【高松中央公園の銅像】アメリカの黒船がさぬき市の志度浦に来た時、でかい盆を艦長へ贈った男 玉楮象谷! 菊池寛生家跡、國東照太像、赤松椋園の碑!

🟣高松市立中央公園には、様々な銅像や石碑がある。

普段気にもせず通り過ぎるが、調べてみると偉大な讃岐人たちの姿が浮かび上がってきた💦

現在では、あまり語られなくなった偉人たちの経歴について調べてみた😃

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🟣玉楮象谷(たまかじ ぞうこく)

漆工職人

玉楮 象谷 (たまかじ ぞうこく)

1806年11月13日(文化3年10月4日) – 1869年3月13日(明治2年2月1日)

江戸時代後期の日本の漆工職人。

讃岐国高松出身で、讃岐国とその他諸藩の漆工技術、特に彫漆の発展に貢献した。

香川漆器の基礎を築いたとされる。 

名は為造、通称は敬造、正直。

祖父は藤川理左衛門といい、鞘塗師であった。

父藤川敬三も家業を継いで象谷は父の指導の下で修練を重ねつつ、彫刻を学ぶ。

京都の貫名海屋、永樂保全、篠崎小竹や、阿部絹洲、宮本敬哉と親交した。

保全、敬哉とは特に親しくなった。 

漆や彫刀に工夫を凝らして制作に尽力し、新たに鮮やかな光沢の象谷塗(讃岐蒟醤)を生み出した。

一説には堆朱の技法を代々継承する堆朱楊成の門弟ともされる。

藩主の命により、花や蝶、蜉蝣(カゲロウ)や翡翠(カワセミ)などが意匠された精緻な印籠を献上し、官工となる。

名字帯刀を許され玉楮を名乗った。 

文政13年(1830年)10月より松平頼恕に、次代松平頼胤、そして松平頼聰と代々仕えて、300余りの作品を創作した。

嘉永年間にアメリカの黒船が寒川の志度浦を訪れたときに象谷作の大盆が艦長へ送られ、艦長は大いに感謝したといわれる。

また、その意匠の巧みと優雅さに、象谷の漆研(硯)を見た清国人が驚嘆したという逸話も残る。

明治2年(1869年)に亡くなった。

高松市立中央公園に象谷の銅像が建立されている。

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高松市磨屋町生まれ。性格は豪蓬莱楽で鬼才に富む、とある😃↓

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🟣菊池寛生家跡の碑(菊池寛通り)

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◼️菊池 寛(きくち かん)

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1888年(明治21年)12月26日 – 1948年(昭和23年)3月6日)

小説家、劇作家、ジャーナリスト。

本名は菊池 寛(きくち ひろし)。

実業家としても文藝春秋社を興し、芥川賞、直木賞、菊池寛賞の創設に携わった。

◼️経歴

●生い立ち

香川県香川郡高松七番丁六番戸の一(現・高松市天神前4番地)で7人兄弟の四男として生まれる。

菊池家は江戸時代、高松藩の儒学者の家柄で、日本漢詩壇に名をはせた菊池五山は、寛の縁戚に当たる。

しかし、寛の生まれたころ家は没落し、父親は小学校の庶務係をしていた。

高松市四番丁尋常小学校を経て高松市高松高等小学校に進学。

しかし家が貧しかったため、高等小学3年生の時は教科書を買ってもらえず、友人から教科書を借りて書き写したりもした。

このころ、「文藝倶楽部」を愛読し、幸田露伴、尾崎紅葉、泉鏡花の作品に親しむ。

●学生時代


1903年(明治36年)高松中学校に入学。

寛は記憶力が良く、特に英語が得意で、外国人教師と対等に英会話ができるほどだった。

図画や習字は苦手だったが一念発起して勉強に取り組み4年の時に全校で首席になった。

中学3年の時、高松に初めて図書館ができるとここに通って本を読み耽り、2万冊の蔵書のうち、歴史や文学関係など興味のあるものはすべて借りたという。

中学を卒業した後、成績優秀により学費免除で東京高等師範学校へ進んだものの本人は教師になる気がなく、授業を受けずテニスや芝居見物をしていたのが原因で除籍処分を受けた。

地元の素封家の高橋清六から将来を見込まれて養子縁組をして経済支援を受け、明治大学法科に入学するも3か月で退学。徴兵逃れを目的として早稲田大学に籍のみ置く。

文学の道を志し第一高等学校受験の準備をする。これが養父にばれ、縁組は解消。進学が危ぶまれたが、実家の父親が借金してでも学費を送金すると言ってきたことで道が開ける。

