瀬戸内 血脈の迷宮:戦国武将、皇族、そして瀬戸内寂聴を繋ぐ奇跡の系譜

目次
- 血の奥底に眠る「物語」が、今、覚醒する。
- プロローグ:ルーツを辿る静かなる冒険の始まり
- 第一章:瀬戸内に散った若き血、そして静かなる転身
- 第二章:闇を切り裂く灯火、由緒正しき菩提寺
- 第三章:陸を拓き、道を繋いだ高松藩東端の要
- 第四章:幾重にも絡み合う縁:時代を彩る血と絆
- 第五章:戦火を越え、苦難を乗り越え、繋がれた命のバトン
- エピローグ:繋がれし生命のバトン
- 著者プロフィール
血の奥底に眠る「物語」が、今、覚醒する。
一人の男のルーツを辿る旅が、日本史の深淵に、そして、誰もが知る「あの」偉人たちの血脈に繋がっていた――。
【記事の概要】
「瀬戸内 血脈の迷宮:戦国武将、皇族、そして瀬戸内寂聴を繋ぐ奇跡の系譜」
この物語は、私自身のルーツを辿る中で明らかになった、壮大な家族の歴史です。
- 戦国の血脈: 森家の先祖は、1583年の引田の戦いで討ち死にした阿波水軍の若き武士、森権平久村にまで遡ります。
- 引田の戦い後、森権平久村の父 森村吉の一家は三手に分かれることになります。
父 森村吉は三男 森村明と仙石秀久と運命を共にし、信濃へ移り7000石を有する武将となりました。長男の森村重は引き続き徳島に留まり、阿波水軍 初代 森甚五兵衛となり、その後、260年間、海上方を務め3000石を有する有力武家として栄えました。そして、次男 森権平久村亡き後、その一族の者は悲嘆に暮れ叔母(森村吉の姉)が嫁いでいた引田の日下家(最初は引田の四宮家に嫁いでいましたが後に夫が日下家の養子になりました)を頼り讃岐 馬宿に留まり(後に山を開拓し柏谷へ移る)、高松藩郷士として讃岐に根を下ろしました。これが高松藩 森家の始まりです。
- 歴史を繋ぐ菩提寺: 香川県東かがわ市にある勝覚寺は、森家代々の菩提寺です。森権平久村の母は阿波 赤沢家の赤沢伊賀守の娘でしたが、その赤沢家出身の赤沢信濃守宗伝(板西城主)の一子が中富川の戦い後、讃岐に逃れ父の菩提を弔う為に開基したのがこの勝覚寺です。幕末から明治にかけて本願寺との確執の末、真宗興正派の独立を主導した高僧、赤沢融海法師を輩出した由緒ある寺院です。寺紋の三つ紅葉の紋は、この赤沢融海法師(庄松同行在世当時住職、本山興正寺執事)が、多年にわたる本山に対する功績に対し、旧五摂家鷹司家より下賜されたものです。
- 地域貢献の礎: 江戸時代の森家は高松藩の普請方として、橋や道路建設、金刀比羅宮の石段造営など、地域のインフラ整備に尽力しました。柏が生い茂る山を開拓し、柏谷と名付け一帯の山林と田畑を所有していました。近くの小磯の浜に高松藩の松平の殿様が来た際はお膳立てをせねばならず経済的に大変だったと伝わります。
- 驚くべき著名人との繋がり:
- 高祖父の婚姻を通じて、日本地図の伊能忠敬や北海道の名付け親である松浦武四郎が訪れた徳島藩 碁浦番所の八田家と繋がります。
- 高祖父の長女の婚姻により、戦国大名・十河氏の血筋を引く東かがわ市黒羽の三谷家と縁戚関係となり、そこから作家・瀬戸内寂聴が輩出されています。
- また、国民的歌手・笠置シヅ子も、東かがわ市黒羽の三谷家の出身です。
- 曽祖父は室町時代に細川京兆家に仕え応仁の乱で安富元綱らと共に京都御所北側の相国寺で討ち死にした永塩因幡守氏継の末裔 である東かがわ市黒羽の旧家 永峰家の長女と結婚しました。
- 激動の昭和を生き抜いた家族:
- 祖父は日中戦争の最中、27歳の若さで戦没。
