こんにちは。
トリリンガル讃岐PRオフィサーのモリヨシナリです。
今回はファミリーヒストリーについてです。
海外生活が長かった為、先祖のことは関心がありませんでしたが、身内の死をきっかけに戸籍謄本を入手し, 2, 3年前から少しずつ自分の先祖について調べ始めました。
調べだすと思いもよらなかった人物達との関係が浮かび上がってきました。
現在も調査中ですが、2025年4月時点で分かっていることを整理したいと思います。

🔸ファミリーヒストリー詳細 note記事 ↓
https://note.com/redtiger/n/n3ef6dfda8e8d
森家の先祖
森家の先祖は阿波水軍 森氏一族の分家で、森権平久村と関係があると伝わる。森権平は1583年、引田の戦いで長宗我部元親軍と戦って討ち死にした。
東かがわ市伊座に森権平久村の墓がある。位牌は引田の日下家にあり、過去帳は積善坊にある。これは、森権平の実叔母が引田の四宮家に嫁ぎ、その夫が日下家の養子となった関係による。
※四宮家は信州から讃岐に来た。
https://note.com/embed/notes/nb0a8fee603d1
引田の戦い – Wikipediaja.m.wikipedia.org
【オススメ】阿波水軍 森甚五兵衛 無料マンガ
森権平久村の兄 森村重が阿波水軍の初代 森甚五兵衛
森甚五兵衛|無料で読める偉人マンガ|B&G財団教科書では学べない「郷土ゆかりの偉人」のマンガを地域の皆さんの協働で製作し、ふるさとへの興味関心の向上(郷土教育)、将来のwww.bgf.or.jp

森権平の母は、阿波赤沢家一族の赤沢伊賀守の娘、祖母は撫養城主 小笠原家の娘。赤沢家は小笠原家の庶家にあたる。小笠原家も赤沢家も元は信州に住んでいた。


阿波赤沢家一族の板西城主 赤沢信濃守が中富川の戦いで長宗我部元親軍に敗れ、討ち死にした後、その一子が讃岐の小砂(こざれ)に逃れ、勝覚寺を開基した背景から森家の菩提寺は勝覚寺となった。

四国唯一の閣寺院である海暁閣 勝覚寺の二十世 赤沢融海法師は、三条実美公とも交流した。三つ紅葉の寺紋は、赤沢融海法師(庄松同行在世当時住職、本山興正寺執事)が、多年にわたる本山に対する功績に対し、旧五摂家 鷹司家より下賜されたものである。
勝覚寺は昭和の時代、テレビドラマ「裸の大将」の撮影地にもなった。

https://note.com/embed/notes/na5c5b76d351b
🔹海暁閣 勝覚寺サイト
高松藩 森家
高松藩に籍を置いていた森家は、藩内で普請の仕事をしていた。
橋や道路を作り、金刀比羅宮の石段造営にも参画した。柏の木が生い茂っていた山を切り開いて柏谷と名付けた。


小磯の浜に高松藩の松平の殿様が涼みにきた際は、お膳立てしなければならず経済的に大変だった。

戦前は甲冑、刀、槍があったが、戦中に国に供出した。刀のツバが残っており額に入れて飾っていた。https://note.com/embed/notes/n8e7d0fcb92c1
🔸高祖父の父〜
高祖父の父:
森義右エ門 (高松藩 普請方)
森権平久村の母が阿波の赤沢一族の赤沢伊賀守の娘であった関係から、同じ赤沢一族の板西城主 赤沢信濃守宗伝の一子が開基した海暁閣 勝覚寺が森家先祖代々の菩提寺となった。
高祖父母:
森喜平 (高松藩普請方) 1864年(元治元年)結婚
八田キヨ(徳島藩 碁浦番所役人兼庄屋 八田家当主 八田孫平の長女)
碁浦番所の役人を200年以上務めた八田家は地理的に高松藩との境、海沿いにあった為、海の警護役も兼ねていた。260年間、徳島藩の海防を担っていた阿波水軍 森家と八田家は既知の関係であり、そのような背景から藩をまたいで高松藩の森家と禄持ちの八田家は婚姻関係を持つに至った。
曽祖父母
森虎太郎 (農業) 1889年(明治22年)結婚
永峰チヨ (黒羽城主 永塩因幡守氏継 末裔、黒羽庄屋 永峰家 永峰市次郎の長女)
曽祖父の妹
森トヨ 1893年(明治26年)、黒羽 三谷総本家 三谷磯八と結婚。
瀬戸内寂聴(三谷晴美)さんは三谷総本家の分家。大叔母は引田の積善坊での瀬戸内家の法事には手伝いに行き参列していた。
祖父母
祖父 1937年、日中戦争の最中、香川県の善通寺陸軍病院丸亀分院にて20代で戦没。
祖母 若くして亡くなる
父母
父 幼少期に父母を亡くし、10代で神戸へ料理の修行に出る。西洋料理人。昭和天皇に料理献上


・高祖父の父 森義右エ門
高松藩で普請の仕事をしていた。
・高祖父母 森喜平 八田キヨと結婚
八田キヨは徳島藩の碁浦番所役人兼庄屋を200年以上務めた八田家の当主 八田孫平の長女だった。
碁浦番所は高松藩との境の海沿いにあり、海の警備役も担っていた為、260年間、徳島藩の海防役を務めた阿波水軍 森家と八田家には繋がりがあった。その関係から徳島藩の八田家と高松藩の森家の藩を跨いだ婚姻に至った。
碁浦番所には松浦武四郎や伊能忠敬、久米通賢らも訪れている。
https://note.com/embed/notes/nccf2d6252b70

・曽祖父 森虎太郎 永峰チヨと結婚
永峰チヨは、黒羽城主 永塩因幡守氏継の末裔。永塩因幡守氏継は、己の最期を悟ってか1467年8月に黒羽神社を創建した。その後、細川方として応仁の乱に参戦し、京都御所の北側にある相国寺で安富元綱らと共に壮絶な最期を遂げた。その後、永塩家は帰農し、永峰家に改姓した。
https://note.com/embed/notes/n131299065b53




・曽祖父 森虎太郎の妹 森トヨは黒羽の旧家 三谷家総本家の三谷磯八と結婚し分家
三谷家は戦国大名 十河氏 の流れを組む旧家。
瀬戸内寂聴さんもこの黒羽の三谷総本家の分家である三谷甚六の末裔にあたる。瀬戸内寂聴さんの父母の墓は引田の積善坊にある。
歌手の笠置シヅ子さんは黒羽の三谷家で生まれ、その後、亀井家の養子となった。笠置さんの養父母と弟の墓は引田の積善坊の隣りの萬生寺にある。引田の亀井家の菩提寺は萬生寺。笠置さんは萬生寺近くでコンサートも行ったことがある。

https://note.com/embed/notes/nc13b02277f24



・森虎太郎 永峰チヨの娘 森トメノの神戸新聞のインタビュー記事
明治生まれの大叔母(祖父の姉)は引田の積善坊で執り行われる瀬戸内寂聴さんの家の法事に出席していた。瀬戸内寂聴さんのことは、晴美さんと呼んでいた。
大叔母は、1924年に孫文と頭山満が会談した旧・神戸オリエンタルホテルに1925年(大正14年)から英語を使って電話交換手として働き出した。この旧・神戸オリエンタルホテルには、アインシュタインやヘレンケラー、マリリンモンロー、昭和天皇、皇族から政財界人、川島芳子などが宿泊した。
https:://note.com/embed/notes/n1541ea1b86e1


