◼️【香川県】私が幼少の頃、夜遅くまで遊んでいたり、親の言うことを聞かなかったりすると「子ぅ取り婆」が来て連れて行かれると脅された。
何とも言いようのない不気味な老婆が現れさらわれていくイメージがわき本当に怖かった。
その「子ぅとりばあ」が現在の香川県三豊市豊中町に実在したことを令和になってから知った。
そして、その「子ぅ取り婆」の事件をきっかけに民衆が暴徒化していき、16,800人にものぼる者が刑に処された。
◼️【高校日本史】明治新政府の軍政改革〜徴兵告諭から血税一揆へ〜
◼️「子ぅ取り婆」事件と徴兵令反対一揆
明治6年(1873)1月10日、新政府は国民皆兵を目指す徴兵令を発布。
しかしながら、徴兵令に対し怒った農民たちによる一揆が西日本を中心に頻発した。
讃岐でも名東県時代に一揆が起きた。
国が兵役を「血税」と称していたことから、これを血税一揆という。
同年6月26日の夕方、三野郡下高野(しもたかの)村(現三豊市豊中町)において、髪の毛が伸び放題で挙動不審の女が現れ、幼児を奪って逃げようとする事件が起きた。
それは、我が子を溜池で溺死させた女が、たまたま池の堤で遊んでいる女の子を自分の子と思い込み、いきなり小脇に抱えて走り出したという事件だった。
しかし、その直後、一人の農民が近くの延寿寺で早鐘を鳴らし続けたため、たちまち近隣の村々に「子ぅ取り婆あ」が現れたという流言が広がり、多くの農民が手に手に竹槍を持ち集まり、その女に襲いかかった。
戸長がそれを制止すると興奮した者たちが戸長を殴り、さらにそれを見た者が興奮して暴徒化し、一揆に発展した。
一揆は、初め西に向かい今の観音寺市大野原町萩原へ進んだ後、翌27日には、人を集めながら三野、豊田、多度郡全域に広がり、さらに東へ那珂・阿野・鵜足・香川郡へと広がっていった。
この騒動の参加者は、総数約4万人を超え、多くは三野・豊田郡の者だったといわれている。
暴徒は竹槍を掲げ、税の軽減や徴兵の反対などを要求して、官と名のつくものを次々と攻撃していった。
襲撃された村は約130カ村、打ち壊し・焼き討ちされた箇所は役場、役人宅、小学校など約600カ所に及んだ。
6月29日、小野峯峠(綾川町綾上)における群集と軍隊との決戦でこの騒動はようやく沈静化した。
処罰された者は約1万6千人に及んだ。
この騒動では、警官が二人殉死し、一揆側が死者50人を出し、7人が斬首された。
ちなみに西讃ではこの事件から123年前にも大西権兵衛を中心に大規模な一揆が起きている。
◼️この子ぅ取り婆さんの正体は、阿野郡国分村(現在の高松市国分寺町)の農家 与乃助の孫娘、ノブという三十七、八才の女性と言われる。
自分の二人の娘が溜池に落ちて溺れ死んでしまい、精神に異常をきたした。
場所が変われば良くなるだろうと、親族の者がこの三豊市豊中町下高野に女中として住み込ませていた。
この女性が南池付近で遊んでいた少女を見て「あゝ私の娘がここに居た」と思いその少女を抱えて走り去ろうとした。
◼️『讃州竹槍騒動』(佐々栄三郎:海流社)
◼️子ぅ取り婆が現れた場所。香川県三豊市豊中町下高野の如来寺から南池にかけて。
南池は不焼堂(如来寺)から街道を百メートルあまり南西へ行った付近にある。
◼️三豊市豊中町下高野の延寿寺にて、早鐘が鳴らされ続け近隣の村にも流言が広まった。
◼️昭和9年発行の「旧版・香川県警察史」
明治六年六月二十六日正午頃、第七十六区の内、下高野村へ散髪の一婦人現われ、附近に遊べる小児(当時の副戸長秋田磯太の報告によれば小児の父兄、姓名、自宅不明とあり)を抱き、逃げ去らんとしたり。
これを眺めたる村民は、当時、児取りとて小児を拉し去り、その肝を奪ぅもの徘徊するとの風聞ありたる折柄とて、忽ち附近の農民寄り集まり、有無を言わせず、打殺さんとしたるを、村役人田辺安吉これを制し、故を訊さんため、先ずその婦人を自宅に連れ帰りたるに、村民増集、喧騒するを以て、日辺は比地大なる同区事務所(役場)へ報告、指揮を抑ぎたり。
このとき事務所には戸長不在にて副戸長秋田磯太あり、兎に角その婦人を事務所まで同行すべく命じたり。
