こんにちは。トリリンガル讃岐PRオフィサーの森啓成(モリヨシナリ)です。
今回は讃岐の地に生きた私の先祖の物語です。阿波水軍・瀬戸内寂聴・笠置シヅ子・昭和天皇・北朝鮮との意外な接点が浮かび上がってきます。
是非、最後までお付き合いください。
【記事概要】
🔸第一章:戦国を生き抜いた阿波水軍の系譜と讃岐への転身
概要: 森家のルーツである徳島の「阿波水軍 森氏」が、豊臣秀吉の四国征伐における「引田の戦い」で奮戦した歴史。特に、若くして散った森権平久村の悲劇と、その一族が讃岐へ移り住み、高松藩の郷士として新たな道を歩み始めた経緯。
・森権平久村、森村吉、森村重、仙石秀久、長宗我部元親、日下家
🔸第二章:森家を見守る由緒ある菩提寺と歴史上の要人たち
概要: 森家の菩提寺である香川県東かがわ市の勝覚寺の由緒と、森家との深い繋がり。特に、幕末から明治にかけて活躍し、宗派の独立に貢献した勝覚寺二十世住職、赤沢融海法師の功績に焦点を当て、その影響力が当時の政界要人にも及んだ史実。
・赤沢信濃守宗伝、赤沢融海法師、三条実美公
🔸第三章:高松藩の基盤を築いた普請方としての貢献
概要: 江戸時代、森家が高松藩で土木工事を担う「普請方」として、地域のインフラ整備に尽力した歴史。金刀比羅宮の石段造営や「柏谷」の開拓。
・森義右エ門
🔸第四章:血縁が織りなす歴史の舞台:瀬戸内寂聴と碁浦番所
概要: 森家が婚姻を通じて、日本の歴史や文化に名を残す様々な人物と繋がっていく様子を紐解く。特に、高祖母の実家「碁浦番所」に伊能忠敬、松浦武四郎らが訪れたこと、そして作家・瀬戸内寂聴さんや歌手・笠置シヅ子さんとの縁。大正時代から英語を使って旧神戸オリエンタルホテルに勤務した明治生まれの大伯母のエピソード。
・森喜平、八田キヨ、伊能忠敬、久米通賢、松浦武四郎、森虎太郎、永峰チヨ、永塩因幡守氏継、森トヨ、三谷磯八、瀬戸内寂聴、森トメノ、笠置シヅ子
🔸第五章:激動の昭和を生き抜き、昭和天皇へ至高の料理を献上した父
概要: 父が祖母のお腹の中にいるときに日中戦争で戦没した祖父。子供の頃に母も亡くし、10代で単身、香川から神戸へ渡りホテルで皿洗いを始めた父。西洋料理人の道を志し、日々の鉄拳制裁の中、旧神戸オリエンタルホテルで腕を磨いた半生。特に、厳戒態勢の中で昭和天皇へ料理を献上した栄誉を成し遂げた壮絶な体験。また、母の北朝鮮からの壮絶な引き揚げ体験。
・昭和天皇、伊藤孝二、石坂勇、石原裕次郎、安部正夫、安部譲二
🔸エピローグ:繋がれし生命のバトン
概要: 戸籍謄本をきっかけにルーツを探る旅に出たこと、そしてその旅を通して、先祖たちの苦難と栄光、そして途方もない生命の強さが現代の自分に繋がっていることを深く実感。自身の活動を通して、この物語が未来へ語り継がれることへの願い。
🔸昭和天皇への料理献上の難しさ/昭和天皇と皇太子(現在の上皇)の「厳格さ」の違い/旧・神戸オリエンタルホテル歴代料理長
概要: このセクションでは、本編で触れられた昭和天皇への料理献上の背景にある、極めて厳格な人選、衛生管理、心理的重圧について詳細に解説。また、昭和天皇と当時の皇太子(現在の上皇)への対応の厳格さの違いを比較し、旧・神戸オリエンタルホテルが果たした日本の西洋料理史における重要な役割と、歴代の伝説的な料理長たちを紹介。
・昭和天皇、皇太子(現在の上皇)、黒沢為吉、その他、旧神戸オリエンタルホテル歴代料理長(羽谷寅之助、米沢源兵衛、鈴木卯三郎、鈴本敏雄、杉本甚之助、内海藤太郎、木村健蔵、岡山広一、田上舜三など)、神戸オリエンタルホテルに宿泊した著名人(孫文、川島芳子、アインシュタイン、ヘレン・ケラー、マリリン・モンロー、ジョー・ディマジオなど)

【ファミリーヒストリー】昭和天皇へ料理を献上した父の体験談、瀬戸内寂聴との知られざる絆、そして戦国の阿波水軍が紡いだ壮大な血脈の物語
長年、海外での仕事に没頭する中で、自身のルーツを深く知る機会はありませんでした。しかし数年前、身内の死をきっかけに手にした戸籍謄本が、私の人生を大きく動かします。
事務的な紙束のはずが、一枚、また一枚と紐解くごとに、私の想像を遥かに超える壮大な「血脈の迷宮」がその姿を現したのです。それは、戦国の鬨の声、江戸の静謐、幕末の胎動、そして昭和の激震――。歴史の大きな渦の中で、名もなき先祖たちが確かに息づき、時には歴史上の人物と交差しながら、奇跡のように現代へと繋がれてきた一本の線でした。
この旅は、私の血の奥底に眠っていた数奇な宿命を呼び覚ます、魂の旅へと変わっていったのです。
現在もルーツ探しの旅は進行中ですが、2025年6月時点で判明している事実を、ここに整理し、皆さまにお届けします。

第一章:戦国を生き抜いた阿波水軍の系譜と讃岐への転身
私の姓は「森」。その根源を辿ると、徳島を拠点に瀬戸内海を縦横無尽に駆け巡った「海の武士」、阿波水軍 森氏の系譜に行き着きます。彼らは風を読み、波を操り、時に戦国の荒波を乗り越える海の覇者でした。
私の遠い祖先、森権平久村一族の影が鮮明に浮かび上がります。時は1583年、豊臣秀吉の四国征伐が迫る不穏な時代。「引田の戦い」で長宗我部元親の大軍と激突する中、権平久村はわずか18歳という若さで命を散らしました。
その短くも鮮烈な生涯を刻む墓標は、現在地元の香川県東かがわ市伊座にひっそりと佇み、彼の魂は引田の日下家の位牌に静かに宿っています。

