瀬戸内 血脈の迷宮:瀬戸内寂聴、笠置シヅ子、そして私のルーツ

【概要】
自分のルーツを辿る真実の物語。戦国時代から現代までの家族の歴史を綴っています。
- 武士の血筋と戦国の悲劇:
- 森家のルーツは徳島を拠点とした阿波水軍 森氏に遡ります。
- 阿波水軍 森氏一族の森権平久村は1583年の豊臣秀吉による四国征伐時の「引田の戦い」で18歳という若さで討ち死にしました。
- 森権平久村の一族は権平久村が亡くなった讃岐の地(現在の香川県東かがわ市)に留まることを決め、後に高松藩に仕える家系となりました。
- 森権平久村の母方の血筋は、阿波の武門の名家である赤沢一族、さらに撫養城主の小笠原家にも繋がっています。
- 菩提寺と宗派独立への貢献:
- 高松藩 森家の菩提寺は香川県東かがわ市にある海暁閣 勝覚寺で、森権平久村の母方の出身家である赤沢一族の赤沢信濃守宗伝(板西城主)の一子が創建しました。
- この寺は「四国唯一の閣寺院」と称され、幕末から明治にかけて活躍した二十世住職、赤沢融海法師が浄土真宗真宗興正派の独立に大きく貢献しました。
- 高松藩での役割と地域の開拓:
- 江戸時代の森家は高松藩で土木工事(普請)に携わり、橋や道路の建設、金刀比羅宮の石段造営に尽力しました。
- 東かがわ市の「柏谷(かしわだに)」という地名は、森家が未開の山を開拓した功績に由来します。
- 著名人との繋がり:
- 高祖父の森喜平は徳島藩で200年以上、碁浦番所役人を務めた八田家の長女キヨと結婚し、八田家は日本地図作成の伊能忠敬、坂出の塩田開発の久米通賢、北海道の名付け親の松浦武四郎といった知の巨匠が訪れた碁浦番所を管理していました。
- 曽祖父の森虎太郎は、武士の家系が帰農した永塩因幡守氏継の末裔である東かがわ市黒羽(くれは)の旧家 永峰家の長女チヨと結婚しました。
- 高祖父 森喜平の長女、森トヨは戦国大名十河氏の血筋を引く東かがわ市黒羽(くれは)の三谷宗家へ嫁ぎ、この三谷宗家の分家の末裔には作家の瀬戸内寂聴さんがいます。
- 私の大伯母(祖父の姉)にあたる森トメノは、大正、昭和と英語を使い旧・神戸オリエンタルホテルに勤務、その間、アインシュタインやマリリン・モンローなど世界中の著名人がホテルに訪れた、また瀬戸内寂聴さんとも交流がありました。
- 「ブギの女王」笠置シヅ子さんも香川県東かがわ市黒羽(くれは)の三谷家の出身で製糖業を営んでいました。現在も分家が讃岐和三盆の製造、販売を続けています。
- 戦火と苦難を乗り越えた家族:
- 祖父は日中戦争で27歳の若さで戦没し、私の父は自分の父の顔を知らずに育ちました。子供の頃に母も失い、父は10代で単身神戸に渡り西洋料理人として旧・神戸オリエンタルホテルで働き、昭和天皇を始めとする皇族の料理も担当しました。
- 母は戦後、日本の領土だった現在の北朝鮮の端川市からの過酷な引き揚げを経験しました。
- 現在の活動:
- 私自身はアメリカ、シンガポール、中国での海外生活を経て、現在はビジネス英語講師、全国通訳案内士、海外ビジネスコンサルタントとして活動しています。
このファミリーヒストリーは、個人の歴史が日本の歴史と深く絡み合い、幾多の困難を乗り越えて命のバトンが繋がれてきた真実の物語です。
目次
- 瀬戸内 血脈の迷宮:戦国から現代へ、奇跡と宿命のファミリーヒストリー
- プロローグ
- 第一章 瀬戸内に散った若き血、そして静かなる転身
- 第二章 闇を切り裂く灯火、由緒正しき菩提寺
- 第三章 陸を拓き、道を繋いだ高松藩の要
- 第四章 幾重にも絡み合う縁:時代を彩る血と絆
- 第五章 戦火を越え、苦難を乗り越え、繋がれた命のバトン
- エピローグ
- 著者プロフィール
瀬戸内 血脈の迷宮:戦国から現代へ、奇跡と宿命のファミリーヒストリー
プロローグ
海外での長い仕事生活を終え、数年前に故郷の土を踏んだ私。ふとしたきっかけで、自身のルーツを辿る旅に出た。それは、父の死後に取り寄せた戸籍謄本という事務的な紙束を紐解くことから始まった、静かなる冒険だった。しかし、一枚、また一枚と紙をめくるごとに、私の想像を遥かに超える、壮大な物語がその姿を現し始める。
戦国の鬨の声、江戸の静謐、幕末の胎動、そして昭和の激震──。歴史の大きな渦の中で、名もなき先祖たちが確かに息づき、時には歴史上の人物と交差しながら、奇跡のように現代へと繋がれてきた一本の線。
この旅は、私の血の奥底に眠っていた「数奇な宿命」を呼び覚ます、魂の旅へと変わっていった。これは、激動の時代を力強く駆け抜け、未来へ命のバトンを繋いだ、私の家族の真実の物語である。
・森家の戸籍謄本