- 父は幼くして両親を失う逆境を乗り越え、神戸の旧オリエンタルホテルで西洋料理人となり、昭和天皇を始めとする皇族に料理を献上する大役を果たしました。父が勤務していた頃の社長は作家の安部譲二さんの父 安部正夫さんでした。
- 母は戦後、日本の統治下にあった北朝鮮の端川市からの壮絶な引き揚げを経験しました。
- 現代への継承: 私自身は、海外での豊富な経験を持ち、現在、ビジネス英語講師や全国通訳案内士として活動しています。また、トリリンガル讃岐PRオフィサーとして、ここ讃岐の魅力を発信することにも力を入れています。先祖たちの苦難と生命力が、現代の私へと繋がっていることを深く実感しています。
この物語は、一人の個人のルーツが、いかに日本の歴史と著名人たちと絡み合い、現代へとバトンを繋いできたかを描く真実のファミリーヒストリーです。
プロローグ:ルーツを辿る静かなる冒険の始まり
こんにちは。トリリンガル讃岐PRオフィサーの森啓成 (モリヨシナリ) です。
長年、海外で仕事に没頭する日々を過ごし、自身のルーツに関心を抱く余裕もありませんでした。しかし、数年前、身内の死をきっかけに戸籍謄本を手にしたことで、私の人生は大きく動き出しました。事務的な紙束のはずが、一枚、また一枚と紐解くごとに、私の想像を遥かに超える、壮大な「血脈の迷宮」がその姿を現したのです。
それは、単なる家族の記録ではありませんでした。戦国の鬨の声、江戸の静謐、幕末の胎動、そして昭和の激震――。歴史の大きな渦の中で、名もなき先祖たちが確かに息づき、時には歴史上の人物と交差しながら、奇跡のように現代へと繋がれてきた一本の線。
現在も調査は進行中ですが、2025年6月時点で判明している事実を、ここに整理し、皆さまにお届けします。この旅は、私の血の奥底に眠っていた「数奇な宿命」を呼び覚ます、魂の旅へと変わっていきました。
第一章:瀬戸内に散った若き血、そして静かなる転身
私の姓は「森」。その根源を辿ると、徳島を拠点に瀬戸内海を縦横無尽に駆け巡った「海の武士」、阿波水軍 森氏の系譜に行き着きます。彼らは、風を読み、波を操り、時に戦国の荒波を乗り越える海の覇者でした。
その血脈に、私の遠い祖先の影が鮮明に浮かび上がります。時は1583年、天下統一を目前にした豊臣秀吉の四国征伐が迫る不穏な時代。阿波と讃岐の国境、引田の地で、長宗我部元親の大軍と激突した「引田の戦い」が勃発します。
その激烈な戦火の中で、私の先祖にあたる阿波水軍 森家一族の森権平久村は、わずか18歳という若さで命を散らしました。その短くも鮮烈な生涯を刻む墓標は、今も香川県東かがわ市伊座の地にひっそりと佇み、彼の魂は引田の日下家の位牌に静かに宿っています。
森権平久村の亡き後、一族の者が彼が亡くなった地である讃岐に留まることを決め、東かがわ市の馬宿に住みました。それが後に高松藩に仕える家系となり、森権平久村の血脈は途絶えなかったのです。
権平久村の母は、阿波の武門の名家、赤沢一族の赤沢伊賀守の娘であり、その祖母は撫養城主、小笠原摂津守の血を引いていました。また、森権平久村が仕えた武将は信州の仙石秀久でした。信州にルーツを持つ小笠原家や仙石家との縁は、森家がいかに多くの有力武家と複雑に結びついていたかを雄弁に物語ります。
阿波水軍森家が掲げた家紋は「木瓜(もっこう)」。戦国の悲劇を乗り越え、権平久村の「一族」という広大な意味での血縁が、戦乱の余燼がくすぶる讃岐の地に新たな森家として根を下ろします。江戸時代に成立した高松藩に仕えることになった「高松藩森家」の家紋は、本家の「木瓜」を守るように「丸に木瓜」と形を変え、しかし確かにその血脈が受け継がれた揺るぎない証として、静かに輝いています。