森権平久村の父である森村吉は、主君仙石秀久と運命を共にし、引田の戦い後も、戦の道に進み様々な困難を乗り越えて最終的に信濃へ移り7000石を有する武将となりました。長男森村重も戦の道に進み、徳島に残って海上方として活躍しました。そして次男である権平久村の一派は、悲嘆に暮れながらも彼の亡き地である讃岐に留まることを決意しました。
縁者が嫁いでいた讃岐引田の有力者である日下家を頼り、馬宿に住み、やがて郷士として高松藩に仕える家系となりました。
阿波水軍森家が掲げた家紋「木瓜(もっこう)」は、支家の高松藩森家の家紋「丸に木瓜」と形を変え、しかし確かにその血脈が受け継がれた揺るぎない証として、静かに輝いています。
◆阿波水軍森家の家紋と高松藩森家の家紋: 高松藩森家の墓石や屋根瓦などに丸に木瓜の家紋が見られる。

◆阿波水軍森家の歴史書 木瓜の香り

◆森権平久村の家系図


◆森権平久村
父 森村吉。引田の戦い後も、仙石秀久と運命を共にし、戦の道を突き進み、様々な困難を乗り越えて最終的に信濃へ移り7000石を有する武将となる。
母 阿波赤沢家一族 赤沢伊賀守の娘。同じく阿波赤沢家一族の板西城主 赤沢信濃守宗伝が長宗我部元親軍と戦った中富川の戦いで討ち死にした後、その一子が讃岐へ逃れ父の菩提を弔う為に開基した勝覚寺が高松藩森家の菩提寺となった。
兄 森村重は徳島椿泊で初代 森甚五兵衛となり、戦の道を歩んだ。甚五兵衛家は、3000石を有す海上方として260年間徳島藩に仕えた。
祖母 撫養城主 小笠原摂津守の娘
叔母 讃岐の服部家へ嫁いだ。
叔母(森権平久村の父 森村吉の姉)讃岐の四宮家に嫁いだが、後に夫が日下家の養子となる。日下家は江戸時代になり、馬宿村と引田村の庄屋、そして大内郡全体の大庄屋も務めた。森権平久村亡き後、悲嘆に暮れた一族の者が讃岐に留まることに決めた理由はこの日下家の存在があった。森家は最初、黒羽の近くの馬宿村という場所に住んだ。この馬宿村には久米通賢の一族も住んでいた。
◆高松藩 森家



・高松藩森家の初代は森権平久村の一族出身で、引田の戦い後、東かがわ市の黒羽(くれは)村の隣りの馬宿村に住んでいた。後に、馬篠の柏の木が生い茂る未開の山を開拓し、柏谷(かしわだに)と名付け移り住んだ。そして、柏谷一帯の山林と土地を所有した。高松藩の郷士として、橋や道路を作る普請の仕事に従事し、金刀比羅宮の石段の造営にも参加した。近くの小磯の浜に松平の殿様が来た際は一行にお膳立てをせねばならず経済的負担になった。戦前まで戦国時代の甲冑と刀、槍を大切に保管していたが、戦況が悪化した1943年の金属類回収令により国に供出した。戦後に刀の鍔(つば)のみが残り飾ってあった。
・高祖父の父: 森義右エ門。高松藩普請方。1866年(慶応2年)、家督を長男 森喜平に譲り隠居。先祖代々の菩提寺は森権平久村の母方の出身家の阿波赤沢家一族の板西城主 赤沢信濃守宗伝の一子が讃岐に逃れて開基した勝覚寺。
・高祖父母: 高松藩普請方 森喜平。1846年生まれ、1864年、18歳で徳島藩の八田キヨと結婚。1866年、20歳のときに家督を譲り受けた。八田キヨは、徳島藩 碁浦番所役人兼庄屋を200年以上務めた禄持ちの八田家当主 八田孫平の長女、阿波浄瑠璃の三味線が上手かった。この碁浦番所には伊能忠敬、久米通賢、松浦武四郎らも訪れたことが記録に残っている。八田家は天正年間に阿波と讃岐の境界線を決める際に重要な役割を担った。高松藩と徳島藩の藩を跨いだ結婚の背景には、八田家と阿波水軍森家は既知の間柄だったことがある。阿波水軍森家の土佐泊城と碁浦は地理的に近かった。
・高祖父母の娘: 森トヨは東かがわ市黒羽の十河系三谷氏の黒羽三谷宗家の三谷磯八へ嫁いだ。瀬戸内寂聴さんは黒羽三谷宗家の分家(屋号: 甚六)の末裔にあたる。大叔母は瀬戸内寂聴さんの家の法事の手伝いに行き参列していた。寂聴さんのことは本名で「晴美さん」と読んでいた。
・曽祖父母: 森虎太郎。東かがわ市黒羽の旧家 永峰家当主の長女 永峰チヨ (細川京兆家に仕えた黒羽城主 永塩因幡守氏継、長塩備前守又四郎元親の末裔)。森虎太郎と永峰チヨの娘は黒羽の永峰家に嫁いだ。
・森虎太郎、永峰チヨの息子 森静雄(私の祖父)は、1937年、日中戦争の最中に27歳の若さで戦没した。長男である私の父が生まれてくるのを心待ちにしていたが息子の顔を見ることなく亡くなった。
◆残された刀の鍔(つば)に込められた意義 : 武士としてのアイデンティティの保持と継承
森家は、森権平久村の死後、讃岐に定着し、郷士として武士の系譜を繋いできました。甲冑や刀身は供出してしまっても、ツバは刀の「顔」とも言える部分であり、家紋が施され武士の美意識が凝縮されています。これを残すことで、「我々は武士の家系である」という誇りを、子々孫々に伝えようとしたのでしょう。
特に、戦国時代からの武具は、阿波水軍の一員であった森権平久村の時代から続く、家の歴史そのものを象徴していました。ツバは、その歴史を視覚的に、そして精神的に繋ぎ止める役割を果たしました。
先祖への敬意と追悼の念:
森権平久村が18歳で討ち死にしたという悲劇的な歴史を持つ森家にとって、武具は単なる道具ではなく、先祖の魂が宿るものと捉えられていたでしょう。刀身が失われてもツバを残すことは、先祖への深い敬意と、その武勲を忘れないという追悼の念の表れです。
特に、戦国時代からの武具は、家の苦難と栄光の歴史を物語る「生き証人」のような存在でした。
家族の絆と物語の伝承:
ツバは、家族が集う場所に飾られ、それを見るたびに、森権平久村の物語や、縁者を頼り、馬宿に住み、馬篠を開拓し、高松藩森家として確立していった苦難の歴史が語り継がれました。
◆引田の戦い後、森家が住んだ馬宿。曽祖母の永峰チヨの先祖 永塩因幡守氏継が自己の最期を悟り1467年8月に創建した黒羽神社、氏継は、細川方として応仁の乱に参戦し、1467年10月3日に京都御所北側の相国寺にて安富元綱らと共に壮絶な最期を遂げた。氏継は黒羽城に居城し、四宮氏が居城していた引田城の動向をを監視していた。讃州井筒屋市の南側に日下家の邸宅が現存する。

