森家は、阿波水軍にルーツを持つ武士の家系であり、戦国時代末期に讃岐の地に定着し、地域社会に深く根差していきました。

1. 阿波水軍をルーツとする武士の家系

  • 出自: 森家の先祖は、戦国時代の「阿波水軍 森氏」出身の森権平久村の一派であると伝えられています。

・森権平久村の木像

  • 家紋: 阿波水軍の家紋である「木瓜」、その支家の高松藩森家の家紋は「丸に木瓜」です。

  • 武具の伝承: 戦中の金属類供出令の発令があるまで甲冑、刀、槍が大切に保管されていました。

2. 讃岐への定着と柏谷の開拓

  • 移住: 1583年、引田の戦いで阿波水軍森家出身の森権平久村の没後、その一派が縁者を頼り、讃岐に留まることに決め、現在の馬宿に住みました。

  • 未開地の開拓: 讃岐の未開の山間部を開拓し、柏谷と名付け、一帯の土地と山林を所有しました。

  • ため池の築造: 柏谷の開拓において、農業用水確保のためにため池(柏谷上池)を築造しました。この土地開発は、当時の高度な土木技術と資金を要する開拓事業であり、その技術力の高さ、そして地域への貢献を示しています。

・柏谷

・江戸時代、森家が築いた柏谷上池

3. 高松藩における公的な役割と士分

  • 郷士としての地位: 開拓や水利整備の功績、旧来の武士身分が認められ、高松藩で「郷士」としての士分を得ました。郷士は、武士身分でありながら農村部に居住し、地域の行政や治安維持に携わるなど、その土地に深く根差した存在でした。

  • 普請方: 森義右エ門は高松藩で「普請方」を務め、橋や道路の建設、金刀比羅宮の石段造営といった藩の重要な公共事業に参加しました。これは、森家が藩のインフラ整備に不可欠な技術力と組織力を持っていたことを示します。

  • 藩主への奉仕と負担: 高松藩主一行が領内巡視で、柏谷近くの小磯の浜に来る際は、そのお膳立てを命じられるなど、公的な負担も負っていました。「経済的に大変だった」と伝わっており、その負担の重さを物語っていますが、同時に藩からの信頼を示すものでもありました。

  • 藩を跨いでの婚姻関係: 森義右エ門の長男 森権平は徳島藩の禄持ちの碁浦番所役人を200年以上務めた八田家と婚姻関係を結びました。この碁浦番所には、伊能忠敬や松浦武四郎、久米通賢らも訪れました。八田家は天正年間に阿波と讃岐の国境を決める際に重要な役割を果たしました。

🔸戸籍謄本

・八田キヨは、徳島藩で碁浦番所の役人を200年以上務めた禄持ちの八田家の長女。

・森トヨは、明治2年に黒羽の旧家 三谷家へ嫁いだ。瀬戸内寂聴さんは三谷家の分家である三谷甚六の末裔にあたる。

・永峰チヨは、黒羽の永塩因幡守氏継の末裔。永峰家は黒羽で庄屋や与頭を務めていた。

4. 近代における有力旧家との婚姻関係

  • 多角的な婚姻: 明治時代初めには、永塩因幡守氏継の末裔である永峰家、そして十河系三谷氏の三谷家といった、地域の旧家と婚姻関係を結びました。

  • 永峰家との二重婚姻: 永峰家出身の永峰チヨさんの娘が、再び黒羽の永峰家に嫁ぐなど、特定の家系との関係性を世代を超えて維持・強化し、森家の地位と基盤をより強固にしていきました。

  • 永峰家の背景: 永峰家は戦国時代に帰農した武士であり、江戸時代には庄屋も務めた有力な家系でした。

  • 三谷家と瀬戸内寂聴: 三谷家は十河氏の血筋を引く旧家であり、森家との婚姻を通じて、瀬戸内寂聴さんを輩出した三谷家と親戚関係となりました。

5. 近代における森家

  • 森トメノの証言: 明治生まれの森トメノは、祖父・森喜平が武士でしつけが厳しかったと神戸新聞のインタビューで証言しており、森家の武士としての気風が受け継がれていたことがうかがえます。

  • 神戸での活躍: 森トメノさんの夫は警察官であり、森トメノさん自身も旧・神戸オリエンタルホテルで英語を使って仕事をしていたなど、近代における森家が神戸という国際都市で活躍していた様子がうかがえます。


森家は、阿波水軍という武士のルーツを持ちながら、讃岐の地で開拓と水利整備を行い、藩の普請方としての役職を担っていました。さらに、地域の有力な旧家との婚姻を重ねることで、その基盤を盤石にし、江戸から明治に移る変革期においても社会に適応しようとしました。

