🟣2022年7月9日 曇りのち雨、のち晴れ😃
東かがわ市の黒羽(くれは)神社、吉祥寺、黒羽城跡を訪問😃
●相生(あいおい)の説明板
相生は、戦後初の東大総長だった南原繁さん、美空ひばりさんが物まねしたブギの女王 笠置シヅ子さん、江戸時代の発明家 久米通賢さん、瀬戸内寂聴さんの父 瀬戸内(三谷)豊吉さんの出身地。
●わたしの、父方の曽祖母は、相生の黒羽地区の旧家 永峰家の出身だった。嫁入り道具は相当豪華なものばかりで、朝になると引田で獲れた新鮮な魚介類が船で丹生まで届けられたと聞く。
戦国時代に永塩姓から永峰姓に改姓し、先祖は永塩氏継と言った。
●株式会社タイホーを通り過ぎると右手に黒羽神社が見えてくる😃
●木の茂みの向こう側に黒羽神社がある。
●黒羽神社
●由緒書き
室町時代の応仁元年(1467年)に、天御中主神を奉祀し、永塩因幡守氏継が創建。
通称: みょうけんさん
5社(山の神、荒の神等)を合祀
●由緒書きの裏
※一説によると、黒羽の土地は、水が少なく、毎年旱魃の被害に苦しんでいるのを見た永塩因幡守氏継が見かねて、池を築いた。しかし、雨が少なく池に水は溜まらなかった。
村人たちは思案し、大木が密生している浄地に大御中主命、天水分命を祀って、雨乞祭を執り行ったところ、その後は旱魃(かんばつ)もなく、池はいつも水をたたえるようになった。そのことを喜び、産士神として祀ったと古老の口碑が残されている。
🟣永塩因幡守氏継(ながしお いなばのかみ うじつぐ) とは?
●生誕: 不明、死没 : 応仁元年10月3日(1467年11月8日)
生年月日不明 〜 応仁元年10月3日(1467年11月8日)
官位に因幡守とあるが、永塩氏継と因幡国(鳥取県東部)との関係は不明。因幡国の国司、守護一覧には名前は出てこない。地元、黒羽出身の地方豪族だったと推測。
●室町時代(1336年〜1467年) 後期の武将。
現在の東かがわ市黒羽(くれは)にあった黒羽城 城主。
細川勝元の重臣として東讃守護代を世襲していた安富氏一族惣領の安富元綱の一派と推測される。
主君 : 細川勝元(讃岐国守護。東讃守護代は安富元綱。ちなみに西讃守護代は香川氏)
氏族 : 永塩氏
●生涯
生年月日は不明。
生誕地は黒羽と推測。
応仁元年(1467)年8月4日、現在の東かがわ市黒羽に天御中主神(あめのみなかぬしのかみ)を奉祀し、黒羽神社を創建。後に天御中主神は妙見大明神へと変わる。
細川勝元に仕えていた安富元綱は、家宰として京都で勝元に近侍していた。
応仁元年(1467年)に応仁の乱が起こると、安富元綱は香川氏と共に讃岐の軍勢を指揮し、京都を転戦。
この東軍の安富元綱が指揮した讃岐の軍勢の中に、永塩因幡守氏継がいた。
戦局が西軍有利となる中、10月3日、西軍は東軍の本陣であった相国寺を一気に攻撃した(相国寺の戦い)。
東軍の元綱は3000騎を率いて相国寺を守ったが、一部の僧侶が西軍に内応して相国寺内部から火を放ったことから東軍側は動揺し総崩れとなった。
元綱は敵の猛攻撃を押し返し奮戦したものの、激戦の末、弟の盛継と共に壮絶な戦死を遂げた。
永塩因幡守氏継も激しい相国寺の戦いの中で、安富元綱らと共に討ち死にした。
相国寺の戦いは応仁の乱でも激戦の一つであった。
相国寺の戦いで、永塩因幡守氏継と共に永塩氏一族の他の者も亡くなった。このことがきっかけとなり、黒羽に残っていた永塩氏一族は、帰農し、永峰姓に改姓したと推測される。その後、一族の復興が図られた。
※日本姓氏語源辞典によると、永峰姓は、香川県東かがわ市黒羽で戦国時代に永塩氏が帰農して塩を「峰」として改姓したと伝わる。
※参考: 黒羽神社由緒、地名辞典、応仁記、日本姓氏語源辞典、県報2001、2003
🟣寄進碑
●狛犬
●鳥居
●鳥居左横の御神燈
●鳥居の右柱
●鳥居の左柱
●第一印象は、神気があり、何かがおわす感じ。こざっぱりした気持ちの良い場所。よく掃除されている。
●妙見宮と書かれた神額。妙見神は毘沙門天や吉祥天、弁財天と同じく蕃神(外国の神)。妙見信仰はインド発祥。
●神社北側の空き地。
●御神木
●この木の神気は凄かった😃
●妙見大明神とある。
●北側入り口の鳥居
●黒羽大明神と書かれている。
●境内南手にある寄進碑
●神社から南の山、吉祥寺を望む
●神社本殿の裏地
●本殿
●境内に寄進碑が多くあることから、地元の信奉が厚いことを物語っている。
●鳥居の年代
●境内南側の何か感じる場所
●神燈の年代
●神社の外、南側から見た神社。吉祥寺(毘沙門庵)へ向かう。