◆馬篠: 未開の山を開拓して柏谷と名付け馬宿から移り住んだ。小磯: 高松藩主が小磯の浜に来た際は一行のお膳立てをせねばならず経済的負担になった。小砂: 赤沢信濃守宗伝の一子は中富川の戦い後、命からがら阿波から讃岐に逃れて来て父の菩提を弔う為に小砂(こざれ)で勝覚寺を開基し、後に東かがわ市三本松へ移った。

◆高松藩 日下家

・日下家の家系図: 森権平久村の叔母は四宮家に嫁ぎ、その後、夫婦で日下家の養子となった。日下家は戦国武将 寒川氏の末裔。江戸時代、引田村、馬宿村の庄屋、そして大内郡全体の大庄屋を務めた。

・高松藩の分限帳


※高松藩森家の初代は森権平久村の一族出身で、引田の戦い後、森権平久村の叔母が嫁いでいた引田の日下家を頼り東かがわ市の馬宿村に住んだ。後に、馬篠の未開の山を開拓し、柏谷(かしわだに)と名付け移り住んだ。そして、柏谷一帯の山林と土地を所有した。高松藩の郷士として、橋や道路を作る普請の仕事に従事し、金刀比羅宮の石段の造営にも参加した。近くの小磯の浜に松平の殿様が来た際は一行にお膳立てをせねばならず経済的負担になった。
※高松藩森家の代々の菩提寺は、森権平久村の母の出身家である阿波赤沢家一族の赤沢信濃守宗伝の一子が讃岐の小砂(こざれ)に開基した勝覚寺
※江戸時代、高松藩森家は徳島藩の碁浦番所役人兼庄屋を200年以上務めた禄持ちの八田家と婚姻関係を結んだ。この藩を跨いだ結婚には、八田家と阿波水軍森家が既知の関係だったと言う背景がある。八田家は碁浦番所に地理的に近かった土佐泊城(鳴門)を居城とした阿波水軍森家とは既知の間柄だった。徳島藩の阿波水軍森家は後に阿南市の椿泊へ移った。
◆森権平久村の墓の場所: 香川県東かがわ市伊座

◆東かがわ市伊座にある森権平久村の墓

◆東かがわ市伊座と馬宿の位置。森権平久村亡き後、残された一族は悲嘆に暮れたが、森村吉の姉が嫁いでいた引田の日下家を頼って讃岐に留まることを決断し、馬宿に住んだ。いつ死ぬか分からぬ戦国時代、父の森村吉は、森家の存続を考え3拠点に分かれた。村吉と三男の森村明は仙石秀久と運命を共にし最終的に信濃へ、長男の森村重は徳島 椿泊で森甚五兵衛を名乗り、代々海上方として繁栄した。次男の森権平久村の一派は讃岐に留まり、東讃の郷士として生きた。馬宿から後に、馬篠へ移り、未開の山を開拓し柏谷と名付け一帯の山林と土地を所有した。その後、徳島藩碁浦番所役人を200年以上務めた八田家や黒羽の旧家 永峰家や十河氏系三谷家と婚姻関係を結んでいった。

◆碁浦番所 八田家の由緒

◆仙石秀久、森村吉が最終的に領地とした信濃 小諸

◆森村重 (森甚五兵衛)が居城とした松鶴城があった阿南市椿泊。阿波水軍森家は1856年に蜂須賀家政から3,000石を与えられ鳴門の土佐泊から移り住んだ。

第二章:森家を見守る由緒ある菩提寺と歴史上の要人たち
高松藩森家代々の魂を静かに見守り、導いてきた菩提寺は、香川県東かがわ市に佇む海暁閣 勝覚寺です。この寺院の創建は、森家と深く交錯する赤沢一族の歴史と切っても切り離せません。
勝覚寺を開いたのは、森権平久村の母方の出身家である阿波赤沢一族の板西城主、赤沢信濃守宗伝の一子。中富川の戦いで討ち死にした父の菩提を弔い、乱世を生き延びるため、阿波から讃岐の地へと命からがら逃れ、この寺を創建したのです。
この勝覚寺を特別なものにしているのは、幕末から明治の激動期に生きた二十世住職、赤沢融海法師(1833-1895)の存在です。彼は単なる地方の僧ではありませんでした。22歳という若さで法灯を継ぎ、浄土真宗の歴史において200年もの長きにわたる本願寺との確執の末、真宗興正派が独立するという宗派の命運を分ける大事業の中心を担った異才です。
政府の太政官から「小教正」の称号を得て天皇に拝謁を許され、当時の政界の要人、三条実美公とも深い親交を結んだことからも、その影響力の大きさがうかがえます。旧五摂家の一つ、鷹司家から寺紋を下賜されたという勝覚寺の由緒は、まさにこの赤沢融海法師の功績と、本山との揺るぎない絆によって裏打ちされています。
◆海暁閣 勝覚寺の由緒


