【タブー】高松藩 大庄屋 日下家と阿波水軍 森家、森権平久村の関係を考察する。 引田 四宮家、高松藩 森家。

こんにちは。

トリリンガル讃岐PRオフィサーのモリヨシナリです。

今回は、高松藩の大庄屋のひとつだった引田の日下家と阿波水軍 森家、仙石秀久の家臣 森権平久村との関係について考察していきます。

目次

  1. モリヨシナリのプロフィール
  2. 日下家とは?
  3. 日下家家系図
  4. 初代 日下織部秀武
  5. 二代目 日下三郎五郎秀行
  6. 四宮家について
  7. 🔸四宮右近、四宮光武、四宮光利、四宮家高
  8. 阿波水軍 森家の家系図
  9. 引田の戦いで討ち死にした仙石秀久の家臣 森権平
  10. 引田の戦い(ひけたのたたかい)とは?
  11. 森権平の位牌と過去帳がある場所は?
  12. 高松藩 森家と仙石秀久の家臣 森権平久村の関係は?
  13. 仙石秀久の家臣一覧: 四宮光武、四宮光利、森村吉、森権平久村、他
  14. 🔸四宮光利
  15. 🔸小川伊勢守
  16. 🔸広田藤吾
  17. 🔸森権平
  18. 🔸後藤基次
  19. 🔸庄林一心
  20. 🔸羽床資吉
  21. 🔸大平国祐(大平伊賀守國祐)
  22. 🔸大平国常
  23. 🔸森村吉(森村重、森権平の父)
  24. 【白鳥町風土記】
  25. 【負け戦の武将や兵士、家族はどうなったか?】

モリヨシナリのプロフィール


ビジネス英語講師、全国通訳案内士 (英語・中国語)、海外ビジネスコンサルタント

神戸市生まれ、香川県育ち。米国大学経営学部留学マーケティング専攻。

職歴:

  • 大手エレクトロニクス企業にて海外営業職に20年間従事 (北京オフィス所長)
  • 香港、中国にて外資系商社設立に参画、副社長を経て顧問

海外滞在歴:

  • アメリカ: 2年
  • シンガポール: 2年
  • 中国: 12年
  • ベルギー: 1ヵ月

現在の活動:

  • Bizconsul Office 代表
  • ビジネス英語講師、全国通訳案内士 (英語・中国語)、海外ビジネスコンサルタント
  • 観光庁インバウンド研修認定講師
  • 四国遍路通訳ガイド協会 会員
  • トリリンガル讃岐PRオフィサー

保有資格:

  • 英語: 全国通訳案内士、英検1級、TOEIC L&R: 965点 (L満点)、TESOL (英語教授法)、国連英検A級、ビジネス英検A級
  • 中国語: 全国通訳案内士、香川せとうち地域通訳案内士、HSK6級
  • ツーリズム: 総合旅行業務取扱管理者、国内旅行業務取扱管理者、国内旅程管理主任者、せとうち島旅ガイド

メディア実績:

  • 香川県広報誌「THEかがわ」インタビュー記事掲載
  • 瀬戸内海放送 (KSB) ニュース番組コメント
  • 岡山放送 (OHK) ニュース番組コメント

研修/コンサルティング実績:

  • 観光庁インバウンド研修認定講師として登壇 (香川県善通寺市役所、愛媛県西予市宿泊施設、他)
  • 四国運輸局事業 (訪日外国人観光客向けレンタカー利用調査、アドベンチャーツーリズム振興、他) コンサルタント
  • 香川県主催 瀬戸内国際芸術祭オフィシャルツアー公式ガイド
  • 香川せとうち地域通訳案内士インバウンド研修講師認定試験 面接官
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日下家とは?