🔸黒羽の三谷家出身の笠置シヅ子さんの激動の人生
・祖父 20歳代で戦没
私の祖父は日中戦争の最中、1937年(昭和12年)10月20日に香川県の善通寺陸軍病院丸亀分院で無念にも20才そこそこの若さで亡くなった。私の父が祖母のお腹の中にいるときだった。



🔸善通寺陸軍病院丸亀分院の場所
丸亀城が所在する香川県丸亀市に歩兵第十二聯隊があった。
兵営では後に歩兵第百十二聯隊、歩兵第三百五十二聯隊、歩兵第四百四十九聯隊、歩兵第四百五十二聯隊が編成された。
また、隣接して善通寺陸軍病院 丸龜分院、丸龜西・東陸軍練兵場、丸龜歩兵作業場、城内射撃場、丸龜憲兵分遣隊があった。

歩兵第十二聯隊営門(昭和初期)
右側に「歩兵第十二聯隊」、左側に「善通寺陸軍病院丸龜分院」の門札が掛かる。現在の丸亀城近くにあった。

歩兵第十二聯隊我が国随一の石垣の高さを誇る現存12天守の1つ丸亀城が所在する香川県丸亀市に歩兵第十二聯隊がありました。兵営では後に歩兵第shinkokunippon.blog122.fc2.com
🔸日中戦争
日中戦争(中国名:中国抗日战争、第二次中日战争)
盧溝橋事件により発生した、1937年(昭和12年)7月7日から1945年(昭和20年)8月15日まで、大日本帝国と蔣介石率いる中華民国国民政府の間で行われた戦争。
支那事変(しなじへん)、日華事変(にっかじへん)、日支事変(にっしじへん)とも呼ばれる。
日中戦争 – Wikipediaja.m.wikipedia.org
・父 西洋料理人。 昭和天皇に料理献上
西洋料理人。オーナーシェフ。ホテルで勤務後、レストラン開業。
今は亡き父は、幼くして両親を亡くし口では言い表せないような苦労をしたようだ。本人の口からは聞いたことがないが。
戦後の混乱期に両親がいないと言う逆境の中にあり、肉体的、精神的に鍛えられたことは容易に想像できる。私が、小学生の頃、父が犬に噛まれた際、ガスコンロで、家にあった針をあぶり自分で傷口を縫っているのを見たことがある。今から考えれば色々な意味で恐ろしいことだ。
戦後のホテルは、軍隊並みに厳しく鉄拳制裁は日常であり、想像を絶する修行に耐えれたのも幼い頃からの境遇があったからだろう。普通の人ではホテルでの修行は耐えられないようだ。
ホテル勤務時代、当時、第12代 料理長だった伊藤孝二氏のもとで修行し、昭和天皇、皇族、政財界人、阪神タイガースの外国人選手、石原裕次郎さん等の俳優に料理を提供していた。
・旧神戸オリエンタルホテルとは?
オリエンタルホテル – Wikipediaja.m.wikipedia.org
・昭和天皇へ料理献上
日本が高度経済成長期にあった昭和30年代、神戸元町の京橋通りにあった旧・神戸オリエンタル・ホテルにて1つのプロジェクトチームが結成された。
そのプロジェクトの目的は、昭和天皇がオリエンタルホテルで宿泊する際の料理を作り献上することであった。
当時ホテルに勤務していた数百名の中から5名が御献上料理担当のメンバーに選抜された。
選抜メンバーは、第12代総料理長である伊藤孝二氏、石坂勇氏(後に名誉総料理長)、梶谷氏、森功、梅田氏の5名であった。
選抜メンバーは、料理を作る1ヶ月前から兵庫県庁職員立会のもと、健康診断、検便などの検査、そして、戸籍などの身元調査が開始された。
当時、私の父 森功の東かがわ市の実家にも調査員が訪れた。
昭和天皇への料理を作る1週間前になるとホテルから外へは出られず、ホテルに缶詰状態となり、抗生物質の投与が開始された。
料理に使う調理道具類は、全て大きな鍋で沸騰させた熱湯の中に入れられ絶えず煮沸消毒された。
昭和天皇へ実際に提供された料理は、神戸牛、明石の鯛など最高級の食材数種類の一番美味な箇所が少量ずつ献上された。
神戸牛は元町で現在も営業を続ける創業明治6年の「森谷商店」から提供された。





1958年、石原裕次郎さんは、日活の映画「赤い波止場」の撮影のため神戸に来ていた。「赤い波止場」は、舛田利雄監督、石原裕次郎、北原三枝出演の映画で、神戸港や三宮など全編神戸をロケ地として撮影された。ちなみに石原裕次郎さんは、兵庫県神戸市須磨区生まれ、北海道の小樽育ち。


1959年4月28日(昭和34年)。第12代総料理長 伊藤孝二氏(左)とともにホテル5階にて撮影。背後にある歌碑は、1956年(昭和31年)に昭和天皇が神戸に来た際、 旧・神戸オリエンタルホテルの屋上から、 神戸みなと祭・海上提灯行列の夜景を見た印象を、 翌年(昭和32年)、 宮中歌会始の儀に「灯」の御題のもとに詠んだもの。
この歌碑は、現在、神戸メリケンパークオリエンタルホテルの最上階14階のバルコニーにある。
< 歌の内容 >
「港まつり 光りかがやく夜の舟に こたへてわれも ともしびをふる」

オリエンタル・ホテルにて勤務した期間、昭和天皇、皇后、皇太子(平成天皇)、財界、政界の著名人、石原裕次郎さんに代表される芸能人、ジーン・バッキー投手を始めとする阪神タイガースの選手面々、当時、来島ドック社長であった坪内寿夫氏、そして、作家の安部譲二氏の父親である安部正夫氏らに料理を提供した。



石原裕次郎さんが、神戸オリエンタルホテルへ来た際は、何か軽食をとの注文があり、特製クラブサンドイッチを作って出した。
当時、父はあべの辻調理師学校や芦屋の主婦を対象とした料理教室の講師も務めていた。
安部譲二さんの父で日本郵政から来た安部正夫氏は神戸牛のステーキを好んで食した。私の父は、当時、オリエンタルホテルにて、食材から調理器具類(シャープの国産第一号電子レンジなど)まで購買もしていた為、安部さんから頼まれて神戸市垂水区のジェームズ山の自宅まで神戸牛を届けたこともあった。この頃、安部正夫氏は、オリエンタルホテルの第5代社長であり、息子である安部譲二さんを何度も見かけた。
当時の安部譲二さんはといえば、1961年1月に23歳で日本航空に入社、スチュワードからパーサーまで出世し、1965年1月に退社した。
退社の理由は、理不尽な要求をする乗客とトラブルになり殴ってしまったことをきっかけに、前科3犯(当時)で執行猶予中であることや暴力団組員であることが露見してのことだったそうである。