・荘厳な境内はテレビドラマ「裸の大将」のロケ地に選ばれました。

第三章:高松藩の基盤を築いた普請方としての貢献
江戸時代、森家は高松藩において、普請(ふしん)、すなわち土木工事に携わる重要な役目を担っていました。
先祖たちは高松と大内郡間の道中、そして地域住民の生活を支える橋や道路を建設し、人々の暮らしを豊かにする地域のインフラ整備に尽力したのです。それは藩の発展の礎を築く、地味ながらも極めて重要な仕事でした。信仰の象徴である金刀比羅宮の石段造営にもその技術と情熱を捧げたと伝えられています。石段を一段一段積み上げる彼らの手には、地域の発展と民の安寧への貢献という、静かなる誇りが宿っていたに違いありません。
東かがわ市に今も残る「柏谷(かしわだに)」という地名も、森家が柏の木が生い茂る未開の山を切り開き、新たな土地を開拓した功績に由来します。
戦前までは甲冑や刀、槍を所有していましたが、戦中の金属回収令で国に供出されました。しかし、戦後も刀のツバが額に飾られ、その歴史を静かに語り継いでいたのです。
◆柏谷: 馬宿から移り住み、未開の柏の木が生い茂る山を開拓し柏谷と名付けた。一帯の山林と土地を所有した。


第四章:血縁が織りなす歴史の舞台:瀬戸内寂聴と碁浦番所
私の家系図は、まるで絢爛たる織物のように、幾重にも重なる婚姻の糸で結ばれ、驚くべき人物たちとの繋がりを織りなしてきました。私のルーツを辿る旅は、しばしば予期せぬ邂逅を私にもたらします。
私の高祖父、森喜平は高松藩の普請方。彼の伴侶は、徳島藩で碁浦番所役人と庄屋を兼任した八田家の当主、八田孫平の長女、キヨでした。
200年以上にわたり徳島藩の要職を担った八田家は、天正13年(1585年)に阿波と讃岐の境を決める重要な役割も果たしています。
そして、260年間、徳島藩の海防を担った阿波水軍 森家とも地理的に近く(同じ鳴門の碁浦と土佐泊)古くから繋がりを持っていました。この森喜平と八田キヨの藩を越えた婚姻は、単なる縁結びではありません。それぞれの家が持つ歴史的背景と職務上の連携が、血縁という形で結実したのです。
この碁浦番所には、日本地図を完成させた伊能忠敬、坂出の塩田を開発した久米通賢、そして北海道の名付け親である探検家松浦武四郎といった江戸時代の知の巨匠たちが足跡を残しています。先祖たちが生きた時代が、いかに日本の近代化の胎動と重なっていたかを知り、深く感銘を受けました。
◆碁浦番所:高祖母の実家。伊能忠敬や久米通賢、松浦武四郎らも訪れた。

◆碁浦御番所 八田家文書

私の曽祖父、森虎太郎は、東かがわ市黒羽に名を残す黒羽城主、永塩因幡守氏継の末裔にあたる旧家、永峰家の長女チヨと結ばれました。応仁の乱で散った武将の血が、再び私の家系に流れ込んだ瞬間です。
◆永塩因幡守氏継が創建した黒羽神社

◆永峰家の家系図 引田町人物史)



◆曽祖母の先祖 永峰杢左衛門

そして、最も私を驚かせたのは、高祖父 森喜平の長女、森トヨと、東かがわ市黒羽の旧家である黒羽三谷宗家の三谷磯八の結婚です。この三谷家こそ、戦国大名十河氏(そごうし)の血筋を引く名門だったのです。神櫛王を祖とし、十河氏と共に讃岐東部を支配した有力な家系。そして、この黒羽三谷宗家の分家(屋号:甚六)の末裔に、日本文学史にその名を刻む作家、瀬戸内寂聴(三谷晴美)さんがいらっしゃいます。寂聴さんの先祖は江戸時代から代々、ここ黒羽で製糖業を営んでいました。私の大伯母(祖父の姉)にあたる森トメノは、瀬戸内家の法事に度々手伝いに行き、寂聴さんのことを本名で「晴美さん」と呼んでいました。
◆十河系三谷氏
戦国時代、讃岐で勢力を誇った十河一門の武将が戦に敗れ、黒羽に辿り着き、帰農した。瀬戸内寂聴さんの先祖はこの十河系三谷氏の黒羽三谷宗家の分家となる。
◆瀬戸内寂聴さんの先祖 三谷甚六
瀬戸内寂聴さんの家系は、黒羽で江戸時代から代々、製糖業を営み、財を築いていたが、祖父の三谷峰八さんが、ある事情から出奔され工場は人手に移った。三谷峰八さんは、旅一座の女座長と一緒に家を出られた為、残された妻と子供達は大変な苦労をされた。
後年、瀬戸内寂聴さんはご自身の自由奔放さは祖父譲りかもしれないと振り返っている。私の大叔母の森トメノは積善坊での三谷家の法事の手伝いに行き、参列していた為、晴美さんと交流があった。

◆黒羽三谷家の家系図



・黒羽の三谷家
瀬戸内寂聴さんの甚六家は黒羽の”三谷宗家の分家
瀬戸内寂聴さんの「場所」と言う自伝の中の記載
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黒羽の人々との間に共通の話題が見つからず、じっくり話し合ったこともなかった。 ところが今年、父の五十回忌の法事に出かけた時、思いがけない人が来ていた。積善坊での法要が終って、席を町の料亭の二階へ移した時であった。階段下のロビーの壁際に品の良い老婆がかぢょこんと腰を下ろしていた。
三谷甚六家の九代目 卓也の従兄弟にあたる分家の雅弘が、私を老人の前につれてゆき、 「母の美津江です。どうしても死ぬ前にお逢いしたいというので、足が立たないのですけれど、つれてきました。二階へは上れませんので、ここで失礼させて下さい」
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三谷雅弘さん:「いつか、ずいぶん前に読ん本ですから、あっているかどうか分かりませんけれど、川端康成が、ものを書く人には、たいてい没落した旧家の血が流れているって書いていたような気がします。それを読んだ時、うちの家から小説家が出たのもそれかなって家内と話しあいました。家内が本好きなんです」
瀬戸内寂聴:「私もそれ読んだことありますよ。でも三谷は没落はしていても旧家というほどでもないしね」
三谷雅弘さん:「そんなことないですよ。一応黒羽の三谷の総家ですよ。御存じですか? 久米通賢の邸のものは一切合財、今、屋島の四国村に収ってるんですよ」
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また、瀬戸内寂聴さんの「私の履歴書」の中に父の三谷豊吉さんが養子となった瀬戸内いと、について、久米通賢との関係が書かれてある。
「いとの夫 傳は、坂出の塩田を開いた久米通賢の次男で、瀬戸内家の女婿になった。傳がクリスチャンになり、いとがそれにならったらしい。」
瀬戸内寂聴さんの養祖母にあたる瀬戸内いとさんの夫は久米通賢の次男だと書かれてある。
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◆積善坊: 東かがわ市引田
積善坊には、瀬戸内寂聴さんの父母のお墓があります。
お墓には、十字架が彫られた下に、ヨハネ黙示録十四章十三節の「今より後主にありて死ぬる人は幸ひなり」という言葉があります。
この墓を建てた瀬戸内寂聴さんの父 三谷豊吉(後に瀬戸内家の養子となる)さんの大伯母にあたる瀬戸内イトが三谷家を訪れた際には、寂聴さんと姉に『聖書』を教え聴かし、食事の際には「アーメン」と唱えさせていました。