第一章 瀬戸内に散った若き血、そして静かなる転身
私の姓は「森」。その根源を辿ると、徳島を拠点に瀬戸内海を縦横無尽に駆け巡った「海の武士」阿波水軍 森氏の系譜に行き着く。彼らは、風を読み、波を操り、時に戦国の荒波を乗り越える海の覇者だった。
その血脈に、私の遠い祖先の影が鮮明に浮かび上がる。時は1583年、天下統一を目前にした豊臣秀吉の四国征伐が迫る不穏な時代。阿波と讃岐の国境、引田の地で、長宗我部元親の大軍と激突した「引田の戦い」が勃発する。その激烈な戦火の中で、私の先祖にあたる阿波水軍 森家一族の森権平久村は、わずか18歳という若さで命を散らした。その短くも鮮烈な生涯を刻む墓標は、今も香川県東かがわ市伊座の地にひっそりと佇み、彼の魂は引田の日下家の位牌に静かに宿っている。森権平久村の亡き後、一族の者が権平久村が亡くなった地である讃岐の地に留まることに決め、東かがわ市の馬宿に住んだ。それが後に高松藩に使える家系となり森権平久村の血脈は途絶えなかった。
権平久村の母は、阿波の武門の名家、赤沢一族の赤沢伊賀守の娘であり、その祖母は撫養城主、小笠原摂津守の血を引いていた。信州にルーツを持つ小笠原家との縁は、森家がいかに多くの有力武家と複雑に結びついていたかを雄弁に物語る。阿波水軍森家が掲げた家紋は「木瓜(もっこう)」。
戦国の悲劇を乗り越え、権平久村の「一族」という広大な意味での血縁が、戦乱の余燼がくすぶる讃岐の地に新たな森家として根を下ろす。江戸時代に成立した高松藩に仕えることになった「高松藩森家」の家紋は、本家の「木瓜」を守るように「丸に木瓜」と形を変え、しかし確かにその血脈が受け継がれた揺るぎない証として、静かに輝いている。