・森権平久村亡き後一族の者が讃岐に留まることを決めた理由
https://note.com/embed/notes/n8456b6e9e1dd
・森権平久村の墓


第二章:闇を切り裂く灯火、由緒正しき菩提寺
森家代々の魂を静かに見守り、導いてきた菩提寺は、香川県東かがわ市に佇む海暁閣 勝覚寺です。この寺院の創建は、森家と深く交錯する赤沢一族の歴史と、切っても切り離せません。
勝覚寺を開いたのは、森権平久村の母方の出身家である阿波赤沢一族の板西城主、赤沢信濃守宗伝の一子でした。宗伝自身は、1582年の中富川の戦いで長宗我部元親軍に敗れ、無念の討ち死にを遂げていました。その息子は、父の菩提を弔うため、そして乱世を生き延びるため、阿波から讃岐の地へと命からがら逃れ、天正年間にこの寺を創建したのです。敗戦の悲しみと、新たな地での再起への祈りが、この寺の礎となりました。
勝覚寺は、その由緒の深さゆえに「四国唯一の閣寺院」という特別な称号を誇ります。その背後には、幕末から明治という激動期に生きた、この寺の二十世住職、赤沢融海法師(1833-1895)の偉大な存在があります。彼は単なる地方の僧ではありませんでした。幼くして仏門に入り、宗教学を深く究め、22歳という若さで勝覚寺の法灯を継いだ異才だったのです。
融海法師の生涯最大の功績は、浄土真宗の歴史において200年もの長きにわたる本願寺との確執の末、真宗興正派が独立するという、宗派の命運を分ける歴史的な大事業において、中心的な役割を果たしたことです。彼の尽力なくして、興正派の独立はありえなかったでしょう。
明治期には本山執事という最高幹部の任につき、宗派の実務を統括しました。さらに、政府の太政官から小教正という称号を与えられ、天皇に拝謁を許されるほどの栄誉を得ました。これは、当時の仏教界全体においても、彼の存在がいかに突出していたかを物語ります。
そして、彼は当時の政界の要人、三条実美公とも深い親交を結び、その交流は今日まで語り継がれています。旧五摂家の一つ、鷹司家から寺紋を下賜されたという勝覚寺の由緒は、まさにこの赤沢融海法師の功績と、本山との揺るぎない絆によって裏打ちされているのです。
勝覚寺が「普通の寺院とは格が違う」と言われる所以は、単なる建物の壮麗さではなく、その背後にある深い歴史と、赤沢融海法師という人物の重みゆえなのです。昭和の時代には、テレビドラマ「裸の大将」の撮影地にもなりました。


第三章:陸を拓き、道を繋いだ高松藩東端の要
江戸時代、森家は高松藩において、普請(ふしん)、すなわち土木工事に携わる重要な役目を担っていました。彼らはただの職人ではありませんでした。橋や道路を建設し、人々の暮らしを豊かにする地域のインフラ整備に尽力したのです。それは、まさに藩の発展の礎を築く、地味ながらも極めて重要な仕事でした。
彼らの手掛けた仕事は、生活道路にとどまりません。信仰の象徴である金刀比羅宮の石段造営にもその技術と情熱を捧げたといいます。石段を一段一段積み上げる彼らの手には、地域の発展と民の安寧への貢献という、静かなる誇りが宿っていたに違いありません。
そして、東かがわ市に今も残る「柏谷(かしわだに)」という地名。それは、森家が柏の木が生い茂る未開の山を切り開き、新たな土地を開拓した功績に由来すると伝えられています。地名として刻まれたその足跡は、森家が地域社会にいかに深く根ざし、その発展に貢献してきたかを雄弁に物語っています。