当時、オリエンタルホテルの第5代社長に就任していたこの日本郵船の安部正夫氏が、 「港街・神戸のシンボルに」と、 1964年(昭和39年)に日本で初めてホテルの敷地内に建つ公式灯台を設置した。この灯台は、今も神戸メリケンパークオリエンタルホテルの最上階に残る。

神戸メリケンパークオリエンタルホテル

父が1972年に開業した店

当時、香川県には、まだオープンキッチンで目の前でステーキを焼くスタイルは殆どなかった。

昭和、平成時代

現在

店紹介動画
– YouTubeEnjoy the videos and music you love, upload original content,m.youtube.com
インスタグラム リール
https://www.instagram.com/p/DCA6VrtsPwQ/?q=#ステーキレストランオリエンタル
■旧・神戸オリエンタル・ホテル歴代料理長:
明治時代、ルイ・ベギューがオーナー兼シェフを していた「オテル・デ・コロニー」の料理長に就任し、このホテルが、後に「神戸オリエンタルホテル」となり、黒沢為吉が初代料理長に就任する。
日本の西洋料理史に名高い伝説のシェフ達が歴代の料理長を務め西日本屈指の名門ホテルとしてその名を馳せた。
・旧神戸オリエンタルホテルの歴代料理長
第1代料理長:黒沢為吉
第2代:羽谷寅之助
第3代:米沢源兵衛
第4代:鈴木卯三郎
第5代:鈴本敏雄(1890~1967)『築地精養軒』の全盛期をもたらす
第6代:杉本甚之助(阪急百貨店食堂顧問、宝塚ホテル料理長など歴任、宝米ピラフの考案者)
第7代:内海藤太郎(1874~1946)『帝国ホテル』の礎を築く
第8代:木村健蔵(東洋ホテル料理長)
第9代:岡山広一(倉敷国際ホテル総料理長)
第10代:田上舜三(倉敷国際ホテル総料理長)
第12代:伊藤孝二。父は伊藤氏のもとで修行し、腕を磨いた。
第-代:石坂勇(神戸オリエンタルホテル名誉総料理長) 伊藤料理長のもと一緒に働いていた。父より1, 2年先輩だった。父は、「いっさん」と呼んでいた。
その他、兵庫県庁前で2016年11月12日まで営業していた『帝武陣』の山田美津弘さんは父の後輩にあたる。他の後輩、JR三宮駅前にあった「クックナカタ」の中田博一さんは旧オリエンタルホテルで料理長を務めた。
JR三宮駅北側の写真のビルの地下に「クックナカタ」があった。


2002年1月13日撮影。第12代総料理長 伊藤孝二氏を偲ぶ会。神戸メリケンパークオリエンタルホテルにて。
・百年の時を超えて蘇るカレーライス。神戸の旧オリエンタルホテル名誉総料理長・石坂勇がレシピを再現した「100年前のビーフカレー」
帝武陣
山田美津弘さんのお店。兵庫県庁前にあった神戸の伝統洋食店

【江 弘毅の食べること、飲むことについて毎日考える】10月9日神戸 県庁前 帝武陣江 弘毅が食べること、飲むことについて毎日考える140b.jp
帝武陣 (県庁前/洋食)★★★☆☆3.16s.tabelog.com
モリヨシナリのプロフィール
ビジネス英語講師、全国通訳案内士 (英語・中国語)、海外ビジネスコンサルタント
神戸市生まれ、香川県育ち。米国大学経営学部留学マーケティング専攻。
職歴:
- 大手エレクトロニクス企業にて海外営業職に20年間従事 (北京オフィス所長)
- 香港、中国にて外資系商社設立に参画、副社長を経て顧問
海外滞在歴:
- アメリカ: 2年
- シンガポール: 2年
- 中国: 12年
- ベルギー: 1ヵ月
現在の活動:
- Bizconsul Office 代表
- ビジネス英語講師、全国通訳案内士 (英語・中国語)、海外ビジネスコンサルタント
- 観光庁インバウンド研修認定講師
- 四国遍路通訳ガイド協会 会員
- トリリンガル讃岐PRオフィサー
保有資格:
- 英語: 全国通訳案内士、英検1級、TOEIC L&R: 965点 (L満点)、TESOL (英語教授法)、国連英検A級、ビジネス英検A級
- 中国語: 全国通訳案内士、香川せとうち地域通訳案内士、HSK6級
- ツーリズム: 総合旅行業務取扱管理者、国内旅行業務取扱管理者、国内旅程管理主任者、せとうち島旅ガイド
メディア実績:
- 香川県広報誌「THEかがわ」インタビュー記事掲載
- 瀬戸内海放送 (KSB) ニュース番組コメント
- 岡山放送 (OHK) ニュース番組コメント
研修/コンサルティング実績:
- 観光庁インバウンド研修認定講師として登壇 (香川県善通寺市役所、愛媛県西予市宿泊施設、他)
- 四国運輸局事業 (訪日外国人観光客向けレンタカー利用調査、アドベンチャーツーリズム他) コンサルタント
- 香川県主催 瀬戸内国際芸術祭オフィシャルツアー公式ガイド
- 香川せとうち地域通訳案内士インバウンド研修講師認定試験 面接官

以上
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・曽祖父 森虎太郎 永峰チヨと結婚
永峰チヨは、黒羽城主 永塩因幡守氏継の末裔。永塩因幡守氏継は、己の最期を悟ってか1467年8月に黒羽神社を創建した。その後、細川方として応仁の乱に参戦し、京都御所の北側にある相国寺で安富元綱らと共に壮絶な最期を遂げた。その後、永塩家は帰農し、永峰家に改姓した。
https://note.com/embed/notes/n131299065b53




・曽祖父 森虎太郎の妹 森トヨは黒羽の旧家 三谷家総本家の三谷磯八と結婚し分家
三谷家は戦国大名 十河氏 の流れを組む旧家。
瀬戸内寂聴さんもこの黒羽の三谷総本家の分家である三谷甚六の末裔にあたる。瀬戸内寂聴さんの父母の墓は引田の積善坊にある。
歌手の笠置シヅ子さんは黒羽の三谷家で生まれ、その後、亀井家の養子となった。笠置さんの養父母と弟の墓は引田の積善坊の隣りの萬生寺にある。引田の亀井家の菩提寺は萬生寺。笠置さんは萬生寺近くでコンサートも行ったことがある。




