こんにちは。
トリリンガル讃岐PRオフィサーのモリヨシナリです。
今回は、出雲の旧家に伝わる伝承に書かれた徐福到来からヤマト葛城への移住までの概要です。
出雲口伝の内容は記紀に書かれた歴史とは異なり、ヤマト王権側の視点ではなく、出雲族側からの視点で書かれています。
記紀には、編纂された目的や時代の制約から、「本当の歴史」が書かれているとは限りません。故に記紀を批判的に読み解き、考古学的発見や各地の風土記、寺社に伝わる古史古伝、旧家に伝承などと比較しながら考察することで、古代史の真の姿をより深く理解できるようになります。

目次
- モリヨシナリのプロフィール
- 出雲族: 徐福到来からヤマト葛城への移住
- 出雲口伝とは
- 古代出雲王国の構造
- 出雲王国の起源
- 出雲王国の変遷と徐福の影響1
- 出雲王国の変遷と徐福の影響2
- 東出雲王家(富家)の葛城移住
- 西出雲王家(神門臣家)の葛城移住
- 天村雲(天之村雲)の大和入りとヤマト王朝の成立
- 倭国大乱の概要
- 倭国大乱の3つの戦乱
- 天皇に関する情報
- 出雲王国の成立とヤマトとの関係
- 第一次出雲戦争の勃発
- 第一次出雲戦争の続き
- 出雲王国の対応
- 吉備王国の動き
- 第一次出雲戦争の終結とその後
- 第一次出雲戦争のポイント
- 第一次物部東征の背景
- 第一次物部東征の経過
- 第一次物部東征のポイント
- 磯城王朝の衰退と物部氏の台頭
- ヒミコの時代への移行
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モリヨシナリのプロフィール
ビジネス英語講師、全国通訳案内士 (英語・中国語)、海外ビジネスコンサルタント
神戸市生まれ、香川県育ち。米国大学経営学部留学マーケティング専攻。
職歴:
- 大手エレクトロニクス企業にて海外営業職に20年間従事 (北京オフィス所長)
- 香港、中国にて外資系商社設立に参画、副社長を経て顧問
海外滞在歴:
- アメリカ: 2年
- シンガポール: 2年
- 中国: 12年
- ベルギー: 1ヵ月
現在の活動:
- Bizconsul Office 代表
- ビジネス英語講師、全国通訳案内士 (英語・中国語)、海外ビジネスコンサルタント
- 観光庁インバウンド研修認定講師
- 四国遍路通訳ガイド協会 会員
- トリリンガル讃岐PRオフィサー
保有資格:
- 英語: 全国通訳案内士、英検1級、TOEIC L&R: 965点 (L満点)、TESOL (英語教授法)、国連英検A級、ビジネス英検A級
- 中国語: 全国通訳案内士、香川せとうち地域通訳案内士、HSK6級
- ツーリズム: 総合旅行業務取扱管理者、国内旅行業務取扱管理者、国内旅程管理主任者、せとうち島旅ガイド
メディア実績:
- 香川県広報誌「THEかがわ」インタビュー記事掲載
- 瀬戸内海放送 (KSB) ニュース番組コメント
- 岡山放送 (OHK) ニュース番組コメント
研修/コンサルティング実績:
- 観光庁インバウンド研修認定講師として登壇 (香川県善通寺市役所、愛媛県西予市宿泊施設、他)
- 四国運輸局事業 (訪日外国人観光客向けレンタカー利用調査、アドベンチャーツーリズム他) コンサルタント
- 香川県主催 瀬戸内国際芸術祭オフィシャルツアー公式ガイド
- 香川せとうち地域通訳案内士インバウンド研修講師認定試験 面接官

出雲族: 徐福到来からヤマト葛城への移住
出雲口伝とは
- 「出雲口伝」は、古事記や日本書紀とは異なる、古代出雲王国の真の歴史を伝える口承伝承です。
- この伝承は、出雲王国の末裔によって連綿と伝えられてきたとされ、古代史の「敗者側」の視点を提供しています。