1583年、香川県東かがわ市伊座で森権平久村は長宗我部元親軍と戦い討ち死にした。


第二章 闇を切り裂く灯火、由緒正しき菩提寺
森家代々の魂を静かに見守り、導いてきた菩提寺は、香川県東かがわ市に佇む海暁閣 勝覚寺だ。この寺院の創建は、森家と深く交錯する赤沢一族の歴史と、切っても切り離せない。
勝覚寺を開いたのは、森権平久村の母方の出身家である阿波赤沢一族の板西城主、赤沢信濃守宗伝の一子だった。宗伝自身は、1582年の中富川の戦いで長宗我部元親軍に敗れ、無念の討ち死にを遂げていた。その息子は、父の菩提を弔うため、そして乱世を生き延びるため、阿波から讃岐の地へと命からがら逃れ、天正年間にこの寺を創建した。敗戦の悲しみと、新たな地での再起への祈りが、この寺の礎となったのだ。
勝覚寺は、その由緒の深さゆえに「四国唯一の閣寺院」という特別な称号を誇る。その背後には、幕末から明治という激動期に生きた、この寺の二十世住職、赤沢融海法師(1833-1895)の偉大な存在がある。彼は単なる地方の僧ではなかった。幼くして仏門に入り、宗教学を深く究め、22歳という若さで勝覚寺の法灯を継いだ異才だった。
融海法師の生涯最大の功績は、浄土真宗の歴史において200年もの長きにわたる本願寺との確執の末、真宗興正派が独立するという、宗派の命運を分ける歴史的な大事業において、中心的な役割を果たしたことだ。彼の尽力なくして、興正派の独立はありえなかっただろう。明治期には本山執事という最高幹部の任につき、宗派の実務を統括した。さらに、政府の太政官から小教正という称号を与えられ、天皇に拝謁を許されるほどの栄誉を得た。これは、当時の仏教界全体においても、彼の存在がいかに突出していたかを物語る。そして、彼は当時の政界の要人、三条実美公とも深い親交を結び、その交流は今日まで語り継がれている。旧五摂家の一つ、鷹司家から寺紋を下賜されたという勝覚寺の由緒は、まさにこの赤沢融海法師の功績と、本山との揺るぎない絆によって裏打ちされている。勝覚寺が「普通の寺院とは格が違う」と言われる所以は、単なる建物の壮麗さではなく、その背後にある深い歴史と、赤沢融海法師という人物の重みゆえなのだ。

第三章 陸を拓き、道を繋いだ高松藩の要
江戸時代、森家は高松藩において、普請(ふしん)、すなわち土木工事に携わる重要な役目を担っていた。彼らはただの職人ではなかった。橋や道路を建設し、人々の暮らしを豊かにする地域のインフラ整備に尽力した。それは、まさに藩の発展の礎を築く、地味ながらも極めて重要な仕事だった。
彼らの手掛けた仕事は、生活道路にとどまらない。信仰の象徴である金刀比羅宮の石段造営にもその技術と情熱を捧げたという。石段を一段一段積み上げる彼らの手には、地域の発展と民の安寧への貢献という、静かなる誇りが宿っていたに違いない。そして、東かがわ市に今も残る「柏谷(かしわだに)」という地名。それは、森家が柏の木が生い茂る未開の山を切り開き、新たな土地を開拓した功績に由来すると伝えられている。地名として刻まれたその足跡は、森家が地域社会にいかに深く根ざし、その発展に貢献してきたかを雄弁に物語っている。


