【ビル・ロビンソン】人間風車 名勝負! カールゴッチ戦! ジャイアント馬場戦! ジャンボ鶴田戦! プロレス史に残る不朽の名勝負 アントニオ猪木戦!

🟣ビル・ロビンソンとは?

ビル・ロビンソン(Bill Robinson)

本名:William A. Robinson

1938年9月18日 – 2014年2月27日

イギリス・マンチェスター出身のプロレスラー。

ウィガンのビリー・ライレー・ジムでキャッチ・レスリングを習得し、欧州マットを経て日本やアメリカで活躍した。

ダブルアーム・スープレックスを日本で初公開したことから、「人間風車」の異名を持つ。

●アメリカではバーン・ガニアが主宰していたAWAを主戦場に、”ブリット” ビリー・ロビンソン(”Brit” Billy Robinson)のリングネームで活動。

戴冠は果たせなかったものの、次期AWA世界ヘビー級王者の最有力候補とされていた。

◼️日本での活動

●国際プロレス

初来日は1968年4月、日本レスリング協会の会長で国際プロレスの発起人でもあった八田一朗が、当時のロビンソンの活動拠点だった英国のジョイント・プロモーションズとのコネクションを持っていたため、八田の仲介で国際プロレスの『日英チャンピオン・シリーズ』に参戦。

当時の国際プロレスはブッカーのグレート東郷と決別し、八田を窓口にヨーロッパを外国人選手の新しい招聘ルートとして再出発していたが、日本プロレスのアメリカン・プロレス路線を見慣れていた日本のファンや関係者にとって、欧州の選手は地味な印象を持たれがちだった。

しかし、未知の技ダブルアーム・スープレックスを日本で初公開したロビンソンは日本でも強烈なインパクトを残し、一躍注目の存在となる。

初来日時には豊登とサンダー杉山を相手にヨーロピアン・ヘビー級王座を防衛。

再来日となる同年11月開催の『ワールド・チャンピオン・シリーズ』(第1回IWAワールド・シリーズ)では優勝を果たし、IWA世界ヘビー級王座の初代チャンピオンに認定された。

なお、同シリーズでは英マットでの盟友ジョージ・ゴーディエンコやピーター・メイビアともリーグ戦で対戦した(メイビアとはリング外のストリートファイトでも一戦交えている)。

シリーズ終了後も国際プロレスに残留し、翌1969年上期まで、外国人でありながら日本人陣営のエースとなって活躍。

それまで外人レスラーは敵役という図式が支配的だった日本のプロレス界において、日本人選手と共闘する初の外国人ヒーローとなった。

また、国際プロレスでは若手選手のトレーナーも兼任し、寺西勇、マイティ井上、アニマル浜口らを指導している。

IWA世界ヘビー級王座は、1969年1月から5月にかけて、グレート草津、チーフ・ホワイト・ウルフ、スタン・スタージャック、ラッシャー木村を相手に防衛。

同時期に保持していたヨーロピアン・ヘビー級王座の防衛戦も、アルバート・ウォールらを挑戦者に迎えて行われた。

IWAワールド・シリーズでは、1970年3月の第2回大会でも決勝でストロング小林を下して2連覇を果たす。

1971年3月の第3回大会では、ビリー・ライレー・ジムでもスパーリングを行ったことのあるカール・ゴッチ、そしてモンスター・ロシモフと名乗っていた頃のアンドレ・ザ・ジャイアントとの3者で優勝戦を争った。

1970年からのアメリカ進出に伴い、同年5月にIWA世界ヘビー級王座を杉山にリングアウト負けで明け渡すも、AWAのスター選手となってからも国際プロレスには度々来日。

1974年には、前王者小林の離脱で空位となっていた同王座に返り咲いている(6月3日の王座決定戦で木村を破って戴冠、タイトルをアメリカに持ち去った)。

なお、この来日時にはタッグマッチながら初めて金網デスマッチに出場している(5月26日、豊田市体育館におけるロビンソン&井上vsセーラー・ホワイト&レーン・ゴルト)。

最後の参戦となった同年秋の『ワールド・チャンピオン・シリーズ』では、11月20日に蔵前国技館にてバーン・ガニアのAWA世界ヘビー級王座に挑戦した。

新日本プロレス


最後の国際プロレス参戦から1年後の1975年12月、新日本プロレスの『闘魂シリーズ第2弾』に終盤戦特別参加で登場(この移籍は当時の新日本のブッカーだったカール・ゴッチのオファーを受けてのものだったが、ゴッチは新日本が旗揚げされた1972年からロビンソンに移籍を打診していたという)。

来日第1戦となる12月4日の大阪府立体育館では、国際時代からの因縁の相手であるストロング小林に勝利。

その後も永源遙、山本小鉄、星野勘太郎を下し、タッグマッチではグレッグ・バレンタインと組んで小林&坂口征二と対戦した。

そしてシリーズ最終戦の12月11日、蔵前国技館にてアントニオ猪木のNWFヘビー級王座に挑戦。3本勝負でそれぞれが1本ずつ取った後、60分時間切れ引き分けとなったこの試合は、プロレス史に残る不朽の名勝負とされている。★★★★★

新日本からは長期契約が提示され、以降も参戦が予定されていたが、報酬額の低減を要求されるなど条件面の不信感から、新日本参戦はこの一度だけに終わった。

しかし、ロビンソンは猪木の実力を高く評価し、それ以前も以後も含め、自分が闘った日本人選手の中ではナンバーワンだったとしている。★★★★★

なお、新日本プロレスには引退後の1990年9月30日、アントニオ猪木のレスラー生活30周年記念のメモリアル・イベントに、ジョニー・バレンタイン、ジョニー・パワーズ、タイガー・ジェット・シン、アンドレ・ザ・ジャイアント、スタン・ハンセンなど、猪木の往年のライバル選手と共にスペシャル・ゲストとして招かれている。

