最も新しい”県”は? 香川県! 1888年12月3日、香川県が愛媛県から独立 ! 渋沢栄一翁の盟友 中野武営翁が尽力!

🟣最も新しい”県”は?

香川県

●1888年12月3日、香川県が愛媛県から独立!

渋沢栄一翁の盟友 中野武営翁が尽力!

●沖縄県は1972年米国より返還されたが、沖縄県自体は1879年に既に存在

●1943年に東京府から東京都へ改名

●1947年に北海道庁から北海道へ改名

🟣香川県発足

徳川時代の讃岐国には、高松藩、丸亀藩、多度津藩の3藩と、徳川幕府の直轄地である天領、津山藩の飛地が分立していた。

1871年8月29日(明治4年旧暦7月14日)の廃藩置県により、高松藩は高松県、丸亀藩は丸亀県、多度津藩と天領は倉敷県、津山藩の飛地はそのまま津山県となった。

その直後に、倉敷県の管轄地が丸亀県へと移された後に、同年に高松県と丸亀県が合併されて香川県(1873年2月19日以前)が設置され、1872年(明治5年)に小豆島西部を編入して、現在の香川県(1888年12月3日以後)と同じ管轄範囲(行政区画は1888年12月3日に分割)となる。

しかし、1873年2月20日には名東県(後の徳島県)に編入されるも、2年後の1875年9月5日に香川県(1875年9月5日〜1876年8月20日)として分離されたが、翌年1876年8月21日には愛媛県に編入された。

度重なる編入の度に、地理的要因や地域文化や住民意識などで食い違いが発生し、香川県として単独の県の設置を望む声が再び高まり、12年後の1888年12月3日に香川県が復活して、現在に至る。

なお、1888年の香川県の分離独立を最後に、東京府と東京市の合併(1943年7月1日)や、第二次世界大戦後にアメリカの統治下に置かれた沖縄県の日本再編入(1972年5月15日)などの特殊な事例を除いて、新しい県の設置はなく、この1888年12月3日に現在の47都道府県体制がほぼ確立したことになる。

「香川県」の名称は、高松市が所属していた香川郡から取ったもので、いわば郡名を県名にしたものである。

🟣中野 武営 翁

本名 なかの たけなか、通称 なかの ぶえい

嘉永元年1月3日(1848年2月7日) – 大正7年(1918年)10月8日

明治・大正時代の官僚出身政治家、実業家。

幼名は「権之助」または「作三」。

号は「随郷」。

讃岐国・高松藩出身。

官僚時代を経て、大隈重信の立憲改進党結成に参加。

愛媛県の県会議員に当選、次いで県会議長となり、愛媛県からの香川県の独立(再置)運動に奔走。後に代議士(衆議院議員)となり、晩年、東京市会議員、同議長も務めた。

武士としての気骨と商才を併せ持って実業家としても成功し、「士魂商才」と称された。

関西鉄道社長、東京馬車鉄道株式会社取締役、東京株式取引所理事長、日清生命保険会社社長等を歴任。

初代の東京商業会議所会頭 渋沢栄一の盟友で、後任として第二代東京商業会議所会頭に就任し、経済の発展、実業界の地位向上を目指し、商工業者への減税や軍事費削減など、税制や財政、経済政策などについて積極的提言を行なうとともに、財界の世話役として、渋沢とともに新会社や公益的団体の設立、紛争の調停などを行った。

野球選手・審判の中野武二は息子。

孫に作郎、次郎、俊三郎など。

雅号の「随郷」は、「郷に入りては郷に随ふ」の意。

渋沢栄一夫妻と中野武営翁

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