・森虎太郎 永峰チヨの娘 森トメノの神戸新聞のインタビュー記事
明治生まれの大叔母(祖父の姉)は引田の積善坊で執り行われる瀬戸内寂聴さんの家の法事に出席していた。瀬戸内寂聴さんのことは、晴美さんと呼んでいた。
大叔母は、1924年に孫文と頭山満が会談した旧・神戸オリエンタルホテルに1925年(大正14年)から英語を使って電話交換手として働き出した。この旧・神戸オリエンタルホテルには、アインシュタインやヘレンケラー、マリリンモンロー、昭和天皇、皇族から政財界人、川島芳子などが宿泊した。【昭和39年の神戸新聞】明治時代に東かがわ市で生まれた大伯母のインタビュー記事(古山桂子記者)! 旧・神戸オリエンタルホテルで英語を使い電話交換手のリーダーを務める! 川島芳子、昭和天皇宿泊時の勤務! 二・二六事件、GHQ占領時代の電話交換! 瀬戸内寂聴さんとの交流! | BIZCONSUL OFFICE🟣古いアルバムの中から大伯母が神戸新聞社の元論説委員の古山桂子さんからインタビューを受けた記事が出てきた。 大伯母は、まだbizconsul.nethttps://note.com/embed/notes/n1541ea1b86e1

黒羽の三谷家出身の笠置シヅ子さんの激動の人生【東かがわ市黒羽出身】美空ひばりさんが物まねした歌手 笠置シヅ子さん! 出生の秘密! 東京ブギウギの大ヒット! 祖父は漢学者! 後援会長は東大総長 南原繁さん! ミラクルひかるさんも物まね! | BIZCONSUL OFFICE🟣スポットライトの光が強ければ強いほど影は濃くなる。 笠置シヅ子さんは明るく活発にブギの女王として歌い、踊っていたが、人気bizconsul.net
・祖父 20歳代で戦没
私の祖父は日中戦争の最中、1937年(昭和12年)10月20日に香川県の善通寺陸軍病院丸亀分院で無念にも20才そこそこの若さで亡くなった。私の父が祖母のお腹の中にいるときだった。



🔸善通寺陸軍病院丸亀分院の場所
丸亀城が所在する香川県丸亀市に歩兵第十二聯隊があった。
兵営では後に歩兵第百十二聯隊、歩兵第三百五十二聯隊、歩兵第四百四十九聯隊、歩兵第四百五十二聯隊が編成された。
また、隣接して善通寺陸軍病院 丸龜分院、丸龜西・東陸軍練兵場、丸龜歩兵作業場、城内射撃場、丸龜憲兵分遣隊があった。

歩兵第十二聯隊営門(昭和初期)
右側に「歩兵第十二聯隊」、左側に「善通寺陸軍病院丸龜分院」の門札が掛かる。現在の丸亀城近くにあった。

歩兵第十二聯隊我が国随一の石垣の高さを誇る現存12天守の1つ丸亀城が所在する香川県丸亀市に歩兵第十二聯隊がありました。兵営では後に歩兵第shinkokunippon.blog122.fc2.com
🔸日中戦争
日中戦争(中国名:中国抗日战争、第二次中日战争)
盧溝橋事件により発生した、1937年(昭和12年)7月7日から1945年(昭和20年)8月15日まで、大日本帝国と蔣介石率いる中華民国国民政府の間で行われた戦争。
支那事変(しなじへん)、日華事変(にっかじへん)、日支事変(にっしじへん)とも呼ばれる。日中戦争 – Wikipediaja.m.wikipedia.org
・父 西洋料理人。 昭和天皇に料理献上
西洋料理人。オーナーシェフ。ホテルで勤務後、レストラン開業。
今は亡き父は、幼くして両親を亡くし口では言い表せないような苦労をしたようだ。本人の口からは聞いたことがないが。
戦後の混乱期に両親がいないと言う逆境の中にあり、肉体的、精神的に鍛えられたことは容易に想像できる。私が、小学生の頃、父が犬に噛まれた際、ガスコンロで、家にあった針をあぶり自分で傷口を縫っているのを見たことがある。今から考えれば色々な意味で恐ろしいことだ。
戦後のホテルは、軍隊並みに厳しく鉄拳制裁は日常であり、想像を絶する修行に耐えれたのも幼い頃からの境遇があったからだろう。普通の人ではホテルでの修行は耐えられないようだ。
ホテル勤務時代、当時、第12代 料理長だった伊藤孝二氏のもとで修行し、昭和天皇、皇族、政財界人、阪神タイガースの外国人選手、石原裕次郎さん等の俳優に料理を提供していた。
・旧神戸オリエンタルホテルとは?
1870年(明治3年)に開業した日本最古級の西洋式ホテルオリエンタルホテル – Wikipediaja.m.wikipedia.org
・昭和天皇へ料理献上
日本が高度経済成長期にあった昭和30年代、神戸元町の京橋通りにあった旧・神戸オリエンタル・ホテルにて1つのプロジェクトチームが結成された。
そのプロジェクトの目的は、昭和天皇がオリエンタルホテルで宿泊する際の料理を作り献上することであった。
当時ホテルに勤務していた数百名の中から5名が御献上料理担当のメンバーに選抜された。
選抜メンバーは、第12代総料理長である伊藤孝二氏、石坂勇氏(後に名誉総料理長)、梶谷氏、森功、梅田氏の5名であった。
選抜メンバーは、料理を作る1ヶ月前から兵庫県庁職員立会のもと、健康診断、検便などの検査、そして、戸籍などの身元調査が開始された。
当時、私の父 森功の東かがわ市の実家にも調査員が訪れた。
昭和天皇への料理を作る1週間前になるとホテルから外へは出られず、ホテルに缶詰状態となり、抗生物質の投与が開始された。
料理に使う調理道具類は、全て大きな鍋で沸騰させた熱湯の中に入れられ絶えず煮沸消毒された。
昭和天皇へ実際に提供された料理は、神戸牛、明石の鯛など最高級の食材数種類の一番美味な箇所が少量ずつ献上された。
神戸牛は元町で現在も営業を続ける創業明治6年の「森谷商店」から提供された。





1958年、石原裕次郎さんは、日活の映画「赤い波止場」の撮影のため神戸に来ていた。「赤い波止場」は、舛田利雄監督、石原裕次郎、北原三枝出演の映画で、神戸港や三宮など全編神戸をロケ地として撮影された。ちなみに石原裕次郎さんは、兵庫県神戸市須磨区生まれ、北海道の小樽育ち。


1959年4月28日(昭和34年)。第12代総料理長 伊藤孝二氏(左)とともにホテル5階にて撮影。背後にある歌碑は、1956年(昭和31年)に昭和天皇が神戸に来た際、 旧・神戸オリエンタルホテルの屋上から、 神戸みなと祭・海上提灯行列の夜景を見た印象を、 翌年(昭和32年)、 宮中歌会始の儀に「灯」の御題のもとに詠んだもの。
この歌碑は、現在、神戸メリケンパークオリエンタルホテルの最上階14階のバルコニーにある。
< 歌の内容 >
「港まつり 光りかがやく夜の舟に こたへてわれも ともしびをふる」

オリエンタル・ホテルにて勤務した期間、昭和天皇、皇后、皇太子(平成天皇)、財界、政界の著名人、石原裕次郎さんに代表される芸能人、ジーン・バッキー投手を始めとする阪神タイガースの選手面々、当時、来島ドック社長であった坪内寿夫氏、そして、作家の安部譲二氏の父親である安部正夫氏らに料理を提供した。