◆瀬戸内寂聴さんの母 コハルと1才の晴美(瀬戸内寂聴さん)、姉の艶(つや)(真ん中)、瀬戸内いと(左端)、いとの夫 傳は、坂出の塩田を開いた久米通賢の次男で、瀬戸内家の女婿になった。傳がクリスチャンになり、いとがそれにならった。

戦後の日本を歌で鼓舞し続けた「ブギの女王」笠置シヅ子さんも、香川県東かがわ市黒羽で製糖業を営む黒羽三谷家の出身でした。朝ドラ『ブギウギ』のモデルにもなった彼女が、この瀬戸内の地と深い縁を持っていたことに、驚きを禁じ得ません。止むに止まれぬ事情があり、生後間もなく大阪の亀井家(出身は東かがわ市引田)の養子となりましたが、そのルーツは確かにこの黒羽(くれは)の三谷家にあるのです。
三谷四郎兵衛→栄五郎(養子)→陳平→笠置シヅ子さん
現在は、三谷四郎兵衛家の分家である三谷製糖さんが讃岐和三盆の製造、販売を継承しています。三谷製糖の方は、亡父が経営するレストランに来てくださっていました。
三谷四郎兵衛家は、江戸時代から製糖業を営んでいました。恐らく黒羽村で組頭をしていて江戸時代の寛政頃に庄屋などどともに藩に製造の許可を申請していて、その写しが県の文化財となっています。
◆萬生寺: 東かがわ市引田。笠置シヅ子さんの養父母と弟のお墓があります。笠置さんが寄進した銅製の雨どいと寄進塔が今も残っています。
笠置さんは、1949年に、この萬生寺前にあった朝日座でコンサートを開催したことがあります。また、一人娘のヱイ子さんを連れて近くの安戸池で魚釣りをしたこともありました。


◆森家が引田の戦い後に住んだ馬宿。久米通賢の墓、三谷製糖がある。

私の大伯母 森トメノは、明治生まれの女性で、1925年(大正14年)から、国際都市・神戸の象徴ともいえる旧・神戸オリエンタルホテルで働き始めました。
当時としては稀有な英語を操り、激動の大正・昭和期をホテルの最前線で駆け抜けます。アインシュタイン、ヘレン・ケラー、マリリン・モンロー、川島芳子、そして昭和天皇――。世界中の名だたる著名人が宿泊するホテルで、彼女は、その時代の息吹を肌で感じていたのです。
当時の神戸新聞には、彼女のホテル勤務に関するインタビュー記事が残り、2.26事件発生時や戦中、戦後のホテルでの勤務について語られています。
◆昭和39年、神戸新聞の元論説委員の古山桂子さんからインタビューを受けた際の記事。記事内容は、武家のしつけ、阿波浄瑠璃の上手かった祖母(八田キヨ、阿波秦氏)、英語を使い旧神戸オリエンタルホテルで電話交換手のリーダー、警察官との結婚、2.26事件時の勤務、川島芳子の宿泊、神戸大空襲で自宅は焼失するも夫婦共に生き延びる、GHQ宿舎での勤務など。

◆川島芳子


第五章:激動の昭和を生き抜き、昭和天皇へ至高の料理を献上した父
しかし、私の家族の物語は、明るい歴史だけではありません。幾度となく、激動の時代に翻弄され、深い悲しみを乗り越えてきました。
私の祖父は、日中戦争の最中、1937年(昭和12年)10月20日、香川県の善通寺陸軍病院丸亀分院にて、27歳という若さで戦没しました。盧溝橋事件に端を発したこの戦争は、日本を泥沼の戦いへと引きずり込み、多くの若者の命を奪いました。その時、祖母のお腹には、私の父が宿っていました。私の父は、自分の父の顔を知らずして育ち、そして、子供の頃に母も失いました。

両親を亡くした父は、10代で香川の片田舎から、たった一人で神戸へと渡り、西洋料理人の道を志します。皿洗いから始まり、日々、鉄拳が飛び交う厳しい修行に耐え抜きました。その手は荒れ、体は疲弊しましたが、彼の心には決して折れない決意が宿っていたのです。戦中、戦後の日本国中が大変な時期に筆舌に尽くし難い辛酸を舐めて育った父は、鉄拳制裁ぐらいでは動じない強固な精神力を宿していました。
やがて、父は旧・神戸オリエンタルホテルで腕を振るうようになります。その料理は石原裕次郎をはじめ、財界の多くの人々を魅了しました。そして、父の料理人人生における最高峰とも言える大役が訪れます。

◆父がホテル内で撮影した石原裕次郎さんと北原美枝さん


◆厨房に立つ父

昭和30年代、日本が高度経済成長期にあった頃、神戸元町のオリエンタルホテルでは、昭和天皇が宿泊されるにあたり、御献上料理を作るプロジェクトチームが結成されました。ホテルに勤務する数百名の中から、父、森功を含むわずか5名が御献上料理担当のメンバーに選抜されたのです。選抜メンバーは、第12代総料理長である伊藤孝二氏、石坂勇氏(後に名誉総料理長)、梶谷氏、森功、梅田氏の5名でした。
選抜された父たちに課せられたのは、想像を絶する厳戒態勢でした。料理を作る1ヶ月前から、兵庫県庁職員立会のもと、健康診断、検便などの検査が始まり、そして戸籍などの身元調査が開始されました。当時、私の父の実家である東かがわ市にも、調査員が訪れました。
昭和天皇へ料理を作る1週間前になると、父たちはホテルから外へは出られず、ホテルに缶詰状態となり、万が一の体調不良も許されない厳格な状況下で、食中毒や感染症予防のため、抗生物質が予防的に投与されました。料理に使う調理道具類は、全て大きな鍋で沸騰させた熱湯の中に入れられ、絶えず煮沸消毒されました。
実際に天皇へ提供された料理は、神戸牛、明石の鯛など、最高級の食材数種類の一番美味な箇所が少量ずつ調理され献上されました。特に神戸牛は、元町で現在も営業を続ける創業明治6年の「森谷商店」から提供され、献上の前日には元町通りをパレードして練り歩いたそうです。


