◼️細川 政元(ほそかわ まさもと)
室町時代後期から戦国時代にかけての武将、守護大名。
室町幕府24、26、27、28代管領。
摂津国・丹波国・土佐国・讃岐国守護。
細川氏12代当主。
日野富子や伊勢氏らとともに足利将軍家の10代将軍義材を追放して11代義澄を擁立し、事実上の最高権力者になり、「半将軍」とも呼ばれた。
◼️人物
細川政元は修験道(山伏信仰)に凝って、その女人禁制(不犯)の戒めを厳守していたため、女性を近づけることなく生涯独身を通した。
空を飛び天狗の術を得ようと怪しげな修行に熱中し「空中に立った」「超常的言語を発した」など様々な不思議を現したと噂されたり、突然諸国放浪の旅に出てしまうなどの奇行があり、『 足利季世記』では「京管領細川右京大夫政元ハ 四十歳ノ比マデ女人禁制ニテ 魔法 飯綱ノ法 アタコ(愛宕)ノ法ヲ行ヒ サナカラ出家ノ如ク山伏ノ如シ 或時ハ経ヲヨミ陀羅尼ヲヘンシケレハ 見ル人身ノ毛モヨタチケル」とある。
ただし、政元は修験道を単に趣味としてだけでなく、山伏たちを諜報員のように使い、各地の情報や動向を探るなどの手段ともしており、遠くの情報をいち早く得るため狼煙の中継地点の整備などもしていた。
なお中世当時の大名や武将たちにも広まっていた衆道(男色)は、政元も嗜んだようであり家臣の薬師寺元一とその関係にあったとする見方もある。
また当時の武家においても一般教養であった和歌では、政元は鳥に関する句ばかりを集めており、空を飛ぶものに興味を持っていた。天狗の扮装をして高い所に上ることもあったという。
肉体と精神を鍛える修験道の修行を好んでいた政元であるが、頭脳を使う囲碁好きでもあった。
戦略が磨かれる囲碁は、父の勝元も好んでおり親子共通の趣味であった。
枯山水で知られる龍安寺の石庭の作庭者は政元であるという説もある。
龍安寺は元々は父の勝元が建てたが応仁の乱でいったん焼失しており、現在の枯山水の石庭は政元が龍安寺を再建した時に改めて作庭されたものであるという。
政元は当時の武家の慣わしであった頭に被る烏帽子を嫌い、普段から被らなかった。
近衛政家の『後法興院政家記』明応3年12月21日条によれば、この月の20日に予定されていた新将軍・義澄の元服・将軍宣下が、烏帽子親である政元が烏帽子の着用を嫌がったために27日に延期されている。
政元は朝廷や幕府の儀式についても、実際の威信が伴わなければどんな立派な儀式でも意味がないと考えていたとみられ、後柏原天皇の即位式の開催を無益であるとして開催を認めなかった。
このように政元は血筋や一族・身分といった昔からの前例・伝統の縛りにもこだわりはない合理主義的な面があったようで、細川氏出身ではない家臣の上原元秀を功績があったからと、家人の身から細川一門へと抜擢しようとしたり、自らの後継者候補として細川氏の血を引かない澄之を養子にしたりしている。
人事においては、父祖代々の家臣団に加え、新たな登用もしており、信濃国から来た弓の師範であった赤沢朝経や分家の阿波守護家家臣であった三好之長の才を見出だして重用し、軍事等で活躍させた。
四国の領国土佐国では、国人領主のひとりに過ぎなかった長宗我部元秀を土佐国の有力者に引き立てており、後年に三好氏・長宗我部氏が畿内の覇者・四国の覇者に飛躍する下地ともなった。
旅や鷹狩りを好み、この時代のしかも大大名にしては異例の長旅もしており、手紙のやりとりより実際に会って直接協議するという名目で、越後国(現・新潟県)まで行っている。
奥州(東北地方)へも一修験者として修行の旅に出ようとしたという。
他にもたびたび畿内近辺で船旅などしている。
政元は政務を家臣任せにして修行や旅に出たり、出奔により幕政を混乱させることもあり、将軍義澄が自ら説得に出向くこともあった。
やがて実際の政務は、「内衆」と呼ばれた京兆家の重臣達(守護代など)による合議に重きが置かれるようになったが、文亀元年(1501年)、政元は内衆合議の規定と内衆を統制する式条を制定する。
貿易にも関心があり、大きな経済的利益をもたらす明国との日明貿易を細川氏主導で行った。
政元は貿易利権をめぐり対立関係にあった大内氏(応仁の乱時の西軍主力)を締め出して利権を独占するため、九州の少弐氏に手を回して遣明船の通過ルートの博多や平戸の港をおさえている。
政元は戦もたびたびおこなったが、将軍義尚の六角討伐(鈎の陣)や管領畠山政長の義就討伐に同行して出陣した際には、一定の目的はもう果たしたからと早期撤収を求め、自軍を素早く引き上げるなど、長引いて泥沼化するのを嫌う実利的な傾向があり、丹波国の大規模国人一揆で当初は現地の家臣に対応を任せていたがいっこうに収まらず政元自ら出陣して指揮をとった際には、反乱の首謀者たちを根絶やしにする苛烈さで鎮圧している。
幸田露伴は著書『魔法修行者』にて、政元が修験道に凝ったのは、なかなか男子の出来なかった父・勝元が天狗の拠る修験の場としても知られた愛宕山大権現に願掛けして生まれたのが政元だったためという出生の因縁からくるものだったと指摘しており、政元を「何不自由なき大名の身でありながら、葷腥を遠ざけて滋味を食らわず、身を持する謹厳で、超人間の境界を得たい望みに現世の欲楽を取ることをあえてしなかった」「(政元が)空中へ飛上がったのは、西洋の魔法使いもする事で、それだけ長い間修行したのだからその位の事は出来たと見ておこう」などと評している。