1910年(明治43年)、第一高等学校第一部乙類に22歳で入学。同期入学には後に親友となり彼が創設する文学賞に名を冠する芥川龍之介、久米正雄、井川恭(後の法学者恒藤恭)がいた。

しかし卒業直前に、盗品と知らずマントを質入れする「マント事件」が原因となり退学。

その後、友人・成瀬正一の実家から援助を受けて京都帝国大学文学部英文学科に入学したものの、旧制高校卒業の資格がなかったため、当初は本科に学ぶことができず選科に学ぶことを余儀なくされた。

本来は一高の友人ら同じく東京帝国大学に進みたかったが、上田萬年の拒絶のため叶うことはなかった。

京大選科の時に『萬朝報』の懸賞に応募した短編小説「禁断の木の実」が当選。翌年旧制高等学校の卒業資格検定試験に合格し本科に移る。

この京大時代では文科大学(文学部)教授となっていた上田敏に師事した。当時の失意の日々については(フィクションを交えているが)「無名作家の日記」に詳しい。1人京都の地で孤独や焦燥の日々の中、ジョン・ミリントン・シングなどのアイルランド戯曲を読破する。

東京にいる芥川、久米らの好意により第三次『新思潮』創刊同人となり、菊池比呂士、草田杜太郎の筆名で戯曲を発表する。卒業を間近にひかえた1916年(大正5年)5月、第四次『新思潮』では本名の菊池寛の名で「屋上の狂人」を発表。

●人気作家への道

1916年(大正5年)7月、京大卒業。卒業論文は「英国及愛蘭土の近代劇」。上京して、芥川、久米と夏目漱石の木曜会に出席する。成瀬家の縁故で時事新報社会部記者となり、月給25円のうち10円を毎月実家に送金する。また第四次『新思潮』に「父帰る」を発表するも、特に反響はなかった。

寛は生活のため資産家の娘と結婚することを考え、郷里に相談。1917年(大正6年)、高松藩の旧・藩士奥村家出身の奥村包子(かねこ)と結婚。

1918年(大正7年)、『中央公論』に発表した「無名作家の日記」や「忠直卿行状記」が高評価され文壇での地歩を築いた。1919年(大正8年)、『中央公論』に「恩讐の彼方に」を発表。時事新報を退社し、執筆活動に専念する。翌年大阪毎日新聞・東京毎日新聞に連載した大衆小説「真珠夫人」が大評判となり、一躍人気作家となった。

◼️人物

●喫煙者であったが、灰皿を使う習慣がなかったらしく、畳や椅子の肘掛けで揉み消していたため、家中焼け焦げだらけであったという。当然ながら灰をまき散らすことにも頓着しなかった。
長谷川町子は菊池の書生だった自身の妹から菊池は「時には帯を引きずりながら出てくる」「時計を二つもはめていることがある」「汗かきで汗疹をかくと胸元がはだけ、厚い札束が顔を覗かせている」という3つの話だけを聞いたという。


●両性愛者の傾向があった。(→ 生駒高俊、平賀源内)
旧制中学時代に4級下の下級生の渋谷彰に同性愛的思慕を持っていた。この渋谷に宛てた愛の手紙が多数現存する。2人の文通はその後も続き、菊池が京大卒業後も文通はあるが、この頃は渋谷へ翻訳の仕事を与えようとするなど通常の手紙になってきている。
また、正妻以外に多数の愛人を持ち、その内の1人に小森和子がいた。小森はあまりに易々と菊池に体を許そうとしため、菊池から「女性的な慎みがない」と非難されたという。

●元・文藝春秋社編集者で、出版社・ジュリアンの代表取締役である菊池夏樹は、菊池寛の孫に当たる。2009年(平成21年)4月に『菊池寛急逝の夜』(白水社)を刊行。

🟣國東照太(くにとう てるた)

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1887年1月1日 – 1972年6月11日

政治家、実業家。

1938年に高松市会議員を経て、1946年から1967年までの官選1期公選5期の21年にわたり高松市長を務めた政治家であると同時に、グローバルに展開する零細企業集団「国東財閥グループ」の創始者たる実業家でもある。

