【私のルーツ】高松藩松平家 普請方 森家。徳島藩 碁浦御番所 役人兼庄屋 八田家と『八田家文書』阿波秦氏。讃岐 黒羽城主 永塩因幡守氏継と黒羽庄屋 永峰家。黒羽三谷家と瀬戸内寂聴と和三盆。

◼️私の先祖

🔹【高松藩普請方 森家】

私の父方の森家は代々、高松藩松平家に普請方として仕えていた武家だった。元は東かがわ市の馬宿に居住しており、後に横内へ移り、山を切り開いた。そこは、かしわ(柏)の木が多く茂っていたので柏谷と名付けた。

東かがわ市の馬宿は1185年の「屋島の戦い」の際、源義経の一行が馬を休めた場所で、坂出の塩田を開発した測量方の久米通賢も住んでいた。馬宿のすぐ隣は黒羽(くれは)と言う土地だった。瀬戸内寂聴さんの父方の三谷家はこの久米通賢と親戚関係にある。

森家は、江戸時代に普請方として、金刀比羅宮の石段の修復工事に参画したり、松平家の主君が小磯の番屋の浜に涼みに来た際は、一行のお膳立てをせねばならず金銭的に大変だったと聞いた。

戦前までは、甲冑や刀類、その他諸々の武家ゆかりの品々があったが、戦争中に一切の鉄類は政府の命令により国に供出した。唯一残しておいた刀のツバが、複数個、戦後、何年も経ってから発見され壁に飾ってあったのを覚えている。

◼️阿波水軍 森家の分家 高松藩 普請方 森家

【高祖父の父】森義右エ門 (高松藩普請方)

【高祖父】森喜平 (高松藩普請方) – 八田キヨ (徳島藩碁浦御番所役人兼庄屋 八田家、阿波秦氏)

【曽祖父】森虎太郎 – 永峰チヨ (現在の東かがわ市黒羽の庄屋、黒羽城城主 永塩因幡守氏継の子孫)

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🔸久米通賢の墓と黒羽神社

🔸小磯

🔸金刀比羅宮の石段

森家は先祖をたどると1583年の「引田の戦い」で討死した森久村(森権平)の一族で、阿波水軍 森家の分家となる。森家の始祖は佐田九郎左衛門と言い徳島県阿南市の椿泊にある佐田神社に祀られている。

佐田九郎左衞門は因幡国(鳥取県)から阿波国 細川家の老臣 森飛騨守の取次により阿波に来たが、元は鎌田姓で、その先祖は藤原秀郷となる。

🔸阿波水軍 森家の分家 高松藩森家

阿波水軍 森家の家紋 : 木瓜、分家の高松藩森家の家紋 : 丸に木瓜

🔸徳島県阿南市の椿泊にある佐田神社

🔸森家の出自と家系

『木瓜の香り』森甚一郎 著

🔸佐田九郎左衞門の先祖 藤原秀郷

🔸藤原秀郷 → 佐田九郎左衞門(後に森姓) → 森久村 (森権平)一族 → 高松藩森家

🔸東かがわ市伊座の森久村 (通称 森権平)の墓と権平庵。

足の病を治す御利益がある。

◼️【高祖母の八田家】

江戸時代の森家の戸籍を辿ると、私の高祖母は1846年(弘化3年)生まれで名を八田キヨと言った。徳島藩の板野郡にあった碁浦御番所の役人兼庄屋を代々、務めた八田家(阿波秦氏)当主 八田孫平の長女だった。

私の曽祖父 森虎太郎の妹 森トヨは、明治時代に東かがわ市黒羽の三谷家へ嫁いだが、この三谷家は瀬戸内寂聴さんの祖父 三谷峰八さんの家系で、峰八さんの家は18世紀から代々、製糖業を営んでいた。瀬戸内寂聴さんの父は峰八さんの三男で名前を三谷豊吉と言い、三谷家から瀬戸内家の養子となり、徳島市の眉山近くで神仏具店を営んでいた。この関係から私の大伯母(私の祖父の姉)は東かがわ市引田の積善坊での三谷家の法事にも出席し、瀬戸内寂聴さんとも交流があった。

