◼️種 ともこ(たね ともこ) とは?
1961年11月7日 –
日本のシンガーソングライター・アレンジャー
京都府長岡京市出身。
同志社大学文学部哲学科卒業
◼️経歴
エキセントリックな歌声と言葉遣いの歌詞が特徴。
自身でもオリジナルを発表する傍ら、多数の楽曲提供やアレンジ、音楽監督などの活動も行っている。
親友にシンガーソングライターの新居昭乃など。
2児の母でもある。
3歳よりピアノを習う。
7歳のときに骨の病気が発病、約10年間入退院を繰り返す。
当時同居していた叔父からギルバート・オサリバン、シカゴ、アルバート・ハモンドなどを聴かせてもらい洋楽を知る。
また、歌謡曲も好きでいしだあゆみの「ブルーライト・ヨコハマ」は後にカバーする。
中学時代は、合唱部に入部。
コンクールでも入賞するような強豪校でありハーモニー(和声)の仕組みを学ぶ。
この頃よく聴いていたのはビートルズ。
部活の先生に声楽科への進学を勧められるが、声楽科のある高校は、ほぼ女子高のため普通校に進学。
高校時代は、病気が再発したこともあり休みがちになる。
この頃、詩を書き始める。
影響を受けたのは西脇順三郎。
また、知人のハードロックバンドに加入しキーボードを担当、ライブも経験する。
セックス・ピストルズ、ケイト・ブッシュに影響を受ける。
高校3年生のときニーチェを読んで哲学に憧れ大学は哲学科に入学するもすぐに飽き、バンド活動に明け暮れる。
このバンド「OLFE」ではキーボード・作曲・アレンジを担当、ボーカルは別のメンバーだった。
「うそつき少年」でKBS放送アマチュアコンテストで優秀賞を受賞。
卒業論文のテーマは「キェルケゴールにおける人格概念の形成について」。
最初は引き続き大学院に入って教授になるつもりだったが、漫画の「エースをねらえ!」を読んで、その中の「テニスセンスのあるやつはいくらでもいる。
でもその中で特訓に耐えられるやつだけがプロになれるんだ」といったくだりから考えを変え、音楽の道を選択し。
大学卒業後、アルバイトをしながら音楽活動を続ける。
1984年、CBSソニー(現・ソニー・ミュージックエンタテインメント)のSDオーディションで「うそつき少年」が優秀賞を受賞(ちなみにこのときの最優秀賞は、THE 東南西北。優秀賞は、種とLOOK。
特別賞は、聖飢魔II)。
翌1985年6月に上京。
12月、「You’re The One」(ANAスキーイメージソング)でデビュー。
初期の3アルバム『いっしょに、ねっ。』(1986年2月)、『みんな愛のせいね。』(1986年11月)、『Che Che-Bye Bye』(1987年10月)は、武部聡志がアレンジおよびプロデュースし、彼らしい計算されつくしたシンセサイザーの積み重ねによる緻密なアレンジが特徴。
また、イントロがキャッチーなため、テレビ番組のジングルとして多用された(『4時ですよーだ』など)。
女の子の心情を歌ったポップな楽曲が多く、当時の女性シンガーソングライターの中でも個性が際立っていた。
🔸Che Che Bye Bye
https://m.bilibili.com/video/BV1ZM411L7zS
08:00- 悲しき球技大会
1988年、アルバム未収録、リミックス曲などを集めた『ベクトルのかなたで待ってて』をリリース。
このアルバムのリード曲「Pumps Race Song」のPV収録で生まれてはじめてパンプスを履く。
1989年のアルバム『オ・ハ・ヨ』以降、セルフプロデュースとなる。
この頃より自ら打ち込みを行うようになる。
また、当時、テレビ番組出演時などは、「天才種ともことしては…」という発言が目立った。
『オ・ハ・ヨ』・『うれしいひとこと』(1990年2月)の2枚のテーマアルバムをリリース後、セルフプロデュースの集大成的なノーコンセプトアルバム『音楽』(1990年11月)をリリース。
この頃、セールスが一番延びた時期であった。
1991年9月『KISS OF LIFE』をリリース。
『Mighty Love』(1993年3月)、『HARVEST』(1994年6月)は、主に自宅でレコーディングされた。
イギリス人エンジニアと結婚したのもこの時期である。
自宅レコーディングから一転『感傷』(1995年5月)では、ON AIR EASTにて公開レコーディングを実施。
ライブとして公開したが、メンバーの間には遮音板が立てられ、ミスがあった場合には再演奏された。
ブックレットには、当日の観客との集合写真が使用されている。
1997年11月、第1子妊娠中から制作をスタートした『Locked in Heaven』が予定を大幅に遅れるもリリース。
これをもって、SONY RECORDSとの契約を終了。