高松市名誉市民。

●経歴

1887年(明治20年)1月1日、香川県香川郡中ノ村(後に栗林村大字中村、現・高松市中野町)に父長太郎、母ツネの長男として生まれる。

両親は家の東側を流れる川で紙の手漉き製造を生業としていた。

栗林尋常小学校(現・高松市立栗林小学校)を卒業後、10歳で紫山高等小学校(高松市天神前、現・アイパル香川)へ進学。

15歳で高松市立商業学校(現・香川県立高松商業高等学校)へ入学するも、父の長太郎の死を受けて17歳で中退する。

その後家業を継ぎ、製紙業を始める。

1924年(大正13年)、37歳の時には常磐製紙所(現・常磐産業。製紙業は2006年に廃業)を操業開始し組織化、その後工場の増設や他社の買収などで企業を拡大した。

政治家としては52歳の1938年(昭和13年)に高松市会議員選挙に立候補し、当選。2期8年の在任中は市会議長などに選任されている。

1946年(昭和21年)3月29日には官選により第12代高松市長に就任。

翌1947年(昭和22年)4月7日には地方自治法の施行に伴い行われた高松市長選挙に立候補し当選。高松市最後の官選による市長であると同時に、高松市最初の民選による市長となった。

●立志伝

http://www.tokiwagroup.com/menu/kunitou.htm

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🟣赤松椋園

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◼️赤松椋園 (あかまつ-りょうえん)

1840-1915 明治-大正時代の官僚、漢詩人。


天保(てんぽう)11年10月9日生まれ。

讃岐(さぬき)高松藩少参事,会計検査院吏員などを歴任し、明治23年高松市初代市長。

のち県博物館主事となり「香川県史」を編修した。

関西漢詩壇の長老。

大正4年5月29日死去。76歳。

名は範円。通称は渡。

著作に「付一笑居詩集」など。

◼️赤松椋園

高松市初代市長


本名赤松 範円


生年月日: 天保11年(1840年)


経歴

高松藩侍医渡辺立斎の子として生まれ、のち本姓赤松に復す。

高松藩少参事、会計検査院出仕などを経て、高松市初代市長に就任した。

のち博物館主事となり、「香川県史」などを編纂。

晩年吟詠を愉しみ、関西漢詩壇の老将と称せられた。

著書に「付一笑居詩集」「蕉竹書寮詩稿」「先朝私記」「萍水相逢」「日本政記撮解」などがある。


没年月日: 大正4年5月29日

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椋園先生遺愛之碑

【天保11年(1840)~大正4年(1915)5月29日】


業 績:高松市初代市長 香川県史編纂


出身地:香川県高松市
住 所:香川県高松市番町1丁目11
場 所:高松中央公園南東角

解 説
 椋園先生は、本名を赤松 渡と言った。赤松家は、代々医術をもって高松藩に仕えていた。先生は幼い時から勉強を好み、片山冲堂先生に学んだ。武術も習得したが、槍術が得意であった。家業をついで御殿医に進んだ。明治の初め藩知事のもとで判事を兼務した。松平家十一代頼聰公は先生に文武の才能があるのを知り、御殿医の兼任を解き、専ら政治に当たらせることにした。少参事に選任され、大変感激して精励した。
 先生は香川県、徳島県の会計検査院に奉職、その後、明治二十三年五月五日、初代高松市長に任命された。常に、市民の暮らしを心配し、産業の振興、福祉の充実に努めた。功績は大きく、特に顕著な業績は、高松から脇町までの立派な道路(現在国道百九十三号)を作ったことである。高松港を修築しようとして計画書を完成させたが、市長の任期が満了し、退任した。五十七歳であった。
 先生は各地に出かけて、すぐれた文人と交わり、見聞を広めた。その名声は諸国に広がり、教えを請うものが後を断たず、そのため、養浩塾を開き、優れた人材を輩出した。先生は、世俗の名誉や利益にまったく無関心で、門弟たちの教育に打ち込むこと十年余りに及んだが、病気になり、不帰の人となった。享年七十五歳。
 府中村(香川県坂出市府中町)の信義に厚い門弟たちが相談して、鼓岡顕彰会を作った。旧友、門人は先生を慕い、先生の遺徳を後世に伝えるため、大正六年五月、植田倬にこの文章を書かせ、入谷暘の書による碑を先生のお墓の側に建てることになった。
(注記)
 初代高松市長赤松椋園先生の墓は、三番丁の大本寺境内(現在の四番丁小学校西北端)にあった。復興土地区画整理事業の為、姥ヶ池墓地に移され、この碑もその傍にあったが、昭和六十一年四月、中央公園完成を記念して、此処へ移設した。

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