実は、笠置シヅ子さんは東かがわ市黒羽の三谷家で生まれたが、この三谷栄五郎さんの家系も江戸時代から黒茂という屋号で和三盆を造る製糖業を営んでいた。今は分家の孫黒茂が和三盆の製造を受け継いでいる。

🔸森家の戸籍

私の高祖母 八田キヨは徳島藩の板野郡碁浦から高松藩松平家に普請方として仕える森家へ嫁いできた。その娘である森トヨは東かがわ市黒羽の三谷家へ嫁いだ。

🔸東かがわ市黒羽の糖業感謝碑。三谷峰八さんの家はこの近くにあった。

🔸瀬戸内寂聴さん。父の三谷豊吉さんは東かがわ市の黒羽で生まれ、実家は製糖業を営んでいた。

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🔸瀬戸内寂聴さんが書かれた『場所』の中に父親の生まれ故郷である東かがわ市の黒羽を訪れたときのエピソードが書かれている。『木瓜の香り』は阿波水軍 森家の出自と家系について書かれた書籍。

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🔸笠置シヅ子さん。香川県東かがわ市黒羽の三谷家の生まれ。実家は黒羽で代々、製糖業を営んでいた。

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◼️【曽祖母の永峰家】

私の曽祖母は、黒羽中村の庄屋だった永峰家の長女で永塩因幡守氏継の子孫にあたる。永塩因幡守氏継は1467年に応仁の乱にて細川方として参戦し、安富元綱と共に京都御所北側の相国寺で壮絶な最期を遂げた(1467年11月8日)。残った永塩一族は、氏継公の死を深く、深く悲しみ、争いの世を恐れ、帰農し永塩姓から永峰姓に改姓し一族は江戸時代(妙空)まで身をひそめた。

🔸日本姓氏語源辞典

🔸黒羽神社。黒羽には永塩因幡守氏継公が応仁の乱へ参戦する前の1467年8月4日に創建した黒羽神社が残る。氏継公は、近くの黒羽城を居城とした戦国武将だった。

永塩因幡守氏継が1467年に創建した黒羽神社
京都御所北側の相国寺

🔸黒羽と永塩因幡守氏継

角川日本地名大辞典より

🔸安富元綱

🔹高祖母の実家 碁浦番所とは?

角川日本地名大辞典より

🔸高祖母の生家 板野郡にあった碁浦番所。この碁浦番所には測量途中の伊能忠敬や四国遍路中だった松浦武四郎も立ち寄った。

🔸神戸市の三宮駅から鳴門市北灘町碁浦までは車で1時間半くらいかかる。

🔸高祖母の父 八田孫平が書いた文書

🔸江戸時代に高松藩松平家に普請方として仕えた森家に嫁いできた八田家(阿波秦氏)の高祖母は阿波浄瑠璃が非常に上手かったと伝わる。高祖母の孫は自宅で琵琶を教えるほどの腕前だった。

阿波の板野郡は古代から秦氏が居住した土地でもある。日本の歴史上、秦氏は能や雅楽などの伝統芸能にも深く関わっていた。

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🔸秦氏の居住分布

🔸【参考】讃岐秦氏の居住地分布

香川県では香河郡(現在の高松市)に秦氏は多く居住していた。讃岐一宮の田村神社は元々は秦氏の氏寺であり、宮司は秦氏が務めた。高松市の峰山、紫雲山、大田周辺には古墳も多く残る。

🔸大化の改新以降、秦氏は、その出自を知られないように苗字を変えた。

http://www.md.ccnw.ne.jp/rekishi_tajimi/toraijin%20hatasi.html

ハタ・ハダという読み方は替えず、当てる字を変えた・・・畑、端、秦、畠、波田、波多、波蛇、羽田、八田、半田、矢田 

前記の苗字に野・山・田をつけるケース・・・波多野、秦野、畠山、畠田、畑川、畑中、広幡、八幡など

🔸明治生まれの私の大伯母(祖父の姉)のインタビュー記事 (昭和39年の神戸新聞)