- 特に、徐福(秦の始皇帝の命を受け、不老不死の薬を求めて日本に渡来したとされる人物)とその一族(秦族)が、古代出雲、しいては古代日本に与えた影響について詳しく語られています。
※記紀は歴史的事実の記録というよりも政治的な意図に基づいて編纂された。
『古事記』
国内の豪族達に対し天皇家の正統性を示し国内の統一を図る目的で編集された。
日本書紀』
中国など対外的に日本の国家としての威厳を示す目的で編集された。
→だから秦の国から来た徐福の存在は日本の歴史上、存在を消された。しかしながら、名を変えて各地の神社で祀られている。
古代出雲王国の構造
- 古代出雲王国は、西出雲王家(神門臣家)と東出雲王家(富家)の二つの王家によって構成されていました。
- 両王家は交互に主王(大名持)と副王(少彦)を輩出し、王国を統治していました。
出雲王国の起源
- 出雲王国を築いた人々は、約4000年前にインドのクナ国(マディア・プラデーシュ州)にいたドラヴィダ族のクナト王に率いられた人々であるとされています。
- 彼らは北へ向かい、ゴビ砂漠を越え、バイカル湖を渡り、アムール川を下って北海道を経由し、青森(三内丸山遺跡)に定住しました。
- その後、鉄の産地である山陰地方(出雲一帯)に移り住み、出雲王国を建国しました。
- クナト王の后は幸姫(サイヒメ)、その子はサルタヒコ(象神ガネーシャ)であり、この三神は幸神(サイノカミ)として出雲の民に祀られました。
- 島根にはクナト王を祀る出雲井神社が残っています。
- 東大阪市出雲井町の河内一宮枚岡神社もクナト王を祀っていたという説があります。
- コノハナサクヤ姫の父である大山祇命もクナト王と同一神であるとされています。

・縄文時代、大陸から移動してきたドラビィダ人は当時、日本に住んでいたブリヤート人らと混血していった。
縄文人の特徴
彫りが深く、手足が長い。
顔の幅が広く、頬骨や顎のえらが張っている。
現代人と比較して身長が低く、成人男性の平均は約158cm程度、女性は約148cm程度。
骨太で筋力が強く、手足も発達していた。
特に、前腕やすねの部分が比較的長く、胴が短く足が長いプロポーションだった。
・ブリヤート人

・ドラビィダ人
ドラヴィダ人 古代インド人と言っていい。インドの先住民と言ってもいい。 今はインド南部に多く居住。 「コーカソイド」

ドラヴィダ人の特徴
- 古モンゴロイド、もしくは南方モンゴロイドに属する。
- かなり古いモンゴロイドの一派であると考えられる。
- 身長は低い。
- 肌の色は黒い。
- 身長の割には手足は長く、頭は大きい。顔は小さい。
- 髭、体毛は濃い。だが、体毛の薄い者も多いようだ。
- 髪の毛は天然パーマや強いカールが多い。髪は湿っている。
- 肌は湿っている者が多い。
- 目はくっきり二重の大きな目。
- 目元が窪んでおり非常に彫の深い顔をしている。
- 非常に彫が深く、また、原始的な形質などと欧米で評される事が多かった為に、長年欧米の研究で黄色人種に分類されなかった。
- 唇は厚い。口は大きい。
- 鼻は大きく丸く短い。現在ではインド・アーリア人との混血で高く長い者も多い。ただ、元々高い地域もあったようだ。
- 血液型はO型75%、A型14%、B型8%、AB型3%。
- 頭は長頭。(頭の前後が長い)
- 現在、インド・アーリア系とかなり混血している。また、オーストラロイド系とも混血していると考えられる。
- 農耕・牧畜民である。
- 黄色人種全体に言える事ではあるが、IT(情報技術)などで高い才能を発揮している。
出雲王国の変遷と徐福の影響1
- 出雲王国の初代王は管之八耳(スガノヤツミミ)であり、后は稲田姫でした。
- 紀元前2世紀、8代目主王の八千戈王(ヤチホコ、大国主)と副王の八重波津身(ヤエハツミ、事代主)の時代に、秦の始皇帝の命を受けた徐福(ホアカリ)が秦族を率いて出雲王国にやってきました。