香川県東かがわ市引田にある日下家は江戸時代を通じて代々、引田村及び馬宿村の庄屋、そして大庄屋も務めてきました。

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江戸後期に建築された長屋門と主屋は、風格のある江戸時代の庄屋の姿を現在に伝えています。

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日下家の主屋と長屋門は有形文化財に登録されています。 膨大な量の日下家文書は高松市の瀬戸内海歴史民族資料館にあり、閲覧には申請書が必要。許可がおりるまで2週間くらいかかります。

詳細

https://note.com/embed/notes/n9f1d6203d1ac

日下家家系図

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初代 日下織部秀武

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① 日下織部秀武 寒川郡日下村ニ住シ寒川元春 二属ス之ヨリ日下姓ト相改メ 大内郡引田村へ移ル所領二百石 泉州久米田ノ戦ニ討死ス 永禄三年(一五六○)

現代語に訳すと

① 日下織部秀武 寒川郡日下村に住み、寒川元春に 属す これより日下姓と改め 大内郡引田村へ移る 所領二百石 泉州久米田の戦いで討死す 永禄三年(1560年)

解説

この文章は、日下家の初代とされる日下織部秀武(くさか おりべ ひでたけ)に関する記述です。

  • 日下織部秀武
    • 寒川郡日下村(現在の香川県さぬき市)に住んでいました。
    • 寒川元春に仕えていましたが、その後、日下姓に改めました。
    • 大内郡引田村(現在の香川県東かがわ市)に移り住み、200石の所領を与えられました。
    • 泉州久米田の戦い(現在の大阪府岸和田市)で戦死。
    • 永禄3年(1560年)に亡くなりました。

・久保田の戦い (畠山高政軍 vs 三好実休軍)久米田の戦い – Wikipedia

ポイントは?

  • 日下家: 讃岐国の豪族。阿波水軍 森家とも関係が深く、森権平の叔母が日下家に嫁いでいます。
  • 寒川元春: 讃岐国の武将。
  • 泉州久米田の戦い: 1560年に岸和で起こった戦いで、三好実休と畠山高政軍が戦いました。

この記述は、日下家の初代である日下織部秀武の事績を記したものであり、日下家の歴史を研究する上で重要な資料となります!

二代目 日下三郎五郎秀行

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② 三郎五郎秀行

後肥後卜改ム、与冶山城主四宮 右近進利之三男ナリ、秀武男子 ナキタメ養子トナル 所領二百石 阿州家臣森甚五兵衛の女ヲ娶ル 森権平ノ実伯母ナリ

天文十六年(一五四七)五月七日歿

・引田城と四宮右近
引田城 – Wikipediaja.m.wikipedia.org

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・引田城の歴史

https://www.his-trip.info/siseki/entry436.html

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現代語に訳すと

② 三郎五郎秀行 

後に肥後と改め、与冶山城主四宮 右近進利の三男なり、初代 日下織部秀武に男子 無きため養子となる 所領二百石 阿波国(阿州)家臣森甚五兵衛の娘を娶る 森権平の叔母にあたる

天文十六年(1547)五月七日 亡くなる

解説

戦国時代の武将・四宮秀行(しのみや ひでゆき)に関する記述です。

  • 四宮秀行
    • もともとは三郎五郎秀行と名乗っていましたが、後に肥後と改名しました。
    • 与冶山城主であった四宮右近進利の三男として生まれました。
    • 日下家の初代 日下織部秀武に男子がいなかったため、その養子となりました。
    • 所領は二百石でした。
    • 阿波国 森元村の娘を妻に迎えました。森権平の叔母にあたる人物です。
    • 天文16年(1547年)5月7日に亡くなりました。

ポイント

この記述から、四宮秀行(後に日下家の養子)は、森権平の父 森村吉の妹と結婚した為、森権平と日下家は親族であったことが分かります。

四宮家について

🔸四宮右近、四宮光武、四宮光利、四宮家高

https://note.com/embed/notes/n77f7ab6c94d6

阿波水軍 森家の家系図

阿波水軍 森家当主が書いた「木瓜の香り」に見る家系図

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・家系図から森権平の祖母は阿波 撫養城城主の小笠原摂津守の娘、母は阿波 板西城城主 赤沢宗伝一族の赤沢伊賀守の娘であり、叔母は讃岐 四宮家(日下家)に嫁いだことが分かります。阿波の赤沢氏は、小笠原氏の庶家となります。