そして、天皇の晩餐終了後、各メンバーに対し、十六菊花紋の印がはいった御賜の煙草が配られました。これは、一料理人にとって最高の栄誉であり、父がどれほどの重責を担い、それを全うしたかを物語っています。
父は、作家の安部譲二さんの父、日本郵船から来た安部正夫氏がオリエンタルホテルの社長を務めていた時代に、13年間皆勤で表彰されています。表彰状が今も残ります。

父は当時、食材や調理器具の購買もしていた為、ジェームス山の安部正夫さんの自宅まで神戸牛を届けたこともありました。
そして、当時、日航のパーサーをしながら安藤組組員だった安部譲二さんにも、父はホテルで何度も遭遇していたそうです。
2018年、私が安部譲二さんに父の件でメールを送ると、彼は確かにご両親の住んでいた神戸市垂水区のジェームス山の自宅や、旧神戸オリエンタルホテルに何度も足を運んでいたとの温かい返信をくださいました。

旧神戸オリエンタルホテルは1870年(明治3年)に開業した日本最古級の西洋式ホテルで、谷崎潤一郎の『細雪』にも登場します。父は第12代総料理長伊藤孝二氏のもとで腕を磨き、伝統の味を守り続けました。
◆第12代総料理長伊藤孝二氏の判子が押してある昭和41年の月刊 専門料理

父はその後、香川県で本格的な洋食を広めたいという想いがあり、10代から働いた神戸オリエンタルホテルを退職し、東かがわ市でレストランを開業しました。
◆父が1972年(昭和47年)に香川県東かがわ市で開業したステーキレストラン オリエンタル

・インスタグラム: ステーキレストラン オリエンタル
https://www.instagram.com/p/DCA6VrtsPwQ/?q=#ステーキレストランオリエンタル
・Youtube動画
私の母の人生もまた、壮絶なものでした。戦前、香川県で瓦工場を経営していた実父の仕事の関係で、当時、日本の領土だった現在の北朝鮮の端川(タンセン)市へ渡りました。

しかし、日本の敗戦後、彼女は現地に残留を余儀なくされます。ソ連軍の進駐、厳しい食料不足、伝染病、そして異国での差別と暴力というリスクがつきまとう地獄のような日々の中、彼女は命からがら陸路を何日も歩き、船を乗り継いで、ようやく深夜、九州の門司港近くの浜辺に辿り着きました。北朝鮮からの引き揚げの話を聞くたびに、母の持つ途方もない生命力にただただ頭が下がります。
門司港駅から高松駅に帰る際、門司港駅でスリにあい汽車賃を盗まれてしまいましたが、戦後の混乱期にも関わらず、見知らぬ方がお金を貸してくれて高松駅まで帰ることができました。
1946年の春ごろに実家にたどり着いた時、実家にいた父の兄の奥さんが作ってくれた豆ご飯がこの上なく美味しかったそうです。今でも春になると”えんどう豆の豆ご飯”を食べるのは、あの時のことを思い出しているのかもしれません。
※ 韓国併合とは、1910年8月29日から1945年8月15日までの約35年間、大日本帝国が大韓帝国を直接統治した歴史的な出来事です。

エピローグ:繋がれし生命のバトン
現在、私はアメリカ、シンガポール、中国(上海、北京、深圳)での長きにわたる海外生活を経て、日本でビジネス英語講師、全国通訳案内士(英語・中国語)、そして海外ビジネスコンサルタントとして活動しています。トリリンガル讃岐PRオフィサーとして、ここ高松・香川の魅力を発信することにも力を入れています。
私のルーツを辿る旅は、単なる過去の確認ではありませんでした。それは、戦国の荒波を乗り越え、江戸の礎を築き、明治の変革を担い、昭和の激動を生き抜いた、名もなき、しかし確かに生きていた先祖たちの息吹を感じる旅です。彼らの苦難と栄光、そして何よりも途方もない生命の強さが、私という存在に繋がっていることを、深く、深く実感しています。
この物語は、個人の歴史が、いかに壮大な日本の歴史と絡み合い、そして現代の私たちにまで受け継がれているかを教えてくれます。私自身の人生もまた、この壮大な系譜の一部なのだと深く認識するに至りました。この物語が、幾多の困難を乗り越えてきた家族の証として、そして、未来を生きる私たちへのメッセージとして、多くの人々に語り継がれていくことを心から願っています。