※アントニオ猪木 フルタイム試合

1969年12月2日 対ドリー・ファンクJr.(NWA世界ヘビー級選手権)

1970年8月2日 対ドリー・ファンクJr.(NWA世界ヘビー級選手権)

1975年12月11日 対ビル・ロビンソン(NWFヘビー級選手権)

1978年6月1日 対ボブ・バックランド(WWWF&NWFダブル選手権)

1978年7月27日 対ボブ・バックランド(WWWFヘビー級選手権)

1986年9月16日 対ブルーザー・ブロディ

1988年8月8日 対藤波辰爾(IWGPヘビー級選手権)

全日本プロレス


1976年、ドリー・ファンク・ジュニアの仲介のもと全日本プロレスと契約。

初登場となる7月の『サマー・アクション・シリーズ』において、前年の猪木戦と同じ蔵前国技館にてジャイアント馬場のPWFヘビー級王座に挑戦したが、2-1のスコアで敗退している。

以降も全日本の常連外国人選手となるも、馬場との連戦は組まれず、ジャンボ鶴田のライバルとして活動。

1977年3月5日には鶴田を破りユナイテッド・ナショナル・ヘビー級王座を獲得した。

1977年12月の『世界オープンタッグ選手権』には西ドイツのホースト・ホフマンとのヨーロッパ代表コンビで出場、実力者同士のタッグチームとしてザ・ファンクスとも好勝負を展開したが、チームワークに難があり戦績は芳しくなかった。

その後もエース外国人の一人となって活躍し、1978年6月12日にはキラー・トーア・カマタからPWFヘビー級王座を奪取、10月18日にアブドーラ・ザ・ブッチャーに敗れてタイトルを失うも、ブッチャーとの抗争ではラフファイトの強さも見せた。

タッグでは、1977年3月8日にミル・マスカラスとのドリーム・チームが実現、馬場&鶴田からストレート勝ちを収めている。

1980年10月17日には、AWAでも組んだことのあるワフー・マクダニエルとのコンビで馬場&鶴田のインターナショナル・タッグ王座に初挑戦した。

オープンタッグ選手権の改称版である『世界最強タッグ決定リーグ戦』には、1978年にワイルド・アンガス、1980年にレス・ソントンと、同じ英国出身の選手をパートナーに出場している。

1980年代に入るとコンディションの低下もあって徐々にエース外国人のポジションを追われるようになり、来日頻度も減少。

1982年3月には全日本参戦6年目にして『チャンピオン・カーニバル』に初出場したが、テッド・デビアス、ブルーザー・ブロディ、天龍源一郎など新しい世代の選手の後塵を拝して18人中6位に終わり、優勝争いに加わることはなかった。

その後は1984年5月と1985年10月に来日し、最後の参戦となった1985年に現役を引退した。

引退後


現役を引退し、ラスベガスにてホテルのガードマンの職に就いていた1992年、ルー・テーズのオファーによりUWFインターナショナルに来日。

5月8日の横浜アリーナ大会にてニック・ボックウィンクルとエキシビション・マッチを行った。

その後はUWFインターナショナルのトレーナーとなり、テネシー州ナッシュビルにあった同団体のアメリカ・オフィスのジムにて選手のコーチを担当。

タイトルマッチのウィットネスとして度々来日することもあった。

UWFインターナショナル解散後は再びレスリング・ビジネスから離れていたが、同団体の取締役だった宮戸優光の招きで、1999年よりUWFスネークピットジャパンのヘッドコーチに就任。

以降2008年まで、東京の高円寺に定住して鈴木秀樹など後進の指導・育成に携わった。

帰米後はアーカンソー州リトルロックに居住、その後も宮戸らの招きにより2年に1度のペースで来日していた。

2014年、自宅にて75歳で死去。

当初は3月3日死去と発表されたが、3月5日付でフェイスブックに開設された「ビル・ロビンソン・メモリアルページ」にて、ロビンソンの長男のコメントをもとに2月27日に変更された。

🟣【番外編】国際プロレス 1971.04.02 ビル・ロビンソンVSカール・ゴッチ(第3回IWAワールドシリーズ公式戦)

🟣【プロレス】1971 03 カール・ゴッチ vs ビル・ロビンソン 第3回IWAワールドシリーズ公式戦(実況音声無し、ダイジェスト)

🟣ジャイアント馬場vsビル・ロビンソンPWF戦 1976年7月24日 蔵前 Giant Baba vs Billy Robinson.

●ロビンソンもこのブックをよく受けたなと思わせる試合?? 新日に対する全日の権威付け構想か?

●試合途中切れ

🟣All Japan Pro Wrestling 2/3 falls match – 1976.7.17 ビル・ロビンソンVSジャンボ鶴田

1976年7月17日AJPW – Billy Robinson vs Jumbo Tsuruta


🟣アントニオ猪木 vs ビル・ロビンソン NJPW Toukon Series II 1975 Day 41 – アントニオ猪木 vs. Bill Robinson

レフェリー : レッドシューズ・ドゥーガン

https://m.bilibili.com/video/BV1i7411B7v6

🟣ビル・ロビンソンのテクニックの凄さが分かる映像

スープレックス

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