- 徐福が連れてきた秦族の一部は丹波国に移住し、これが後の海部家となりました。
- 徐福は西出雲王家の大国主の娘である高照姫を娶り、五十猛をもうけました。
- 徐福は出雲王国の王になろうと画策し、大国主と事代主を洞窟に幽閉し、枯死させました。
- 出雲の人々は怒り、徐福は秦へ逃げ帰りました。
- 残された息子の五十猛は大屋姫と出雲を離れ丹後へ移住し、名を香語山(カゴヤマ)と改めました。宮津市の籠神社にある家系図に載っている初代のホアカリ(ニギハヤヒ)は徐福です。
- 五十猛と大屋姫の子が高倉下(タカクラジ)であり、五十猛と穂屋姫の子がヤマト王朝初代大王の天村雲(アメノムラクモ)となりました。
- 秦へ戻った徐福は、始皇帝の許可を得て再び来日し、筑紫の浮盃(佐賀県諸冨町付近)に上陸しました。
- 筑紫ではニギハヤヒと名乗り、国を築きました(吉野ケ里遺跡)。
- 徐福(ニギハヤヒ)は西出雲王家の分家筋である宗像三姉妹の末娘、市杵島姫を妻に迎えました。
- その子、顔火々出彦は物部氏の祖となり、娘の穂屋姫は五十猛(香語山)に嫁ぎ、天村雲を生みました。
- 徐福(ニギハヤヒ)の末裔は九州を平定し、薩摩半島を経由して宮崎で都万王国を築きました。
- 都万王国の王は物部イニエ大王であり、記紀ではニニギノミコトまたは崇神天皇とされています。
- 物部イニエ大王は月読神を祀る宇佐・豊王国の豊玉姫と結婚し、勢力を拡大しました。
- 都万王国の都は西都原と呼ばれ発展しました。
- 物部イニエ大王の死後、子の物部イクメ大王と豊玉姫が大和への東征を行いました(紀元後3世紀の第二次物部東征)。
出雲王国の変遷と徐福の影響2
- 紀元前2世紀、出雲王国は、第8代主王である八千矛王(大国主)と、副王である八重波津身(事代主)が、徐福一派(秦族)によって枯死させられたことで、大きく変貌しました。
- 徐福と大国主の娘 高照姫の間に生まれた子、五十猛(イソタケ、後にカゴヤマ)は父と手下(穂日、タケヒナドリ、秦族の海童たちが大国主と事代主を暗殺した為、出雲には住みづらくなり丹後へと移住しました。そこで新たな王国を築きました。この家系が海家となります。京都府宮津市にある籠(カゴ)寺社の宮司家です。家系図の初代のホアカリ、ニギハヤヒとは徐福のことです。二代目がこのイソタケですが、名を変えカゴヤマと名乗ります。カゴヤマの息子がアメノムラクモで、後に初代ヤマトの大王となります。
- 徐福は、大国主と事代主の暗殺後、身の危険を感じ、秦の国に戻りますが、始皇帝を再度説得して今度は九州へ上陸し、ニギハヤヒと名乗ります(一度目の来日時はホアカリ)。徐福は、今度は、宗像三姉妹の末娘、市杵島姫命と結婚し、その間に生まれた穂屋姫と、五十猛(イソタケ)の子である天之村雲(アメノムラクモ)が結婚し、初代ヤマト大王となりました。つまり、神武天皇は存在しません。ヤマト王権の初代大王は、徐福(秦族、ユダヤ系)と穂屋姫(出雲族系)の血統です。
- 出雲王国では、事代主の長男、鳥鳴海が第9代出雲王となり、事代主の娘である美保須須美は美保神社を建立し、息子タケミナカタは諏訪へ移住し、諏訪王国をつくります。
- 事代主の別の后、活玉依姫は、秦族との共生を嫌い、娘タタラ五十鈴姫と息子である奇日方(クシヒカタ)を連れて摂津国三島へ戻りました。後にクシヒカタはヤマト葛城へ移住します。
東出雲王家(富家)の葛城移住
- クシヒカタは、大国主と事代主の暗殺後、徐福と秦族との共生を嫌った一部の出雲族を率いて、大和葛城地方へ移住しました。
- 葛城に鴨都波神社(奈良県御所市)を建立し、父・事代主を祀りました。鴨都波寺社横の弥生時代の遺跡、鴨都波遺跡と近くの秋津遺跡は出雲族の住居跡。
- クシヒカタは、葛城でサイノカミ信仰を広め、祝福の為、出雲井神社(島根県雲南市)が建立されるきっかけとなりました。