※庶家(しょけ)とは、宗家ないし本家より別れた一族のことをいう。嫡流に対し庶流の家柄。主に日本の封建時代においてみられた血族集団である。分家、庶流、庶子家ともいう。

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・撫養城撫養城 – Wikipediaja.m.wikipedia.org


・赤沢宗伝赤沢宗伝 – Wikipediaja.m.wikipedia.org


・赤沢氏赤沢氏 – Wikipediaja.m.wikipedia.org

阿波水軍 森家の家系図を見ると森村吉の妹は、讃岐の四宮勘左衛門に嫁いだとあります。

日下家の家系図には、四宮秀行と森村吉の妹が結婚したとありますが、四宮秀行と四宮勘左衛門は同一人物で、これはおそらく変名したか、名前の勘違いなのではないかと推測されます。

このように、森権平の叔母が四宮勘左衛門に嫁ぎ、その夫が日下家の養子となった為、讃岐の日下家と森権平は親戚関係にありました。

阿波水軍 森家とは?森甚五兵衛 – Wikipediaja.m.wikipedia.org

引田の戦いで討ち死にした仙石秀久の家臣 森権平

引田の戦いと森権平について詳しく見ていきます。

引田の戦い(ひけたのたたかい)とは?

引田の戦いは、天正11年(1583年)に讃岐国大内郡(現在の香川県東かがわ市引田地区)周辺で行われた戦いです。この戦いは、長宗我部元親(ちょうそがべもとちか)率いる長宗我部氏と、羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)の命を受けた仙石秀久(せんごくひでひさ)率いる軍勢との間で行われました。
当時の四国では、長宗我部元親が勢力を拡大しており、阿波国(現在の徳島県)をほぼ制圧し、讃岐国にも侵攻していました。讃岐の有力大名であった十河存保(そごうながやす)は、長宗我部氏に苦戦を強いられ、織田信長(当時は羽柴秀吉)に救援を求めました。

これを受けて、秀吉は仙石秀久を派遣し、長宗我部氏と戦わせました。この戦いが引田の戦いです。

  • 時期: 天正11年(1583年)
  • 場所: 讃岐国大内郡引田周辺(現在の香川県東かがわ市引田地区)
  • 対戦勢力: 長宗我部元親率いる長宗我部氏 vs 羽柴秀吉(仙石秀久)率いる軍勢
  • 結果: 戦いは長宗我部氏の勝利に終わったとされています。仙石秀久は敗走し、小豆島に撤退しました。

この戦いは、豊臣秀吉による四国平定の前哨戦とも言える戦いであり、後の四国攻めへと繋がる重要な出来事でした。

・引田の戦い引田の戦い – Wikipediaja.m.wikipedia.org

・森権平が討ち死にした東かがわ市伊座と長宗我部元親軍に追い詰められて仙石秀久らが立て篭もった引田城。引田の戦いは、長宗我部元親軍 5000の兵に対し、仙石秀久軍 2000と不利な戦いだった。結末としては、引田城を取り囲まれた仙石秀久らは引田城を脱出し、淡路へ逃れた。仙石軍の2000の兵の中には森村吉や森権平一族の他、阿波水軍の武士たちが、大勢参戦したと考えられる。

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森権平(森久村とも)は、この引田の戦いで仙石秀久に従軍し、戦死した武将です。仙石秀久の家臣であったとされています。

  • 出自: 仙石秀久の家臣
  • 活躍: 引田の戦いで軍を率いて奮戦
  • 最期: 引田の戦いで討ち死に(享年18歳とも伝えられる)