第四章 幾重にも絡み合う縁:時代を彩る血と絆
私の家系図は、まるで絢爛たる織物のように、幾重にも重なる婚姻の糸で結ばれ、驚くべき人物たちとの繋がりを織りなしてきた。私のルーツを辿る旅は、しばしば予期せぬ有名人との邂逅を私にもたらす。
高祖父、森喜平は、高松藩の普請方として働いていた。彼の伴侶となったのは、徳島藩で碁浦番所役人と庄屋を兼任していた八田家の当主、八田孫平の長女、キヨだった。八田家は200年以上にわたり、徳島藩の要職を担う「禄持ち」の家柄。そして、阿波水軍森家とも古くから繋がりを持っていた。この藩を越えた婚姻は、単なる縁結びではない。それぞれの家が持つ歴史的背景と職務上の連携が、血縁という形で結実したのだ。この碁浦番所には、江戸時代の知の巨匠たちが足跡を残している。日本地図を完成させた伊能忠敬、私財を投じて坂出の塩田を開発した久米通賢、そして北海道の名付け親として知られる探検家 松浦武四郎。彼らが訪れた碁浦番所を八田家が管理していたことを思うと、先祖たちの生きた時代が、いかに日本の近代化の胎動と重なっていたかを実感する。
私の曽祖父、森虎太郎は、東かがわ市黒羽にその名を残す黒羽城主、永塩因幡守氏継(ながしお いなばのかみ うじつぐ)の末裔にあたる庄屋、永峰家の長女チヨと結ばれた。
永塩因幡守氏継は1467年に黒羽神社を創建し、その後、応仁の乱で細川方として安富元綱らと共に壮絶な討ち死にを遂げた武将。武士の家系が帰農した永峰家との縁は、再び武士の血が私の家系に流れ込んだ瞬間だった。
そして、最も私を驚かせたのは、高祖父 森喜平の長女、森トヨと、東かがわ市黒羽の旧家である三谷宗家の三谷磯八の結婚だ。この三谷家こそ、戦国大名として一世を風靡した十河氏(そごうし)の血筋を引く名門だった。神櫛王を祖とし、十河氏と共に讃岐東部を支配した有力な家系。そして、この三谷宗家の分家(屋号:甚六)の末裔に、日本文学史にその名を刻む作家、瀬戸内寂聴(三谷晴美)さんがいらっしゃる。寂聴さんの先祖は江戸時代から代々、ここ黒羽で製糖業を営んでいた。
私の大伯母(祖父の姉)にあたる森トメノ(森虎太郎と永峰チヨの娘) は、明治生まれの女性だった。1925年(大正14年)から、国際都市・神戸の象徴ともいえる旧・神戸オリエンタルホテルで働き始める。当時としては稀有な英語を操り、激動の大正・昭和期をホテルの最前線で駆け抜けた。アインシュタイン、ヘレンケラー、マリリン・モンロー、川島芳子、そして昭和天皇――。世界中の名だたる著名人が宿泊するホテルで、彼女は、その時代の息吹を肌で感じていたのだ。当時の神戸新聞には、彼女のホテル勤務に関するインタビュー記事が残る。2.26事件発生時や戦中、戦後のホテルでの勤務について語っており、その足跡を今に伝えている。森トメノは叔母の森トヨ(森虎太郎の妹)が三谷家へ嫁いでおり、その関係から瀬戸内寂聴さんと交流があった。生前、神戸から香川へ帰省し、東かがわ市引田の積善坊での法事にも手伝いに行っていた。大叔母は、寂聴さんのことを本名で「晴美さん」と呼んでいた。私も子供の頃、大叔母が「今から、晴美さんのとこに手伝いに行ってくる」と言っていたのを覚えている。
そして、戦後の日本を歌で鼓舞し続けた「ブギの女王」笠置シヅ子さんも、香川県東かがわ市黒羽で製糖業を営む三谷家の出身だった。祖父を三谷栄五郎と言い、引田郵便局に勤めていた父 三谷陳平と谷口鳴尾の間に笠置さんは生まれた。止むに止まれぬ事情があり、生後間もなく大阪の亀井家(出身は引田町)の養子となったが、そのルーツは確かにこの黒羽(くれは)にある。今も、地元の三谷家は、分家の孫黒茂さんが伝統の讃岐和三盆の製造・販売を代々続けており、地域に深く根付いている。
・『碁浦番所 八田家文書』と阿波水軍森家の歴史を綴った『木瓜の香り』 阿波水軍森家は徳島藩で海上方として3000石を有した。

・高祖母の実家、今はなき碁浦番所 (徳島県鳴門市北灘町碁浦)。今は国道11号線が走っている。

・永塩因幡守氏継が1467年8月に創建した黒羽神社 (東かがわ市黒羽)。永塩因幡守氏継は、同じ年の10月3日に応仁の乱に細川方として参戦し、最も激しい戦いとなった京都御所北側の相国寺の戦いで安富元綱らと共に討ち死にした。