- 椿大神社(三重県鈴鹿市)は、富家の分家である宇治土公家によって創建され、サルタヒコ(サイノカミ)を祀っています。
- クシヒカタは、葛城山麓に一言主神社を建立し、事代主を祀りました。
- 一言主神社は、葛城之一言主大神と雄略天皇の伝説で知られています。
- 葛城地域では、出雲のタタラ製鉄技術が広まり、金属精錬が盛んになりました。

西出雲王家(神門臣家)の葛城移住
- 多岐津彦(大国主の孫、アジスキタカヒコの息子))は、クシヒカタを頼り葛城南部へ移住し、開拓を行いました。
- 高鴨神社(御所市)を建立し、父・味鋤高彦命と祖母・多岐津姫を祀りました。
- 多岐津彦の妹・大屋姫は、徐福の息子 五十猛(イソタケ)に嫁ぎ高倉司(タカクラジ)を儲け、後に葛城へ移住しました。
- 高倉司(タカクラジ)は紀伊国へ移住し、大屋都姫神社を建立し、紀伊家の祖となりました。
- 多岐津彦(タキツヒコ)は、葛木御歳神社を建立し、御歳神社・大歳神社の総本社としました。
- 高天彦神社は、高皇産霊(タクハタチヂヒメ)を祀り、物部氏によって創建された可能性があります。
- 高天彦神社の主祭神は「高皇産霊」(タカミムスビ)。「高天彦」は「高皇産霊」の別名。
高皇産霊は別名を「高木神」といい、彼女の名前は「栲幡千々姫」(タクハタチヂヒメ)であり、記紀では両者は母娘とされていますが、同一の人物。栲幡千々姫は日本に渡来した「徐福」の母親の日本名であると云い、徐福の父親は徐猛といい、記紀では「押穂根」(オシホネ)と書かれています。

天
村雲(天之村雲)の大和入りとヤマト王朝の成立
- 徐福の息子である五十猛(イソタケ)の子、天村雲(アマノムラクモ)は、丹波から大和葛城へ移住し、笛吹地区に火雷神社を建立しました。
- 天村雲(アマノムラクモ)が住んだ場所は、「高尾張邑」と呼ばれていたので、海家は尾張家と呼ばれるようになりました。
- 天村雲は、クシヒカタの妹タタラ五十鈴姫と結婚し、出雲族と共生し、初代ヤマト王朝の大王となりました。
- 天村雲がヤマトの初代大王に就任した時、その祝いとして出雲に住む出雲王が贈った剣が、「村雲ノ剣」である。熱田神宮に保管されています。三種に神器の一つ。
- ヤマト王朝の王家はその後、尾張家から登美家(磯城)へ移りますが、王位継承のシンボルとして勾玉の首飾りを作っています。
- 和歌山市の日前神宮の話によると、石凝姥命が鏡を造り、姫巫女に捧げましたが、それが今は伊勢内宮の神宝となっている、と云われているそうです。これらが三種の神器といわれるものです。
- 鏡作坐天照御魂神社は、武内宿禰が呉の鏡作り工人に三角縁神獣鏡を造らせた場所の一つと伝えてられています。

- 出雲口伝は、記紀とは異なる視点から古代史を捉える貴重な資料です。
- 出雲王家の葛城移住は、古代大和の政治・文化に大きな影響を与えました。
- 葛城地域は、出雲族の移住とタタラ製鉄技術の伝播により発展しました。
- 三種の神器の伝承と、鏡作坐天照御魂神社における三角縁神獣鏡の製造は、古代の技術や信仰を伝える重要な要素です。
倭国大乱の概要
- 時期:
- 後漢の桓帝・霊帝の時代(147年~188年)に発生。
- 『魏志倭人伝』によれば、男王が70~80年続いた後に発生。
- 内容:
- 倭国(日本)で発生した大規模な戦乱。
- 複数の戦争が連続して発生した。
- ヤマト朝廷の覇権争い、王朝の交代劇。
- 原因:
- 磯城王朝の弱体化。
- 出雲と物部の勢力争い。
- 結果:
- 卑弥呼の登場により戦乱が収束。
倭国大乱の3つの戦乱
- ヤマト内の覇権争い:
- 磯城王朝の弱体化と混乱。
- 第一次出雲戦争:
- フトニ大王(孝霊天皇)による出雲攻撃。
- 吉備王国の成立。
- 出雲の弱体化。
- 第一次物部東征:
- 物部氏のヤマト進出の足がかり。
天皇に関する情報
- 王朝の変遷:
- 海王朝(初代:アマノムラクモ)
- 磯城王朝(3代目:タマテミ以降)
- 物部王朝(10代目:イニエ以降)
- 天皇の一覧(出雲伝承に基づく):
- アマノムラクモ(神武天皇は存在しなかった)
- ヌナカワ(綏靖天皇)
- タマテミ(安寧天皇)
- オオヤマトヒコスキトモノミコト(懿徳天皇)
- ミマツヒコカエシネノミコト(孝昭天皇)
- オオヤマトタラシヒコクニオシヒトノミコト(孝安天皇)
- フトニ(孝霊天皇)
- クニクル(孝元天皇)
- オオヒビ(開化天皇)
- イニエ(崇神天皇)
- イクメ(垂仁天皇)
- オオシロワケ(景行天皇)
- 天皇に関する補足:
- 2代目から9代目までは「欠史八代」として実在を疑問視する説があるが実在する。
- 9代目と10代目の間には王朝の断絶がある。
- 10代目のイニエは物部王朝の初代。
- 11代目のイクメが大王としてヤマトへはいった最初の物部王である。
その他の情報
- ヒボコ(天日槍):
- 新羅の王子。
- 兵庫県豊岡市に上陸し、出石神社を拠点とした。
- 出雲王国の播磨を攻略し、出雲とヤマトを分断。
- ヒボコの子孫の活動が倭国大乱を引き起こす要因の一つになった。
出雲王国の成立とヤマトとの関係
- 出雲王国の成立:
- 紀元前660年頃に成立。
- 東出雲王国と西出雲王国からなる。
- 東出雲王国の王宮は神魂神社、西出雲王国の王宮は智伊神社。
- 両王家は交互に王を出し、友好関係を維持。
- ヤマトとの関係:
- 当初は友好関係にあった。
- 当時のヤマトは出雲王国の連合体のようなもので、ヤマトの中心は出雲族であった。
- 初代大王はアマノムラクモであり、出雲王から贈られた剣は後に熱田神宮の草薙剣となった。
- 出雲王国の特徴
- 磐座を祀る文化を持つ。
- 王墓を王宮の裏手に祀る。
第一次出雲戦争の勃発
- 原因:
- 150年頃、ヒボコの子孫が出雲王国の播磨を奪った。
- 出雲王国がヤマト(フトニ大王)に救援を求めたが、フトニ大王はこれを無視。
- その後フトニ大王は二人の王子に播磨を奪還させたが、そのまま出雲領吉備国に侵入し占領した。
- 吉備を手に入れたフトニ大王は吉備王国を立て、出雲王国に属国化と銅鐸・銅剣の献上を要求。
- 出雲王国がこれを拒否したため、吉備王国は出雲王国へ軍を進めた。
- 戦いの経過:
- 吉備王国は東出雲王国を攻撃。
- 出雲王国はゲリラ戦で防戦。
- フトニ大王が伯耆に本営を置き、自ら指揮。
- 出雲兵は敗走し、要害山で防戦。
- 要害山での激戦は、古事記の神話「オオナムチ(大国主)の受難」のモデルとなった。
- 激戦の地は現在の赤猪岩神社。
- フトニ大王の撤退:
- 筑紫王国の物部軍がヤマトに侵入したため、フトニ大王は出雲との休戦を決断。
- フトニ大王は孝霊山に隠居。
補足
- 神武天皇は架空の天皇であり、出雲王国建国を記録するために仮託されたと考えられる。
- 大名持、少名彦は個人名ではなく役職名である。
- 吉備の攻撃は、桃太郎伝説の原型となる。
- 第一次出雲戦争は、ヤマトと出雲の関係を大きく変える出来事であった。
- この戦いは、後の倭国大乱にも影響を与えた。
- 第一次出雲戦争によって、出雲王国は弱体化し、ヤマト王権の勢力が拡大する。
第一次出雲戦争の続き
出雲王国の対応
- 東出雲王国の対応:
- 吉備王国への服従を決め、銅剣を差し出す方針とする。
- 全ての銅剣を渡すのではなく、一部を神庭斎谷(荒神谷遺跡)に埋納。
- 埋納された銅剣は358本で、うち344本には王家のシンボルである×印が刻まれていた。
- 残りの銅剣は溶かして青銅のインゴットとして吉備王国に引き渡した。