森権平は、若くして戦場で命を落とした武将として、地元ではその武勇が語り継がれています。特に、引田の戦いにおいて勇敢に戦ったことが伝えられております。

まとめますと、引田の戦いは長宗我部氏と羽柴秀吉(仙石秀久)の間で行われた戦いで、森権平はその戦いで現在の東かがわ市伊座で戦死した仙石秀久の家臣です。また、この戦いには森権平の父 森村吉も参戦していました。

・戦国時代、敗北した軍の兵士や武将、その家族はどうなったのか? 具体例は?https://note.com/embed/notes/n9fc0ab67e109

森権平の位牌と過去帳がある場所は?



「白鳥町風土記」の記述によると、東かがわ市引田の日下家に森権平の供養と過去帳の写しがあり、同じく引田の積善坊には森権平の過去帳がある。森権平の墓は東かがわ市伊座にある。

引田の日下家が代々、森権平を供養し続けている。

・日下家と積善坊

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・白鳥町風土記

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上記の記述内容

森(仙石)権平の墓所と伝記に関する情報をまとめた記述です。

内容を整理します。

仙石権平の墓所について

  • 場所: 讃岐国伊座村
  • 別名: 月山宗薫大居士
  • 命日: 天正12年7月19日
  • その他:
    • 引田町の日下家に位牌が祭られている。
    • 積善坊に過去帳がある。
    • 墓は当初戦死の地にあったが、新池築造の際に移された可能性がある。
    • 池の肩(新池の西方の小集落)の地形から、当時は湿地であったと考えられる。

森(仙石)権平の伝記について

  • 本姓: 森氏
  • 出自: 森九郎左衛門の次男
  • 親族: 伯母は引田城主の一族四宮勘左衛門の妻。
  • 仙石秀久との関係:
    • 仙石秀久に近侍し、寵愛された。
    • 仙石の姓と久の字を賜り、仙石権平久村と名乗った。
  • 戦死:
    • 天正12年7月19日、猫坂付近で多勢に囲まれ戦死したと思われる。
    • 一説には、天正11年4月21日に入野屋合戦で討死したともいう。
  • 墓所の信仰:
    • 足の病にご利益があるとされ、藁鞋が多数奉納されている。
    • 現在も参詣者が絶えない。

その他

  • 『三代物語』に森権平の事績が記されている。
  • 『山地家文書』に天正11年4月21日の感状が残されている。
  • 『国吉家文書』に国吉三郎兵衛が天正12年7月19日に戦死したとある。
  • 『大日本史料』に西寺過去帳の天正11年7月19日の記述が引用されている。

・位牌に書かれた文字と過去帳の記述内容

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高松藩 森家と仙石秀久の家臣 森権平久村の関係は?