戦前までは甲冑や刀、槍を所有していましたが、戦中の金属回収令で国に供出しました。戦後も、刀のツバが額に飾られ、その歴史を語り継いでいました。



第四章:幾重にも絡み合う縁:時代を彩る血と絆
私の家系図は、まるで絢爛たる織物のように、幾重にも重なる婚姻の糸で結ばれ、驚くべき人物たちとの繋がりを織りなしてきました。私のルーツを辿る旅は、しばしば予期せぬ邂逅を私にもたらします。
私の高祖父、森喜平は、高松藩の普請方として働いていました。彼の伴侶となったのは、徳島藩で碁浦番所役人と庄屋を兼任していた八田家の当主、八田孫平の長女、キヨでした。八田家は200年以上にわたり、徳島藩の要職を担う「禄持ち」の家柄。そして、260年間、徳島藩の海防を担った阿波水軍 森家とも古くから繋がりを持っていました。
この森喜平と八田キヨの藩を越えた婚姻は、単なる縁結びではありません。それぞれの家が持つ歴史的背景と職務上の連携が、血縁という形で結実したのです。
この碁浦番所には、江戸時代の知の巨匠たちが足跡を残しています。日本地図を完成させた伊能忠敬、私財を投じて坂出の塩田を開発した久米通賢、そして北海道の名付け親として知られる探検家松浦武四郎。彼らが訪れた碁浦番所を八田家が管理していたことを思うと、先祖たちの生きた時代が、いかに日本の近代化の胎動と重なっていたかを実感します。
私の曽祖父、森虎太郎は、東かがわ市黒羽にその名を残す黒羽城主、永塩因幡守氏継(ながしお いなばのかみ うじつぐ)の末裔にあたる旧家、永峰家の長女チヨと結ばれました。永塩因幡守氏継は1467年に黒羽神社を創建し、その後、応仁の乱で細川方として安富元綱らと共に壮絶な討ち死にを遂げた武将です。武士の家系の森家が帰農した永峰家と結婚した縁は、再び武士の血が私の家系に流れ込んだ瞬間でした。
そして、最も私を驚かせたのは、高祖父 森喜平の長女、森トヨと、東かがわ市黒羽の旧家である三谷宗家の三谷磯八の結婚です。この三谷家こそ、戦国大名として一世を風靡した十河氏(そごうし)の血筋を引く名門だったのです。神櫛王を祖とし、十河氏と共に讃岐東部を支配した有力な家系。そして、この三谷宗家の分家(屋号:甚六)の末裔に、日本文学史にその名を刻む作家、瀬戸内寂聴(三谷晴美)さんがいらっしゃるのです。
寂聴さんの先祖は江戸時代から代々、ここ黒羽で製糖業を営んでいました。私の大伯母(祖父の姉)にあたる森トメノは、引田の積善坊で執り行われる瀬戸内家の法事に度々手伝いに行き、寂聴さんのことを本名で「晴美さん」と呼んでいました。
さらに、戦後の日本を歌で鼓舞し続けた「ブギの女王」笠置シヅ子さんも、香川県東かがわ市黒羽で製糖業を営む三谷家の出身だったのです。祖父を三谷栄五郎と言い、引田郵便局に勤めていた父 三谷陳平と谷口鳴尾の間に笠置さんは生まれました。止むに止まれぬ事情があり、生後間もなく大阪の亀井家(出身は引田町)の養子となりましたが、そのルーツは確かにこの黒羽(くれは)にあるのです。今も、地元の三谷家は、分家の孫黒茂さんが伝統の讃岐和三盆の製造・販売を代々続けており、地域に深く根付いています。