記事内容は、武家のしつけ、阿波浄瑠璃の上手かった祖母(八田キヨ)、英語を使い旧神戸オリエンタルホテルで電話交換手のリーダー、2.26事件時の勤務、神戸大空襲で自宅は焼失するも夫婦共に生き延びる、GHQ宿舎での電話交換手、昭和天皇の宿泊など。

大伯母の母は東かがわ市黒羽中村の永峰家(黒羽城城主 永塩因幡守氏継の子孫)の長女で、大伯母の父(私の曽祖父)の妹が東かがわ市黒羽の三谷家へ嫁いだ為、大伯母は三谷家の法事にも出席し、瀬戸内寂聴さんと交流があった。瀬戸内寂聴さんの祖父 三谷峰八さんは東かがわ市黒羽で江戸時代から代々、讃岐和三盆の製造をする豪農だった。三谷家の三男だった瀬戸内寂聴さんの父の三谷豊吉さんは大伯母にあたる須磨の瀬戸内家の養子となり、徳島市で神具店を経営していた。

東京ブギウギなどのヒット曲を持つ歌手の笠置シズ子さんは東かがわ市黒羽の三谷家で生まれたが、代々、製糖業を営んでいた。屋号を黒茂といい豪農だった。今は分家の孫黒茂の三谷製糖が東かがわ市馬宿で和三盆の製造を継続している。

※浄瑠璃
三味線を伴奏楽器として太夫が詞章(ししょう)を語る音曲・劇場音楽である。

詞章が単なる歌ではなく、劇中人物のセリフやその仕草、演技の描写をも含み、語り口が叙事的な力強さを持つ。このため浄瑠璃を口演することは「歌う」ではなく「語る」と言い、浄瑠璃系統の音曲をまとめて語り物(かたりもの)と呼ぶ。

江戸時代初期以降、個々の太夫の口演が「――節」と呼ばれるようになり、その後流派として成立して、現在は義太夫節・河東節・一中節・常磐津節・富本節・清元節・新内節・宮薗節(薗八節)の8流派が存在する。

単独で素浄瑠璃として演じられるほか、流派によっては人形劇である人形浄瑠璃として(文楽など)、歌舞伎音楽として、日本舞踊の伴奏として演じられる。

🔸徳島藩と高松藩の境にあった碁浦御番所

🔸碁浦番所 三ツ道具

🔸碁浦漁港

🔸江戸時代に松浦武四郎や測量中の伊能忠敬らもこの碁浦番所を訪れた。

🔸松浦武四郎。日本で最初にサンカについての記述を残した。

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・『四国遍路道中雑誌』1844年。松浦武四郎が 19歳の天保7年(1836年)に四国八十八ヶ所霊場をまわった紀行文をまとめた3巻からなる弘化元年(1844年)の草稿。四国霊場を周った松浦武四郎は碁浦のことを「此處山の厓にして右の方は数十仭の断崖、左り之方は波浪岸へ打、一歩をあやまたば粉身碎身ニなる地なり、番所有。出入之切手を改む」と書いている。

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🔸碁浦御番所跡

碁浦番所跡記念碑がある休憩所(黄色の囲み内)

🔸碁浦御番所の記録書である『八田家文書』は徳島県立図書館や徳島市立図書館、鳴門市立図書館などで閲覧できる。

滝よし子、森順子 著

この碁浦番所の貴重な記録である「八田家文書」の原本は研究目的ということで貸し出されたのだが、返却依頼するも返されず所在不明となってしまった‼️

八田家文書の解読中に日本の歴史上、不都合となる記述が発見されたと推測される。阿波風土記を始め、天皇家のルーツや本当の日本の成り立ちについて書かれた文書は焚書とされてしまう。蜂須賀家と徳川家にあった阿波風土記は明治期に姿を消してしまった。