森家が郷士だった背景

高松藩の森家は、一般的な「郷士」が持つ特徴と合致しており、その身分は郷士であったと考えられる理由

高松藩 森家に関する情報が示す郷士の特徴を再確認します。

在郷性と半農半武の生活:

柏谷という未開地を開拓し、一帯の土地と山林を所有。

柏谷を開拓、柏谷上池を築造し、藩からの俸禄に頼らず、自分たちの土地からの収益を主な経済基盤としていた。

高松藩の城下町ではなく、この開拓した土地に根ざして生活していた。

武士身分の維持と特権:

阿波水軍をルーツとする武士の家系であること。

家紋が「丸に木瓜」で武家としての出自を示す。

戦中まで甲冑、刀、槍といった武具を大切に保管していた。

明治生まれの森トメノが「祖父は武士でしつけが厳しかった」と神戸新聞のインタビュー記事で証言している。

苗字帯刀が許されていた。

藩への公的な役割と貢献:

高松藩で、普請方を務め、橋や道路の建設、金刀比羅宮の石段造営といった重要な公共事業に参加。

藩主一行が領内巡視する際のお膳立てを担うなど、公的な負担を負っていた。

これらの貢献が、藩から郷士身分を維持される理由となっていた。

発生経緯(取立郷士的な側面):

新田開発(柏谷の開拓とため池築造)という功績によって、藩にその能力と貢献を認められ、士分(郷士)に取り立てられたと考えられる。

結論として、高松藩の森家は、阿波水軍 森家の一族として武士としての出自を持ちながら、戦国時代以降、讃岐の土地に深く根差し、藩の公務にも貢献した、典型的な「郷士」の姿を体現していたと言えるでしょう。


高松藩 森家の歴史:阿波水軍から讃岐の郷士へ

高松藩の森家は、単なる武士の家系にとどまらず、阿波水軍という独特のルーツを持ちながら、讃岐の地で開拓者として地域に貢献し、やがて高松藩の郷士として重要な役割を担いました。その歴史は、戦乱の時代から近代にかけて、社会の変遷に柔軟に適応し、確固たる地位を築いていった森家の姿を鮮やかに示しています。

1. 阿波水軍をルーツとする武士の家系

森家の祖先は、戦国時代に四国の要衝である阿波国(現在の徳島県)を拠点とした阿波水軍 森氏に連なり、森権平久村の一派でした。阿波水軍は、瀬戸内海の水上交通を掌握し、時には周辺勢力と連携しながら、戦国時代の動乱期に大きな影響力を持っていました。

森家の家紋である「丸に木瓜(もっこう)」は、阿波水軍の家紋である「木瓜」を源流としており、彼らが武士としての誇りと出自を大切にしてきた証です。

また、戦中に金属類供出令が出るまで、甲冑、刀、槍といった武具が代々大切に保管されていたという伝承は、森家が武士としての精神と伝統を強く受け継いでいたことを物語っています。

2. 讃岐への定着と柏谷の開拓

転機は1583年の讃岐の東端で起こった引田の戦いでした。この戦いで土佐の長宗我部元親軍と戦った阿波水軍森家出身の森権平久村が没した後、その一派は、その地の縁者を頼って讃岐国(現在の香川県)に留まることを決意します。彼らがまず居を構えたのは現在の馬宿(うまやど)地区でした。

その後、森家は讃岐の未開の山間部に目を向け、土地開拓に着手します。この地は彼らによって「柏谷(かしわだに)」と名付けられ、一帯の土地と山林が彼らの所有となりました。開拓の過程で、彼らは農業用水を確保するためにため池(柏谷上池)を築造しています。当時の土木技術と資金を要するこの事業は、森家が高い技術力と経済力を持っていたこと、そして地域社会の発展に深く貢献したことを示しています。

3. 高松藩における公的な役割と士分:郷士としての確立

柏谷の開拓の功績、そして彼らの旧来からの武士身分が認められ、森家は高松藩において「郷士(ごうし)」としての士分を得ました。郷士とは、武士の身分を持ちながら農村部に居住し、自らの所領からの収入を主な経済基盤とする、いわば「半農半武」の性格を持つ存在でした。彼らは地域の行政や治安維持に携わるなど、その土地に深く根差した存在として、藩と地域を結ぶ重要な役割を担っていました。

森家からは、特に森義右エ門(もり ぎえもん)が高松藩の「普請方(ふしんかた)」を務めています。普請方は、藩内の橋や道路の建設、さらには金刀比羅宮の石段造営といった重要な公共事業を指揮・監督する役職であり、森家が高度な技術力と組織運営能力を持っていたことを示します。