  1. 森権平の母方の出自: 阿波水軍 森家出身の森権平久村の母は、阿波 赤沢一族の赤沢伊賀守の娘でした。阿波 赤沢一族の赤沢宗伝は、板西城城主でしたが、長宗我部元親軍と戦った中富川の戦いで壮絶な最期を遂げました。その長子は讃岐の小砂(こざれ)まで逃れ、後に勝覚寺を開基しました。赤沢家は、小笠原氏の庶家になり、共に信濃から来ました。森権平久村の祖母は、阿波の撫養城城主 小笠原摂津守の娘でした。
  2. 菩提寺: 高松藩 森家は馬宿に住んでいましたが、上記のような関係から菩提寺は、地理的に近い馬宿の海蔵院東海寺や引田の積善坊ではなく赤沢一族の赤沢宗伝の長子が開基した現在の東かがわ市三本松にある海暁閣 勝覚寺となりました。高松藩 森家は代々、勝覚寺の檀家です。
  3. 讃岐四宮家との関係: 森権平の叔母(森権平の父 森村吉の妹)が嫁いだ讃岐の四宮勘左衛門は、後に日下家の養子となりました。この引田の日下(くさか)家は引田村と馬宿村の庄屋であり、大庄屋(政所)も務めました。
  4. 日下家による供養: 森権平が引田の戦いで長宗我部元親軍に討たれた後、日下家が森権平の位牌を持ち、代々、供養しています。
  5. 馬宿村との関係: 森権平の亡き後、森権平一族の一部の者は日下家を頼り、馬宿に住むようになったと考えられます。これが高松藩に普請方として仕えた森家です。
  6. 馬宿村の庄屋: 馬宿村の庄屋は、日下家が務めていました。
  7. 八田家との婚姻関係: 元治元年(1864年)、馬宿に住んでいた森家は、高松藩と徳島藩の藩境の徳島藩碁浦番所の役人兼庄屋の八田家と婚姻関係を結びました。この藩を跨いだ結婚には高松藩の思惑があったようです。
  8. 家紋: 阿波水軍森家の家紋は木瓜であり、分家の高松藩森家の家紋は丸に木瓜です。
  9. 武具の伝承: 森家には戦前、甲冑や刀がありましたが、戦時中に国に供出しました。戦後、残された刀の鍔を本家の応接間の壁に飾ってありました。
  10. 高松藩における役割: 高松藩の森家は普請方として高松藩の東端の要所である馬宿に住み国境沿いの道路や橋を建設する公共事業に携わっていました。馬宿は志度街道沿いにあり、道路や橋の整備、維持が不可欠でした。高松藩の殿様が丹生村の小磯に来た際は、接待をせねばならず経済的に大変だったそうです。森家は金刀比羅宮の階段の築造にも参画しました。

・馬宿にある海蔵院東海寺と引田の積善坊

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・赤沢宗伝と勝覚寺

https://note.com/embed/notes/ncfd655d876a2

・高松藩 普請方 森家

先祖は、引田の戦いで1583年に亡くなった森権平の一族。森権平亡き後、森権平の父の妹が嫁いでいた引田の日下家を頼り、馬宿に住み、高松藩に普請方として使える。高松藩の東端に位置する志度街道沿いの要所であった馬宿周辺の道路や橋の整備を行った。

【高祖父の父】森義右エ門 (高松藩普請方)

【高祖父】森喜平 (高松藩普請方) – 八田キヨ (徳島藩碁浦御番所役人兼庄屋 八田孫平の長女、阿波秦氏)。1864年(元治元年)に結婚。

【曽祖父】森虎太郎 – 永峰チヨ (現在の東かがわ市黒羽の庄屋 永峰家の長女。黒羽城城主 永塩因幡守氏継の子孫)

【曽祖父の妹】森トヨ : 東かがわ市黒羽の瀬戸内寂聴さんの祖父 三谷峰八さんの家系である三谷磯八に嫁いだ。三谷家は江戸時代から代々、讃岐和三盆を製造する製糖業を営んでいた。

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仙石秀久の家臣一覧: 四宮光武、四宮光利、森村吉、森権平久村、他

🔸四宮光利

太郎左衛門。四宮氏は信濃から讃岐に移住し、引田城主として寒川氏に仕えた。兄・光武は1570年に阿波 三好氏に攻められ落城、1582年に勝端城で討ち死にした。光利は豊臣家に臣従し、秀久の家臣となり、天正年間に讃岐の乙井城主(さぬき市造田乙井)となり、諏訪神社を建立している。


🔸小川伊勢守


秀久に仕える。天正11年(1583年)、讃岐に渡り、四国攻めの橋頭堡として法勲寺城を築く。四国国分後、讃岐に計350石を賜る。


🔸広田藤吾


秀久に仕え、天正9年(1581年)11月、淡路州本城攻めに功があった。


🔸森権平


1583年の引田の戦いでは仙石軍の殿(しんがり)を務め伊座まで退くも、長宗我部元親軍の稲吉新蔵人に討ち取られた。享年18。死後、地元の人々から足の神様として祀られている。引田の戦いにおける仙石軍は2000の兵に対して長宗我部軍は5000の兵により、森村吉らの活躍により前哨していたが、最後は、仙石秀久は引田城に追い込まれた後、淡路に逃れた。