昭和天皇への料理献上の難しさ
昭和天皇に料理を献上することは、極めて限られた、非常に特別な機会であり、非常に難しいことでした。
一般の料理人が天皇陛下の食事を担当することはまずなく、宮内庁の「大膳課(だいぜんか)」という部署に所属する、選ばれたごく一部の料理人のみがその任に当たっていました。彼らは厳格な訓練と高度な技術、そして何よりも絶対的な信頼が求められる、まさに日本の食の最高峰を守る存在です。
ホテルなど外部の料理人が担当する場合の特殊性
通常の日常の食事は宮内庁の専属料理人が担当しますが、天皇陛下が地方を行幸される際や、特定のホテルで晩餐会などが催される場合には、例外的にそのホテルの料理人が担当することがありました。しかし、その場合でも、以下のような非常に厳重な体制と選抜が行われました。
- 極めて厳格な人選:
- ホテルの総料理長クラスであっても、誰もが献上料理に携われるわけではありません。技術はもちろんのこと、身元調査が徹底され、家族の背景まで詳細に調べられました。これは、食の安全だけでなく、テロや思想的な問題など、あらゆるリスクを排除するためです。
- 候補者数百名の中からわずか数名が選ばれるほどの狭き門でした。
- 徹底した衛生管理:
- 調理前には、担当者の健康状態が厳しくチェックされ、必要に応じて抗生物質が投与されることもありました。
- 調理器具、食材の管理、調理環境の衛生状態は、通常のプロの厨房では考えられないほどのレベルで徹底されました。全ての道具の煮沸消毒や、外部との接触を絶つための「缶詰状態」などは、その一部です。
- 最高の食材と技術:
- 献上される食材は、その時期、その土地の最高級品が厳選され、最高の状態で提供されました。
- 料理の技術はもちろん、盛り付け、タイミング、サービスのすべてにおいて完璧が求められました。
- 心理的重圧:
- 天皇陛下の食事という、日本の最高位の方に料理を提供するという重圧は計り知れません。もし何か問題があれば、料理人個人のキャリアだけでなく、ホテル全体の信用にも関わるため、精神的な負担も相当なものだったでしょう。
昭和天皇と皇太子(現在の上皇)の「厳格さ」の違い
父は、昭和天皇以外にも。当時の皇太子(現上皇)や皇族に料理を献上しました。父によると昭和天皇の扱いは別格で皇太子の扱いとは比べ物にならないほど厳格だったと言っていました。
昭和天皇の警護や食事、ひいてはその「扱い」が、当時の皇太子(現在の明仁上皇)と比較してはるかに厳格であったというのは、いくつかの理由があります。
天皇の「神聖性」と象徴としての役割
昭和天皇は、第二次世界大戦終結まで、現人神(あらひとがみ)としての地位と、大日本帝国憲法下の国家元首という、極めて重い二つの役割を担っていました。終戦後、人間宣言をされて象徴天皇となられてからも、その「神聖性」や国民統合の「象徴」としての位置づけは非常に大切にされ、国民からは絶大な敬愛と畏敬の念が寄せられていました。
このような背景から、昭和天皇の安全と尊厳を確保することは、国家の最重要課題の一つであり、その扱いはあらゆる面で厳格を極めました。特に、食事や警護に関しては、万が一にも不測の事態が起こってはならないという絶対的な使命感のもと、徹底した体制が敷かれていたのです。
戦中・戦後の社会情勢と安全保障
昭和天皇の時代は、第二次世界大戦の激動期と、その後の混乱期、そして高度経済成長期と、日本が社会的に大きな変化を経験した時期と重なります。
- 戦中: 戦争遂行中の国家元首として、その安全確保は最優先事項でした。
- 戦後: 敗戦後の混乱期や、国内にまだ不安定な要素が残る中、天皇陛下に対する警護や安全管理は、極めて厳重に行われました。国内外からの様々な脅威を想定し、想像を絶するほどの対策が講じられていたと考えられます。
これに対し、当時の皇太子は、もちろん将来の天皇というお立場ではありましたが、直接的な国家元首としての重責はまだ担っておらず、国際親善などの役割が増えていく時期でした。そのため、行動の自由度や警護の厳格さにおいて、昭和天皇とは必然的に差があったと言えるでしょう。
大膳課と外部委託における厳格さの度合い
宮内庁の大膳課が直接管理する天皇の日常の食事は、外部では想像もできないほどの厳しさで行われていましたが、ホテルなどで外部の料理人が担当する場合でも、天皇の安全と尊厳を守るためのプロトコルは、皇太子の場合よりも数段厳格に設定されていました。
父が経験したように、料理献上前の身辺調査、健康チェック、ホテルでの缶詰状態、調理器具の徹底した消毒などは、まさにその厳格さの証です。これらは、万が一にも食中毒や不純物の混入、あるいはテロなどの危険があってはならないという、国家的な危機管理の意識の表れでした。皇太子の場合も厳重ではありますが、天皇へのそれほど絶対的なものではなかった可能性が高いです。
父の貴重な経験と証言は、当時の天皇と皇太子の立場の違い、そしてそれに伴う「扱い」の厳格さの差を如実に物語っています。
旧・神戸オリエンタルホテル歴代料理長 : 伝説の料理人達
明治時代、ルイ・ベギューがオーナー兼シェフを していた「オテル・デ・コロニー」の料理長に就任し、このホテルが、後に「神戸オリエンタルホテル」となり、黒沢為吉が初代料理長に就任する。
日本の西洋料理史に名高い伝説のシェフ達が歴代の料理長を務め西日本屈指の名門ホテルとしてその名を馳せた。
◆神戸オリエンタルホテルの主な宿泊者
孫文
川島芳子
アインシュタイン
ヘレンケラー (食事)
マリリンモンロー
ジョーディマジオ
昭和天皇、皇太子殿下 (現在の上皇)
1922年(大正11年)、アインシュタイン博士が来日した際に滞在。
1924年(大正13年)11月には神戸に来た孫文が滞在した。この時、孫文は「大アジア主義」と題した有名な演説を行い、また頭山満とオリエンタルホテルにて2日間に渡って会談している。
1937年(昭和12年)、ヘレン・ケラー(1880~1968)が、来日した際、住友男爵の神戸の別荘に数日間滞在したが、住友男爵はオリエンタルホテルのシェフに彼女のための食事を準備させた。 ヘレン・ケラーは後年、「これまで食べた中で一番美味しい料理だった。」と書いている。
1948年(昭和23年)に完成した谷崎潤一郎の作品「細雪」にはオリエンタル・ホテルが幾度も登場する。
1954年(昭和29年)には映画女優マリリン・モンローと大リーグの名選手ジョー・ディマジオが滞在した。
そして、1956年(昭和31年)以降、昭和天皇が神戸に来た際に滞在、食事をするホテルとなった。
歴代の料理長には、『帝国ホテル』の礎を築いた内海藤太郎氏や、『築地精養軒』の全盛期をもたらした鈴本敏雄氏、岡山広一氏、田上舜一氏といった、日本の西洋料理史に名高い名料理人が務め、往年期は「日本の西洋料理といえば東の帝国ホテル・横浜ニューグランド、西のオリエンタルホテル」と言われた関西屈指の名門ホテルであった。
◆神戸オリエンタルホテル 初代料理長 : 黒沢 為吉
明治時代の長崎の外国人ホテルをはじめ、神戸オリエンタルホテルの料理長や、吉水園(後の都ホテル)の初代料理長を務め、主に西日本の西洋料理界の初期に大きな足跡を残した伝説のシェフ。
黒沢為吉は、明治初年にベトナムに渡り、サイゴンでフランス料理の技術を身に付けたと言われる。(ベトナムはフランス領だったので、当時からフランス料理店が発達していた)
日本に帰国すると、長崎のベルビューホテルや長崎ホテルの料理長を歴任し、その後、神戸の居留地に移り、フランス人コック・ルイ・ベギューがオーナー兼シェフをしていた「ホテル・デ・コロニー」の料理長に就任し、このホテルは後に「神戸オリエンタルホテル」となり、そこで黒沢が初代料理長に就任する。
神戸オリエンタルホテルのレストランは、名コックであったL.ベギューによって高い名声を得て語り継がれた。そのレストランを受け継いだ黒沢は高いレベルを維持し、黒沢以降も、第二代・羽谷寅之助、第三代・米沢源兵衛、第四代・鈴木卯三郎、第五代・鈴木敏雄、第六代・杉本基之助、第七代・内海藤太郎、第八代・木村健蔵、第九代・岡山広一と、その名前を見てもわかる通り、日本の西洋料理史に名高い名シェフ達が歴代の料理長を務め、西日本最高の名門としてのその名を馳せた。
そして、黒沢為吉は、1896年(明治二十九年)に京都の吉水園温泉ホテル(現在の都ホテル)の開業料理長に招かれて腕を揮い、現役のまま急逝した。
詳細な経歴やエピソードは残されておらず残念ではあるが、神戸のオリエンタルホテル、京都の都ホテルという老舗ホテルの初代料理長を務めた黒沢は、西日本の西洋料理界においてパイオニア的な存在であったことは間違いない。
◆歴代料理長
第1代料理長:黒沢為吉: 神戸オリエンタルホテル、京都の都ホテルの初代料理長を務めた。