また、高松藩主が領内を巡視し、柏谷近くの小磯の浜に来る際には、森家がお膳立てを命じられるなど、藩からの信頼とともに、経済的な負担も負っていました。これは「経済的に大変だった」と伝えられていますが、同時に彼らが藩にとって不可欠な存在であったことを物語っています。

さらに、森義右エ門の長男である森喜平は、徳島藩で碁浦番所役人を200年以上務めた禄持ちの八田家(はったけ)と婚姻関係を結んでいます。この八田家は、伊能忠敬や松浦武四郎、久米通賢といった著名人も訪れた歴史的な場所であり、また天正年間に阿波と讃岐の国境を決める際に重要な役割を果たしました。藩をまたいだこのような婚姻は、元々、阿波水軍 森氏の一族だった森家が両藩にまたがる広い人脈と影響力を持っていたことを示唆しています。八田家の八田キヨが高松藩森家へ嫁いだという戸籍謄本の記載は、この婚姻関係を裏付けるものです。

4. 近代における有力旧家との婚姻関係

明治維新を迎え、社会が大きく変革する中で、森家は地域の有力な旧家との婚姻を重ねることで、その地位と基盤を強固なものにしていきました。特に、永塩因幡守氏継(ながしお いなばのかみ うじつぐ)の末裔である永峰家(ながみねけ)や、十河氏(そごうし)の血筋を引く三谷家(みたにけ)との婚姻が注目されます。

永峰家は戦国時代に帰農した武士の家系で、江戸時代には庄屋や与頭も務めた有力な家柄でした。森喜平の長男 森虎太郎は永峰家出身の永峰チヨと婚姻し、さらにその娘が再び永峰家に嫁ぐという二重婚姻を結び、両家の関係をより強固なものにしました。永峰チヨが黒羽の永塩因幡守氏継の末裔である永峰家の血を引くことは、森家が地域の名門との結びつきを重視していたことを示しています。

また、森喜平の娘 森トヨが明治2年に三谷家へ嫁いだことにより、森家は三谷家と親戚関係となりました。この三谷家からは、現代において著名な作家であった瀬戸内寂聴さんが輩出されており、森家と日本の近代文化史との間にも間接的な繋がりが生まれたと言えます。

5. 近代における森家の適応

明治時代に入っても、森家は武士としての気風を色濃く残していました。森虎太郎と永峰チヨの娘で明治生まれの森トメノ( は、神戸新聞のインタビューで祖父・森喜平が武士であり、しつけが厳しかったと証言しており、森家の家風が近代まで受け継がれていたことがうかがえます。

森トメノの夫が警察官を務め、彼女自身も旧・神戸オリエンタルホテルで英語を使って仕事をしていたという事実は、森家の一員が神戸という国際都市で近代的な職業に就き、社会の変化に積極的に適応していった様子を示しています。これは、森家が単に伝統を守るだけでなく、新しい時代においても活躍の場を見出していく柔軟な姿勢を持っていたことを意味します。

高松藩における森家が「郷士」であった背景

森家が郷士であったとされる理由は、彼らの生き方が当時の郷士に典型的な特徴と多く合致するからです。

  • 在郷性と半農半武の生活: 森家は高松藩の城下町ではなく、自ら開拓した柏谷に居住し、ため池の築造によって農業基盤を確立していました。藩からの俸禄に頼らず、自分たちの土地からの収益を主な経済基盤としていた点は、典型的な在郷武士(郷士)の姿です。
  • 武士身分の維持と特権: 阿波水軍をルーツとする武士の家系であること、家紋「丸に木瓜」の使用、そして戦中まで武具を大切に保管していたという事実は、彼らが武士としての出自と誇りを持ち続けていたことを示します。また、森トメノの証言も、武士としての気風が明治まで受け継がれていたことを裏付けます。苗字帯刀が許されていたことも郷士の特権でした。
  • 藩への公的な役割と貢献: 森義右エ門が普請方として藩の重要な公共事業に参加し、また藩主の巡視のお膳立てを担うなど、森家は藩の運営に不可欠な役割を果たしていました。これらの貢献は、藩から彼らの士分(郷士)を維持する理由となっていました。
  • 発生経緯(取立郷士的な側面): 未開地であった柏谷の開拓とため池築造という新田開発の功績は、藩に彼らの能力と地域への貢献を認めさせ、士分に取り立てられる、いわゆる「取立郷士」的な経緯があったと考えられます。

結論として、高松藩の森家は、阿波水軍の一族として武士の出自を持ちながらも、戦国時代以降、讃岐の土地に深く根差し、開拓と地域貢献を通じて高松藩の公務にも携わった、まさしく典型的な「郷士」の姿を体現した家系であったと言えるでしょう。彼らの歴史は、激動の時代をたくましく生き抜き、地域社会と深く結びつきながら発展していった旧家の足跡を示しています。

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