・【東かがわ市】瀬戸内寂聴さんのルーツを追う。戦国武将十河系三谷氏、屋号「甚六」。 和三盆と久米通賢と菩提寺の積善坊
https://note.com/redtiger/n/nc13b02277f24
・【東かがわ市黒羽出身】美空ひばりさんが物まねした歌手 笠置シヅ子さん。出生の秘密。東京ブギウギの大ヒット。祖父は漢学者。後援会長は東大総長 南原繁さん。ミラクルひかるさんも物まね!
https://note.com/redtiger/n/n9b16ffaa2d5a
第五章 戦火を越え、苦難を乗り越え、繋がれた命のバトン
しかし、私の家族の物語は、輝かしい歴史だけではない。幾度となく、激動の時代に翻弄され、深い悲しみを乗り越えてきた。
私の祖父は、日中戦争の最中、27歳という若さで戦没した。その時、祖母のお腹には、私の父が宿っていた。私の父は、自分の父の顔を知らずして育ち、そして、子供の頃に母も失った。10代で、香川の片田舎から、たった一人で神戸へと渡り、西洋料理人の道を志した。皿洗いから始まり、日々、鉄拳が飛び交う厳しい修行に耐え抜いた。その手は荒れ、体は疲弊したが、彼の心には決して折れない決意が宿っていた。戦中、戦後の日本国中が大変な時期に両親を亡くし筆舌には尽くし難い辛酸を舐めて育ってきた父は鉄拳制裁ぐらいでは動じない強固な精神力を宿していた。やがて、父は旧・神戸オリエンタルホテルで腕を振るい、その料理は石原裕次郎を始め、財界の多くの人々を魅了した。そして、父の料理は、昭和天皇や皇后両陛下、皇太子殿下(現 上皇)を含む皇族方の口に供されるという、料理人としての最高峰とも言える大役を果たした。晩餐後、十六菊花紋入りの煙草が下賜された。
また、作家の安部譲二さんの父、日本郵船から来た安部正夫氏がオリエンタルホテルの社長を務めていた時代に、父は皆勤表彰を受けている。その証である表彰状が今も残る。この頃、日航のパーサーをしながら安藤組組員だった安部譲二さんにも、父はホテルで何度も遭遇していたそうだ。2018年、私が安部譲二さんに父の件でメールを送ると、彼は確かにご両親の住んでいた神戸市垂水区のジェームス山の家や、旧神戸オリエンタルホテルに何度も足を運んでいたとの温かい返信をくださった。
私の母の人生もまた、壮絶なものだった。戦前、瓦工場を経営していた実父の仕事の関係で、日本の領土だった現在の北朝鮮の端川(タンチョン)市へ渡った。しかし、日本の敗戦後、彼女は現地に残留を余儀なくされる。ソ連軍の進駐、厳しい食料不足、伝染病、そして異国での差別と暴力。地獄のような日々の中、彼女は命からがら陸路を何日も歩き、船を乗り継いで、ようやく深夜、九州の門司の港ではなく海岸に辿り着いた。船は浜辺までは行けない為、甲板から木製に細長い板を浜辺近くまで渡し、バランスをとりながら歩いて浜辺近くまで歩いたそうだ。辺りは真っ暗な中、細い木の板を渡るのは相当怖かったようだ。北朝鮮からの引き揚げの話を聞くたびに、母の持つ途方もない生命力にただただ頭が下がる。門司港駅から高松駅に帰る際、門司港駅でスリにあい汽車賃を盗まれてしまった。だが、戦後の混乱期にも危篤な方がおり、お金を貸してくれて高松駅まで帰ることができた。
1946年の春ごろに実家にたどり着いた。その時、実家にいた父の兄の奥さんが作ってくれた豆ご飯がこの上なく美味しかったようで、今でも春になるとえんどう豆の豆ご飯を食べる。あの時のことを思いだしながら食べているのかもしれない。

・北朝鮮の端川市(たんせんし)

・1936年、日中戦争の最中に戦没した進軍ラッパを持つ祖父 (左)。祖父の長男である父が生まれてくるのを心待ちにしていたが無念にも生まれる前に我が子の顔を見ることなく亡くなってしまった。