森村吉、森権平と多くの阿波水軍 森家一族がこの戦いに参戦した。引田の戦いの後、森権平の叔母が嫁いでいた引田の日下家を頼り、森家一族の一部の者が馬宿に住むこととなり、後に高松藩 松平家に普請方として仕えた。高松藩の東端に位置し、志度街道沿いにあった要所である馬宿周辺の道路や橋を整備したり、金刀比羅宮の石段造営にも参画した。江戸時代後半には隣りの徳島藩 碁浦番所の役人兼庄屋だった八田家と藩を跨いで姻戚関係を結んだ。

高松藩 森家の菩提寺は、東かがわ市三本松の海暁閣 勝閣寺であり、馬宿から地理的に近い海蔵院東海寺や積善坊ではない。背景としては、森権平の母が阿波 赤沢宗伝一族の赤沢伊賀守であり、祖母が赤沢家の本家となる撫養城城主 小笠原摂津守の娘だったことによる。勝覚寺は赤沢宗伝の長子によって開基された。赤沢家は小笠原家の庶家である。小笠原家、赤沢家は信濃から阿波へ来た。

・小笠原氏
小笠原氏 – Wikipediaja.m.wikipedia.org

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・阿波 小笠原氏

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・赤沢氏

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・四宮荘と小笠原氏と赤沢氏四宮荘 – Wikipediaja.m.wikipedia.org

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引田城の解説【続日本100名城】四宮光武





🔸後藤基次

黒田家からの追放後、一時秀久に仕える。天正13年(1583年)には讃岐高松城(喜岡城)攻めで初陣を遂げた(諸説あり)。後に黒田長政から許しを得たため黒田家に帰参した。


🔸庄林一心


加藤家三傑の一人。元荒木家の家臣で、荒木家没落後に秀久に仕えた。後に秀久が改易処分を受けたため、加藤清正の家臣になった。



🔸羽床資吉


羽床資載の次男。弥三郎。天正7年(1579年)、羽床城開城時に長宗我部家への人質となる。天正10年(1582年)、父資載の没後、羽床氏当主となる。四国攻め後、秀久に仕える。天正14年(1586年)10月、戸次川合戦で討死。

🔸大平国祐(大平伊賀守國祐)


天文7年(1538年)生れ。永禄5年(1562年)、土佐吾川郡弘岡城にて長宗我部元親に敗れ香川之景を頼り讃州多度郡中村に来るが後に姫之郷を領して元亀3年(1572年)、讃州和田獅子ノ鼻城主となる。天正6年(1578年)5月、法華宗雲風山国祐寺を興す。天正13年(1585年)より秀久に仕え、侍大将となる。天正14年(1586年)、戸次川合戦敗北により秀久が失脚すると、かつての家臣の下に身を寄せた。慶長8年(1603年)7月4日没。

🔸大平国常


永禄12年(1569年)生れ。大平国祐の長男。しかし実は次男で大平主膳(永禄4年(1561年)生れ。天正6年(1578年)、阿波重清陣にて討死)が長男という説が有力。天正14年(1586年)12月12日、戸次川合戦で国祐家臣 加地又五郎、合田助十郎とともに討死。享年18。

🔸森村吉(森村重、森権平の父)


通称は石見、九郎左衛門。後に仙石姓を与えられる。森元村の次男で、森村春の弟。天正10年(1582年)、淡路を抑え森家を援助していた仙石秀久に招かれ家臣になる。天正11年(1583年)の引田の戦いでは緒戦の勝利に貢献した。四国攻めの後も秀久に従い、秀久が信濃小諸を拝領後は7,000石を与えられた。三男・村明の系統は代々仙石家に仕えている。