以降インディーズからのリリースとなる。
第2子を妊娠、アルバム制作のスケジュールが不確定になるが、他の人が作った曲を歌う企画が持ち込まれ、1999年12月、一曲を除きすべての作詞曲を他人にゆだねた実験作『hetero』をリリース。
その後しばらくリリースが途絶える。
この間に離婚。
2003年、プライヴェート・レーベルから2部作『in』『out』のリリースで復帰。
その実験的、個性的な音楽性に磨きがかかった。
同年、ソニー・ミュージックダイレクトより『11 YEAR’S WORKS(ゴールデン☆ベスト)』をリリース。
種ともこ初のベスト・アルバムである(これは、種が過去の作品は過去のものであり、常に新しい種ともこを見てほしいという考えからであった)。
通常、『ゴールデン☆ベスト』シリーズは、レコード会社による企画でアーティストは関わらないケースが多いが、このアルバムには種ともこもリミックスなどに関与しブックレットにコメントを寄せている。
2005年10月、『カナリア』をリリース。
SONY時代のような音を積み重ねる手法から、音数を減らしじっくりと歌を聴かせるような音楽へ変化。
円熟期を迎える。
2006年10月28日に全国東宝系ロードショー公開された映画『虹の女神 Rainbow Song』(主演:上野樹里、市原隼人)の主題歌「The Rainbow Song」を担当している。
これは、アルバム『音楽』を聴いたプロデューサーの岩井俊二からのオファーにより再録音したものであった。
ちなみにこの曲は、1990年のアニメ映画『リトル・ポーラベア〜しろくまくん、どこへ』の主題歌でもあり、2度目の主題歌起用である。
同年、この曲を含むセルフカバーアルバム『ウタイツガレルウタ』(2006年10月)をリリース。
2007年5月、ホッピー神山をプロデューサーに迎え『おひさま』をリリース。
タイトル曲 がハウスジャワカレーのCM曲となる。2009年5月、童謡カヴァーアルバム『雪月花』とインディーズ時代の曲のベストアルバム『カナリヤとおひさまとそれから』を同時リリース。
2011年3月11日に起こった東日本大震災の被災地支援活動として『種からつなげよう~笑ってて~』をスタート。
以降、同名のチャリティライブを隔月のペースで開催するなどして募金活動を現在も継続中 (後述の#種からつなげよう~笑ってて~を参照)。
また、チャリティ曲「笑ってて」を配信リリースし、収益を全て義捐金とする。
同年10月に、この曲を含めたアルバム『uh Baby Baby』をリリース。
共同プロデューサーとして菅原弘明を招いている。
2013年10月16日、アルバム『True Love Songs』をリリース。
前作と同様に共同プロデューサーとして菅原弘明を起用し、「ラブソング、足りてる?」をキャッチフレーズとした恋愛三部作の第2弾。
True Love Songs Tour 2013 として、同年秋に全国22ヶ所でライブを行う (『種からつなげよう』を含めると合計23ヶ所となる)。
2014年9月、ミニアルバム『家のピアノ』をツアー会場限定CDとして販売。
恋愛三部作の第2.5弾。
「ワタシの家に来て、ピアノ弾いて歌でも歌うから」がコンセプトの一発録り。
本作品は2015年3月25日より一般流通でも発売された。
2014年9月13日に公開されたミュージカル映画『舞妓はレディ』(主演:上白石萌音)で、主題歌「舞妓はレディ」をはじめ11曲の作詞を周防正行監督と共同で担当(「ムーンライト」のみ種の単独作詞)。
2015年、「笑ってて」をフィーチャーして藤原伊織監督が制作したミュージックビデオ『しおり』が、ショートショートフィルムフェスティバルにて2015年度ミュージックShort部門UULAアワードを受賞。
10月21日にアルバム『Love Song Remains The Same』をリリース。前作と同様に共同プロデューサーとして菅原弘明を起用した恋愛三部作の第3弾。
2016年10月、デビュー30周年企画として、アニメ/映画への提供曲や、未発表ライヴ音源など、これまでアルバムに収録されていなかったレア・トラックを集めた2枚組アルバム『DAILY BREAD』を発売。
2017年7月、前年のデビュー30周年企画の続きとして、ライブ音源 (CD+ハイレゾDL)と書籍をまとめたパッケージ『バトン』を500部限定で発売。
2007-2015年現在、国立音楽院にてシンガーソングライター科の講師を勤めている。
◼️現在の活動 → オフィシャルWebサイト
◼️謝謝 BYE BYE 種ともこ
◼️悲しき球技大会
https://www.uta-net.com/song/189353/