石原裕次郎さんが、神戸オリエンタルホテルへ来た際は、何か軽食をとの注文があり、特製クラブサンドイッチを作って出した。
当時、父はあべの辻調理師学校や芦屋の主婦を対象とした料理教室の講師も務めていた。
安部譲二さんの父で日本郵政から来た安部正夫氏は神戸牛のステーキを好んで食した。私の父は、当時、オリエンタルホテルにて、食材から調理器具類(シャープの国産第一号電子レンジなど)まで購買もしていた為、安部さんから頼まれて神戸市垂水区のジェームズ山の自宅まで神戸牛を届けたこともあった。この頃、安部正夫氏は、オリエンタルホテルの第5代社長であり、息子である安部譲二さんを何度も見かけた。
当時の安部譲二さんはといえば、1961年1月に23歳で日本航空に入社、スチュワードからパーサーまで出世し、1965年1月に退社した。
退社の理由は、理不尽な要求をする乗客とトラブルになり殴ってしまったことをきっかけに、前科3犯(当時)で執行猶予中であることや暴力団組員であることが露見してのことだったそうである。




当時、オリエンタルホテルの第5代社長に就任していたこの日本郵船の安部正夫氏が、 「港街・神戸のシンボルに」と、 1964年(昭和39年)に日本で初めてホテルの敷地内に建つ公式灯台を設置した。この灯台は、今も神戸メリケンパークオリエンタルホテルの最上階に残る。

神戸メリケンパークオリエンタルホテル

父が1972年に開業した店

当時、香川県には、まだオープンキッチンで目の前でステーキを焼くスタイルは殆どなかった。

昭和、平成時代

現在

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■旧・神戸オリエンタル・ホテル歴代料理長:
明治時代、ルイ・ベギューがオーナー兼シェフを していた「オテル・デ・コロニー」の料理長に就任し、このホテルが、後に「神戸オリエンタルホテル」となり、黒沢為吉が初代料理長に就任する。
日本の西洋料理史に名高い伝説のシェフ達が歴代の料理長を務め西日本屈指の名門ホテルとしてその名を馳せた。
・旧神戸オリエンタルホテルの歴代料理長
第1代料理長:黒沢為吉
第2代:羽谷寅之助
第3代:米沢源兵衛
第4代:鈴木卯三郎
第5代:鈴本敏雄(1890~1967)『築地精養軒』の全盛期をもたらす
第6代:杉本甚之助(阪急百貨店食堂顧問、宝塚ホテル料理長など歴任、宝米ピラフの考案者)
第7代:内海藤太郎(1874~1946)『帝国ホテル』の礎を築く
第8代:木村健蔵(東洋ホテル料理長)
第9代:岡山広一(倉敷国際ホテル総料理長)
第10代:田上舜三(倉敷国際ホテル総料理長)
第12代:伊藤孝二。父は伊藤氏のもとで修行し、腕を磨いた。
第-代:石坂勇(神戸オリエンタルホテル名誉総料理長) 伊藤料理長のもと一緒に働いていた。父より1, 2年先輩だった。父は、「いっさん」と呼んでいた。
その他、兵庫県庁前で2016年11月12日まで営業していた『帝武陣』の山田美津弘さんは父の後輩にあたる。他の後輩、JR三宮駅前にあった「クックナカタ」の中田博一さんは旧オリエンタルホテルで料理長を務めた。
JR三宮駅北側の写真のビルの地下に「クックナカタ」があった。


2002年1月13日撮影。第12代総料理長 伊藤孝二氏を偲ぶ会。神戸メリケンパークオリエンタルホテルにて。
・百年の時を超えて蘇るカレーライス。神戸の旧オリエンタルホテル名誉総料理長・石坂勇がレシピを再現した「100年前のビーフカレー」LOHACO – エム・シーシー食品 100年前のビーフカレー 1セット(2個) MCCエム・シーシー食品 100年前のビーフカレー 1セット(2個) MCC|LOHACOは最短翌日お届け。PayPayが使えるlohaco.yahoo.co.jp
帝武陣
山田美津弘さんのお店。兵庫県庁前にあった神戸の伝統洋食店

【江 弘毅の食べること、飲むことについて毎日考える】10月9日神戸 県庁前 帝武陣江 弘毅が食べること、飲むことについて毎日考える140b.jp帝武陣 (県庁前/洋食)★★★☆☆3.16s.tabelog.com神戸新聞NEXT|連載・特集|兵庫人|兵庫人 第5部 食と農の達人たち|(1-1)料理人の夢 偽装表示、安全性不安、食料危機…。「食」が大きく揺らいでいる。その中で「食」を大切に守り育て、魅力を伝える人たちをたどるwww.kobe-np.co.jp
モリヨシナリのプロフィール
ビジネス英語講師、全国通訳案内士 (英語・中国語)、海外ビジネスコンサルタント
神戸市生まれ、香川県育ち。米国大学経営学部留学マーケティング専攻。
職歴:
- 大手エレクトロニクス企業にて海外営業職に20年間従事 (北京オフィス所長)
- 香港、中国にて外資系商社設立に参画、副社長を経て顧問
海外滞在歴:
- アメリカ: 2年
- シンガポール: 2年
- 中国: 12年
- ベルギー: 1ヵ月
現在の活動:
- Bizconsul Office 代表
- ビジネス英語講師、全国通訳案内士 (英語・中国語)、海外ビジネスコンサルタント
- 観光庁インバウンド研修認定講師
- 四国遍路通訳ガイド協会 会員
- トリリンガル讃岐PRオフィサー
保有資格:
- 英語: 全国通訳案内士、英検1級、TOEIC L&R: 965点 (L満点)、TESOL (英語教授法)、国連英検A級、ビジネス英検A級
- 中国語: 全国通訳案内士、香川せとうち地域通訳案内士、HSK6級
- ツーリズム: 総合旅行業務取扱管理者、国内旅行業務取扱管理者、国内旅程管理主任者、せとうち島旅ガイド
メディア実績:
- 香川県広報誌「THEかがわ」インタビュー記事掲載
- 瀬戸内海放送 (KSB) ニュース番組コメント
- 岡山放送 (OHK) ニュース番組コメント
研修/コンサルティング実績:
- 観光庁インバウンド研修認定講師として登壇 (香川県善通寺市役所、愛媛県西予市宿泊施設、他)
- 四国運輸局事業 (訪日外国人観光客向けレンタカー利用調査、アドベンチャーツーリズム他) コンサルタント
- 香川県主催 瀬戸内国際芸術祭オフィシャルツアー公式ガイド
- 香川せとうち地域通訳案内士インバウンド研修講師認定試験 面接官