私の大伯母(祖父の姉)にあたる森トメノは、明治生まれの女性でした。1925年(大正14年)から、国際都市・神戸の象徴ともいえる旧・神戸オリエンタルホテルで働き始めます。当時としては稀有な英語を操り、激動の大正・昭和期をホテルの最前線で駆け抜けました。アインシュタイン、ヘレンケラー、マリリン・モンロー、川島芳子、そして昭和天皇――。世界中の名だたる著名人が宿泊するホテルで、彼女は、その時代の息吹を肌で感じていたのです。当時の神戸新聞には、彼女のホテル勤務に関するインタビュー記事が残り、2.26事件発生時や戦中、戦後のホテルでの勤務について語っており、その足跡を今に伝えています。トメノは武士だった高祖父 森喜平の厳しいしつけを受け、そして碁浦番所出身で阿波浄瑠璃の三味線が上手かった高祖母 八田キヨから風流な心を育まれた大伯母の人生は、まさに激動そのものでした。





・永峰杢左衛門家の家系について(引田町人物史)

・永峰家の家系図 (引田町人物史)

・三谷宗家の家系図 (引田町人物史)



第五章:戦火を越え、苦難を乗り越え、繋がれた命のバトン
しかし、私の家族の物語は、明るい歴史だけではありません。幾度となく、激動の時代に翻弄され、深い悲しみを乗り越えてきました。
私の祖父は、日中戦争の最中、1937年(昭和12年)10月20日、香川県の善通寺陸軍病院丸亀分院にて、27歳という若さで戦没しました。その時、祖母のお腹には、私の父が宿っていました。私の父は、自分の父の顔を知らずして育ち、そして、子供の頃に母も失いました。
10代で、香川の片田舎から、たった一人で神戸へと渡り、西洋料理人の道を志します。皿洗いから始まり、日々、鉄拳が飛び交う厳しい修行に耐え抜きました。その手は荒れ、体は疲弊しましたが、彼の心には決して折れない決意が宿っていました。戦中、戦後の日本国中が大変な時期に両親を亡くし、筆舌には尽くし難い辛酸を舐めて育ってきた父は、鉄拳制裁ぐらいでは動じない強固な精神力を宿していたのです。
やがて、父は旧・神戸オリエンタルホテルで腕を振るい、その料理は石原裕次郎をはじめ、財界の多くの人々を魅了しました。そして、父の料理は、昭和天皇や皇后両陛下、皇太子殿下(現 上皇)を含む皇族方の口に供されるという、料理人としての最高峰とも言える大役を果たしたのです。晩餐後、十六菊花紋入りの煙草が下賜されました。
また、作家の安部譲二さんの父、日本郵船から来た安部正夫氏がオリエンタルホテルの社長を務めていた時代に、父は13年間皆勤という偉業で表彰されています。その証である表彰状が今も残ります。
この頃、日航のパーサーをしながら安藤組組員だった安部譲二さんにも、父はホテルで何度も遭遇していたそうです。2018年、私が安部譲二さんに父の件でメールを送ると、彼は確かにご両親の住んでいた神戸市垂水区のジェームス山の家や、旧神戸オリエンタルホテルに何度も足を運んでいたとの温かい返信をくださいました。
旧神戸オリエンタルホテルは1870年(明治3年)に開業した日本最古級の西洋式ホテルで、谷崎潤一郎の『細雪』にもお見合いの場所として登場します。このホテルは、歴代の料理長が日本の西洋料理史に名を残す名シェフ揃いで、父は第12代総料理長 伊藤孝二氏のもとで腕を磨きました。
私の母の人生もまた、壮絶なものだったのです。戦前、香川県で瓦工場を経営していた実父の仕事の関係で、日本の領土だった現在の北朝鮮の端川(タンセン)市へ渡りました。しかし、日本の敗戦後、彼女は現地に残留を余儀なくされます。ソ連軍の進駐、厳しい食料不足、伝染病、そして異国での差別と暴力というリスクがつきまとう地獄のような日々の中、彼女は命からがら陸路を何日も歩き、船を乗り継いで、ようやく深夜、九州の門司港近くの浜辺に辿り着きました。門司港ではなく普通の浜辺から上陸したそうです。船は浜辺近くまでは行けない為、甲板から木製の細長い板を浜辺近くまで渡し、バランスをとりながら浜辺近くまで歩いていったそうです。辺りは真っ暗な中、細い木の板を渡るのは相当な恐怖だったようです。北朝鮮からの引き揚げの話を聞くたびに、母の持つ途方もない生命力にただただ頭が下がります。