八田家文書が一日も早く全て戻ってくることを強く希望する‼️

🔸阿波風土記

🔹小杉榲邨(こすぎすぎむら) : 著書「阿波国徴古雑抄」。明治5年、『阿波古風土記考証』を出版した時、回収騒動に発展した。阿波風土記は現在、所在不明となっている。歴史上、不都合な事(記紀とは異なる事)が書かれていたと推測される。

例えば、播磨国風土記には宇治大君(ウジノワキイラツコ)の記載がある。応神天皇(竹葉瀬の君、宇佐家の末裔)の皇子 宇治大君が即位し、現在の宇治上神社と宇治神社がある場所に宮を置いていたが、後に仁徳天皇となる星川建彦に宇治川にて暗殺された。現在の奈良県天理市の皇子村にいたウジノワキイラツコの皇子と親族たちは自分たちも殺されると思い瀬戸内海を渡り、讃岐国屋島東側の岬に身を潜めた。皇子村は庵治(おうじ)村と漢字を変え、屋島東側を庵治(あじ)と呼んだ。庵治には皇子神社を建立し、現在もウジノワキイラツコの恐怖を忘れぬように船祭りのだんじりでは台座で死に装束に赤い血を表すタスキをかけて太鼓を叩く少年達を激しく揺らし回転させる。

別の話しとなるが、天皇家に皇后を多く出した和邇氏も渡来して来た日本海側の痕跡を消されている。日吉神社と名前を変えられた和邇部神社も閉鎖された。一方、日本海側から渡来してきた新羅の王子だったアメノヒボコは、神功皇后の先祖であるが、兵庫県の出石神社は今も土地の人達に崇敬されている。

🔹池辺真榛: 阿波出身の国学者。延喜式の研究を行っていたが、阿波の歴史についても深く知りすぎてしまい、その後、阿波藩政を非議したという罪を被せられ、文久3年(1863年)に身柄を拘束され、阿波藩邸に監禁され、不審な死を遂げた。

🔸『出雲と蘇我王国』斎木雲州著の中にも貸し出した古文書が再三返却依頼しても戻らなくなる例が書かれている。

日本の歴史に都合が悪い文書類を収集して、その内容を闇に葬る一団が存在する。

🔸父 西洋料理人。昭和天皇に料理献上。神戸牛や明石の鯛など様々な食材の最高部位を少量ずつ提供した。献上された神戸牛は森谷商店から提供され前日、神戸元町商店街をパレードした。十六菊花紋入りの煙草を賜る。現在の上皇をはじめ皇族、石原裕次郎さんら俳優、阪神タイガースの面々へも料理を提供していた。

旧・神戸オリエンタルホテルに勤務後、独立しステーキレストランを開業。

1969年12月1日に、株式会社オリエンタルホテル 取締役社長であった安部譲二さんの父 安部正夫氏から13年間皆勤を表彰されている。



・神戸市中央区京町の4代目 旧・神戸オリエンタルホテル。阪神・淡路大震災の影響を受け営業停止。屋上に灯台が見える。

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父が勤めていた当時、オリエンタルホテルの第5代社長に就任していたこの日本郵船の重役だった安部正夫氏 (作家の安部譲二さんの父)が、 「港街・神戸のシンボルに」と、 1964年(昭和39年)に日本で初めてホテルの敷地内に建つ公式灯台を設置した。この灯台は、今も神戸メリケンパークオリエンタルホテルの最上階に残る。

神戸メリケンパークオリエンタルホテルの最上階14階のバルコニーにある灯台

日本航空時代の安部譲二さん。当時、安部譲二さんは、父親の安部正夫さんが社長を務めていた神戸オリエンタルホテルにも神戸市垂水区のジェームス山のお宅にも何度も行っていた。生前、私の父も安部譲二さんを何度も見かけたと言っていた。 写真は、生前の安部譲二さんから2018年12月20日付けのメールにて使用許可を頂いた。

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