以上
・曽祖父 森虎太郎の妹 森トヨは黒羽の旧家 三谷家総本家の三谷磯八と結婚し分家
三谷家は戦国大名 十河氏 の流れを組む旧家。
瀬戸内寂聴さんもこの黒羽の三谷総本家の分家である三谷甚六の末裔にあたる。瀬戸内寂聴さんの父母の墓は引田の積善坊にある。
歌手の笠置シヅ子さんは黒羽の三谷家で生まれ、その後、亀井家の養子となった。笠置さんの養父母と弟の墓は引田の積善坊の隣りの萬生寺にある。引田の亀井家の菩提寺は萬生寺。笠置さんは萬生寺近くでコンサートも行ったことがある。




・森虎太郎 永峰チヨの娘 森トメノの神戸新聞のインタビュー記事
明治生まれの大叔母(祖父の姉)は引田の積善坊で執り行われる瀬戸内寂聴さんの家の法事に出席していた。瀬戸内寂聴さんのことは、晴美さんと呼んでいた。
大叔母は、1924年に孫文と頭山満が会談した旧・神戸オリエンタルホテルに1925年(大正14年)から英語を使って電話交換手として働き出した。この旧・神戸オリエンタルホテルには、アインシュタインやヘレンケラー、マリリンモンロー、昭和天皇、皇族から政財界人、川島芳子などが宿泊した。【昭和39年の神戸新聞】明治時代に東かがわ市で生まれた大伯母のインタビュー記事(古山桂子記者)! 旧・神戸オリエンタルホテルで英語を使い電話交換手のリーダーを務める! 川島芳子、昭和天皇宿泊時の勤務! 二・二六事件、GHQ占領時代の電話交換! 瀬戸内寂聴さんとの交流! | BIZCONSUL OFFICE🟣古いアルバムの中から大伯母が神戸新聞社の元論説委員の古山桂子さんからインタビューを受けた記事が出てきた。 大伯母は、まだbizconsul.nethttps://note.com/embed/notes/n1541ea1b86e1

黒羽の三谷家出身の笠置シヅ子さんの激動の人生【東かがわ市黒羽出身】美空ひばりさんが物まねした歌手 笠置シヅ子さん! 出生の秘密! 東京ブギウギの大ヒット! 祖父は漢学者! 後援会長は東大総長 南原繁さん! ミラクルひかるさんも物まね! | BIZCONSUL OFFICE🟣スポットライトの光が強ければ強いほど影は濃くなる。 笠置シヅ子さんは明るく活発にブギの女王として歌い、踊っていたが、人気bizconsul.net
・祖父 20歳代で戦没
私の祖父は日中戦争の最中、1937年(昭和12年)10月20日に香川県の善通寺陸軍病院丸亀分院で無念にも20才そこそこの若さで亡くなった。私の父が祖母のお腹の中にいるときだった。



🔸善通寺陸軍病院丸亀分院の場所
丸亀城が所在する香川県丸亀市に歩兵第十二聯隊があった。
兵営では後に歩兵第百十二聯隊、歩兵第三百五十二聯隊、歩兵第四百四十九聯隊、歩兵第四百五十二聯隊が編成された。
また、隣接して善通寺陸軍病院 丸龜分院、丸龜西・東陸軍練兵場、丸龜歩兵作業場、城内射撃場、丸龜憲兵分遣隊があった。

歩兵第十二聯隊営門(昭和初期)
右側に「歩兵第十二聯隊」、左側に「善通寺陸軍病院丸龜分院」の門札が掛かる。現在の丸亀城近くにあった。

歩兵第十二聯隊我が国随一の石垣の高さを誇る現存12天守の1つ丸亀城が所在する香川県丸亀市に歩兵第十二聯隊がありました。兵営では後に歩兵第shinkokunippon.blog122.fc2.com
🔸日中戦争
日中戦争(中国名:中国抗日战争、第二次中日战争)
盧溝橋事件により発生した、1937年(昭和12年)7月7日から1945年(昭和20年)8月15日まで、大日本帝国と蔣介石率いる中華民国国民政府の間で行われた戦争。
支那事変(しなじへん)、日華事変(にっかじへん)、日支事変(にっしじへん)とも呼ばれる。日中戦争 – Wikipediaja.m.wikipedia.org
・父 西洋料理人。 昭和天皇に料理献上
西洋料理人。オーナーシェフ。ホテルで勤務後、レストラン開業。
今は亡き父は、幼くして両親を亡くし口では言い表せないような苦労をしたようだ。本人の口からは聞いたことがないが。
戦後の混乱期に両親がいないと言う逆境の中にあり、肉体的、精神的に鍛えられたことは容易に想像できる。私が、小学生の頃、父が犬に噛まれた際、ガスコンロで、家にあった針をあぶり自分で傷口を縫っているのを見たことがある。今から考えれば色々な意味で恐ろしいことだ。
戦後のホテルは、軍隊並みに厳しく鉄拳制裁は日常であり、想像を絶する修行に耐えれたのも幼い頃からの境遇があったからだろう。普通の人ではホテルでの修行は耐えられないようだ。
ホテル勤務時代、当時、第12代 料理長だった伊藤孝二氏のもとで修行し、昭和天皇、皇族、政財界人、阪神タイガースの外国人選手、石原裕次郎さん等の俳優に料理を提供していた。
・旧神戸オリエンタルホテルとは?
1870年(明治3年)に開業した日本最古級の西洋式ホテルオリエンタルホテル – Wikipediaja.m.wikipedia.org
・昭和天皇へ料理献上
日本が高度経済成長期にあった昭和30年代、神戸元町の京橋通りにあった旧・神戸オリエンタル・ホテルにて1つのプロジェクトチームが結成された。
そのプロジェクトの目的は、昭和天皇がオリエンタルホテルで宿泊する際の料理を作り献上することであった。
当時ホテルに勤務していた数百名の中から5名が御献上料理担当のメンバーに選抜された。
選抜メンバーは、第12代総料理長である伊藤孝二氏、石坂勇氏(後に名誉総料理長)、梶谷氏、森功、梅田氏の5名であった。
選抜メンバーは、料理を作る1ヶ月前から兵庫県庁職員立会のもと、健康診断、検便などの検査、そして、戸籍などの身元調査が開始された。
当時、私の父 森功の東かがわ市の実家にも調査員が訪れた。
昭和天皇への料理を作る1週間前になるとホテルから外へは出られず、ホテルに缶詰状態となり、抗生物質の投与が開始された。
料理に使う調理道具類は、全て大きな鍋で沸騰させた熱湯の中に入れられ絶えず煮沸消毒された。
昭和天皇へ実際に提供された料理は、神戸牛、明石の鯛など最高級の食材数種類の一番美味な箇所が少量ずつ献上された。
神戸牛は元町で現在も営業を続ける創業明治6年の「森谷商店」から提供された。





1958年、石原裕次郎さんは、日活の映画「赤い波止場」の撮影のため神戸に来ていた。「赤い波止場」は、舛田利雄監督、石原裕次郎、北原三枝出演の映画で、神戸港や三宮など全編神戸をロケ地として撮影された。ちなみに石原裕次郎さんは、兵庫県神戸市須磨区生まれ、北海道の小樽育ち。