- 出雲族は、武力による支配ではなく、ネットワークによる統治をしてきた。
- 戦争になれていなかった出雲族は、祈りに頼った。
- 出雲の神は、インド由来の神と先祖であり、先祖を守り神とみなす信仰は、日本独自の仏教へと進化していったと考えられる。
- 西出雲王国の対応:
- 吉備王国の侵攻に対し、降伏を決意。
- 重要な銅鐸を神原の郷の岩倉(加茂岩倉遺跡)に埋納。
- 銅剣は溶かして青銅のインゴットとして吉備王国に引き渡した。
- 加茂岩倉遺跡からは39個の銅鐸が発見され、王家の銅鐸には×印が刻まれていた。
吉備王国の動き
- 奥出雲への侵攻:
- フトニ大王の王子である大キビツ彦と若タケキビツ彦は、出雲南部戦線(奥出雲)へ侵攻。
- 奥出雲は良質な砂鉄の産地であり、吉備王国は鉄資源を求めていた。
- 吉備軍は西出雲王国軍と激しい戦いを繰り広げ、優勢となる。
- 吉備王国は、銅のインゴットを手に入れると、吉備へと引き上げ奥出雲を占領することはなかった。
第一次出雲戦争の終結とその後
- ヤマタノオロチ伝説:
- 古事記に書かれたヤマタノオロチ伝説は、奥出雲の斐伊川流域を表している。
- オロチは出雲族、尾から出てくる太刀は砂鉄を象徴している。
- 出雲王国の変化:
- 銅鐸祭祀をやめ、王の墳墓を積極的に築くようになる。
- 墳墓は四隅突出型と呼ばれる独特の形状をしている。
- 西出雲王国は西谷墳墓史跡公園、東出雲王国は古代出雲王陵の丘に墳墓を築いた。
- 出雲王国の信仰:
- 第一次出雲戦争で大きなダメージを受けた出雲王国は、軍備増強ではなく祈りに頼った。
- 銅剣・銅鐸の埋納や墳墓の建立は、現代の日本人がお札や仏壇に頼る信仰と共通する。
第一次出雲戦争のポイント
- 出雲王国は、吉備王国の侵攻に対し、武力ではなく信仰によって対抗しようとした。
- 荒神谷遺跡や加茂岩倉遺跡の発見は、出雲王国の存在を裏付ける重要な出来事であった。
- ヤマタノオロチ伝説は、奥出雲の地理や資源を象徴的に表現している。
- 第一次出雲戦争は、出雲王国の衰退とヤマト王権の台頭を促す要因となった。
第一次物部東征の背景
- 出雲と吉備の争い:
- フトニ大王(第7代孝霊天皇)率いる吉備王国と出雲王国が激しく戦い、吉備王国が勝利。
- この戦いにより出雲王国が弱体化し、物部王国(筑紫)にとってヤマト進出の好機となりました。
- 物部王国の動向:
- ニギハヤヒ(徐福)から5・6代目にヒコナギサタケ王がおり、その王子イツセが東征のリーダーとなりました。
- 記紀ではイツセは神武東征のリーダーとされますが、実際には第一次物部東征のリーダーです。
- ヤマトの状況:
- ヤマトの大王が出雲との戦争に兵力を割いており、ヤマトが手薄になっていました。
- 物部王国は、敵対する出雲とヤマトの争いを漁夫の利を得る機会と捉えました。
第一次物部東征の経過
- イツセの進軍:
- 165年頃、「倭国大乱」中にイツセがヤマトへの遷都を計画し、有明海を出発。
- 瀬戸内海ではなく、四国の南を進み、紀伊国への上陸を目指しました。
- 紀伊国での戦い:
- 紀ノ川での上陸作戦中に、大彦率いるヤマト軍と遭遇。
- 大彦は記紀では長髄彦とされ、朝敵とされるが、実際には大王の子であり、次期大王候補であった。
- イツセは大彦軍を避け、名草山へ移動。
- 名草戸畔との戦いとイツセの死:
- 名草村の戸畔(とべ)(女村長)がゲリラ戦を展開し、イツセを毒矢で射殺。
- 記紀では名草戸畔が殺されたと記述されるが、これは史実と逆である。
- 名草戸畔は出雲王の子孫を婿に迎え、出雲王家と親戚関係にあった。
- 名草戸畔は、古代紀国の女王伝説として今も伝承が残っている。
- ウマシマジの継承と熊野への移動:
- イツセの死後、弟のウマシマジがリーダーとなり、海路で熊野へ向かう。