【白鳥町風土記】

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なり、古道の大原口なり」とあり、口碑も権平の墓は、もと新池の附近にあったと伝えられている。

そこで考えられるのは、池の肩(新池の西方の小集落)の地形である。当時はまだ新池は造られていなかったであろうから、あの池の附近は湿地であったはずである。

又、その西方の猫坂は、南北に伸びた低い丘を掘り割った、小さい峠のようになっている所であるから、敵を防ぐには打ってつけの地形であり、権平は一時ここで敵の追撃を食い止めたが、最後はその東方の湿地帯において、多勢に取り囲まれてついに戦死したものと思われる。 従って、墓は当初、戦死の地にあったが、新池の築造に当たり移されたものであろう。

次に、引田町の日下家には、今もって彼の位牌が大切に祭られており、過去帳の写もある。 又、同町の積善坊に過去帳がある。

「月山宗薫大居士、天正十二年申七月十九日 森権平事」

「天正十二申歲 七月十九日 月山宗薫居士 廟所当郡伊座村 森権平事 日下佐左衛門先祖」

『三代物語』は、「阿州椿泊森甚五兵衛、由縁の由、引田湾日下佐左衛門、甚五兵衛と古き縁座によりて、久村年忌、日下家にて執行、森氏より使者来る。

仙石権平墓、人馬ともに足患い、祈願信心あれば、たちまち平癒す。よって日増しに之を参詣し甚だしげしとしている。昔から、権平さんの命日は七月十九日で あって、その日には引田の日下家から、祭りの費用をもらうのが習慣となっていたという。

又脚気などの病気平癒祈願に訪れる人は、今もって引きも切らざる状態であり、有名な大草鞋を始め、沢山の草鞋が奉納されていて、香華の絶えることがない。

なお権平の本姓は、森氏であり、九郎左衛門の次男であって、甚五兵衛の弟である。彼の伯母は、引田城主の一族四宮勘左衛門の妻となっているが、日下家との関係は不詳である。仙石権兵衛秀久に近侍してかわいがられ、その姓と久の一字を賜わって、仙石権平久村と名乗ったといわれている。

さて、戦死の日時については、大部分の史書の類は、『山地家文書』の「去二十一日(四月) 入野屋合戦に首一ツ討捕云々、天正十一年五月二日」の感状を証拠に、天正十一年四月二十一日説をとっている。

ところが、『国吉家文書』に、「国吉三郎兵衛、天正十二年七月十九日戦死」とある由が発表され、又『大日本史料』には、「西寺過去帳に、天正十一年甲申七月十九日、(甲申は天正十二年である) 長宗我部三郎兵衛一 番剣なり」とあり、『桑名弥次兵衛働覚』にも、「国吉 三郎兵衛、中島与市兵衛、中内勝介、七月十九日に討死 仕候、同藤十郎年二十にて討死仕候」とある。

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また『依 光系図』には、「依光蔵進、讃州引田役七月十九日戦死」 とあるなど、七月十九日説に対する、有力な証拠が続々 と現れてきた。

次に、引田合戦の行なわれた年時についても、『名勝 図会』と『大川郡誌』以外のものは、すべて天正十一年 説であって、これに異を唱えるものは皆無であったが、 『香宗我部家伝で文』には、天正十二年六月十一日付を もって、「十河城の陥落した旨と、残るのは東讃の一城 のみであって、近日大智(大内郡) 表へ押し寄せる計画 であること」を通知した書信に対する返簡を多数載せて いる。

これから判断すると、大智表の一城とは、虎丸城 のことに相違はなく、したがってこの城は、天正十二年 の六月には、まだ落城していなかったのは明らかである。 次に、十河存保より秀吉へ対し、救援を要請したこと に応じて、秀吉は小西行長らに対して、兵機米を送るよ うに命じている。