・旧・神戸オリエンタルホテル。阪神淡路大震災の後、取り壊された。屋上に安部正夫氏が設置した灯台が見える。

・当時、オリエンタルホテルの第5代社長に就任していた日本郵船から来た安部正夫氏が、 「港街・神戸のシンボルに」と、 1964年(昭和39年)に日本で初めてホテルの敷地内に建つ公式灯台を設置した。下記は同じく屋上にあった昭和天皇の歌碑。この灯台と歌碑は、移動されて今も神戸メリケンパークオリエンタルホテルの最上階に残る。


・1969年12月1日に、株式会社オリエンタルホテル 取締役社長であった安部譲二さんの父 安部正夫氏から13年間皆勤を表彰されている。

・日本航空時代の安部譲二さん。当時、安部譲二さんは、父親の安部正夫さんが社長を務めていた神戸オリエンタルホテルにも神戸市垂水区のジェームズ山のお宅にも何度も訪れていた。 父は当時、ホテルの食材や調理器具の購買もしていた為、ジェームズ山のお宅に神戸牛を届けたこともある。安部譲二さんとは何度も遭遇していた。写真は、私が安部譲二さんから2018年12月20日付けのメールにて使用許可を頂いた。

エピローグ
現在、私はアメリカ、シンガポール、中国での長きにわたる海外生活を経て、日本でビジネス英語講師、全国通訳案内士(英語・中国語)、そして海外ビジネスコンサルタントとして活動している。
私のルーツを辿る旅は、単なる過去の確認ではない。それは、戦国の荒波を乗り越え、江戸の礎を築き、明治の変革を担い、昭和の激動を生き抜いた、名もなき、しかし確かに生きていた先祖たちの息吹を感じる旅だった。彼らの苦難と栄光、そして何よりも途方もない生命の強さが、私という存在に繋がっていることを、深く、深く実感している。
この物語は、個人の歴史が、いかに壮大な日本の歴史と絡み合い、そして現代の私たちにまで受け継がれているかを教えてくれる。私自身の人生もまた、この壮大な系譜の一部なのだ。この物語が、幾多の困難を乗り越えてきた家族の証として、そして、未来を生きる私たちへのメッセージとして、多くの人々に語り継がれていくことを心から願う。


著者プロフィール
モリヨシナリ (森啓成)
ビジネス英語講師、全国通訳案内士 (英語・中国語)、海外ビジネスコンサルタント
神戸市生まれ、香川県育ち。米国大学経営学部マーケティング専攻。
大手エレクトロニクス企業にて海外営業職に20年間従事(北京オフィス所長)。その後、香港、中国にて外資系商社設立に参画し、副社長を経て顧問に就任。
アメリカ、シンガポール、中国、ベルギーなど、海外滞在歴は計16年以上。
現在はBizconsul Office代表として、ビジネス英語講師、全国通訳案内士(英語・中国語)、海外ビジネスコンサルタントとして活動中。
観光庁インバウンド研修認定講師、四国遍路通訳ガイド協会会員、トリリンガル讃岐PRオフィサーも務める。
【保有資格】
- 英語: 全国通訳案内士、英検1級、TOEIC L&R: 965点 (L満点)、TESOL (英語教授法)、国連英検A級、ビジネス英検A級
- 中国語: 全国通訳案内士、香川せとうち地域通訳案内士、HSK6級
- ツーリズム: 総合旅行業務取扱管理者、国内旅行業務取扱管理者、国内旅程管理主任者、せとうち島旅ガイド
【メディア・研修実績】 香川県広報誌「THEかがわ」インタビュー記事掲載、瀬戸内海放送(KSB)及び岡山放送(OHK)ニュース番組コメント。
観光庁インバウンド研修認定講師として地方自治体や宿泊施設で登壇。
四国運輸局事業コンサルタント、 瀬戸内国際芸術祭オフィシャルツアー公式ガイド、香川せとうち地域通訳案内士インバウンド研修講師認定試験面接官を務める。
・香川県登録通訳案内士サイト
https://kagawa-tsuyakuguide.jp/ja/guide_profile/7/ja
・座右の銘は「雨垂れ石を穿つ」