然るに田辺宅附近に集まりし村民は日々に不同意を唱ぇ、田辺をして同行せしめず、田辺は止むなく再び事情を報告したりしに、秋田副戸長は田辺宅に出張し来り、門柱に縛しあるを一見するに頭髪の散乱せる様といいヽ眼使いといい、全く狂人としか思われず、何事を問ぬるも答うるところなく、住所、氏名さえ明らかならぎるをもって、徐々に取調べんと思いたるも、何分多人数集合せるを以て無用の者は退去すべく再三論したるも聴きいれず、彼是、押問答の内、戸長名東県歴史又駈けつけたり。
群集を説諭しヽ婦人は兎に角事務所へ連れ帰ることとなり、先ず戒めを解き門前に引出し、群集に示し、その何人なりやを訊したるも誰一人として知れるものなく、全く他村の者と定まりしがヽ狂婦は機をみて逃げ出さんとしたるを秋田副戸長はすかさずヽその襟筋をとらえて引戻したり。
然るに、このときまで怒気をおさえて見物せる群集は最早たまりかね、三つ股、手鍬をもって打掛かりしを以て戸長らはかろうじてこれを支え、狂婦をまた田辺宅に引き入れ警戒中、急報により観音寺邏卒(巡査)出張所より伍長吉良義斉は二等選率石川光輝、同横井誠作の二名を率い、急遠田辺宅に駈けつけたり。
このときは既に無知の土民数百名、竹槍又は真槍を携え、田辺宅を取り囲み、吉良の来るをみるや、口を極めて罵詈し、騒然として形勢不隠なり。
吉良は漸く田辺方に入り、ここにまたもや狂婦の尋間を開始したるも依然得るところなく、僅かに国分村の者なるを知り得たるのみ―
◼️血税一揆とは?
血税一揆(けつぜいいっき)とは、新政反対一揆のひとつであり、主に1873年(明治6年)に施行された徴兵令に反対するために、農民を中心として行われた一揆。
徴兵令反対一揆ともよばれる。
◼️概要
血税一揆は、1873年3月に渡会県牟婁郡からはじまり、1874年(明治7年)12月高知県幡多郡における蜂起まで16件(または19件、14件とも)、西日本を中心におこった。
これは、西日本では徴兵を免れた者の比率が少なかったことが関わっている。
これら一揆のうち、北条県(美作)の一揆・鳥取県(伯耆)会見郡の一揆・名東県7郡(讃岐)の一揆(西讃竹槍騒動)などは特に熾烈であった。
◼️西讃竹槍騒動
西讃竹槍騒動(西讃農民騒動とも)は、名東県豊田郡・三野郡・多度郡・那珂郡・阿野郡・鵜足(うたり)郡・香川郡の7郡で6月27日(6月26日とも)から7月6日にかけて起きた。
放火された村の数は約130村、農民側死者50名、官軍側死者2名。このうち、この一揆がはじまったのは、三野郡下高野(しもたかの)村であった。
この一揆のきっかけにはこの様な話が伝わっている。
●下高野村の夕方のこと。
ひとり蓬髪の女が現れ、池のほとりで遊んでいた女の子を抱え、奪い去った。
この女を捕まえた下高野村の住民が、「子ぅ取り婆あ」があらわれた、と言って騒いだという。
そのころ、「徴兵検査は恐ろしものよ。若い児をとる、生血とる」という歌がはやっていたのも関係する。
戸長が取調べを行おうとしたが、それを不服としたものたちが戸長に暴行、それに群集が興奮し次第に数を増していき、2万人に達した。
6月26日豊田郡萩原村(現観音寺市大野原町萩原)へ向かって進んだ後、翌27日には、騒ぎは三野、豊田、多度郡全域に広がり、さらに東へと広がっていった。
6月28日、名東県高松支庁は高松営所を派遣し、早くも6月29日には優勢に立った。
そして7月6日これをほぼ鎮圧した。
逮捕約282名、うち死刑7名、懲役刑50名(または51名)など、刑に処された者は16,839名(または16,606名、16,654名)にものぼった。
農民の要求は「徴兵令反対、学制反対」また、『肉食行はれしより牛価騰貴貧民困却』と唱えた。
これは、牛食が認められると、それが耕作に必要な牛の値まで上げ、農業生産を圧迫するのだ、という理屈からきたものであったらしい。
農民たちは焼き打ち、打毀し、戸長事務所、小学校、戸長宅、邏卒出張所や民家など計599箇所を破壊した。
また、小学校への毀焼も激しかった。
破壊された599箇所のうち48が小学校の数である。
一揆をおこした農民は徴兵以外にも、新政のいろいろに不満を持っていたが、1872年に施行された学制に対するそれも大きかった。
学校経費として丸亀・多度津では一年につき最下層でも25銭の負担が住民に課せられ、辛いものであったとされる。
一揆の鎮圧後、名東県は「速かに学校を興すべき達」という通達を出し、小学校の復興を急いだ。