- 熊野本宮大社、熊野速玉神社が建立され、徐福(速玉大神)が祀られる。
- 熊野には徐福の子孫が定着していった。
- 大彦の移動とヤマトの混乱:
- 大彦は物部軍の勢力を恐れ、伊賀に新たな王国を築くためにヤマトを離れる。
- 大彦の不在により、ヤマトは統一できる人物を失い、混乱状態となる。
- 太田タネヒコの協力と物部勢のヤマト入り:
- 出雲王家の分家である太田タネヒコ(オオタタネコ)が、物部勢をヤマトへ導き、自らが大王になることを目指す。
- 太田タネヒコが記紀における八咫烏のモデルである。
- 物部勢は太田タネヒコの協力により、山中を通りヤマトへ進軍。
- 物部勢は、三輪山の南西の鳥見山(とみやま)に登り、聖地を掌握する。
第一次物部東征のポイント
- 記紀の神武東征とは異なる、物部氏による東征の史実を伝えている。
- 出雲と吉備の争いが、物部氏のヤマト進出の契機となった。
- 名草戸畔の抵抗や大彦の移動など、記紀とは異なる人物や出来事が描かれている。
- 太田タネヒコの協力により、物部勢がヤマト入りを果たす。
- 八咫烏は、太田タネヒコである。
磯城王朝の衰退と物部氏の台頭
- 磯城王朝の衰退:
- フトニ大王(第7代孝霊天皇)が兵士を連れて吉備へ去った後、ヤマトでは人口が減少し、磯城王朝は衰退しました。
- この衰退期に、物部勢がヤマトへ進出してきました。
- 物部勢の侵攻により、出雲族の一部はヤマトから逃亡しました。
- クニクル大王の妥協:
- フトニ大王の後、クニクル(第8代孝元天皇)が大王となりました。
- クニクル大王は、物部勢力との対立を避け、妥協策を取りました。
- その一環として、物部氏の娘、ウツシコメを妃として迎え、ヤマトの混乱を収めようとしました。
- この婚姻関係により、物部氏の勢力がヤマトにおいて強化されました。
ヒミコの時代への移行
- ヒミコの舞台へ:
- クニクル大王と物部氏の連携により、ヤマトは一時的に安定を取り戻しました。
- この後、古代日本はヒミコが活躍する時代へと移行していきます。
- この時期は、倭国大乱の時代でもあり、中国の歴史書「魏志倭人伝」に記述されている時代と重なる部分でもあります。
・上記の続きの内容は大元出版の「出雲王国と天皇」に詳しく書かれています。
【関連記事】
・記紀における四国と東北の記述の少なさ、邪馬台国と富士山が登場しない理由、ヤマト王権と日高見国(蝦夷)の関係。 フィクサー藤原不比等
https://note.com/embed/notes/n004cadd7d810
・・紀元前2世紀、出雲族が奈良と長野へ移り住んだ理由と痕跡。 鴨都波遺跡、高鴨神社、諏訪大社、ダンノダイラの磐座、十二柱神社、鳥見山、出雲屋敷、富雄町、登美ヶ丘、等彌神社、蜘蛛塚ほか
https://note.com/embed/notes/n4afdac10c22c
・ヤマト王権に従わなかった「まつろわぬ民」は決して悪者ではなかった! 歴史は勝者によって書き換えられる! 土蜘蛛、鬼、毛人、蝦夷、隼人、熊襲、温羅、名草戸畔とは?
https://note.com/embed/notes/n11f966c7ab55
・出雲旧家の伝承「出雲散家の芸と大名」 サンカと忍者、山伏の正体。 サンカ出身の豊臣秀吉、斎藤道三、楠木正成、北条早雲、出雲の阿国。
https://note.com/embed/notes/n66cceb882caf
・大阪府南河内郡千早赤阪村と奈良県御所市の葛城一言主神社。楠木正成の出身地である千早赤坂村には地理的にみて出雲族が住んだと推測される。出雲族の兵士が後に出雲散家となり、サンカと呼ばれるようになった。楠木正成は出雲散家である。

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