1959年4月28日(昭和34年)。第12代総料理長 伊藤孝二氏(左)とともにホテル5階にて撮影。背後にある歌碑は、1956年(昭和31年)に昭和天皇が神戸に来た際、 旧・神戸オリエンタルホテルの屋上から、 神戸みなと祭・海上提灯行列の夜景を見た印象を、 翌年(昭和32年)、 宮中歌会始の儀に「灯」の御題のもとに詠んだもの。
この歌碑は、現在、神戸メリケンパークオリエンタルホテルの最上階14階のバルコニーにある。
< 歌の内容 >
「港まつり 光りかがやく夜の舟に こたへてわれも ともしびをふる」

オリエンタル・ホテルにて勤務した期間、昭和天皇、皇后、皇太子(平成天皇)、財界、政界の著名人、石原裕次郎さんに代表される芸能人、ジーン・バッキー投手を始めとする阪神タイガースの選手面々、当時、来島ドック社長であった坪内寿夫氏、そして、作家の安部譲二氏の父親である安部正夫氏らに料理を提供した。



石原裕次郎さんが、神戸オリエンタルホテルへ来た際は、何か軽食をとの注文があり、特製クラブサンドイッチを作って出した。
当時、父はあべの辻調理師学校や芦屋の主婦を対象とした料理教室の講師も務めていた。
安部譲二さんの父で日本郵政から来た安部正夫氏は神戸牛のステーキを好んで食した。私の父は、当時、オリエンタルホテルにて、食材から調理器具類(シャープの国産第一号電子レンジなど)まで購買もしていた為、安部さんから頼まれて神戸市垂水区のジェームズ山の自宅まで神戸牛を届けたこともあった。この頃、安部正夫氏は、オリエンタルホテルの第5代社長であり、息子である安部譲二さんを何度も見かけた。
当時の安部譲二さんはといえば、1961年1月に23歳で日本航空に入社、スチュワードからパーサーまで出世し、1965年1月に退社した。
退社の理由は、理不尽な要求をする乗客とトラブルになり殴ってしまったことをきっかけに、前科3犯(当時)で執行猶予中であることや暴力団組員であることが露見してのことだったそうである。




当時、オリエンタルホテルの第5代社長に就任していたこの日本郵船の安部正夫氏が、 「港街・神戸のシンボルに」と、 1964年(昭和39年)に日本で初めてホテルの敷地内に建つ公式灯台を設置した。この灯台は、今も神戸メリケンパークオリエンタルホテルの最上階に残る。

神戸メリケンパークオリエンタルホテル

父が1972年に開業した店

当時、香川県には、まだオープンキッチンで目の前でステーキを焼くスタイルは殆どなかった。

昭和、平成時代

現在

店紹介動画– YouTubeEnjoy the videos and music you love, upload original content,m.youtube.com
インスタグラム リール
https://www.instagram.com/p/DCA6VrtsPwQ/?q=#ステーキレストランオリエンタル
■旧・神戸オリエンタル・ホテル歴代料理長:
明治時代、ルイ・ベギューがオーナー兼シェフを していた「オテル・デ・コロニー」の料理長に就任し、このホテルが、後に「神戸オリエンタルホテル」となり、黒沢為吉が初代料理長に就任する。
日本の西洋料理史に名高い伝説のシェフ達が歴代の料理長を務め西日本屈指の名門ホテルとしてその名を馳せた。
・旧神戸オリエンタルホテルの歴代料理長
第1代料理長:黒沢為吉
第2代:羽谷寅之助
第3代:米沢源兵衛
第4代:鈴木卯三郎
第5代:鈴本敏雄(1890~1967)『築地精養軒』の全盛期をもたらす
第6代:杉本甚之助(阪急百貨店食堂顧問、宝塚ホテル料理長など歴任、宝米ピラフの考案者)
第7代:内海藤太郎(1874~1946)『帝国ホテル』の礎を築く
第8代:木村健蔵(東洋ホテル料理長)
第9代:岡山広一(倉敷国際ホテル総料理長)
第10代:田上舜三(倉敷国際ホテル総料理長)
第12代:伊藤孝二。父は伊藤氏のもとで修行し、腕を磨いた。
第-代:石坂勇(神戸オリエンタルホテル名誉総料理長) 伊藤料理長のもと一緒に働いていた。父より1, 2年先輩だった。父は、「いっさん」と呼んでいた。
その他、兵庫県庁前で2016年11月12日まで営業していた『帝武陣』の山田美津弘さんは父の後輩にあたる。他の後輩、JR三宮駅前にあった「クックナカタ」の中田博一さんは旧オリエンタルホテルで料理長を務めた。
JR三宮駅北側の写真のビルの地下に「クックナカタ」があった。


2002年1月13日撮影。第12代総料理長 伊藤孝二氏を偲ぶ会。神戸メリケンパークオリエンタルホテルにて。
・百年の時を超えて蘇るカレーライス。神戸の旧オリエンタルホテル名誉総料理長・石坂勇がレシピを再現した「100年前のビーフカレー」LOHACO – エム・シーシー食品 100年前のビーフカレー 1セット(2個) MCCエム・シーシー食品 100年前のビーフカレー 1セット(2個) MCC|LOHACOは最短翌日お届け。PayPayが使えるlohaco.yahoo.co.jp
帝武陣
山田美津弘さんのお店。兵庫県庁前にあった神戸の伝統洋食店

【江 弘毅の食べること、飲むことについて毎日考える】10月9日神戸 県庁前 帝武陣江 弘毅が食べること、飲むことについて毎日考える140b.jp帝武陣 (県庁前/洋食)★★★☆☆3.16s.tabelog.com神戸新聞NEXT|連載・特集|兵庫人|兵庫人 第5部 食と農の達人たち|(1-1)料理人の夢 偽装表示、安全性不安、食料危機…。「食」が大きく揺らいでいる。その中で「食」を大切に守り育て、魅力を伝える人たちをたどるwww.kobe-np.co.jp
モリヨシナリのプロフィール
ビジネス英語講師、全国通訳案内士 (英語・中国語)、海外ビジネスコンサルタント
神戸市生まれ、香川県育ち。米国大学経営学部留学マーケティング専攻。
職歴:
- 大手エレクトロニクス企業にて海外営業職に20年間従事 (北京オフィス所長)
- 香港、中国にて外資系商社設立に参画、副社長を経て顧問
海外滞在歴:
- アメリカ: 2年
- シンガポール: 2年
- 中国: 12年
- ベルギー: 1ヵ月
現在の活動:
- Bizconsul Office 代表
- ビジネス英語講師、全国通訳案内士 (英語・中国語)、海外ビジネスコンサルタント
- 観光庁インバウンド研修認定講師
- 四国遍路通訳ガイド協会 会員
- トリリンガル讃岐PRオフィサー
保有資格:
- 英語: 全国通訳案内士、英検1級、TOEIC L&R: 965点 (L満点)、TESOL (英語教授法)、国連英検A級、ビジネス英検A級
- 中国語: 全国通訳案内士、香川せとうち地域通訳案内士、HSK6級
- ツーリズム: 総合旅行業務取扱管理者、国内旅行業務取扱管理者、国内旅程管理主任者、せとうち島旅ガイド
メディア実績:
- 香川県広報誌「THEかがわ」インタビュー記事掲載
- 瀬戸内海放送 (KSB) ニュース番組コメント
- 岡山放送 (OHK) ニュース番組コメント
研修/コンサルティング実績:
- 観光庁インバウンド研修認定講師として登壇 (香川県善通寺市役所、愛媛県西予市宿泊施設、他)
- 四国運輸局事業 (訪日外国人観光客向けレンタカー利用調査、アドベンチャーツーリズム他) コンサルタント
- 香川県主催 瀬戸内国際芸術祭オフィシャルツアー公式ガイド
- 香川せとうち地域通訳案内士インバウンド研修講師認定試験 面接官