門司港駅から高松駅に帰る際、門司港駅でスリにあい汽車賃を盗まれてしまいました。しかし、戦後の混乱期にも関わらず、危篤な方がお金を貸してくれて高松駅まで帰ることができました。1946年の春ごろに実家にたどり着きました。その際、実家にいた父の兄の奥さんが作ってくれた豆ご飯がこの上なく美味しかったようで、今でも春になるとえんどう豆の豆ご飯を食べるのは、あの時のことを思い出しているのかもしれません。









エピローグ:繋がれし生命のバトン
現在、私はアメリカ、シンガポール、中国(上海、北京、深圳)での長きにわたる海外生活を経て、日本でビジネス英語講師、全国通訳案内士(英語・中国語)、そして海外ビジネスコンサルタントとして活動しています。トリリンガル讃岐PRオフィサーとして、この地域の魅力を発信することにも力を入れています。
私のルーツを辿る旅は、単なる過去の確認ではありませんでした。それは、戦国の荒波を乗り越え、江戸の礎を築き、明治の変革を担い、昭和の激動を生き抜いた、名もなき、しかし確かに生きていた先祖たちの息吹を感じる旅です。彼らの苦難と栄光、そして何よりも途方もない生命の強さが、私という存在に繋がっていることを、深く、深く実感しています。
この物語は、個人の歴史が、いかに壮大な日本の歴史と絡み合い、そして現代の私たちにまで受け継がれているかを教えてくれます。私自身の人生もまた、この壮大な系譜の一部なのだと、深く認識するに至りました。この物語が、幾多の困難を乗り越えてきた家族の証として、そして、未来を生きる私たちへのメッセージとして、多くの人々に語り継がれていくことを心から願います。
著者プロフィール
森啓成 (モリヨシナリ)
ビジネス英語講師、全国通訳案内士 (英語・中国語)、海外ビジネスコンサルタント
神戸市生まれ、香川県育ち。米国大学経営学部マーケティング専攻。
大手エレクトロニクス企業にて海外営業職に20年間従事(北京オフィス所長)。その後、香港、中国にて外資系商社設立に参画し、副社長を経て顧問に就任。
アメリカ、シンガポール、中国、ベルギーなど、海外滞在歴は計16年以上。
現在はBizconsul Office代表として、ビジネス英語講師、全国通訳案内士(英語・中国語)、海外ビジネスコンサルタントとして活動中。
観光庁インバウンド研修認定講師、四国遍路通訳ガイド協会会員、トリリンガル讃岐PRオフィサーも務める。
【保有資格】
- 英語: 全国通訳案内士、英検1級、TOEIC L&R: 965点 (L満点)、TESOL (英語教授法)、国連英検A級、ビジネス英検A級
- 中国語: 全国通訳案内士、香川せとうち地域通訳案内士、HSK6級
- ツーリズム: 総合旅行業務取扱管理者、国内旅行業務取扱管理者、国内旅程管理主任者、せとうち島旅ガイド
【メディア・研修実績】 香川県広報誌「THEかがわ」インタビュー記事掲載、瀬戸内海放送(KSB)及び岡山放送(OHK)ニュース番組コメント。
観光庁インバウンド研修認定講師として地方自治体や宿泊施設で登壇。
四国運輸局事業コンサルタント、 瀬戸内国際芸術祭オフィシャルツアー公式ガイド、香川せとうち地域通訳案内士インバウンド研修講師認定試験面接官を務める。
・香川県登録通訳案内士サイト
・座右の銘は「雨垂れ石を穿つ」