第2代:羽谷寅之助
第3代:米沢源兵衛
第4代:鈴木卯三郎
第5代:鈴本敏雄(1890~1967)『築地精養軒』の全盛期をもたらす
築地精養軒 – Wikipediaja.m.wikipedia.org
第6代:杉本甚之助(阪急百貨店食堂顧問、宝塚ホテル料理長など歴任、宝米ピラフの考案者)
月〜金曜日 20時54分〜21時00分www.asahi.co.jp
第7代:内海藤太郎(1874~1946)『帝国ホテル』の礎を築く
第8代:木村健蔵(東洋ホテル料理長)
第9代:岡山広一(倉敷国際ホテル総料理長)
第10代:田上舜三(倉敷国際ホテル総料理長)
探究心を持ち続けられるフランス料理の魅力 | HOTEL REVIEW
第12代:伊藤孝二 : 私の父は伊藤料理長のもとで厳しい修行を積んだ。2020年?頃、伊藤家の方がレストランと実家に訪ねて来られた。
第-代:石坂勇(神戸オリエンタルホテル名誉総料理長): 父は、”いっさん”と呼んでいた。同じ時期に働いていた先輩にあたる。
◆フランス料理人伝説〈第1巻〉鹿鳴館、中央亭、綱町三井倶楽部、築地ホテル、横浜グランドホテル、神戸オリエンタルホテル

フランス料理人伝説〈第1巻〉鹿鳴館、中央亭、綱町三井倶楽部、築地ホテル、横浜グランドホテル、神戸オリエンタルホテル
◆ホテル料理長列伝
丸ノ内ホテル斉藤文次郎、ロイヤルホテル常原久弥、ホテルグランドパレス堤野末継、東京プリンスホテル木沢武男、ホテルオークラ小野正吉、帝国ホテル村上信夫、ホテルニューオータニ古谷春雄、神戸オリエンタルホテル/倉敷国際ホテル田上舜三、冨士屋ホテル百鳥雅、志摩観光ホテル高橋忠之の十氏。

◆第12代総料理長 伊藤氏と父。旧神戸オリエンタルホテルの屋上にて。後にあるのは昭和天皇実録歌碑 (現在は神戸メリケンパークオリエンタルホテルの屋上にある)

◆神戸メリケンパークオリエンタルホテルの屋上にある灯台と昭和天皇の歌碑。これ灯台は、旧神戸オリエンタルホテルの屋上にあったもので、作家 安部譲二さんの父 安部正夫さんが設置した。


◆1962年5月19日(昭和37年)。 比叡山にて。第12代総料理長 伊藤氏(左)と父

◆2002年1月13日撮影。第12代総料理長 伊藤孝二氏を偲ぶ会。神戸メリケンパークオリエンタルホテルにて。

◆オリエンタルホテル
オリエンタルホテル – Wikipediaja.m.wikipedia.org

◆父が1972年(昭和47年)に香川県に開業したステーキレストラン オリエンタル

・インスタグラム: ステーキレストラン オリエンタル
https://www.instagram.com/p/DCA6VrtsPwQ/?q=#ステーキレストランオリエンタル
著者プロフィール
森啓成 (モリヨシナリ)
ビジネス英語講師、全国通訳案内士 (英語・中国語)、海外ビジネスコンサルタント
神戸市生まれ、香川県育ち。米国大学経営学部マーケティング専攻。
大手エレクトロニクス企業にて海外営業職に20年間従事(北京オフィス所長)。その後、香港、中国にて外資系商社設立に参画し、副社長を経て顧問に就任。
アメリカ、シンガポール、中国、ベルギーなど、海外滞在歴は計16年以上。
現在はBizconsul Office代表として、ビジネス英語講師、全国通訳案内士(英語・中国語)、海外ビジネスコンサルタントとして活動中。
観光庁インバウンド研修認定講師、四国遍路通訳ガイド協会会員、トリリンガル讃岐PRオフィサーも務める。
【保有資格】
英語: 全国通訳案内士、英検1級、TOEIC L&R: 965点 (L満点)、TESOL (英語教授法)、国連英検A級、ビジネス英検A級
中国語: 全国通訳案内士、香川せとうち地域通訳案内士、HSK6級
ツーリズム: 総合旅行業務取扱管理者、国内旅行業務取扱管理者、国内旅程管理主任者、せとうち島旅ガイド、観光庁インバウンド研修認定講師
【メディア・研修実績】 香川県広報誌「THEかがわ」インタビュー記事掲載、瀬戸内海放送(KSB) 及び 岡山放送(OHK)ニュース番組コメント。
観光庁インバウンド研修認定講師として地方自治体や宿泊施設で登壇。
四国運輸局事業コンサルタント、瀬戸内国際芸術祭オフィシャルツアー公式ガイド、香川せとうち地域通訳案内士インバウンド研修講師認定試験面接官を務める。
・香川県登録通訳案内士サイト
・座右の銘: 雨垂れ石を穿つ