石原裕次郎さんが、神戸オリエンタルホテルへ来た際は、何か軽食をとの注文があり、特製クラブサンドイッチを作って出した。
当時、父はあべの辻調理師学校や芦屋の主婦を対象とした料理教室の講師も務めていた。
安部譲二さんの父で日本郵政から来た安部正夫氏は神戸牛のステーキを好んで食した。私の父は、当時、オリエンタルホテルにて、食材から調理器具類(シャープの国産第一号電子レンジなど)まで購買もしていた為、安部さんから頼まれて神戸市垂水区のジェームズ山の自宅まで神戸牛を届けたこともあった。この頃、安部正夫氏は、オリエンタルホテルの第5代社長であり、息子である安部譲二さんを何度も見かけた。
当時の安部譲二さんはといえば、1961年1月に23歳で日本航空に入社、スチュワードからパーサーまで出世し、1965年1月に退社した。
退社の理由は、理不尽な要求をする乗客とトラブルになり殴ってしまったことをきっかけに、前科3犯(当時)で執行猶予中であることや暴力団組員であることが露見してのことだったそうである。




当時、オリエンタルホテルの第5代社長に就任していたこの日本郵船の安部正夫氏が、 「港街・神戸のシンボルに」と、 1964年(昭和39年)に日本で初めてホテルの敷地内に建つ公式灯台を設置した。この灯台は、今も神戸メリケンパークオリエンタルホテルの最上階に残る。

神戸メリケンパークオリエンタルホテル

父が1972年に開業した店

当時、香川県には、まだオープンキッチンで目の前でステーキを焼くスタイルは殆どなかった。

昭和、平成時代

現在

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インスタグラム リール
https://www.instagram.com/p/DCA6VrtsPwQ/?q=#ステーキレストランオリエンタル
■旧・神戸オリエンタル・ホテル歴代料理長:
明治時代、ルイ・ベギューがオーナー兼シェフを していた「オテル・デ・コロニー」の料理長に就任し、このホテルが、後に「神戸オリエンタルホテル」となり、黒沢為吉が初代料理長に就任する。
日本の西洋料理史に名高い伝説のシェフ達が歴代の料理長を務め西日本屈指の名門ホテルとしてその名を馳せた。
・旧神戸オリエンタルホテルの歴代料理長
第1代料理長:黒沢為吉
第2代:羽谷寅之助
第3代:米沢源兵衛
第4代:鈴木卯三郎
第5代:鈴本敏雄(1890~1967)『築地精養軒』の全盛期をもたらす
第6代:杉本甚之助(阪急百貨店食堂顧問、宝塚ホテル料理長など歴任、宝米ピラフの考案者)
第7代:内海藤太郎(1874~1946)『帝国ホテル』の礎を築く
第8代:木村健蔵(東洋ホテル料理長)
第9代:岡山広一(倉敷国際ホテル総料理長)
第10代:田上舜三(倉敷国際ホテル総料理長)
第12代:伊藤孝二。父は伊藤氏のもとで修行し、腕を磨いた。
第-代:石坂勇(神戸オリエンタルホテル名誉総料理長) 伊藤料理長のもと一緒に働いていた。父より1, 2年先輩だった。父は、「いっさん」と呼んでいた。
その他、兵庫県庁前で2016年11月12日まで営業していた『帝武陣』の山田美津弘さんは父の後輩にあたる。他の後輩、JR三宮駅前にあった「クックナカタ」の中田博一さんは旧オリエンタルホテルで料理長を務めた。
JR三宮駅北側の写真のビルの地下に「クックナカタ」があった。


2002年1月13日撮影。第12代総料理長 伊藤孝二氏を偲ぶ会。神戸メリケンパークオリエンタルホテルにて。
・百年の時を超えて蘇るカレーライス。神戸の旧オリエンタルホテル名誉総料理長・石坂勇がレシピを再現した「100年前のビーフカレー」LOHACO – エム・シーシー食品 100年前のビーフカレー 1セット(2個) MCCエム・シーシー食品 100年前のビーフカレー 1セット(2個) MCC|LOHACOは最短翌日お届け。PayPayが使えるlohaco.yahoo.co.jp
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【江 弘毅の食べること、飲むことについて毎日考える】10月9日神戸 県庁前 帝武陣江 弘毅が食べること、飲むことについて毎日考える140b.jp帝武陣 (県庁前/洋食)★★★☆☆3.16s.tabelog.com神戸新聞NEXT|連載・特集|兵庫人|兵庫人 第5部 食と農の達人たち|(1-1)料理人の夢 偽装表示、安全性不安、食料危機…。「食」が大きく揺らいでいる。その中で「食」を大切に守り育て、魅力を伝える人たちをたどるwww.kobe-np.co.jp
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ビジネス英語講師、全国通訳案内士 (英語・中国語)、海外ビジネスコンサルタント
神戸市生まれ、香川県育ち。米国大学経営学部留学マーケティング専攻。
職歴:
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- 香港、中国にて外資系商社設立に参画、副社長を経て顧問
海外滞在歴:
- アメリカ: 2年
- シンガポール: 2年
- 中国: 12年
- ベルギー: 1ヵ月
現在の活動:
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- 観光庁インバウンド研修認定講師
- 四国遍路通訳ガイド協会 会員
- トリリンガル讃岐PRオフィサー
保有資格:
- 英語: 全国通訳案内士、英検1級、TOEIC L&R: 965点 (L満点)、TESOL (英語教授法)、国連英検A級、ビジネス英検A級
- 中国語: 全国通訳案内士、香川せとうち地域通訳案内士、HSK6級
- ツーリズム: 総合旅行業務取扱管理者、国内旅行業務取扱管理者、国内旅程管理主任者、せとうち島旅ガイド
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- 香川県広報誌「THEかがわ」インタビュー記事掲載
- 瀬戸内海放送 (KSB) ニュース番組コメント
- 岡山放送 (OHK) ニュース番組コメント
研修/コンサルティング実績:
- 観光庁インバウンド研修認定講師として登壇 (香川県善通寺市役所、愛媛県西予市宿泊施設、他)
- 四国運輸局事業 (訪日外国人観光客向けレンタカー利用調査、アドベンチャーツーリズム他) コンサルタント
- 香川県主催 瀬戸内国際芸術祭オフィシャルツアー公式ガイド
- 香川せとうち地域通訳案内士インバウンド研修講師認定試験 面接官

以上