『備前竹内文書』

十河城へ兵粮米遭校条、備前衆、千(仙)石権兵衛 遺候、荒れば千石権兵衛申次第警固の船相催し、両三人相越べく候。油断あるべからず候。

梶原弥助殿 小西弥九郎殿(行長) 石井与次兵衛殿

天正十二年六月十六日 筑前守秀吉 花押

小西弥九郎 
石井与次兵衛 
梶原弥助 

前述のようにこの時には、すでに十河城は陥落していなかったのは是非もない事である。そこで仙石権兵衛は、十河城の代りに、この兵粮米を持って引田へ上陸し、虎丸城へ入れようとして、引田合戦が突発したものと思われるので、墓碑銘などのとおり「天正十二年七月十九日」に戦死した事は確実である。

なお、『大日本史料』の註釈に、「天正十一年四月二十一日の戦と、同十二年七月十九日の戦とを、混同せるが如し」としてある。そこで考えられるのは次に示す、『向山系図』等である。

『向山系図』

小島孫右衛門政秀 天正年中安富氏、長曽我部と取合い軍に、小砂村にて打死す。法名宗春。

「別本向山系図」、小島弥三衛門政秀、政富の子にして、長曽我部軍と小磯村に戦い、従者六人とともに打死す。

【負け戦の武将や兵士、家族はどうなったか?】

戦国時代の戦において、敗北した軍の兵士や武将、その家族らがどうなったのかは、個々の状況によって様々でした。

兵士の場合

  • 討ち死に: 多くの兵士は戦場で命を落としました。特に敗走中に敵に追いつかれた場合や、最後まで抵抗した場合に多く見られました。
  • 捕虜: 捕虜となった兵士は、身分や状況によって扱いが異なりました。
    • 下級兵士: 多くは奴隷として売られたり、敵の兵士として組み込まれたりしました。
    • 上級兵士: 身代金を支払うことで解放される場合もありましたが、捕虜のまま生涯を終える者もいました。
  • 帰農: 生き残った兵士の中には、故郷に帰って農業に従事する者もいました。
  • 浪人: 主君を失った武士の中には、仕官先を求めて各地を放浪する者もいました。

武将の場合

  • 討ち死に: 多くの武将も戦場で命を落としました。特に大名クラスの武将が討ち死にした場合、その家は滅亡することが多くありました。
  • 切腹: 敗戦の責任を取って切腹する武将もいました。
  • 降伏: 降伏した武将は、領地を没収されたり、幽閉されたり、場合によっては処刑されたりしました。
  • 落ち武者: 密かに落ち延びて、再起を図る武将もいました。

武将の家族の場合

  • 妻女:
    • 夫が討ち死にした場合、未亡人となるか、離縁して他の武将と再婚することがありました。
    • 敵に捕らえられた場合、奴隷として売られたり、敵の兵士の妻妾となることもありました。
  • 子供:
    • 幼い子供は、家臣に養われるか、寺に入れられることがありました。
    • ある程度成長した子供は、父の仇を討つために家臣となる者もいました。
  • 家族全体:
    • 没落した武将の家族は、生活に困窮することが多くありました。
    • 一族離散となり、別々の場所で暮らすこともありました。

その他

  • 家臣: 主君が討ち死にした場合、家臣たちは離散することが多かったですが、中には主君の遺児を擁して家名の存続を図る者もいました。
  • 家族のその後: 武士の家族は、身分や状況によって様々な運命をたどりました。中には、商人や農民になる者もいました。

【まとめ】

戦に負けた軍の兵士や武将、その家族は、討ち死に、捕虜、帰農、浪人など、様々な運命をたどりました。特に武将の家族は、没落や離散など、苦難を強いられることが多かったようです。

上記は一般的な例であり、個々のケースによって状況は異なりました。

戦国時代の史料は限られているため、不明な点も多くあります。

より詳しく知るには、個別の武将や戦の事例を調べる必要があります。

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